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    Better Days Ahead—Part 2
    May 15, 2025

    孤独の時に慰めを見出す

    ピーター・アムステルダム

    オーディオ所要時間: 17:10
    オーディオ・ダウンロード(英語) (15.7MB)

    人生において困難な時期にある時、孤独に感じ、自分一人で闘っているように思えることがよくあります。私たちの周りにも孤独を感じている人がいるかもしれませんが、それに気づいていないだけかもしれません。ですから、家族や友人、同僚の様子を気にかけ、必要に応じて励ましやサポート、祈りを捧げることが大切です。

    誰かと会う時には、「あわれみの心、慈愛[親切]、謙そん、柔和、寛容」を持って一人一人を見るといいでしょう。(参照:コロサイ3:12) 私たちがキリストの使者(使節)として受けている召命(2コリント5:20)は、ただ何かのついでに会っただけの相手だとしても、常に主の愛とあわれみを示し、その人の人生にいい影響を及ぼそうと努めることです。ちょっとした親切な行為によって、その人の孤独を和らげ、自分を気にかけている誰かがいるんだと感じさせてあげることができます。「主は恵みふかく、正しくいらせられ、われらの神はあわれみに富まれる。」(詩篇116:5)

    私たちが、さまよい、孤独でいる人に手を差し伸べるという任務を与えられていることについて、マリアは次のように説明しています。

    イエスの弟子である私たちは、大勢の人の中に乗り出して、さまよい、沈みかけ、溺れかけている人々を探し出し、彼らに命や希望や真理を与えるよう召されています。私たちには神の素晴らしい慰めや、御言葉の力や、主がその子ら全員に約束された将来についての知識があります。そして自分たちが受け取ったものを、希望や慰めをことごとく失い、自分を愛してくださる神のことも、入れるかもしれない天国のことも知らない人々と、分かち合うよう召されているのです。

    人々は神の愛や真理を切実に必要としています。私たちがイエスにあって持っている、喜びと心の安らぎと永遠の命を、彼らにも分かち合うために、手を尽くしましょう。主は私たちに、泣く者と共に泣き、まだ主を知らない人々を思って、心砕かれるようにと言われます。

    主を見つける前の自分が、どんな風だったか覚えていますか。おそらく絶望感に襲われ、人生が無意味のように思われたのではないでしょうか。主はあなたが助けを必要としていた時に、その心の叫びを聞いて、手を差し伸べ、腕に抱きしめてくださいました。そしてそうするために、おそらく、心が主の素晴らしい愛であふれている誰かを、用いられたことでしょう。主はそれと同じことをするよう、私たちに求めておられます。さまよい、孤独な人に、主の愛と真理を分かち合うようにと。

    ほんのわずかな触れ合いであっても、それがどれほどの影響を与えうるかに、私たちは驚かされるかもしれません。相手の孤独を和らげるという点でもそうですが、私たち自身にも、充実感と目的意識をもたらすのです。たとえ自分の知らない相手であっても、誰かとのちょっとした触れ合いは、私たちの人生を豊かにし、相手の人も私たち自身も、人とのつながりを感じて、孤独感が和らぎます。デール・カーネギーは、こう語っています。「あなたには、この世界の幸せの総量を、たった今、増加させる力があります。どのようにかと言うと、孤独な人や落胆した人に、心からの感謝の言葉を一言かければいいのです。あなたは、今日自分がかけた親切な言葉を、明日には忘れているかもしれませんが、相手の人は、その言葉を生涯に渡って大切にするかもしれません。」

    私たちが人生で孤独に耐える季節にあるなら、「私たちは決して独りぼっちではない」ということを覚えていてください。「『山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない』とあなたをあわれまれる主は言われる。」(イザヤ54:10) 主が私たちを忘れることなどありません。

    神の子である私たちは、神が私たちを見失うことは決してないと安心していられます。生まれる前にでさえ、神は私たちを見ておられました。「わたしが隠れた所で造られ … たとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。」(詩篇139:15–16) … 詩篇34篇15節には、こうあります。「主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。」 ある賛美歌作者は、声高にこう言いました。「スズメに目を注がれる主が、私のことも見守っておられると知っている。」

    私たちが主の目に留まらないことなどないので、主の頭から離れることもありません。私たちがよく知っている、驚くべき祈りである詩篇139篇は、私たちがどこにいて、どんな心理状態にあろうと関係なく、私たちの創造主が共にいてくださると教えています。私たちがどこにいようと、神は見ておられます。私たちのことを何もかも詳しく知っておられます。ですから、この詩篇にはこうあるのです。「神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。」(詩篇139:17–18) もしあなたが最近、広大な海岸を訪れ、どこまでも続く砂浜を歩いたことがあるなら、この詩篇で述べられている天の父の計り知れない世話と配慮を感じ取ることができるでしょう。…

    私たちの[天の]父が私たちを忘れることはありません。私たちは常に、主の目に留まり、主の頭から離れることがないのです。—ダニエル・ヘンダーソン [1]

    ある若い女性が、こう書いています。

    孤独に感じている時、イエスは私たちをご自分に引き寄せたいのです。いつでも頼りにでき、決して失望させることのない、私たちの一番の真の親友となりたいと思っておられます。ご自分との友情を固く強いものにするため、イエスはこの孤独の時を用います。この友情があるなら、たとえ人生でどんなことが起こっても、私たちは切り抜けることができるとご存知だからです。

    孤独にさいなまれていたとしても、絶望する必要はありません。イエスはあなたのことを誰よりも深く愛し、誰よりもよく理解してくださると自分に言い聞かせるのです。その内に、この孤独の時期は姿を変えた贈り物だと分かるでしょう。主が与えてくださるこの贈り物は、計り知れない愛で包まれており、それによって私たちは、試練を超えて後に残る宝を手に入れることができるのです。[2]

    孤独について読んだり祈ったりしている内に、これまで十分に理解していなかったある真実に気づきました。天において永遠にイエスや父と共にいることに定められた、万物の神の子である私たちが、この世において全く孤独に感じなくてすむわけではない、ということです。この地上で完全に満足するよう定められてはいません。どれだけ満ち足りた人生を送り、家族や友人に囲まれていたとしても、常にどこかに空虚感があるものです。クラリッサ・モールは、次のように書いています。

    私たちが一人でいる時に、イエスがそばにいてくださると分かってはいますが、だからといって、それが十分な慰めとならないこともあります。それには、いい理由があってのことでしょう。C・S・ルイスが『Mere Christianity(邦題:キリスト教の精髄)』で書いているように、「この世のいかなる経験にも満たされることのない欲求が自分の内にあるとしたなら、その最もいい説明とは、私たちはこことは別の世界のために造られたということでしょう。」

    エイミー・シンプソンも、著書の『Blessed Are the Unsatisfied(心の満たされていない人々は、幸いである)』で、ルイスと同様のことを言っています。「神は、私たちが恋しく思う気持ちをまだ取り除きたくはないのでしょう。信仰が深まり、イエスとより親しい関係になるなら、今ここでの人生にあまり満足しなくなるものです。」

    私たちが孤独に感じる時、イエスがそばに来てくださるのは確かです。孤立して荒野にいる時に、私たちに会いに来て、魂を生き返らせ、喜びをもたらし、心を慰め、平安を与えると約束しておられます。イエスと共にいる最中でさえ、孤独にさいなまれることはあります。それは独りぼっちのしるしというよりも、霊が休まっていないしるしであり、正常なことであると知って、安心してください。ずっとなくならないこの孤独感は、私たちが交わりを激しく切望していることの表れであり、その切望は、私たちがいつの日か顔を合わせてイエスと会う時に初めて[完全に]かなうのです。」[3]

    他にも、この概念をうまく説明している人がいました。私たち一人一人が、この人の書いていることを自分にどう当てはめられるのか、じっくりと考えてみる価値があると思います。これは、私たちの人生の困難な時期において慰めをもたらすような洞察を与えてくれることでしょう。それは、スティーブ・デウィットの書いた、次の言葉です。

    創世記1章27節で明らかなように、人類が存在し、デザインされた最初の時から、私たちは神によって、神のために造られています。それによって私たちには、神との関係を持つための霊的な関係構築能力が与えられており、神だけがその関係を完全で満足の行くものにすることができるのです。アウグスティヌスの有名な言葉にあるように、「私たちの心は、あなたの内に休息を見出すまで休まることがありません。」

    私たちは孤独のことを、どんなことをしてでも回避すべき敵であるとみなしています。しかし、贖いが完成するまでは、私たちの人生から孤独感がなくなることはありません。神は、私たちの注意を引くために、それを用いられます。ですから、孤独の波に見舞われる時、私は意識してこう考えるようにしています。「このように感じる理由は何だろうか。それは、私が神のために造られたからだ。」 エリザベス・エリオットの助言に従い、私も孤独の時を一人の時に変え、一人の時を祈りの時に変えるようにしています。そうすれば、孤独は悪魔のような存在ではなくなります。それどころか、案内人となり、友人となるのです。…

    私には妻がいなくても、キリストがいます。夫がいない人でも、キリストがいます。家族から離れている人でも、キリストがいます。夫と死別した人でも、キリストがいます。夫や妻から相手にされない人でも、キリストがいます。あなたも私も主のために造られたのですから、主がいるということは、いつの日か二度と孤独を感じなくてすむことを保証する主の御霊がいてくださるということです。… 心が寂しく感じる時、主はそこにおられるのであり、主と共に孤独の谷を通り抜ける道があるのです。[4]

    私には、かなり人付き合いの良い社交的な友人がいます。しばらく前に夫と死別し、この一年は一人で暮らしていました。それはたやすいことではなく、かなり孤立した感じがし、彼女自身の言葉で言えば、「ひとり時間が多すぎた」とのことです。でも彼女は「パパやイエスとのおしゃべり」と呼ぶ、新しい習慣を築き上げたのです。それは、毎日2時間かかる犬の散歩の時に行われます。

    この習慣が特別なものである理由として話してくれたのは、毎日のこの時間を、散歩しながら「声に出してイエスや神に話しかける」時としたことです。そうしながら、自分自身や他の人たちのために祈って、心にあることを打ち明けるのですが、まるで「自分のすぐそばに」いるかのように、主と父に話しかけるのです。時には一緒に笑ったりもするし、その臨在はとてもリアルで、パパとイエスが手を握ってくれているように感じるほどだと教えてくれました。(犬しかいないのに話をしたり笑ったりしている姿を見た人からは、「頭のいかれたおばあさん」と呼ばれるかもしれないけれど、実際には、霊の内で闘う戦士なのだと、彼女は言っていました。)

    「この状況について素晴らしいのは、孤独に感じることの多かった困難な一年を振り返ってみるとはっきりしているように、イエスやパパとの関係がますます親密なものになり、私の人生における主の臨在をしっかりと認識できるようになったことです。イエスとパパが、私や私が愛する人たちの人生のすべての詳細に関心を持っておられると、今まで以上に確信しています。この親密さは、私がこれまで受け取ったどんな贈り物よりも素晴らしいものです。」

    そして彼女は、こんな記事の抜粋を送ってくれました。

    あなたにはイエスという友がいること(ヨハネ15:15)、また、あなたの内には御霊が宿り、この孤独の季節にうまく対処するための力を与えてくださることを忘れてはいけません。… デイン・オートランドは、『Gentle and Lowly(柔和でへりくだった者)』にこう書いています。「キリストが私たちに心を寄せるとは、私たちが地上でどのような友人を持つかどうかに関わらず、キリストが決して裏切ることのない友となってくださるということです。私たちの孤独の苦悩を一緒に耐えるような友情をくださるのです。苦悩は消え去らなくとも、イエスが示される深い友情によって、その痛みは十分耐えられるものとなります。」—ジョー・カーター [5]

    最後に、主からのメッセージで締めくくりたいと思います。きっと皆さんの心を励ましてくれることでしょう。

    わたしが絶え間なくあなたと共にいるということは、あなたが一人になることは決してないということだ。わたしは、あなたがますますわたしを意識するよう導いているところだが、あなたは人間にすぎず、集中力が長くは持たないことも分かっている。苦しみを味わっている時には、自分が独りぼっちだとか、捨てられたとか感じることもあるだろう。しかし、わたしが一人で十字架にかかって苦しんだのは、あなたが一人で苦悩しなくてすむためなのだよ。あなたは常にわたしと共におり、わたしはあなたの右の手をしっかりとつかんでいる。[6]

    わたしはあなたが信じる以上に近くおり、あなたの吸う空気よりもさらに近くある。空気は見えないし、いつでもそこにあるものなので、あなたは普段、空気に囲まれていることを意識しない。それと同じように、目には見えないわたしの臨在は常にあなたの人生にあるけれど、あなたはわたしを認識しないことがよくある。そんな時、あなたは孤独に感じやすくなるのだ。…

    わたしの近さを、また、それによってもたらされる安らかな充足感を、あなたが常に味わえるよう、わたしは心から望んでいる。孤独を感じることと、わたしの臨在に気づかないことの間には、密接なつながりがある。これは古くからある問題だ。族長ヤコブが家族から離れて荒野にいた時、自分は一人だという意識が強かった。しかし、わたしは壮麗な夢という形でわたしの臨在を示したのだ。眠りから覚めた時のヤコブの反応は、こうだった。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった。」

    わたしは常にあなたと共にいるばかりか、あなたの内にいる。あなたの心の奥深くに。わたしはあなたをあるがままに完全に知っており、その知識は無条件の愛に縁取られている。

    孤独を感じる時には、わたしの顔を尋ね求める必要があることを思い出しなさい。実に人間らしい空しさを感じながらも、わたしのもとに来なさい。そうすれば、わたしの臨在があなたのすみずみまで生気で満たそう。[7]

    「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と主が言われたのを忘れないでいましょう。(ヘブル13:5) 状況に関係なく、私たちは毎日、この約束に安らぐことができます。主をほめたたえます。

    初版は2021年10月 2025年5月に改訂・再版 朗読:ジョン・ローレンス


    1 Daniel Henderson, “Never Forget: You Are Not Forgotten,” Strategic Renewal, https://www.strategicrenewal.com/never-forget-you-are-not-forgotten/.

    2 “The Gift of Loneliness,” Just1Thing.com.

    3 “Bloom Where You’re Quarantined,” Christianity Today, April 1, 2020, https://www.christianitytoday.com/ct/2020/april-web-only/coronavirus-covid-19-bloom-where-youre-quarantined.html

    4 “Lonely Me: A Pastoral Perspective,” August 4, 2011, https://www.thegospelcoalition.org/article/lonely-me-a-pastoral-perspective

    5 “What Christians Should Know About Loneliness,” The Gospel Coalition, November 21, 2020, https://www.thegospelcoalition.org/article/the-faqs-what-christians-should-know-about-loneliness

    6 Sarah Young, Jesus Always (Thomas Nelson, 2017).

    7 Sarah Young, Jesus Lives (Thomas Nelson, 2009).

  • 6月 8 大切なことのために時間を作る
  • 6月 4 他の人々との関係
  • 5月 31 これからのより良い日々(パート1)
  • 5月 27 勇ましい勇気
  • 5月 23 神の言葉に生きる
  • 5月 19 孤独に打ち勝つ
  • 5月 15 家を建てた二人の人
  • 5月 11 天国に向かう
  • 5月 7 ゆるしの鍵
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第9章(1–17節)

    [1 Corinthians: Chapter 9 (verses 1–17)]

    March 11, 2025

    わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主にあるわたしの働きの実ではないか。わたしは、ほかの人に対しては使徒でないとしても、あなたがたには使徒である。あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職の印なのである。(1コリント9:1–2)

    パウロはこの章を、自分は自由な者ではないか、使徒ではないか、という反語表現をもって始めています。使徒たちは教会の主要な指導者であり、預言者たちと共に教会の礎となりました。その職には一定の権利と権威と責任が伴います。

    パウロはまた、コリントの信徒たちに、彼がダマスコへの途上でイエスを見たのは事実かどうかと問いかけました。(使徒9:3–8) そうすることで、自分が使徒であることを誰も疑うべきではないと述べていたのです。さらに、コリントの信徒たちがキリストのもとに来ることになったのは、主における彼の働きによることを指摘しました。コリント教会は、パウロの宣教の実なのです。(使徒18:1–11) パウロをよく知らない人たちには疑う理由があったかもしれませんが、コリントの信徒たちは真実を知っていました。彼らこそが、パウロが使徒であることの印、つまり証拠だったからです。

    この章でのパウロの反語的な問いかけは、パウロに反対していたコリント人たちが、彼の使徒としての権威に異議を唱えていた可能性を示唆しています。パウロの説教には聖霊の力が強く働いていたのですから、コリントの信徒たちはパウロの使徒職に敬意を払うべきでした。他の箇所で、パウロはコリントの信徒たちを、彼の「推薦状」と呼んでいます。(2コリント3:2) コリントの信徒たちにとっては、彼らが回心したことだけでも、この点に関するパウロの使徒的権威について納得するには十分だったはずです。

    わたしの批判者たちに対する弁明は、これである。(1コリント9:3)

    パウロは次に、彼を裁いている人たちに対して、さらにいくつもの問いを投げかけることで、弁明を行っています。前章(第1コリント8章)で述べていて、さらに10章でも再び触れている事柄から判断すると、一部の人は、神殿で偶像に供えられた肉を含め、何でも食べたいものを食べる権利があると主張していたようです。彼らは、良心の弱い人がつまずくことのないよう、彼らの霊的な幸福を気遣って、そのようなことを控えるべきだというパウロの教えを快く思いませんでした。(1コリント8:8–9) パウロを裁いた人たちは、その行為は神学的に見て正当なものであり、原則的にはすべてのクリスチャンが自由にそうしていいのだ、とパウロ自身が理解していることを知っていました。彼らにとっては、強いクリスチャンは弱いクリスチャンのために食べないようにすべきだとパウロが主張したことは、この教えと矛盾していると思えたに違いありません。(1コリント8:10–13

    弁明のため、パウロは自分の生活を引き合いに出しています。偶像に供えられた肉を食べることに関する彼の見解は、弱さの表れではなく、彼の人生の指針となっていたキリスト教の基本原則に沿ったものでした。

    わたしたちには、飲み食いをする権利がないのか。わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。それとも、わたしとバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。(1コリント9:4–6)

    パウロは、弁明をするにあたり、いくつもの質問と発言をしています。まず、自分自身と、キリスト教初期の弟子であり、パウロの宣教仲間であるバルナバについて、質問しました。

    1. 彼とバルナバには、宣教しながら食べたり飲んだりする権利があったでしょうか。はい、ありました。

    2. 彼とバルナバには、他の使徒たちのように、信者である妻を連れて歩く権利があったでしょうか。はい、ありました。

    3. 使徒たちの中で、彼とバルナバだけは、自分たちの働きに対して報酬を受けるに値しなかったのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。

    この章の後半で、パウロは自分に与えられていた権利のいくつかをどのように放棄したかを説明しています。どうやら、パウロを裁いていた人たちは、パウロがこれらの権利を利用しようとしなかったのは、彼にはそのような権利がないからだと考えたようです。真の使徒ではないから、これらの権利を行使しないのだ、と判断したのでしょう。そういった考え方に対抗して、パウロは自らの使徒としての権利を確認したのです。天幕(テント)を作って生計を立てていたとはいえ、コリントの信徒たちから食事を与えられ、宣教のゆえに報酬を受け取る権利はありました。奉仕する相手の人たちのために独身を通してはいましたが、結婚する権利もありました。

    いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があろうか。ぶどう畑を作っていて、その実を食べない者があろうか。また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があろうか。(1コリント9:7)

    パウロは、自分とバルナバには受け取る権利があるのに、なぜ受け取らないのかという点に話を移します。ただ、その前に、彼は他の教会指導者の例や一般的な日常生活を引き合いに出して、自分の主張をさらに強めています。

    1. 自分の費用で軍務に服する人はいるでしょうか。いいえ。

    2. 農夫は、自分が生産したものを食べるでしょうか。はい。

    3. 羊飼いは、自分の羊からとった乳を飲むでしょうか。はい。

    パウロは身近な例を使って、人々は自分の仕事で生計を立てる権利があるという点を強調しました。物事の一般的なあり方を例に挙げることで、自分にも権利があることを主張しているのです。

    わたしは、人間の考えでこう言うのではない。律法もまた、そのように言っているではないか。すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている[脱穀している]牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。(1コリント9:8–10)

    ここでパウロは、重大な質問をしています。そのような期待は、単に人間的な見方によるものなのか、それとも神も同様にそのことを確認されたのか、ということです。パウロは、これらの権利が神によって与えられたものであることを示し、聖句を引用して、この点を強調しています。彼は、旧約聖書の律法が、宣教によって生計を立てるという自身の道徳的権利の根拠であると主張しました。パウロは自分の主張を裏付けるために、申命記25章4節にある、「脱穀をする牛にくつこを掛けてはならない」という言葉を引用しています。 聖書の時代には、牛や馬が柱の周りをぐるぐる回りながら、重りを付けた板を引いて、脱穀を行いました。また、牛や馬が単に穀物を踏んで歩くこともありました。旧約聖書の律法では、農民が穀物を踏んで脱穀する家畜にくつこ(脱穀しているものを食べないよう、口につける金具)をはめることを認めていませんでした。

    パウロは、旧約聖書の律法を現在の状況に当てはめて、神は単に、牛ではなく、人間のことを心にかけておられるのだと主張しています。その律法は、脱穀する牛に関するものですが、その根底には、より深い道徳的原則がありました。すなわち、耕す者も脱穀する者も、その分け前を受け取ることを期待して、そうするのだということです。

    もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。(1コリント9:11–12)

    パウロはコリントで霊的な種を蒔いてきたのだから、その働きに相応の報酬を受け取る権利がありました。そして、コリントの信徒たちは彼の宣教によって益を得ているのだから、彼らが他の教会指導者たちを支援しているとすれば、それ以上に、自分こそがその権利を有していると述べています。パウロには、報酬を受けるための十分な権利がありましたが、その権利を行使しなかったのです。むしろ、キリストの福音を妨げるようなことをするよりも、さまざまな苦労を我慢してきました。

    あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。(1コリント9:13–14)

    パウロは、自分には報酬を受ける正当な権利があることを示す最後の論拠として、ユダヤ教の祭司やレビ人が神殿から食物を受け取り、祭壇の供え物の分け前にあずかっていることを指摘しました。それと同じように、パウロは、福音を宣べ伝える者が福音によって生活の糧を得るべきであることを、主が定められたのだと考えたのです。これは、ルカの福音書でイエスが使徒たちに与えられた指示のことを言っているとも考えられます。「それで、その同じ家に留まっていて、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。働き人がその報いを得るのは当然である。家から家へと渡り歩くな。」(ルカ10:7)

    しかし、パウロはさらにこう続けています。

    しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。(1コリント9:15)

    自分の宣教のゆえに報酬を受け取って当然だというパウロの主張は、説得力のあるものでした。一般的な公正さが、彼の主張を裏付けています。そして、最も重要なのは、聖書の律法そのものがこの見解を教えていたことです。パウロの働きに対して報酬が支払われるべきでない理由はありません。

    そのように、パウロは、宣教の相手に経済的支援を要求することはできましたが、自分の権利を行使しようとはしませんでした。彼は宣教の働きによって生計を立てる権利を放棄しましたが、その動機に関する誤解を打ち消しています。パウロが自分の権利を通そうとしなかったのは、それによって、コリントの人たちが報酬を支払うようになるためではなく、使徒としての立場を守るためです。自分がお金目的で宣教していると思われ、そのせいで、福音を受け入れない人が出ることを望みませんでした。イエスにおける神の恵みの福音を「誇り」としていたかったのです。

    わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。進んでそれをすれば、報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務なのである。(1コリント9:16–17)

    パウロは、コリントの人々から報酬を受け取ることなく、福音を伝え続けることを望んでいました。ここでは、福音を宣べ伝えずにはおれないと述べています。つまり、福音を伝えるよう神から召されているので、彼には選択の余地がなく、その命令を果たさなければ神の裁きを受けることになる、ということです。

    パウロはよく、自分や他のクリスチャンたちが奉仕するのは、天での報いや称賛を得たいという願いが動機になっているのだと語っています。彼は、自ら進んで熱心に、しかも無報酬で福音を伝えることで得られる、永遠の報酬を失いたくなかったのです。たとえ、嫌々ながら福音を伝えたり、その働きに対して報酬を受け取ったりするようなことがあったとしても、自分は単に委ねられた務めを果たしているに過ぎない、と彼は考えていました。パウロは、自分の宣教を、単に言われたからする以上のものとするために、金銭を受け取る権利を自発的に放棄したのです。

    (続く)


    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。

     

  • 4月 18 第1コリント:第8章(1–13節)
  • 3月 27 第1コリント:第7章(17–40節)
  • 2月 28 第1コリント:第7章(1–16節)
  • 2月 8 第1コリント:第6章(1–20節)
  • 1月 30 第1コリント:第5章(1–13節)
  • 1月 17 第1コリント:第4章(15–21節)
  • 12月 20 第1コリント:第4章(6–14節)
  • 11月 26 キリストに従う者にとっての美徳: 忠実・誠実
  • 11月 12 第1コリント:第3章(3:18–4:5)
   

信条

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