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アンカー

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  • わたしを見ておられる神

    The God Who Sees Me
    June 8, 2021

    引用文集

    オーディオ所要時間: 12:24
    オーディオ・ダウンロード(英語) (11.3MB)

    「彼女は、自分に語りかけた主の名を、『あなたは、わたしを見ておられる神』と呼んだ。それは、彼女が、『わたしは今、自分を見ておられる方を見た』と言ったからである」(創世記16:13 英語NIV訳)。

    人生には、この世界から忘れ去られてしまったかのように感じる瞬間もあるかもしれません。しかし、私たちを見守ってくださる神がおられることを知るとき、慰めを見いだすことができます。

    旧約聖書のハガルの物語にも同じことが言えます。ハガルは故郷を離れ、つかえめとなった女性でした。苦境の中、彼女はアブラハムとサラの家から逃げ出します。彼女の体はそこで、二人の跡継ぎを産むという代理出産のために捧げられたのです。

    この世にはもはや自分にとって良いものは何も残っていないとハガルが感じたとき、聖書は、主の使いが荒野の泉のそばで彼女を見つけ、慰めたと伝えています。その使いは彼女にこう言いました。「あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい。… わたしは大いにあなたの子孫を増して、数えきれないほどに多くしましょう」(創世記16:9–10)。

    神は、私たちの内なる世界を見ておられ、私たちは皆、誰かに見られ、存在を認められたいという根源的な必要を持っていることをご存じです。ハガルのように、信仰の目を通して見るとき、私たちは毎日一瞬一瞬、私たちを見ておられる神に出会うのです。神はご自分が造られたものすべてを見守っておられます。私たちが天の父の愛に満ちたまなざしのもとにあるのだと知る時、私たちの視点は真に変わるのです。神は私たちを見ておられる、それを優しく思い起こさせてもらうことを、私たちは皆必要としています。

    カデシとベレデの間でハガルが天使と出会った井戸が「ベエル・ラハイ・ロイ」と呼ばれるのはこのためで、それは「私を見ておられる生ける方の井戸」を意味します。私たちが神をどのような名で呼ぶかは、神の性質と同じくらい、私たち自身の必要を映し出します。私たちはその必要を通して、最も深い形で神を体験するのです。ハガルが荒野で見いだしたのは、神は私を見ておられる、私の名を知っておられる、私が誰であるかをご存じである、ということでした。ハガルは今や、憐れみをもって自分に向き合ってくださる、親密で個人的な神に出会ったのです。

    魂の最も暗い夜にあっても、私たちは直面する苦難の中にあって決してひとりではありません。ハガルと同じように、私たちも、自分を見ておられる神がおられることによって、慰めと安らぎを見いだすことができるのです。—ブレット・マクブライド

    ハガルが教えてくれたこと

    ハガルについては、子どもの頃にイラスト付きの聖書を色々と読んでいたので、基本的な知識は持っていました。しかし今年、聖書を最初から最後まで通して読むことを決めてから、彼女の物語を読んだ時、神が私たち一人ひとりをどれほど個人的に愛しておられるかについて、新しい視点を与えられました。

    ハガルはアブラハムの妻サラに仕えるエジプト人のつかえめでした。彼女はアブラハムと神との契約の物語の中で、どちらかといえば脇役のような存在として登場します。神はアブラハムに、星のように数えきれないほどの子孫を与えると約束されていましたが、サラはなかなか妊娠せず、その約束が実現しないことに焦りを募らせていきます。そこでサラはアブラハムに、つかえめであるハガルと寝るよう求めました。

    アブラハムはそれに同意し、ハガルは間もなく妊娠します。アブラハムの子を身ごもったと知ったとき、彼女は状況が好転し始めたと感じたことでしょう。見知らぬ民の中で生きる自分にとって、ようやく自分の居場所や価値を見いだせると思ったかもしれません。また、聖書が彼女は「女主人を見下げるようになった」と伝えているように、いい気味だとほくそ笑み始めたのかもしれません(創世記16:3–4)。

    そのことを訴えるサラに対して、アブラハムは、ハガルのことはサラに任せるので、好きなようにしてよいと告げます。サラが何をしたのかはわかりませんが、それは妊娠中のハガルが荒野へ逃げ出してしまうほどのものでした。次に私たちが目にするハガルの姿は、荒野の泉のほとりに座り、喉の渇きを潤しているところです(創世記16:5–7)。

    ここからが、この物語で私が特に好きな部分です。神は、逃げ出したこの若い女性を見つけ出すために、天使を遣わし、彼女を説得してアブラハムの宿営へ戻るよう説得させられました。彼女は、誰の目にも取るに足りない存在だと感じていたに違いありません。望まれても愛されてもいないと感じていたことでしょう。自己中心的で欠点や失敗を抱えた女性、ヘブライ人ではなくエジプト人で、以前の習慣やエジプトの神々への信仰をまだ捨てきれていなかったであろう女性、女主人を軽んじ、憐れみを受ける資格などないと思われるような女性、そしてこれからもきっと、さらに失敗を重ねていくであろう女性だと。

    その荒野で、そして罪と絶望のただ中で、神はハガルに現れます。なぜなら、状況や選択、欠点や失敗といった幾重もの層の奥には、神が命の息を吹き込まれた被造物の心が脈打っていたからです。神が御使いを遣わしてこの少女を探し出されたとき、神が見ておられ、救おうとされたのは、まさにそれでした。神は彼女が生まれる前からその存在を心に思い描き、その生涯の物語はこうして聖書に記されているのです。

    あの荒野で天使と出会うという一度の体験は、ハガルが家へ戻る勇気を得るのに十分なものでした。しかし戻る前に、彼女は自分を探し出し、語りかけてくださった神に名前をつけます。彼女はその神を、「わたしを見ていられる方」と呼びました(創世記16:13)。

    私たちは皆、神に見ていただく価値などないと感じる時があります。しかし、最も愛されるに値しないと感じているときに、それでもなお神が働きかけ、「あなたは価値ある存在だ」と語ってくださるとき、人は変えられるのです。その日、神がハガルになさったのがまさにそれでした。神は彼女を気にかけ、見守り、その人生を導いておられることを示されました。それこそが神に見られていることの力なのです。この力が、ほんの数日前には耐えられないと感じていた状況へと戻るための内なる強さを、ハガルに与えたのです。

    この物語の好きなところはたくさんありますが、特に3つの点を挙げたいと思います。

    第一に、神にとって脇役は存在しないということです。聖書の物語としては、ハガルの話は1~2章分にまとめられ、アブラハムとサラという主役の人生を支える存在として描かれているように見えるかもしれません。しかし神は、ハガルの名が記された書物を持っておられます。それは彼女の生涯の物語で、その主役は彼女自身なのです。同じことが、自分は誰か他の人の物語の中で脇役にすぎない、と感じているすべての人にも言えます。

    第二に、神はあなたの人生の中で最も見苦しく、最も落ち込んだ瞬間をご存じでありながら、それでもなおあなたを信じておられるということです。その認識がハガルに、神が彼女を置かれた困難な状況へと戻る力を与えました。今あなたがどこにいて、霊的・肉体的にどのような状態であろうと、あなたを見守り、信じておられる神がおられるのです。

    第三に、ハガルが逃げ出したとき、神ご自身が彼女を探しに行かれたという点です。神はあなたの感情的・肉体的な状態を、そして地理的にどこにいるかさえも、ご存じであり、神の愛からあなたを引き離せるものなどありません。神はあなたを追いかけ、見つけ出し、再び立ち上がらせてくださいます。

    ハガルの物語は、現代の私たちにも通じるものです。人生のどの段階にいようと、どのように感じていようと、あなたを見ている神がおられます。そして、この地上の何ものも(あなたの過ちさえも)、このような神からあなたを引き離すことはできません。使徒パウロがこう言ったとおりです。「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:38–39)。—ロアルド・ワターソン

    神はあなたの名を知っておられる

    サラやアブラハムが会話の中でハガルのことに触れるとき、彼女はただ「私のつかえめ」「あなたのつかえめ」と呼ばれていました(創世記16:2, 5-6)。… それがハガルにとって、どれほど心を打ちのめすものであったか、想像に難くありません。

    しかし、神が井戸のそばでハガルを見つけたとき、最初に口にされた言葉は「ハガル」でした(創世記16:8)。[1] この物語のこの時点まで、ハガル自身が神を知っていたかどうかは分かりませんが、神は確かに彼女を知っておられました。実際、神は彼女の名を知っておられ、その名を呼ぶことで彼女に尊厳を与えられたのです。

    あなたについても同じです。神はあなたの名を知っておられます。神の大切な子として、神は一匹一匹の「羊」を名によって知っておられます(ヨハネ10:3)。そして、あなたの名は知られているだけでなく、神の手のひらに「彫り刻まれて」いるのです(イザヤ49:16)。彫り刻まれるということは、ただ書き記される以上の意味を持ちます。それは、神の手のひらに「切り込まれ、彫り込まれている」ということであり、消されることのない永続性を示しています。

    さらに、もしあなたがキリストにあるなら … あなたの名は命の書に記されているので、永遠に残るものとなっています。新しく生まれた信者として、あなたの尊い名はいまや永遠のものなのです。…

    スティーブン・アルトロッグは次のように記しています。「イエスは私たちを完全に知っておられます。… 私たちの隅々まで知り尽くしておられます。私たち自身よりも、私たちのことをよく知っておられるのです。そしてイエスは、深く個人的なレベルで苦しみを知っておられます。… うなだれた私たちのもとに来て、恵みを注いでくださるのです。」

    私が大好きなのは、エル・ロイ[神]がハガルのもとに来てくださったという事実です。神は彼女を探し出し、最も必要としていたその瞬間に現れてくださいました。そのとき彼女に必要だったのは、自分が見てもらっていること、愛されていること、忘れられていないこと、そして自分と胎内の子ども(神が自ら名を与えられた男の子であり、これもまた神がハガルに示された特別な祝福でした)が守られるという確信でした。

    「あわれみ深き父、慰めに満ちたる神」(2コリント1:3)として、神はハガルの不安を和らげ、傷つき疲れた彼女の心を支えられました。ハガルに対してそうであったように、神はあなたにも、「決してあなたを見放さず、またあなたを見捨てない」(申命記31:6)と約束しておられます。あなたが最も助けを必要とするときにこそ、神は恵みと憐れみを豊かに注いでくださるのです(ヘブル4:14–16)。

    神は、あなたが今まさに何を経験しているのかを正確に見ておられます。なぜなら、ハガルの言葉を借りるなら、「あなたは[エル・ロイ]、わたしを見ておられる方です。まことに、ここでわたしは、自分を顧みてくださる方を見たからです」(創世記16:13 英語ESV訳)。—デニス・コールマイヤー [2]

    2021年6月アンカーに掲載 朗読:ジョン・マーク 音楽:マイケル・ドーリー


    1 訳注:日本語訳の聖書では「サライのつかえめハガル」などと訳されていますが、ヘブライ語原文では「ハガル」と名前で呼ばれ、その後に「サライのつかえめ」と続きます。

    2 https://unlockingthebible.org/2019/08/hagar-el-roi-god-sees.

     

  • 1月 23 ゴールラインを越えるまで
  • 1月 19 キリストは失われた魂を探し求める
  • 1月 15 男と女として創造された人間
  • 1月 11 失望? それとも神の采配?
  • 1月 7 慈しみの実践
  • 1月 3 新しい年のための恵み
  • 1月 1 新年への希望
  • 12月 29 新年の約束:変わることのない主の臨在
  • 12月 25 最初のクリスマス: 誰が、何を、いつ、どこで、なぜ、どのように
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第12章(12–30節)

    [1 Corinthians: Chapter 12 (verses 12–30)]

    July 29, 2025

    本シリーズの前回の記事では、第1コリント12章の前半において、パウロが霊の賜物とその多様性について語り始めていました。まず、第1コリント12章1–11節で、そのような賜物をいくつか挙げた後、それらは聖霊から与えられるものであり、すべての人の益になるように、また、一致を築くように用いられるべきことを強調しています(1コリント12:4–7)。

    12章の後半でも、パウロは一致と多様性という主題に引き続き焦点を当てています。

    からだが一つであっても肢体[からだの部分]は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである (1コリント12:12–13)。

    パウロはいくつもの書簡の中で、信者の一致、多様性、相互依存性を表現するために、しばしば教会を「キリストのからだ」と呼んでいます。[1] 人間のからだは多くの部分から成っていても一つの単位であるという点で、キリストのからだが人間のからだに似ていることを指摘しているのです。また、キリストのからだが、多様性の点でも人間のからだに似ていることを説明し、さらに教会内の多様性を強調するために、人種的・社会的な多様性も挙げて、それぞれが教会にいかに寄与しているかを述べています。かつては、どんなものがこれらの人々(ユダヤ人、ギリシャ人、奴隷、自由人)を隔てていたとしても、彼らは皆一つの御霊により、キリストにあって一つのからだに結び合わされたのです。

    ある聖書解説者は、次のように説明しています。

    パウロの考えでは、神によって構築されたこの結合(1コリント12:13)、すなわち数多くの多様な部分が有機的に結びつき、相互に依存し、調和して働くように一つとされたこのからだが、今や聖霊を通して、キリストの目に見える臨在と働きの現実をこの世に現している、ということに意味があるのです。[2]

    教会がキリストのからだと呼ばれるのは、キリストが教会の頭(かしら)であり(コロサイ1:18)、一人ひとりの信徒がそのからだの一部だからです(コロサイ3:15)。私たちは皆、主の御業を行うよう召されています。それぞれに異なる賜物が与えられており、それが何であれ、失われた人々にキリストを伝え、キリストのからだを建て上げるという使命において、誰もが大切な存在です(エペソ4:4–6, 11–13)。

    実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか (1コリント12:14–17)。

    パウロはさらに、人間のからだのイメージを用いて、キリストのからだのすべての部分にきちんと敬意を払うことの大切さを示しています。まず、からだの部位が自分を過小評価しているという、想像力に富んだ光景を描き出しています。足は、自分は手ではないので、からだに属していない、と考えるとしましょう。たとえそのように思ったからといって、足がからだの一部でなくなることはありません。耳が「自分は目ではないから、からだに属していない」と感じる場合も同様です。

    パウロは、信者が自分はあまり重要ではないとか、自分の奉仕の場は劣っているとか思い込んだとしても、キリストのからだから切り離されることはないという点を強調していたのです。からだの各部分は、全体の役に立っています。もしからだ全体が目であったなら、聞くことはできないし、もしからだ全体が耳であったなら、嗅覚は失われてしまいます。

    そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである (1コリント12:18–20)。

    ばかばかしく思えるこのような架空のシナリオによって、神が人間のからだの各部分をご自身の神聖な知恵に従って置かれた、という点が強調されています。神は、各部分とその構成を、ご自身の意図された目的を果たすために設計されたのであり、その点に関する神の知恵を疑うべきではありません。このように多様な部分が、神によってうまく結び合わされていることは、からだが機能する上で不可欠なので、パウロは、もしからだのすべての部分が一つの同じ部分、つまり、すべてが目、すべてが耳、あるいはすべてが足であったなら、「どこにからだがあるのか」と指摘しています。明らかに、からだは存在しなくなってしまいます。

    これらの点を強調するため、パウロはこのセクションの主題を繰り返しました。つまり、人間には一つのからだがあり、そのからだには多くの部分が必要だということです。どの部分も、それ自体が重要なのです。

    目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない (1コリント12:21–24a)。

    ここでパウロは、からだの一部が、他の部分に価値があるのか疑問を呈するというシナリオを示しています。目が手に「お前は必要ない」と言ったり、頭が足に同じことを言ったりするのは考えられないことだと述べているのです。むしろ逆であって、目には手が必要であり、頭には足が必要です。弱く見える部分でさえ、重要であり、必要とされています。

    「見劣りする」と考えるからだの部分には、何かをして「いっそう見よくする」ものだ、とあります。この表現はおそらく、指や足、つま先など、からだの「ささいな」部分に見につける衣類や装飾品を指しているのでしょう。同じように、教会も、見過ごされがちな信徒、つまり、貧しかったり、他の人と同じ程度には貢献できなかったり、社会的地位に欠けていたりする人々に、特別な敬意を示すべきです。

    神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ (1コリント12:24b–26)。

    パウロは、目立った誉れに欠けた部分こそ、神はいっそう尊んでくださったと指摘しています。それは、教会内に分裂が生じないようにするため、また、すべての部分が互いに等しく気遣い合うべきであることを強調するためです。痛みや病気で一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみます。キリストのからだの一つの部分が尊ばれると、他の部分も皆共に喜びます。一人の信者が尊ばれ、大切に扱われるとき、すべての信者が共に喜ぶべきなのです。

    あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である (1コリント12:27)。

    パウロは、人間のからだをたとえに用いて、教会をキリストのからだとして説明しており、信者たちこそがキリストのからだであると宣言しました。パウロはさまざまな書簡で、教会を表すためにこの比喩を用いましたが、この箇所で焦点を当てているのは、キリストのからだの各部分の一致、多様性、そして尊厳です。それぞれがからだの一部であるし、キリストに信頼を置いたすべての人は例外なく、キリストのからだの中に自分の居場所を与えられています。

    そして、神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた (1コリント12:28)

    パウロは先ほど、神がご自身の御心に従って、肉体の各部分を配置されたことを指摘しましたが、ここではキリストのからだを形作るそのような「部分」をいくつか挙げています。パウロはまず、教会における3つの職務(使徒、預言者、教師)を重要度に基づいて並べ、その後に5つの賜物を順不同で列挙しているようです。このような順序にしたのは、使徒、預言者、教師は、奇跡(力あるわざ)、癒やし、補助(援助)、管理、異言といった他の賜物とは異なり、教会を建て上げる上で重要な役割を果たしていたからかもしれません。

    使徒は、教会において特別かつ独特な役割を担った指導者であり、イエスの死と復活の証人として、エルサレムから出てキリストの福音を伝えながら、新しく教会を設立していきました。イエスが最初の12使徒を任命し(マタイ10:2–4)、のちにマッテヤ(マティア)がユダのあとを継ぎました(使徒1:23–26)。その後、パウロは異邦人への使徒として、12人の仲間に加えられました(1テモテ2:7)。他にも、バルナバ(使徒14:14)や、イエスの兄弟ヤコブ(ガラテヤ1:19)といった他の信者も使徒として言及されています。シラスとテモテ(使徒7:10–15)やアンデロニコとユニア(ローマ16:7)のように、特に使徒と呼ばれてはいなくても、正式に「遣わされた者」という意味合いにおいて、使徒の役割を果たした人たちもいました。

    新約聖書の預言者は、聖書としての神的権威をもつ言葉を語って書き記した旧約聖書の預言者とは、役割が異なっていました。新約聖書において、神の霊感を受けた聖書の執筆は、使徒たちと、その奉仕に同行した者たちによって行われています。新約聖書における「預言者」という言葉は、神のメッセージを聞き手に伝えるような霊感に満ちた言葉を語る、普通のクリスチャンを指すことの方が多かったのです。[3] 使徒以外の信徒で、他の信徒たちを励まし、導き、力づけるような預言を受けた例としては、ユダとシラス(使徒15:32)、伝道者ピリポ(フィリポ)の4人の娘(使徒21:8-9)、そしてエルサレムでのパウロの投獄について預言したアガボ(使徒21:10–11)などが挙げられます。

    教師もまた、重要でした。初代教会において、教師はユダヤ教のラビのような存在だったのです。彼らは聖書を研究して、教会に正しい教義を教えました。信徒が個人で聖書を所有することは稀だったため、教師の役割は重要でした。[4] パウロはまた、教師の職を牧師(牧者)の職と関連させて述べています(エペソ4:11–13)。

    パウロは、賜物を用いた人たちのことに続けて、賜物そのものについて語り、そこに奇跡、癒やしの賜物、補助、管理、異言を挙げています。奇跡と癒やしと異言の賜物は、本章の前半(1コリント12:8–10)でもすでに言及されているものですが、管理の賜物と補助の賜物については、ここで簡単に触れられるのみで、新約聖書でこれ以上の詳しい説明は与えられていません。

    みんなが使徒だろうか。みんなが預言者だろうか。みんなが教師だろうか。みんなが力あるわざを行う者だろうか。みんながいやしの賜物を持っているのだろうか。みんなが異言を語るのだろうか。みんなが異言を解くのだろうか (1コリント12:29–30)。

    パウロは、それぞれの職務や賜物について、反語的質問を列挙して、「そうではない」という答えを期待しました。これらの問いを通して、多様性が重要であることを改めて強調しているのであり、そのことは、聖書注解者レオン・モリスも次のように指摘しています。

    この一連の反語的質問は、まさにパウロらしい論証スタイルであり、多様性についての事実を強く印象づけています。クリスチャンは、神から授かった賜物の面で、互いに異なっています。すべての人が持っているからという理由で、いかなる賜物も軽んじてはいけません。なぜなら、すべての人は異なっているからです。[5]

    私たち皆が、信者の一致、多様性、相互依存という概念を受け入れられますように。それは、キリストのからだが建て上げられ、ついには、私たちが皆、神の御子に対する信仰と知識において一つになるためです(エペソ4:12–13)。

    (第31節は、次回の投稿で扱います。)


    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    1 例として、次の聖句を参照してください: ローマ12:4–5; エペソ1:22–23, 3:6; コロサイ1:24; 1コリント12:27.

    2 Alan F. Johnson, 1 Corinthians, The IVP New Testament Commentary Series (IVP Academic, 2004), 230.

    3 Wayne Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Bible Doctrine (Zondervan, 1994), 1052–1055.

    4 Leon Morris, 1 Corinthians: An Introduction and Commentary, vol. 7, Tyndale New Testament Commentaries (InterVarsity Press, 1985), 157.

    5 Morris, 1 Corinthians, 158.

     

     

  • 11月 11 第1コリント:第12章(1–11節)
  • 11月 4 弟子の生き方(パート2): 私たちの全存在をもって神を愛する
  • 10月 28 第1コリント:第11章(17–34節)
  • 9月 2 第1コリント:第11章(2–16節)
  • 8月 26 弟子の生き方: 前書き
  • 8月 19 第1コリント:第10章(16–33節)
  • 7月 29 第1コリント:第10章(1–15節)
  • 7月 12 第1コリント:第9章(18–27節)
  • 4月 29 第1コリント:第9章(1–17節)
   

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