• 私にできることは、今できますように

  • 主の喜びは私たちの力

  • 祈りとは、神の心へと登っていくこと (マルティン・ルター)

  • 良きおとずれを伝えよう 時が良くても悪くても

  • あなたの光を輝かせよう

アンカー

ユーザーフレンドリーなデボーション記事

  • 主は常にそこにおられる

    He’s Always There
    October 13, 2025

    マリア・フォンテーン

    オーディオ所要時間: 14:23
    オーディオ・ダウンロード(英語) (13.1MB)

    私は、アニー・ジョンソン・フリントが1919年に書いた、『神が約束されたのは(原題:What God Hath Promised)』という美しい詩に、大きな慰めとインスピレーションを感じます。その詩を読んでいただく前に、彼女がどんな人生を過ごしたのか、少し振り返ってみたいと思います。

    アニーがまだ若かった頃、関節炎の症状が出始めました。何人もの医者に診てもらいましたが、症状は悪化するばかりで、歩行すら難しくなりました。そして、教師の仕事を辞めざるをえなかったのです。

    クリフトン・スプリングス療養所の医師たちから、これからは「無力な病人」として生きることになるという宣告を受けた時のアニーが、いかに絶望的な状態にあったかを、もしできるものなら想像してみてください。

    しかし彼女は、不自由な体にはなったけれど、無力だとも、自分の境遇を嘆くしかないとも、思いませんでした。それが何であるのか、まだはっきりしてはいなかったけれど、神が自分をある目的のためにその境遇に置かれたと信じていたのです。また、主が自分にさせたい仕事があるのだと信じて、力を尽くして詩を書き、その務めを主に対してするように行いました。

    そうやって生まれた詩の言葉は、人の心にものすごく深く訴えかけるものとなりました。彼女は苦しみのるつぼの中から、自分が神から受けた慰めをもって、他の人を慰めることができたのです。

    40年以上もの間、彼女が痛みを感じなかった日はほぼなく、その内の37年間は、体が不自由になる一方でした。体の関節は硬直していたけれど、頭を動かすことができ、かなりの痛みを伴いながらも、紙に数行ずつ書き留めていきました。

    年月が経つにつれて病状が悪化し、新たな合併症が発生した時、彼女がどんな苦しみに耐えたかは、神と本人以外、誰も知り得ません。しかし、その間もずっと、神の慈しみと憐れみに対する信仰が揺らぐことはありませんでした。なぜ、このような苦しみに耐えなければならないのか、その謎が彼女の魂に重くのしかかったことは何度もあったはずです。その点では、彼女は私たちと同じ人間でした。けれども、驚くべきことに、彼女の信仰は決してぐらつくことがなく、常に『御心がなりますように』と言うことができたのです。」—ローランド・V・ビンガム [1]

    神が約束されたのは

    神が約束されたのは、空がいつも青いことではなく
    生涯、花が咲き乱れる道を行くことでもない
    神が約束されたのは、晴天ばかりで雨が降らず
    喜びばかりで悲しみがなく、平安ばかりで痛みがないことではない

    神が約束されたのは、私たちが決して
    苦労も誘惑も、問題も災難も、味わわないことではない
    神が言われたのは、私たちが決して
    多くの重荷や多くの思い煩いを抱えなくてすむということではない

    神が約束されたのは、案内人も要らないような平坦で広い道を
    速やかに楽々と進むことではない
    岩だらけで急勾配の山や
    逆巻く深い川が一つもないことではない

    そうではなく、神が約束されたのは、その日を生き抜く力であり
    労苦からの休息、道を照らす光
    試練の時の恵み、天からの助け
    尽きることのない憐れみ、そして滅びることのない愛なのだ

    私たちは、神が私たちを守ると約束されたこと、そして、神にとって難しいことは何一つないことを知っています。

    イエスは、必ずしも、私たちの苦難をすべて取り去られるわけではありません。しかし、その愛の内に、灰から美が生まれ、失敗から知恵が生まれ、弱さから強さが得られ、夜の悲しみが朝には喜びをもたらすように、取り計らってくださいます。

    主は、私たちの抱える困難や苦闘の中を共に歩んでくださり、主の力と愛によって、最悪の苦難や苦しみからも、私たちのために良きことをもたらすことができます。主は言われました。「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ10:27)。

    主の約束は、困難な時にこそ生きてきます。苦闘や苦しみや悲しみの時、主の約束はよりはっきりと、私たちの祈りのより所となるのです。

    聖書全体を通して、特に私に強い印象を与えるのは、感謝を捧げることの大切さです。イエスは、ご自身の子どもたちのために、どんな状況からでも最大の善をもたらすことができます。賛美は信仰の声であり、主への賛美と感謝によって信仰を表すことは、神が私たちの祈りに対して最善と知っておられる答えを与えてくださるという、神への信頼を表すことです。

    困難な時に現される神の力に関する聖句で、ピーターと私がよく祈りの時間に神に求めるものを、いくつか紹介したいと思います。

    * * *

    何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。—ピリピ4:6–7

    あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。—詩篇55:22

    「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」—エレミヤ29:11

    「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない。」—ヘブル13:5

    「彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。」—イザヤ65:24

    あなたは全き平安をもってこころざしの堅固なものを守られる。彼はあなたに信頼しているからである。—イザヤ26:3

    「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。」—イザヤ41:10

    あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。—1ヨハネ4:4

    わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。—ローマ8:38–39

    わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。—1ヨハネ5:14–15

    だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。—ヘブル4:16

    神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。—1ペテロ5:7

    強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない。—ヨシュア1:9

    「山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない」とあなたをあわれまれる主は言われる。—イザヤ54:10

    あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり、何ものも彼らをつまずかすことはできません。—詩篇119:165

    「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。」—イザヤ43:2

    ああ主なる神よ、あなたは大いなる力と、伸べた腕をもって天と地をお造りになったのです。あなたのできないことは、ひとつもありません。—エレミヤ32:17

    「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。」—エレミヤ32:27

    神には、なんでもできないことはありません。—ルカ1:37

    イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである。」—マルコ10:27

    わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。—ピリピ4:13

    わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。—ピリピ4:19

    神は人のように偽ることはなく、また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、語ったことで、しとげないことがあろうか。—民数記23:19

    神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。—ローマ8:28

    「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」—ヨハネ16:33

    「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。」—ヨハネ16:24

    しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。—ローマ8:37

    神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。—ヘブル10:36

    主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい。—出エジプト14:14

    しかし、主は真実なかたであるから、あなたがたを強め、悪しき者から守って下さるであろう。—2テサロニケ3:3

    どうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えて下さるように。—2テサロニケ3:16

    エリシャは言った、「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから。」 そしてエリシャが祈って「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください」と言うと、主はその若者の目を開かれたので、彼が見ると、火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった。—列王紀下6:16–17

    「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。」—ルカ22:42

    初版は2022年10月 2025年10月アンカーに再掲載 朗読:デブラ・リー 音楽:マイケル・フォガティ


    1 Rowland V. Bingham, “Annie’s Story,” Bible Memory Association International, http://www.homemakerscorner.com/ajf-annie.htm.

  • 10月 27 敬神的な問題解決法
  • 10月 24 神の恵みによる力
  • 10月 21 キリストを着る
  • 10月 18 すべての希望の源
  • 10月 15 決断ブルース
  • 10月 14 選び別たれた
  • 10月 12 私たちの生活にある平和
  • 10月 11 小さなことが大きな違いをもたらす
  • 10月 9 良い面に焦点を当てる
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第11章(17–34節)

    [1 Corinthians: Chapter 11 (verses 17–34)]

    June 17, 2025

    第11章の後半で、パウロは公同礼拝に関する別の問題を取り上げています。それは、コリントの信徒たちによる主の晩餐の行い方についてです。

    ところで、次のことを命じるについては、あなたがたをほめるわけにはいかない。というのは、あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである (1コリント11:17)。

    パウロは、この章を称賛の言葉で始めていましたが、ここでは「あなたがたをほめるわけにはいかない」と言っています。称賛はできないと。この問題に関してパウロがコリントの信徒たちに与えた叱責は、彼らの集まりと公の礼拝の行い方を中心としています。彼らを完全に非難したわけではありません。少し前に、礼拝についての彼の教えの多くを守っていると、彼らを称賛したばかりです(1コリント11:2)。しかし、ここで取り上げている点に関するパウロの評価は、彼らの礼拝の時間がもたらす害が、益を上回っているというものでした。

    そのような非難を生んだ慣行とは、何だったのでしょうか。コリントの人たちは、キリスト教礼拝における最も神聖な儀式の一つである主の晩餐を汚していたのです。主の晩餐を行うにあたり、彼らはキリストの栄誉に十分な敬意を払わず、互いを敬うこともしていませんでした。

    まず、あなたがたが教会に集まる時、お互の間に分争があることを、わたしは耳にしており、そしていくぶんか、それを信じている (1コリント11:18)。

    パウロは「まず(第一に)」という言葉で主張を始めています。しかし、第二、第三の問題を持ち出してはいないので、この場合は、「それが真実である最も重要な点は」という意味だと理解すべきでしょう。また、「耳にしており」という言葉を付け加えています。それが誰からの情報なのか明かしていませんが、この手紙の前の方では、「クロエの家の者たち」が同様の問題について知らせてくれたと述べています(1コリント1:10–12)。パウロは、確証はないものの、この教会をよく知っていたので、その報告が少なくともある程度は真実だと信じていました。

    コリントの信徒たちの分裂の問題については、すでに1~4章で取り上げられています。ここでのパウロの批判は、コリントの人たちが教会として集まる際に生じていた分裂に焦点が当てられています。パウロの主な懸念は、そのような分裂が公の礼拝を損なうことでした。

    たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい (1コリント11:19)。

    この節に関しては、解釈の仕方が二通りあります。一つの解釈は、この教会には真の信者と偽教徒がいるので、分裂は必要かもしれないというものです。この見方によれば、パウロは、誰が神に認められているかが明らかにされるために、真の信者が他の人の誤った教えとの違いをはっきりさせることが時には必要であることに、同意しているということになります。この解釈の裏付けとなっているのは、「分派」と訳されている言葉(英語NIV訳聖書では「違い」)は、分裂と同じではないという事実です。

    一方、パウロはこれらの違いを認めると、実際に言ったわけではありません。そのような違いも分裂の一部だと考えて、皮肉を言った可能性もあります。分裂は明らかにネガティブなものであるし、違い(分派)もある程度そうでしょう。そういうわけで、彼は「あなたがたをほめるわけにはいかない」(第17節)と言ったということです。

    パウロはこの後、教会が一部の信徒を空腹のままでいさせたと指摘しますが、それが起こった理由は罪深い「違い」があったことで説明がつくかもしれません。貧しい人々は、「認められた」存在と見なされず、もしかすると「いなくても困らない」存在とさえ考えられていたのかもしれません。

    そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる[一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならない(新共同訳)] (1コリント11:20)。

    パウロはここで、彼の懸念の核心を述べています。コリントの信徒たちが主の晩餐を行うために集まるとき、分裂が激しくて、もはや主の晩餐とは呼べない状態でした。(「主の晩餐」という言葉は、今日では聖餐式を指す一般的な用語となっていますが、新約聖書においてこの言葉が用いられているのは、唯一この箇所だけです。)

    というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である (1コリント11:21)。

    パウロは、自分がどんな報告を受け取ったかを述べています。コリントの信徒たちは、他の人を待たずに食事を済ませていました。[ここで引用されている英訳聖書で]「各自が我先にと自分の食事をする」と訳されている箇所は、[日本語口語訳にあるように]「各自が自分の晩餐をかってに先に食べる」と訳すことができます。パウロは、各自が「自分の晩餐」を食べるという言い方によって、それが「主の晩餐」とは言えない理由を示そうとしたのかもしれません。コリントの信徒の中には、主の晩餐にある「一致」という側面を忘れ去り、自分のことばかり考える人たちがいました。また、主が自分たちのために払ってくださった犠牲を記念するはずの席で、酔っ払っている人もいたのです。

    あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない (1コリント11:22)。

    パウロは、いくつかの質問をすることによって、彼らをたしなめました。まず第一に、自分の食事を食べたり飲んだりする家がないのかということです。これは、「主の晩餐の席でそのようなことをするのなら、家にいなさい」という、パウロなりの言い方だったのかもしれません。パウロは貧しい人々への差別に反対していました。コリントの信徒たちは、主の晩餐に集まる際に、富める者と貧しい者とを社会的に区別していたので、パウロはその件について深く心を痛め、強く反対したのです。

    第二に、パウロは貧しい人々をはずかしめる者たちに、「神の教会を軽んじるのか」と問うことで、その慣行がいかに間違っているかを指摘しました。教会は、あらゆる社会階層と民族からの人々で構成されており、彼らは神の目に平等です。神の民のうちの貧しい人々を主の晩餐にあずからせない信者は、その儀式の神聖さを軽視していることになるのです。貧しい人々は、教会共同体にとって不可欠な存在であるため、彼らを差別することは、教会を軽んじることにほかなりません。

    第三に、パウロは裕福な教会員が、何も持っていない人々をはずかしめようとしているのかと尋ねています。パウロの時代、貧しい人々はよく、裕福な人々からはずかしめられ、見下されていました。しかし、イエスは、神の国では貧しい人たちは祝福されると教えられました(ルカ6:20–21)。また、金持ちにはその社会的地位に伴う困難があることも警告しておられます(マルコ10:25)。コリントでは、貧しい人々が、すでにこの世的には何も持っていなかったというのに、よりにもよって主の晩餐の席で、信徒仲間から尊厳までも奪われていたのです。パウロは皮肉を込めて、彼らのそのような振る舞いをほめるべきだと思うか、と問いかけました。そして、自らの問いに対し、「ほめるわけにはいかない」(英語ESV訳:いや、そんなことはしない)という決然とした答えを与えています。

    わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」 (1コリント11:23–24)。

    それからパウロは、主の晩餐についてすでに伝えてあった教えを、コリントの信徒たちに思い起こさせています。「あなたがたに伝えた」という言葉は、パウロの時代のラビたちが、宗教的な言い伝えを正式かつ神聖な方法で伝え教えることを意味して用いた表現です。この箇所は、パウロが少し前に、コリントの人々は彼が「伝えたとおりに」教えを守っていると称賛していたのと対照的です(1コリント11:2)。主の晩餐に関して、彼らはすでに正しい守り方を知っていましたが、その教えを正しく実行してこなかったのです。

    彼らがパウロの教えを受け入れなかったことは、問題でした。というのも、パウロは、主の晩餐を自分で考え出したわけではなく、ただ、主から受けたことを伝えていたからです。その教えを主からどのような形で受け取ったのか、正確なところは明らかにしていません。他の使徒たちから直接その教えを受けたのかもしれないし(ガラテヤ1:18)、アラビアで過ごした初期の年月の間に、キリストご自身から超自然的に受けた可能性もあります(ガラテヤ1:15–17)。

    それからパウロは、主が敵の手に渡された夜にどのように主の晩餐を行われたかを話して、その正しいやり方を簡潔に説明しています。パウロは、パンを裂くことについて、4つの点を挙げました。イエスはパンを取り、感謝し、パンを裂き、そしてこう言われたと。「これはあなたがたのための、わたしのからだである。」

    「パン」は、「ローフ」(切られていない一塊のパン)とも訳せる言葉です。おそらくイエスは、共に食事にあずかる人々の一致を象徴するために、一塊のパンを用いられたことでしょう。イエスは感謝を捧げてから、パンを裂かれました。イエスが5千人に食べ物を与えたときもそうだったように、多くの場合、主人は来客のためにパンを裂きました(マルコ6:41, ヨハネ6:11)。そしてイエスは、パンが何を象徴するのかを、弟子たちに語られました。

    パウロは、イエスが語られたことを3つの点に要約しました。第一に、「これはわたしのからだである」ということです。この表現は、教会の歴史を通じて論争を引き起こしてきました。ローマ・カトリックは伝統的に、この箇所を文字通りに解釈してきました。つまり、聖体拝領(聖餐)の際、パンとぶどう酒の実体がキリストの体と血に変わるというものです。この見解は、化体説(聖変化)と呼ばれています。

    共在説(実体共存説)と呼ばれるルター派の見解は、キリストの体と血はパンとぶどう酒の中に存在するが、それらの物理的な実体は変化しないというものです。そして、プロテスタントの大部分は、キリストが聖餐の間、霊的に臨在される、そして、主の晩餐のパンとぶどう酒はキリストの体と血を象徴するものである、という見解を持っています。この箇所でも福音書の記述でも、この点がそれ以上に明確にされてはいませんが、イエスは「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」と約束しておられます(マタイ18:20)。

    第二に、「これはあなたがたのため」だということです。キリストは人々のために十字架上で苦しみ、死なれました。私たちの罪のためのキリストのあがないはすべての人に提示されており、信仰と悔い改めをもってキリストのもとに来る人は誰でも、それを受けることができます(1ヨハネ1:92:2)。しかし、主の晩餐に関わるこの言葉の中で、イエスは特定の人々、つまりイエスに従う者たちのために命を捧げたと語っておられます。イエスが味わった苦しみは、ただ、イエスを主であり救い主であると信じる者の罪をあがなうものだったのです。

    第三に、「わたしの記念として、このように行いなさい」ということです。主の晩餐(聖餐)は、神の民がイエスの死と復活を記念する(思い起こす)ための儀式として定められました。イエスが最後に使徒たちと共にされた食事は、キリストが裏切られ、逮捕され、まもなく死を迎えるという状況の中で行われました。[1] パンを裂き、いただくことによって、私たちはキリストが私たちのために味わわれた苦しみを思い起こすのです。

    「記念するため」に行いなさいという指示は、次の節で、キリストの血に関連して繰り返されています。

    食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」 (1コリント11:25)。

    パウロは次に、杯に焦点を当て、イエスが「杯をも同じように」されたと説明することで、杯がパンとは別に祝福されたことを伝えています。さらに、イエスがパンについても言われた、「わたしの記念として、このように行いなさい」という言葉を繰り返しています。こうしてパウロは、キリストを記念し、敬うことが、主の晩餐の儀式の中心であることを強調しました。

    パウロが記録したイエスの言葉は、ルカの記述とかなり類似しており、ルカ書でも、杯が「あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約」と呼ばれています(ルカ22:17–20)。「新しい契約」という言葉はエレミヤ31章31節に由来しています。エレミヤは、神がご自分の民の「残りの者たち」と結ばれる新しい契約の取り決めを描写しており、それは罪の赦しに基づき、神の律法が人々の心に記されるというものです。新約聖書という名称は、イエスの生涯、死、復活によって結ばれたこの新しい契約に由来します。つまり、キリストの宣教によって成立した新しい契約こそが、その約束の成就であったことを意味しているのです。

    だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである (1コリント11:26)。

    主の晩餐における飲食の行為の焦点が、キリストを記念することに当てられるべきなのは、なぜなのでしょうか。それは、教会が主の晩餐を行うたびに、クリスチャンはキリストが戻られるまで、主の死を告げ知らせるからです。イエスが私たちのために命を捧げられたという犠牲を記念して、教会が聖餐式を行っているのを信者でない人が見るとき、福音のメッセージが宣べ伝えられているのです。「主の死」という表現は、キリストが教会のためになされた救いの御業全体、つまりその生涯、死、復活、昇天を指しています。

    だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである (1コリント11:27)。

    「ふさわしくないしかたで」主の聖餐にあずかる者は、「主の体と血に対して罪を犯すことになります」(聖書協会共同訳)。ふさわしくないしかたで主の晩餐にあずかるとは、伝統的に、罪を告白しないままで聖餐にあずかることだと解釈されてきました。ある意味では、誰一人として完全にふさわしい者ではありえないので、私たちは皆ふさわしくない者として聖餐にあずかっていると言えます。だからこそ、信者が自分の罪を告白して、礼拝に備えることは重要です。ただ、パウロはここで焦点をかなり絞り込んで話しています。彼の念頭にあった「ふさわしくないしかた」とは、キリストにある教会の一致を示せないようなしかたで主の晩餐にあずかることでした。

    だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである (1コリント11:28–29)。

    罪を犯さないために、信者は聖餐にあずかる前に、自分自身、そして動機や行動を吟味して、それらが主の教えにかなっていることを確かめるべきです。自分を吟味することに時間をかける理由は、キリストの犠牲への敬意と認識なしに聖餐にあずかるなら、裁きを招くことになるからです。

    パウロがこの指示を与えたのは、特定の問題を正すためでした。一般的に、聖餐式は、キリストが私たちのために捧げた犠牲、信者の一致、そして福音の宣教に焦点を当てて執り行われるべきものであり、自分のことではなく、キリストと他者に焦点が当てられるべきです。主の晩餐に備えるにあたり、自分がふさわしい態度で聖餐にあずかれるよう、各人は自らを省みるべきなのです。

    あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。 (1コリント11:30)。

    パウロは、コリントの信徒の多くが衰弱、病気、そして場合によっては死という形で懲らしめを受けていることを指摘して、主の晩餐を汚すことの深刻さを引き続き強調しています。病気や死は、必ずしも個人の罪の結果とは限らないし、さまざまな理由で、信者にも、そうでない人にも訪れるものです。[2] ただ、パウロがこの状況において言及しているのは、主の懲らしめについてです。

    しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである (1コリント11:31–32)。

    パウロは、もしコリントの信徒たちが、主の晩餐の前に自らを省みて行いを改めるなら、神が彼らを病気や死によって懲らしめることはない、と付け加えました。さらに、コリントの信徒たちに、たとえその行いのゆえに懲らしめを受けた人であっても、罪に定められているわけではなく、むしろ、主は愛するものを懲らしめられるのだと思い起こさせています(ヘブル12:5–11)。神が教会を懲らしめられるのは、真の信者がそれを心に留め、悔い改めて、キリストに立ち返ることで、この世と共に罪に定められないようにです。

    それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。そのほかの事は、わたしが行った時に、定めることにしよう (1コリント11:33–34)。

    パウロは締めくくりに、彼らに兄弟と呼びかけた上で、これまでのことをまとめ、最後の指示を与えました。勧告の前半にある、「食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい」という言葉は、コリントにおいて、主の晩餐が食事の形で行われていたことを示唆しています。パウロは、主の晩餐はすべての人が平等の立場で参加する、分かち合いの食事であるべきだと指摘しています。もし早く到着した人がいるなら、他の人が到着するのを待ってから食事をすべきです。金持ちが先に食べ、貧しい人はまったく食べないというのではなく、会食に参加するすべての人が同時に食べなさいということです。そうすることで、貧しい人々に対して、ひいてはキリストに対して、ふさわしい敬意を示すことができます。

    第二に、パウロは、他の人を待たないことを正当化する理由を取り除くため、空腹の人は「家で食べるがよい」と付け加えています。パウロは、主の晩餐に空腹で来る貧しい人々をたしなめたわけではありません。彼らにとって、それはどうしようもないことでした。そうではなく、十分に余裕のある人は家で食べるようにすることで、主の晩餐が行われるときには皆が一緒に食事できるようにすべきだということです。

    パウロは、主の晩餐の意義と、信徒がそれにあずかる方法という、重要な点に触れました。聖餐式を行うことは、主の死と、私たちのあがないのための主の犠牲を宣言するものであり、畏敬と礼拝の心を持って行われるべきです。パウロはまた、聖餐式がキリストの体としての教会の一致を表すものであることを強調しました。そして、コリントの信徒たちがこの主題についてさらなる教えを必要としていることを明らかに知っていたパウロは、次回の訪問の際にそれを教えると約束したのです。


    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。

  • 9月 2 第1コリント:第11章(2–16節)
  • 8月 26 弟子の生き方: 前書き
  • 8月 19 第1コリント:第10章(16–33節)
  • 7月 29 第1コリント:第10章(1–15節)
  • 7月 12 第1コリント:第9章(18–27節)
  • 4月 29 第1コリント:第9章(1–17節)
  • 4月 18 第1コリント:第8章(1–13節)
  • 3月 27 第1コリント:第7章(17–40節)
  • 2月 28 第1コリント:第7章(1–16節)
   

信条

もっと見る…
  • ファミリー・インターナショナル(TFI)は、世界中の人々と神の愛のメッセージを分かち合うことをゴールとする国際的なオンライン・クリスチャン・コミュニティーです。私たちは、誰でもイエス・キリストを通して神との個人的な関係を持つことができると信じます。その関係があれば、幸せや心の平安が得られるだけではなく、他の人を助け、神の愛の良き知らせを伝えようという意欲がわいてきます。

私たちのミッション

もっと見る…
  • ファミリー・インターナショナルが何よりも目標としているのは、神の御言葉のうちに見出される、愛と希望、救いという命を与えるメッセージを分かち合うことによって、より良い人生を皆さんに送っていただくことです。ペースの速い、複雑化した現代社会にあっても、神の愛を日常生活の中で実践することこそ、社会の問題の多くを解決する鍵であると私たちは信じます。聖書の教えにある希望や助言を分かち合うことで、ひとりずつ心が変わって行くことによって、だんだん世界が変わって行き、より良い世界が築かれて行くと信じているのです。

理念

もっと見る…
  • 霊的な解決策

    私たちは、障害を乗り越え、対立を解決し、可能性を最大限に伸ばし、心をいやすという日々のチャレンジに対して、霊的な原則を適用します。また、霊的な富や知識を他の人たちと分かち合うように努めます。

TFI について

TFI オンラインは、ファミリー・インターナショナル(TFI)のメンバーのためのコミュニティサイトです。TFI は、世界各地で神の愛のメッセージを伝えることに献身する国際的なクリスチャン・フェローシップです。

TFI について詳しくお知りになりたい方は、私たちのグローバルサイトをご覧ください。

TFI メンバーの方は、 ログイン して他のコンテンツも見ることができます。

最近のシリーズ

もっと見る…
第1・第2テサロニケ
パウロがテサロニケの信徒に宛てた書簡の研究と、その教えがいかに現在に当てはめられるか
そのすべての核心にあるもの
キリスト教信仰・教義の基本を扱ったシリーズ