• 神はこの世のすべての人を愛してくださった

  • 神は良き方 どんな時にも

  • 天地が滅びても、私の言葉は滅びない

  • 私にできることは、今できますように

  • 私は世の終りまで、いつもあなたと共にいる

アンカー

ユーザーフレンドリーなデボーション記事

  • イエスにゆだねる

    Submission to Jesus
    March 4, 2024

    イエスからの言葉

    オーディオ所要時間: 8:33
    オーディオ・ダウンロード(英語) (7.8MB)

    心をつくして主に信頼せよ。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。—箴言 3:5–6

    心を開いてわたしのもとに来て、人生をわたしにゆだねるとき、たとえ物事があなたの望みや計画どおりにならなかったり、最善だと思ったとおりにならなかったりしても、あなたは、わたしがすべてのことを見事に行うことがわかるだろう。あなたは、わたしを信頼し、わたしがあなたの人生に働きかけ、あなたのために計画と目的を持っていると知ることによる平安と満足を見いだすだろう。

    また、謙遜の道を歩むことで、知恵も見いだせるだろう。他の人の意見に耳を傾け、自分の思いや力や知恵を確信しないようにしなさい。わたしの知恵とわたしの意志を求めなさい。自分が何らかの形でわたしを制限しているのか、それとも開かれた受容的な心、すなわち、わたしの意志とわたしがあなたに求めるすべてにゆだねる心でわたしを求めているのか、自問しなさい。あなたはその結果について、喜んでわたしを信頼しているだろうか。

    祈りのうちにわたしのもとに来て、わたしの意志を熱心に求めつつわたしに近づくとき、わたしがあなたを導くと信頼しなさい。わたしがあなたの道を導くと信じて、心と人生とすべての道をわたしにゆだねるとき、あなたは心と精神と霊に安らぎを見出すだろう。

    ゆだねることの報酬

    あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。—詩篇 37:5–6

    あなたはわたしの王国の庭師のようだ。わたしのために奉仕する場所として、わたしはあなたに選び抜かれた土地を与えた。そして、庭に植える種を与え、あなたの仕事を助けるために多くの祝福と経験を与えた。わたしに人生をゆだね、「わたしの願いではなく、御心のままに」と言ったとき、あなたの庭は花開いた。

    自分の意志よりもわが意志を求め、自分を捧げ、他の人々のため、またわが仕事のために犠牲を払い、周囲の人々の目には身分の低い者と見えることをいとわないなら、わが霊はあなたのうちにもっと豊かに宿り、あなたの庭の区画は花でいっぱいになるだろう。人々はその美しさに驚嘆し、あなたがわたしとともにいたことを知り、わたしを讃える。彼らは、「この美しい庭を造ったのはわたしではなく、庭師の主です。全ての栄光を主に」と言う、謙虚な庭師を見るだろう。

    愛と服従のうちに、わたしのために命を捨て、十字架を負ってわたしに従うこと、それ以上に大いなる愛はない。わが意志のために自分の意志を捨てることは、弟子となるためにすべてを捨てることの核心である。しかし、恥をも厭わずに十字架を負う者は、現世において喜びと平安を経験し、来るべき世においては大いに報われる。すべてを捨ててわたしに従う者は皆、百倍の報いを受けるだろう。現世における祝福と、来世における大きな報いである。

    柔和な者の祝福

    柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。—マタイ 5:5

    わたしは、柔和な人たちは祝福されると約束した。柔和であることが弱さだと考えたり、人に従順であることや、自分よりも人を尊ぶ謙虚さが弱さのしるしだと考えたりしてはならない(ピリピ2:3)。これらは長所であって、他の人々に真の豊かさとわたしが物事をどう見るかを示し、彼らがわたしの知恵と愛を見いだすのを助けるのだ。

    柔和を通して、また、わたしとわたしの意志と方法にゆだねることを通して、他の人々を愛し、思いやることを通して、わたしがあなたを導いてあげよう。あなたはわたしとわが言葉に依存しているのだから、わたしがあなたに必要な賜物と知恵を与えたのだと信じなさい。わたしは、あなたが一生を通して直面するすべてに必要な強さと粘り強さを与える。

    恐れてはならない、驚いてはならない、わたしはあなたを強くし、わが義の右の手をもって、あなたをささえる(イザヤ41:10)。あなたはわたしが約束したように、力から力へと進む(詩篇84:7)。だから、目の前の仕事のための能力がないとか、不十分だと感じても、落胆しないでほしい。あなたの充足はわたしによるものであり、あなたの強さはわたしから来る。そして、あなたの信仰は世に打ち勝つ勝利なのだ。

    軌道にとどまる

    わたしを喜ばせようとすることは、生きる喜びである。もちろん、信仰がなければ、わたしを喜ばせることはできない。わたしが存在することと、わたしを切に求める者に報いることを必ず信じなければならない(ヘブル11:6)。

    わたしを喜ばせるために生きることは賢い投資であり、それは天国での報酬のためだけでなく、地上での日々の喜びのためでもある。わたしはあなたの存在の中心であり、あなたが周りを回る太陽(Sun)となるべき者だ。わたしを楽しみ、わたしに仕え、わたしを喜ばせたいと願い、そのように生きるとき、あなたは正しい軌道にとどまる。自己中心的な生き方をすると、軌道を外れてしまう。

    困難なのは、あなたがすること、言うこと、考えることにおいて、わたしを中心に置いておくことだ。この戦いはあなたの思いから始まるので、すべての思いをとりこにして、わたしに服従させるように努めなさい(2コリント10:5)。何がわたしを喜ばせるかを知るために御言葉を学び、わたしがどれほど素晴らしくあなたを愛しているかを思い出しなさい。わたしの驚くべき愛に気づいていることは、「御子」(Son)を中心とする軌道にとどまって、わが臨在の輝かしい楽しみを味わう助けとなる。

    あなたがわが臨在の中で待つとき、わたしはあなたを喜びと平安で満たす。わたしと共に過ごすことは、あなたが真にわたしを信頼していることを示す。おもに自分自身と自分の能力を信頼している人々は、しばしば人生からわたしを締め出してしまう。わたしをもっと信頼することを学ぶにつれて、あなたはわたしと過ごす時間をますます喜ぶようになる。

    そして、あなたがわたしの臨在の中で待てば待つほど、あなたの信仰は深まり、喜びと平安が増す。あなたはわたしに属しているので、わたしの霊があなたの内に宿っている。あなたは時々、わが臨在に気づかないかもしれないが、わたしはいつもあなたに気づいている。さらに、わたしは絶えずあなたの中で働いており、あなたをわたしの似姿に変え、栄光を増し加えている(2コリント3:18)。あなたはわたしに集中することによって、この過程に協力する。ますますわたしに似る者になるにつれ、あなたの内に希望が育っていく。

    聖霊の助けにより、この希望はあなたの内に湧き上がり、溢れて他の人々の人生に注ぎ込まれるのだ。[1]

    特に記載がない限り、初版は1996年2月 2024年3月に改訂・再版 朗読:ジェリー・パラディーノ 音楽:ジョン・リッスン


    1 Sarah Young, Jesus Today (Thomas Nelson, 2012).

  • 4月 23 携挙はいつ起こるのか
  • 4月 19 神と神の仕事に与える
  • 4月 17 最後までやり抜く
  • 4月 15 心の貧しい人と祝福について
  • 4月 9 シンフォニック・マジック
  • 3月 29 イースター:なぜ私たちは新しい契約を祝うのか
  • 3月 28 聖餐を祝う
  • 3月 27 朝ごとに新しくされるいつくしみ
  • 3月 23 永遠の愛
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第1章(26-31節)

    [1 Corinthians: Chapter 1 (verses 26-31)]

    April 2, 2024

    第1コリント書の第1章は、残りの6つの節で終わります。

    兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。[1]

    パウロはコリントの信徒たちに、自分たちが召された時のことを考え、どのように信仰を持つに至ったか、また、その時に彼らはどのような社会的地位にあったのかを思い起こすよう求めています。この節より前の箇所で、パウロは「召された」こと(召し、召命)について何度も言及しています。[2] 召しとは、単に神に呼び出されることだけではなく、神の変容の力も表しているので、パウロは召しを重要なものと考えています。彼は、コリントの人たちがどのようにしてクリスチャンになったのか、また、人間が受けるに値しないほどの神の愛と召しをどのようにして受けたのかを振り返ってほしいのです。パウロは彼らを自分の「兄弟」(また、姉妹)とみなしています。そして、次の章では、自らの召しに言及して、それは神の恵みの証明であるとしています。[3]

    パウロは、コリントの信徒たちの社会的地位にも目を向けさせ、コリント教会にいる大部分のクリスチャンは地位の低い者であることを指摘しています。パウロが用いた3つの表現、「知恵のある者」、「権力のある者」、「身分の高い者」は、社会的に高く評価されていた人たちを描写するものです。「知恵のある者」とは、地域社会において賢者とみなされた者ということであり、おそらく博識で教養があり、人前で話すのが上手な人たちのことです。「権力のある者」とは、社会に影響力を持つ人たちを指し、おそらく富か政治的影響力、あるいはその両方を持っていた人たちのことです。「身分の高い者」とは、権力者や金持ちの家に生まれ、地域社会において良い地位にあった者のことです。

    「知恵のある者」のことを、パウロは「人間的には」と表現しています。(翻訳聖書によっては、「この世の」や「肉によって、肉に従って」と訳されています。) この言い回しは、第2コリント書で6回用いられています。[4] パウロの著作では、この言い回しは霊的な意味で用いられ、御霊によるものや神からのものとの対比がなされています。この文脈においては、いくつかの異なる霊的状態について語られています。パウロは、この世の知恵と神の知恵とを対比しているのです。後に(2:12で)、パウロは「この世の霊」は「神からの霊」に反するものであるとしています。パウロの懸念の一つは、コリントの信徒たちが、神の目から見てどうであるかということよりも、世間一般がこうあるべきだと考える捉え方に基づいて、互いをも判断していることです。パウロはコリントの信徒たちに、神の力と知恵について考えるように訴え、それをこの世の力や知恵と対比させています。知恵は神の言葉の中にあるので、パウロは彼らが聖書に知恵を求めるよう呼びかけています。

    それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、… [5]

    パウロは、コリントの信徒たちの中には、この世の基準から見て知恵のある者が多くはなく、権力のある者や家柄の良い者も多くはないと述べた上で、神には神ご自身のやり方があることを指摘しています。そして、神が選ばれたという言葉が3回も出てくるのです。神は、ご自分の愛と恵みを与える相手として誰でも好きなように人を選ばれるのであり、パウロは、そのように神に選ばれることがかなりの栄誉であることを説明しています。パウロはコリントのある人たちのことを、この世の基準によれば「愚かな者」だと言いますが、それでも、神は彼らを選ばれたのです。彼は、神の恵みと愛の深さを知っています。手紙を読み聞かせられている人たちに、神が自分たちのためにどんなことをしてくださったことを考えるなら、神の愛や優先順位が人間の愛や優先順位とは明らかに異なることがわかるだろうと言っているのです。

    … 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。[6]

    少し前のところで、パウロは身分の高くない者について語っており(第26節)、それは言い換えるなら、家柄が良くはない者ということです。パウロはここで、神が地位や身分の低い者、貧しい者、庶民、社会的に軽んじられている者を選ばれたと述べています。家柄が良くない者たちは、人から取るに足らない者とみなされたり、軽蔑されたりしており、コリントのクリスチャンの多くも、周囲からそのように見られていました。しかし、彼らは誕生したばかりの新しい民だったのです。

    パウロは、神が「有力な者を無力な者にする」ことを選ばれたと言います。「無力な者にする」という表現は、裁きや滅亡を意味します。十字架につけられたキリストを宣べ伝えることによって、この世の価値観はひっくり返されます。世の目には愚かで弱く見えるものが高く引き上げられ、世が価値あると考えるものが裁かれる(恥じ入らせられ、無にされる)のですから。

    それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。[7]

    神は、この世の愚かなもの、すなわち十字架やコリントの信徒たちをあえて選ばれました。それは、どんな人であっても、自分の手に何かを持って神の御前に来ることができないようにするためです。人間が何を持って行ったとしても、神の御前でその人の立場を有利にするようなものなどありません。どんな業績も、富も、社会的地位も、神にとって何の価値もありません。

    新約聖書で「誇る」という言葉を用いているのは、主にパウロです。パウロは、第31節で引用しているエレミヤ9:23–24と関連して、この言葉を用いているようです。[日本語訳聖書で「誇る」と訳されている]「boasting(自慢する)」は、概して肯定的には捉えられない言葉ですが、「誇りに思う」、「誇りとする」という意味もあります。ある著者は、このように語っています。「十字架の足元の地面は平ら(みな対等)です。私たちの誰が何を持っているのであれ、生ける神の御前でその人の立場を有利にするものは、一つもありません。才気、影響力、業績、金銭、名声、そのいずれもです。」[8]

    あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。[9]

    少し前(第28節)の箇所で、パウロは「ない」(無きに等しい)者について語っていましたが、ここでは、神によってどんな者で「ある」のかを語っています。神のおかげで、彼らはキリスト・イエスを信じる者となりました。イエスの死と復活によって、恵みによる救いの可能性がもたらされたのです。イエスは、神の救いと裁きの計画の現れであり、重要な場所、つまり神の御前に立ちうる唯一の方法なのです。

    パウロは、エレミヤ書からの引用である最後の節(第31節)の前に、3つの言葉を挙げています。それは「義」と「聖」と「あがない」です。それぞれ意味は異なっていますが、すべて、神の御前に立つことと関係しています。

    エレミヤ書では、「義」とは、いつくしみ(恵み)と公平と正義(義)とを行われる神と関係しています。[10] 神はこれらのことを喜び、ご自身の民が同じように行うことを期待されます。

    「聖」くされることは、クリスチャンが「キリストにあって」持っている地位と関係があります。聖くされるとは、しばしば、人がよりキリストに似た者となり、より聖い者となっていく、生涯にわたる過程と考えられています。この手紙の重要な部分である聖い生活への呼びかけは、クリスチャンは神によって選ばれ、分けられた民であるという、神がキリストにあってあらかじめなしておられた御業に由来しています。

    「あがない」の概念は、この世の奴隷制や奴隷の購入代金の支払いに由来しています。イスラエル民族がエジプトから解放されて約束の地に入ったことは、神の「あがない」とみなされていました。[11] パウロは、過去に起こったことを現在の状況になぞらえているのです。キリストの十字架上での犠牲と復活によって、クリスチャンは「キリストにあって」集められ、罪の領域から、また神の裁きからも、解放されました。自分たちの側のいかなる行動や人間的な知恵と計画にはよらず、神がキリストの十字架刑を通してなされた働きによって、彼らが神の御前に立つために必要なことが成し遂げられたのです。

    それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。[12]

    「主を誇れ」というこの言葉は、以下に挙げるエレミヤ9:23–24の言葉をざっくりと引用したものです: 「主はこう言われる、『知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる。』」

    エレミヤのこの言葉を成就させたのは、キリストにあって神がなされた御業です。十字架につけられたキリストは、唯一誇れるものとは何かを私たちに示してくださいました。それはすべて「神による」のであり、主にあってなされたことなのです。パウロは、旧約聖書からの主要なテーマを取り上げ、それをコリントの問題に対処するための一般原則として、ここで当てはめています。コリントの信徒たちは、神が彼らの間でなしてくださったことだけを誇りとすべきなのです。


    注:

    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    1 1コリント 1:26.

    2 1コリント 1:1, 2, 9, 24.

    3 1コリント 2:1–5.

    4 2コリント 1:17; 5:16(2回); 10:2, 3; 11:18.

    5 1コリント 1:27.

    6 1コリント 1:28.

    7 1コリント 1:29.

    8 Gordon D. Fee, The First Epistle to the Corinthians (Grand Rapids: Eerdmans, 2014), 88.

    9 1コリント 1:30.

    10 エレミヤ 9:24.

    11 詩篇 111:9.

    12 1コリント 1:31.

     

  • 4月 2 第1コリント:第1章(17-25節)
  • 3月 19 第1コリント:第1章(4-16節)
  • 3月 5 第1コリント:前書き
  • 2月 27 コミュニケーションは人間関係の要
  • 2月 20 ガラテヤ書:第6章(6-18節)
  • 2月 6 ガラテヤ書:第6章(5:25–6:5)
  • 1月 16 ガラテヤ書:第5章(13-24節)
  • 1月 9 もっとイエスのように:赦しについての言葉
  • 12月 26 もっとイエスのように:忠実と聖さについての言葉
   

信条

もっと見る…
  • ファミリー・インターナショナル(TFI)は、世界中の人々と神の愛のメッセージを分かち合うことをゴールとする国際的なオンライン・クリスチャン・コミュニティーです。私たちは、誰でもイエス・キリストを通して神との個人的な関係を持つことができると信じます。その関係があれば、幸せや心の平安が得られるだけではなく、他の人を助け、神の愛の良き知らせを伝えようという意欲がわいてきます。

私たちのミッション

もっと見る…
  • ファミリー・インターナショナルが何よりも目標としているのは、神の御言葉のうちに見出される、愛と希望、救いという命を与えるメッセージを分かち合うことによって、より良い人生を皆さんに送っていただくことです。ペースの速い、複雑化した現代社会にあっても、神の愛を日常生活の中で実践することこそ、社会の問題の多くを解決する鍵であると私たちは信じます。聖書の教えにある希望や助言を分かち合うことで、ひとりずつ心が変わって行くことによって、だんだん世界が変わって行き、より良い世界が築かれて行くと信じているのです。

理念

もっと見る…
  • コミュニティー意識

    私たちは、信仰とはコミュニティーにおいて、また他の仲間との関係において、実践されるべきものであると信じています。そして、団結の精神、愛、兄弟愛を育もうと努めます。力を合わせることで、より多くを成すことができます。

TFI について

TFI オンラインは、ファミリー・インターナショナル(TFI)のメンバーのためのコミュニティサイトです。TFI は、世界各地で神の愛のメッセージを伝えることに献身する国際的なクリスチャン・フェローシップです。

TFI について詳しくお知りになりたい方は、私たちのグローバルサイトをご覧ください。

TFI メンバーの方は、 ログイン して他のコンテンツも見ることができます。

最近のシリーズ

もっと見る…
第1・第2テサロニケ
パウロがテサロニケの信徒に宛てた書簡の研究と、その教えがいかに現在に当てはめられるか
そのすべての核心にあるもの
キリスト教信仰・教義の基本を扱ったシリーズ