• 神はこの世のすべての人を愛してくださった

  • 将来は神の約束と同じだけ明るい

  • 天地が滅びても、私の言葉は滅びない

  • 私は世の終りまで、いつもあなたと共にいる

  • あなたの手を神の手にあずけよう

アンカー

ユーザーフレンドリーなデボーション記事

  • これからのより良い日々(パート8)

    Better Days Ahead—Part 8
    September 4, 2025

    毎日を有意義なものとする

    ピーター・アムステルダム

    オーディオ所要時間: 12:12
    オーディオ・ダウンロード(英語) (11.1MB)

    私たちの誰もが、有意義な人生、まわりに良い影響を及ぼせるような人生を送りたいと願っています。あなたも私のように、神が与えてくださった時間を最大限に活用する方法を学ぼうとして、目標の設定、良い習慣の築き方、チームワーク、目的に導かれた生き方などについて書かれた記事や本を読んだことがあるかもしれません。計画を立て、目標を設定し、それから、主がどちらに導いておられるのかや、私たちの人生のその局面において主の計画を成し遂げるのをどのように助けようとしておられるのかについて、必死に祈って主を尋ね求めることは、大きな冒険となりえます。もちろん、冒険と言っても、必ずしも世界を変えるようなものすごい目標に踏み出すということではありません。事業や非営利団体を始める、もう一度学校に通う、宣教活動を開始する、別の仕事につく、奉仕活動でボランティアをするといったことでもいいのです。

    私たちは時に、何か突出した、並外れたことをしないかぎり、変化をもたらすことはできないと考えそうになることがあります。でも、そう考えてしまうと、やる気よりも落胆がわいてきます。特に、自分ができることに制限があるような場合には。たとえば、病気、経済的な制約、親戚関係で必要とされていること、社会全般の制約などといった状況は、あなたの計画に大きな影響を与える可能性があります。

    印象的な目標を持つのも良いことですが、日常の小さなことに、何か変化をもたらすチャンスを見出そうとすることも重要です。そのように気を配っていると、一日を前向きに過ごすことができます。なぜなら、そうする時、私たちが他の人を祝福することができるように、主がどんな扉を開いてくださるのか、目を光らせるようになるからです。

    どうすれば大きな成果を生み出せるだろうかと考えるあまり、日々の小さな成果を見過ごしてはいけません。それが積もり積もると、やがて予測できないほどの大きな成果につながるのですから。—マリアン・ライト・エデルマン

    私たちが皆、大きなことを行えるわけではありませんが、小さなことを大きな愛を込めて行うことはできます。—マザー・テレサ

    私は年齢を重ねるにつれ、とても小さなことでも世界を変えることができるのだということを、より意識するようになっています。—サンドラ・シスネロス

    状況の改善に貢献し、良い変化をもたらす

    制約のある状況にあっても、誰かの人生をより良いものとするためにできることは、常にあります。たとえささやかなことであっても、他の誰かのためになることをするなら、それはより大きな何かにつながることがあるのです。ちょっとした行為が人生をどう変えるなんて、誰にもわかりません。

    世界をもっといい場所にしたいですか。… あなたも5分間の親切をしてみましょう。その呼び名からも分かるように、極めてシンプルなことであり、1日に5分間を使って、他の人の助けとなるようなことをすればいいのです。… それは、あなたにとっては、さほど負担にならないことですが、相手にとっては、その人生に大きな影響を与えうることです。[1]

    *

    神は人々を励ましたいに違いありませんが、多くの場合、神は私たちにその役割を果たしてもらわなければなりません。そして、私たちには、他の人たちが必要とするもの、つまり、神の聖霊があり、神の愛の言葉があります。私たちの言葉が持つ力のゆえに、私たちの人生は影響力の大きいものになりえます。深遠で雄弁な言葉でなくても、愛や希望、存在意義や慰めといった、相手の人の必要を満たすちょっとした言葉でいいのです。

    自分には時間も活力も技能もなく、与えるものなどたいしてないと感じても、心配は無用です。私たちの大半がそうですから。けれども私たちは全員、誰かに励ましの言葉をかけることができます。そして、それによって私たちの人生は影響力を持つものとなり、行く先々で神の愛を広めることができるようになるのです。ほんの5分足らずで、バスの停留所や、地下鉄や、商店、職場、学校、ネット上、あるいは散歩の途中といった、どんな場所でも、良い影響をもたらすことができます。

    こう自問するといいでしょう。「この人を何らかの形で助け、気持ちを引き上げ、一日を明るくし、感謝されている、自分は貴重で価値ある存在だと思われている、という気持ちを抱くことができるようにするには、どんなことを言えばいいだろうか。自分のしていることは重要なのだという自信を持てるようにするには、どうすればいいのだろうか。」 そして、その人に言うようにと神が私たちの心に置かれた言葉が何であれ、それを口にするための信仰が与えられるよう、祈り求めましょう。—マリア・フォンテーン

    親切を次の人に送る

    「恩送り(ペイ・イット・フォワード)」という言葉を聞いたことがあるかもしれませんね。それは、誰かがあなたのために何かをしてくれた場合、恩(親切や善意)を直接その人に返す代わりに、同じまたは同等の親切を他の人に送ることを言います。それを実践することは、相手にとっても、自分にとっても、嬉しいことであり、祝福となります。この点につき、一緒に仕事をしている人が次のように書いてきました:

    昨晩、主が私のために特別なことをしてくださいました。お気に入りの小さなイタリアンレストランに夕食をしに行ったところ、仕事ぶりの素晴らしいウェイトレスがいたので、少し話をしました。3ヶ月前にアルバニアから来たばかりだそうです。移住生活は「とても大変」だと言っていました。食事の途中で、彼女は私のテーブルまで来て、こう言いました。「一人で外食するのは、勇気がいりますね。」

    それから少しして、勘定を頼みました。2つ離れたテーブルには、可愛い子どもが2人いる素敵な家族が座っています。食事の間、その人たちを見たり、会話に耳を立てたりすまいと努めたのですが、私と向い合わせになっていたし、子どもたちがとても可愛かったので、簡単ではありませんでした。

    ウェイトレスは、私に勘定書を持ってくる途中で、その家族のお父さんにまず勘定書を持っていきました。それから私のところに来たのですが、あぜんとした顔でこう言ったのです。「あちらの方が、あなたの食事代を払ってくださいました。」

    私は驚き、感激したので、その人のところに行って感謝を伝え、1~2分言葉を交わしました。そして、その人は去り際にこう言ったのです。「いつか、[この親切を]他の人に送ってください。」 そこで私は、「はい、今すぐ、あのウェイトレスさんに同じことをしたいと思います」と言いました。

    レストランを出る際、私はあのアルバニア人のウェイトレスを探し、こう言いました。「あの人は、親切を他の人に送ってほしいと言っていたので、そうすることにしました。」 私は彼女の手を取り、食事代と同じ額のお札を[チップとして]手渡しました。そして、ハグをし、頬にキスして、「神があなたを祝福されますように」と言ったのです。彼女は嬉しくて仕方がないという様子でした。きっと主がこのことを起こされたのは、彼女を励まし、また私も励ますためだったのでしょう。

    神は、私たちのささいな努力を、他の人の人生において何倍にも増してくださいます。そして、主の愛の証となる小さな機会が訪れた時、それを活かすことに忠実であるなら、主はより大きな機会の扉を開いてくださることでしょう。聖書には、「小事に忠実な人は、大事にも忠実である」とあります(ルカ16:10)。

    愛は行動で表される。積極的な気遣いで表されるのだ。あなたが喜んで自分を差し出し、友となり、話し相手となり、聞き役となる時、また、孤独な人や真理を求めている人と話したり、その人が必要とされ重要であると感じさせるための時間を取ったりする時、霊の内であなたに満足と報いがもたらされる。

    あなたがそのように与える時、最初は時間を犠牲にしていたとしても、その報いをまもなく見ることができるし、自分が正しいことをしたのだということがはっきりと分かるようになる。誰かの一日を明るくして、重荷を軽くし、あきらめないよう助けることができたと知ることで、心の中にわたしの愛を感じ、達成感、充実感、そして喜びと満足感を覚えるようになる。

    このような小さな愛と無私の行為を行うことで、あなた自身がわたしの霊の喜びと平安で祝福される。それはすぐに消え去るものでも、状況次第で変わるものでもなく、わたしからの贈り物だ。あなたが誰か困っている人にとって祝福となれたと知ることから来る幸せなのだ。—イエス

    クリスチャンとしての私たちの召命とは、神の御心を行うことです。主を喜ばせることを求めるのであれば、自分の持つ影響力と手段を用いて、日々自分にできることをするのは当然のことです。ここで肝心なのは、「日々」ということです。すぐに結果を見ることはないかもしれませんが、それで落胆するわけにはいきません。神のこの約束を信じましょう。「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」(ガラテヤ6:9)。

    神は、私たちのもっとも小さな仕事のためにも、充分に大きなお方です。私たちのもっともつまらない時間でさえも神聖なものにできるほど、充分に聖いお方です。私たちの人生にあるもっとも小さなものにさえも意義を与えることができるほど、そして、その中にあっても、尊く格別の喜びを与えられるほど、充分に偉大なお方です。キリストにあって、また、その御霊によって、実に「すべての状況に喜びを見いだせる」のです。私たちのさまざまな召命において、多くの人の前で明るく輝く閃光の中だけでなく、もっとも小さく平凡な、一見取るに足らない瞬間の中にも。—デビッド・マティス [2]

    私たちは、主とその御言葉を知るという祝福にあずかっています。そして、主に従う者、主を代表する者として、私たちの召命に日々忠実であるためにできることをするなら、自分の人生に意味を見いだすことでしょう。心と思いと精神をつくして主を愛し、自分を愛するように他の人たちを愛するため、自分にできることをすることによって、毎日を有意義なものにできます。そして、自分は大した影響を与えられていない、自分の働きの実があまり見えないと感じるその時にでも、ひとつ確信できることがあります。それは、あきらめることなく、最善をつくして主の愛と真実の証人となり続けるなら、いつの日か、「良い忠実な僕よ、よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」と、主が言ってくださるということです。(参照:マタイ25:21)。その日、自分のしたことすべてが報われるのです。

    初版は2021年12月 2025年9月に改訂・再版 朗読:ジョン・ローレンス


    1 “How A (Very) Little, Daily Favor Can Change Your Life,” HuffPost, September 3, 2013, https://www.huffpost.com/entry/five-minute-favor-adam-rifkin_n_3805090

    2 David Mathis, “Faithfulness in the Little Things Where We Are Called,” TableTalk magazine, July 2019 issue, https://tabletalkmagazine.com/article/2019/07/faithfulness-in-the-little-things-where-we-are-called/

  • 9月 12 あなたの言葉が持つ力
  • 9月 9 考え方は違いを生む
  • 9月 6 柔和さはなぜ重要なのか
  • 9月 3 神の平和の道具
  • 8月 31 永遠に続く愛
  • 8月 28 人類に対する神の愛
  • 8月 25 イエスはあますところなく満たしてくださる
  • 8月 22 キリストに似た者となる
  • 8月 19 リマインダーという祝福
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第11章(2–16節)

    [1 Corinthians: Chapter 11 (verses 2–16)]

    May 20, 2025

    パウロからコリントの信徒たちへの第1の手紙で、今回の箇所は、1世紀のコリントにおける男性と女性の関係や、文化的期待を反映しています。ここに書かれた夫と妻の関係は、2千年前の世界と当時の習慣という文脈の中で述べられています。今日における女性の役割、現代の服装規定、そして、女性の平等性に関する理解は、その遠い過去のものとは大きく異なっています。しかし、この箇所は、パウロの時代に生きる人々に向けて、その時代に書かれた論説であるため、当時の考え方や期待を反映しているというわけです。

    あなたがたが、何かにつけわたしを覚えていて、あなたがたに伝えたとおりに言伝えを守っているので、わたしは満足に思う。(1コリント11:2)

    コリントの信徒たちは、すべてのことにおいてパウロを覚えていることで、先ず称賛の言葉を与えられ、安堵したことでしょう。パウロは、自分の教えの多くが信徒たちによって守られていることを喜んでいたようです。ペテロのような最初の弟子たちからパウロに伝えられ、彼からさらにコリント教会に口頭で伝えられた教え(「言伝え」)を守っていることで、彼らを称賛しました。

    この章でパウロは、公の礼拝に関して論争の的となっている問題に取り組んでいます。コリントの教会の中には、既婚女性が公の礼拝に参加する際に頭を覆う慣習を、拒否する者もいたようです。パウロは、当時の文化的規範として多くの人がそのように行っていたことを知っていましたが、同時に、なぜ全員がそうし続けるべきかを説明する必要を感じていました。公の礼拝で男性と女性がどのように互いと関わっていたか、そして、それが教会外の人々にどのように見られるかを懸念していたのです。パウロはまた、祈りや預言をすることや、神の言葉を教えたり説教したりすることにも焦点を当てていますが(1コリント11:4–5)、それは信徒たちが集まったときに行われていたことを指しているのでしょう。

    しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女[妻(英語ESV訳、以下同じ)]のかしらは男[夫]であり、キリストのかしらは神である。(1コリント11:3)

    パウロはここで、3つの「かしら」について述べています。キリストはすべての人のかしらであり、夫はその妻のかしら、そして、神はキリストのかしらだと。ただ、男性や妻、キリストの役割について述べてはいません。

    古代ギリシャ人は、何かが出てくるもと(源)を指すために、ここで「かしら」と訳されている言葉を用いることがよくあり、パウロも、「男が女から出たのではなく、女が男から出た」(1コリント11:8)と語っています。そこで、この場合の「かしら(英語:ヘッド)」は「源」を意味すると考える解説者がいます。川の「ヘッド」が、その川に流れる水の源のことであるように。[1] この観点から言うと、キリストは、アダムをちりから創造したという意味で、「男の源」です(創世記2:7)。男性も、アダムからエバが造られたという意味で、「女の源」とみなされます(創世記2:22)。そして、キリストは「父から出て … きた」ので、父なる神は「キリストの源」というわけです(ヨハネ16:27–28)。

    他の聖書学者たちは、「かしら」と訳された言葉は、父からキリストへ、さらに、夫へ、妻へと続く権威系統を意味すると考えています。この見解は主に、旧約聖書におけるヘブル語の「かしら」という言葉が、リーダーシップや権威に関連して用いられていることに基づいています。

    祈をしたり預言をしたりする時、かしらに物をかぶる男は、そのかしらをはずかしめる者である。(1コリント11:4)

    パウロはまず男性に向かって、頭を覆って祈ったり預言したりする男性は皆、「すべての男のかしら」であるキリストをはずかしめることになると述べました。ローマ帝国では、異教礼拝を行う際、男性は一般的にトガで頭を覆っていました。この習慣がコリントの人々にも伝わっていたようで、パウロはこの習慣を取り入れることをとがめたのです。

    少なくともパウロは、教会でそのような習慣を取り入れないよう、信徒たちに警告していたのでしょう。キリストを礼拝する際に男性が頭を覆うことは、異教徒の男性が自分たちの神々を礼拝するときと同じやり方で礼拝するということになります。彼らの習慣を真似ると、キリストへの礼拝に誤った宗教が混入されるので、それはキリストをはずかしめるということです。パウロはこの点を記すにあたり、すべての信徒への命令として述べているのではありません。むしろ、これは特にコリントの信徒たちに向けて語られたことであり、これまでの章で表明されていたように、異教の習慣との関わりを避ける必要性を示すためのものでした。

    祈をしたり預言をしたりする時、かしらにおおいをかけない女[妻(英語ESV訳)]は、そのかしらをはずかしめる者である。それは、髪をそったのとまったく同じだからである。もし女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったりそったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。(1コリント11:4–6)

    具体的に女性に焦点を当てることによって、パウロは女性が公の礼拝で祈りや預言をすることができると認めています。パウロは、女性が牧師や長老、教師などに叙任されることを許しませんでしたが(1テモテ2:12)、神の言葉にある真理を語り、公の礼拝で祈りや預言をすることは制限しませんでした。

    ただ、パウロは、女性が人前で祈ったり預言したりする場合、頭を覆うよう求めています。当時の人々の考えでは、礼拝の際に女性が頭を覆わずに語るなら、それは自分の頭をはずかしめることになるとされていました。パウロが話していたのは、女性の物理的な頭のことだったかもしれませんが、それよりも、第3節で「女(妻)のかしら」と呼んでいる夫をはずかしめることを意味していた可能性が高いです。パウロは、女性が頭を剃ることが夫の恥になるのであれば、公の礼拝では頭を覆うべきだと主張しました。

    男は、神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきではない。女は、また男の光栄である。(1コリント11:7)

    パウロはここで、自分の見解を裏付ける聖句を述べています。まず、男性は「神のかたちであり栄光である」から、異教徒がかぶり物をするのを真似るべきではないとの主張です。創世記には、アダムもエバも、神のかたちに創造されたと記されています(創世記1:27)。

    では、パウロが、女性に対比して、男性は神のかたちであると言ったのはどういう意味だったのでしょうか。おそらく、最初に創造された者なので、アダムは神のかたちとして特別な立場(栄光)を有しているという意味だったのでしょう。アダムは神によってちりから直接造られており、一方、神はアダムの体からエバを造られました。これにより、アダムとその男性の子孫は、この地上において、女性と同じではない独特の役割を与えられています。言うまでもなく、パウロの時代以降、世界は変わっており、男性と女性の役割に対する文化的な期待も変わりました。パウロは、男性と女性の役割には違いがあるとしながらも、ガラテヤ3章28節で、男女は平等であることをこう断言しています。「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」。

    神学者ウェイン・グルーデムは、次のように説明しています。

    第1コリント11章7節で、パウロは「男は、神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきではない。女は、また男の光栄である」と述べましたが、それによって、女性が神のかたちに造られたことを否定しているわけではありません。彼は単に、男女の間には変わることのない違いがあり、それは、会衆の中での服装や振る舞いに反映されるべきだと言っているのです。… しかし、どちらの場合においても、パウロはさらに続けて、男女が相互に依存していることを強調しています(参照: 第11–12節)。[2]

    パウロは続けて、「女は男の光栄(栄光)である」と言いました。すべての被造物は神の栄光のためにあるので(ローマ11:36)、女性が神の栄光ではないと言っているわけではありません。おそらく、女性は神のみならず、男の栄光でもあるという意味だったのでしょう。パウロが女性を夫の栄光と呼んだのは、それが創造の秩序における女性特有の役割の一つだからです。創世記2章によれば、神はアダムに与えられた任務を人類が果たすことを可能にするために、エバを創造されました。そのため、エバはアダムにふさわしい助け手と呼ばれています(創世記2:18)。「助け手」と訳されたヘブル語の言葉は、「劣った存在」という意味ではなく、「助力者」「補助者」を意味します。エバは、特別な意味でアダムの栄光だったのです。

    なぜなら、男が女から出たのではなく、女が男から出たのだからである。また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである。(1コリント11:8–9)

    パウロは、創造の別の側面を持ち出して、女性が男性の栄光であるという説明を続けました。読者に、男性は女性から出たのではなく、女性のために造られたのでもないことを思い起こさせています。そして、夫は妻の栄光ではないことをほのめかしました。むしろ、女性が男性から出たのであり、男性のために造られたと。女性が男性から、また、男性のために造られたゆえに、妻は夫に栄光をもたらす存在なのだということです。

    この点について、レオン・モリスは次のように解説しています。

    パウロは、これまで述べてきたことが女性を不当に従属させることを意図したものではないことを明確にしています。男女の間には協力関係があり、主にあっては、どちらも他方なしには存在しません。… 男性は、男性が最初に造られたことの重要性を誇張してはなりません。根本的な平等性が存在するのです。[3]

    それだから、女は、かしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある。(1コリント11:10)

    この聖句には、いくつか理解しづらい点があります。女性の頭にある権威のしるしとは何なのか、天使たちがどのような役割を果たしていて、それにはどんな理由があるのか、いずれも明確ではありません。これらの投稿を書く際に使用した研究資料のいずれにも、この節についての明確な説明はありませんでした。この聖句の意味については、実にさまざまな意見があるようですが、その多くは相反するものです。パウロが手紙を書いた相手はその意味を理解していたと思われますが、今日では(少なくとも私には)それが十分に明確ではないため、この節の解説は含めない方が良いと判断しました。

    ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。そして、すべてのものは神から出たのである。(1コリント11:11–12)

    パウロは、夫と妻が礼拝においてそれぞれの「かしら」を敬う責任があることを確認したことで、彼の指示が男性と女性の関係についての完全な教えであると受け取られかねないことを懸念しました。そこで、誤解されないように、「ただ」という言葉で前置きして、自分が言ったことの意味を明確にしています。まず、「主にあって」という表現で始めていますが、それは、「キリストの体」にある人であることを明らかにするため、他の箇所でも使用している言い回しです(ローマ16:8, 1コリント4:17)。パウロは、自分の教えについて、そのように[主にある者たちに、性別による優劣があると]思い込んでほしくないことをはっきりさせたかったのです。

    パウロは二つの点を前面に押し出しました。第一に、夫も妻も、互いに独立した存在ではないことです。パウロは、女性(妻)は男性(夫)から独立して存在してはいないということを再び述べました。この原則は、この章の第3–10節で明らかなことです。女性の権威は、常に男の権威を補完するものとされていたので、自分を自立した存在と考えてはなりません。次にパウロは、男性(夫)も女性(妻)から独立した存在ではないと付け加えました。夫は、「かしら」としての自分の立場が、妻からの独立や、妻に対する優越性を意味すると考えてはなりません。

    この主張を裏付けるため、パウロは男性と女性の相互依存関係に言及しました。エバはアダムの肋骨から造られているので(創世記2:22)、女性は男性から出たことになりますが、男性が女性から生まれるということもまた真実です。すべての男性には母親がいるのであり、この事実は、男性は女性を敬う義務がないと考えたくなる誘惑に対する反論となります。「あなたの神、主が命じられたように、あなたの父と母とを敬え。あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く命を保ち、さいわいを得ることのできるためである」(申命記5:16)。

    あなたがた自身で判断してみるがよい。女がおおいをかけずに神に祈るのは、ふさわしいことだろうか。(1コリント11:13)

    パウロは、コリントの信徒たちが自分の教えを無視するよう促しているわけではなく、彼の指示に盲目的に従うべきではないと言っているのです。彼ら自身がよく考えないといけません。彼がこう言ったのは、コリントの信徒たちがこの問題についてちゃんと考えることができると確信しており、自分と同じ結論に達することを望んでいたからです。パウロはこの件を彼らに投げかけ、女性が頭を覆わずに公の礼拝で祈るのはふさわしいことかと尋ねました。何が正しいかではなく、何がふさわしいかという観点から論じることを選んだわけです。コリントの人たち自身の観念に訴えかけました。彼らの世界観を知っているパウロは、彼らが自分の立場に同意することを期待したのです。

    自然そのものが教えているではないか。男に長い髪があれば彼の恥になり、女に長い髪があれば彼女の光栄になるのである。長い髪はおおいの代りに女に与えられているものだからである。(1コリント11:14–15)

    パウロの論説のこの部分を理解することは、難しいです。パウロはここで、また別の質問をし、男女の髪の長さに関する文化的規範を考慮するよう求めることによって、既婚女性の頭を覆うことに関する自身の立場を引き続き表明しています。しかし、その質問の正確な意味は不明です。さまざまな解釈がなされていますが、いずれも十分とは言えません。

    パウロは、コリントの信徒たちが、男性は短髪、女性は長髪であるべきだと認めることを期待しましたが、それはおそらく、当時のコリントの文化的規範がそうだったからです。また、女性の長い髪は栄光であるという点が、結婚した女性が公の礼拝で頭を覆う習慣を肯定しているということを理解することも期待していました。1世紀のローマ社会では、女性が頭を覆うことは結婚のしるしであり、当時の妻たちに対する文化的期待の一部でした。

    しかし、だれかがそれに反対の意見を持っていても、そんな風習はわたしたちにはなく、神の諸教会にもない。(1コリント11:16)

    パウロは、自分の見解に対していくらかの抵抗が示されることを予想していました。コリントの信徒の中には、男女を問わず、この件について異論を唱える者がいるだろうと考えたのです。パウロは、諸教会で広く行われている風習に目を向けさせて、「そんな風習はわたしたちにはない」と述べることで、この問題を解決しようとしました。「そんな慣例・習慣はわたしたちにはない」と訳すこともできます。パウロが意味していたのは、彼自身や他の教会指導者たち、そして神の諸教会には、女性が公の礼拝で頭を覆うことについて、それ以外の習慣はないということです。

    ある解説者は、第1コリント11章前半をどのように適用するかについて、次のような考えを述べています。

    書簡のこの部分は、現代の社会習慣とキリスト教的道徳および実践との関係という長年の論点を提起しています。パウロの言葉の背後には、クリスチャンは常に礼儀にかなった行動をしなければならないという原則があります。「すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」ということです(1コリント14:40 聖書協会共同訳)。この原則を1世紀のコリントに適用すると、女性は礼拝の際に頭を覆わなければならないという指示に導かれます。この原則には永続的な有効性がありますが、それを現代の状況に適用する際に、同じ結論に至る必要はないと感じても差し支えありません。言い換えれば、私たちのまったく異なる社会的習慣に照らしてみると、この章の根底にある原則を完全に受け入れるからといって、20世紀の西洋諸国において女性が祈るときに、常に帽子をかぶらなければならないと考える必要はないということです。[4]

    ちなみに、カトリック教会では、1983年にその慣習が廃止されるまで、女性はミサの際に頭を覆うことが義務づけられていました。

    (続く。今回の主題については、こちらも参照してください: 『信仰の女性たち:今日の教会における女性』)


    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    1 日本語訳聖書で「かしら」と訳されているギリシャ語は、英語訳聖書では「ヘッド(head)」と訳されており、「ヘッド」には、ギリシャ語の言葉と同様、「かしら、頭」の他に「源」という意味があります。

    2 Wayne Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Bible Doctrine (Zondervan, 1994), 457.

    3 Leon Morris, 1 Corinthians: An Introduction and Commentary, vol. 7, Tyndale New Testament Commentaries (InterVarsity Press, 1985), 153.

    4 Morris, 1 Corinthians: An Introduction and Commentary, 154–155.

     

  • 8月 26 弟子の生き方: 前書き
  • 8月 19 第1コリント:第10章(16–33節)
  • 7月 29 第1コリント:第10章(1–15節)
  • 7月 12 第1コリント:第9章(18–27節)
  • 4月 29 第1コリント:第9章(1–17節)
  • 4月 18 第1コリント:第8章(1–13節)
  • 3月 27 第1コリント:第7章(17–40節)
  • 2月 28 第1コリント:第7章(1–16節)
  • 2月 8 第1コリント:第6章(1–20節)
   

信条

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