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  • 盛大な宴会への招待

    Invitation to the Great Banquet
    October 14, 2024

    ピーター・アムステルダム

    オーディオ所要時間: 12:00
    オーディオ・ダウンロード(英語) (10.9MB)

    イエスが盛大な宴会のたとえ話を語られたのは、著名なパリサイ人の家で安息日の食事をなさっていた時のことです。食事中、イエスは宴会にいた人たちにこう言われました。「宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう。」(ルカ14:13–14)

    これを聞いて、食卓に着いていた客の一人がこう言いました。「神の国で食事をする人は、さいわいです。」(ルカ14:15) この列席していた人の言葉がきっかけとなり、イエスは「メシアの宴会」として知られている出来事をどのように見ておられるかを説明されました。それは、時の終わりに催されるとユダヤ人が考えている宴会です。イザヤ書はこの宴会について、次のように語っています。

    万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しくたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。また主はこの山で、すべての民のかぶっている顔おおいと、すべての国のおおっているおおい物とを破られる。主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。(イザヤ25:6–8)

    この箇所には、全ての民(万民)が祝宴に列席すること、また全ての民がその涙をぬぐわれることが書かれていますが、イエスの時代になると、ここに書かれたことには異邦人(非ユダヤ人)は含まれないというのがユダヤ人の通念となっていました。しかし、「メシアの食卓」に誰が列席するのかについて、イエスには別の考えがおありでした。モーセの律法を守ることの大切さや、律法を守る者たちがメシアとともに宴会に列席することを話すといった、当然のように期待されている答え方をする代わりに、イエスは物語を話されました。

    ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、「さあ、おいでください。もう準備ができましたから」と言わせた。ところが、みんな一様に断りはじめた。

    最初の人は、「わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください」と言った。ほかの人は、「わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください」、もうひとりの人は、「わたしは妻をめとりましたので、参ることができません」と言った。

    僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、「いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを、ここへ連れてきなさい。」

    僕は言った、「ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます。」 主人が僕に言った、「道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう。」(ルカ14:16–24)

    当時、宴会を主催する人は、まず招待客への最初の通知で宴会の日取りを知らせました。その時点で、招待された人は出席できるか否かを伝え、もし出席を承諾する場合、それは約束をしているのと同じことです。この約束が重要なのは、招待に応じた人の数にもとづいて、どんな食事をどのくらい出すか決めるからです。準備が全て整うと、主人は僕に、例の「さあ、おいでください。もう準備ができましたから」という決まり文句を村中で言って回らせます。[1]

    イエスのたとえ話に出てくる宴会は大規模なもので、主催者は招待を承諾した人数を分かっており、それに応じた準備がなされました。定刻になったので、もう来ていい時間だということを伝えに僕が招待客たちのもとに行きました。これまでのところ、全てが通常どおりに進んできましたが、ここに来て、宴会に招かれた人たちが招待に応じることを拒否し、「みんな一様に断りはじめた」というショッキングな話をされて、聞いていた人たちは衝撃を受けます。

    たとえ話を聞いていた人は皆、宴会へ来るのを拒むことは主催者に対する意図的な侮辱であると理解しました。この人は、村の人たちに対して、公然と恥をかかされています。約束を守らないことの言い訳は説得力がなく、受け入れがたいものでした。

    最初の人の言い訳は、「土地を買ったので、見に行かねばならない」というものでしたが、たとえ話を聞いていた人たちには、それが見え透いた嘘だと分かりました。まだ見ていない土地を買うなど前代未聞のことです。この最初の人は少なくとも「おゆるしください(失礼させてください)」と言ってはいますが、主催者の僕に与えられた言い訳は侮辱が目的です。

    別の人は、「五対の牛を買ったので、調べに行くところだ」と言い訳しました。これもまた説得力のない言い訳です。対になった牛を買う前に、購入者は売り主の土地へ行き、牛にくびきをかけてつなぎ、土地を耕させます。この2つ目の言い訳も作り話であり、侮辱的でした。

    3人目の人は、「妻をめとったので行けない」と言いました。失礼させてほしいという言葉さえ口にしようとせず、ただ行けないと言うだけなのです。これは非常に無礼で侮辱的なことです。

    家の主人が、客たちの目的は彼の面目をつぶして恥をかかせることだと気づいた時、当然ながら怒りました。このような状況であれば、悪態をつくこともできたであろうし、公に自分の面目をつぶした人たちを懲らしめようとして、何らかの手段に出ると脅すことだってできたでしょう。しかし、この人は怒ってはいたものの、復讐に出る代わりに、寛大な行いをしました。

    もともとの招待客は主催者と同格であり、いずれ同様の食事に彼を誘うことによって、返礼のできる人たちでしたが、主催者は返礼のできない人たちである、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを招待することにしました。イエスはイスラエル内でのけ者にされていた人たち、イエスのメッセージを喜んで受け入れた庶民を引き合いに出しておられたのです。

    家の主人は社会規範から脱したことをしています。客を権力や財力のある特権階級の人たちに限定せず、代わりに、誰であれ食事に来る気のある人たちを招待しました。僕は主人の指示に従い、町の大通りや小道へ行って、通常は社会的地位が低いとみなされる人たち、社会ののけ者とされる人たちを見つけてきました。そういった人たちを招待しただけではなく、家に連れてきたのです。

    そうしてから、僕は主人に、宴会場はまだいっぱいではなく、席があることを伝えました。すると主人は、地域外の人たちを探しに町の外まで行って、無理やり宴会に連れてくるように指示しました。「無理やり(無理にでも)」連れてくるというのは、出席を強要するという意味ではありません。社会的慣習により、地域外の人は思いがけない招待を断らなくてはならず、特にその人が主催者よりも社会的地位の低い場合はそうでした。主催者の親戚でも隣人でもなく、地域外の人なので、返礼することもできません。そこで、社会の決まりによれば、断らなくてはいけないのです。それを知っているので、これは偽りのない招待であるということを示すために、僕は相手の腕をつかんで、優しく連れてこなければいけませんでした。[2]

    イエスがその場で聞いていた人たちに伝えようとしておられたメッセージとは何でしょうか。主が焦点を当てておられたのは、宴会への招待がある人たちによって鼻であしらわれたこと、そして思いがけず他の人たちも招待されたことです。招待客がした言い訳はいずれも、日常の仕事や人間関係で忙しいということでした。出席しないという選択をして、自分たち自身を除外したのです。主催者とその招待を鼻であしらい、所有物や家族に関係した理由を与えたわけですが、それは歴史を通して神の招きを断ってきた人たちが与えた理由の幾つかを反映しています。

    このたとえ話で提示された質問とは、誰が宴会に出席するのかということです。イエスの答えは思いがけないものでした。ユダヤ人の通念では、誰であれユダヤ人の母親から生まれたものは、ユダヤ人であるゆえの当然の権利として、自動的に「メシアの宴会」に出席するとされていました。イエスが指摘しておられたのは、実際には、この宴会への出席は神の招待に対する人々の反応に基いているということです。

    クライン・スノッドグラスは、このように書いています。「ここに書かれたことや宴会のたとえ話の要点は、次の言葉に要約できます。『神がパーティを開かれる。あなたは来るだろうか。』」[3]

    イエスは福音書全体を通して、取税人や罪人と共に食事をしたりなど、その言動によってこの概念を教えられました。(マタイ9:10–12) こう言っておられます。「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタイ8:11–12)

    宴会への出席は、招待への反応にかかっています。世界中で多くの人が、自分は正しい信仰を持っているから、正しい団体に所属しているから、慈善活動をしているから、他の人からよく思われているからなどの理由で、宴会に出席して当然だと考えているかもしれません。しかし、このたとえ話や他の箇所でイエスが教えられたことは、出席するつもりでいる人が必ずしもその中に含まれているとは限らず、また、出席できると期待していない多くの人が含まれていることを示しています。(マタイ7:21) 自分次第で宴会に出席するわけではないのです。生活の思い煩いに気を散らされることなく、招待を受け入れて出席しなくてはいけません。

    宴会に来て、おいしいご馳走を食べ、良質のワインを飲み、他の客たちと交流するということは、喜びと幸せと受容のイメージを伝えるものです。ある意味で、クリスチャンとしての私たちの役目は、他の人たちをイエスの食卓へと招待するために地域社会に出かけていく、このたとえ話の僕のようです。(マルコ16:15) 私たちのメッセージは、喜びへの招きのメッセージであり、イエスが無償で与えようとしておられる永遠の救いの贈り物のメッセージ、そして、全ての人のための主の愛を分かち合うメッセージであるべきです。

    生活の思い煩いや心配でいっぱいになっている人は、招待にほとんど注意を払わない場合が多いですが、それでも、彼らが招待されていることを確かに理解するように、私たちは最善をつくすべきです。私たちの対象は、社会的に受け入れられる人や教養と財力のある人、または何らかの形で返礼できる人に限られるべきではありません。招待は、社会ののけ者とされる人、生活困窮者、恵まれない人、あなたが困惑するような人も含め、全ての人に与えられています。

    御国のメッセージは、恵みです。宴会へ招待されるに値するようなことをできる人などいません。私たちは単に招待されるのであり、それを受け入れなければいけないだけです。私たちが救われたのは、恵みによります。しかし、一人ひとりが、恵みを受け入れ、パーティに行く決断しなければならないのです。

    初版は2017年12月 2024年10月に改訂・再版 朗読:ジェリー・パラディーノ


    1 Kenneth E. Bailey, Jesus Through Middle Eastern Eyes (Downers Grove: InterVarsity Press, 2008), 313.

    2 Kenneth E. Bailey, Through Peasant Eyes (Grand Rapids: William B. Eerdmans, 1980), 108.

    3 Klyne Snodgrass, Stories with Intent (Grand Rapids: William B. Eerdmans, 2008), 314.

  • 2月 20 親切は無駄にならない
  • 2月 18 参加すべき競走を走りぬく
  • 2月 16 賛美で跳ね返る(パート3)
  • 2月 14 あまり思い煩わず、もっと信頼しよう
  • 2月 12 パリサイ人と取税人
  • 2月 10 問題は、なぜあるのか
  • 2月 8 進んでいる道が意図を上回る
  • 2月 6 賛美で跳ね返る(パート2)
  • 2月 4 イエスが語った物語
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第6章(1–20節)

    [1 Corinthians: Chapter 6 (verses 1–20)]

    January 8, 2025

    あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。(1コリント6:1)

    パウロは、コリントの信徒たちが他の信徒たちを裁判に訴えていると聞いて、ショックを受けました。彼にとって、クリスチャンが他の信徒との法的な争いを「聖徒」ではなく、正しくない人たちに持って行くのは、考えられないことだったのです。信徒たちの間に、法的判断を必要とするような正当な意見の相違が生じることはもちろんありますが、パウロが驚いたのは、クリスチャンがそういった問題を信者ではない裁判官に持って行ったことです。

    それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件[日常の生活に関わること(聖書協会共同訳)]などは、いうまでもないではないか。(1コリント6:2–3)

    パウロはやや皮肉を込めて、「聖徒は世をさばくものである」ことを、コリントの信徒たちは忘れてしまったのかとたずねています。イエスは、終わりの時になれば、ご自身の弟子たちが他を裁く役を担うようになると教えておられます。(マタイ19:28, 黙示録20:4) そのことは、教会がこのような問題を自分たちで解決できるべきであることを示していると、パウロは信じていました。

    彼はコリントの信徒たちに、クリスチャンは天使を裁くことになるのだと思い起こさせています。かつて、多くの天使たちが、神に反逆して自分たちの地位を失ってしまいました。(2ペテロ2:4) キリストの信者たちは、キリストが再臨される時に、これらの堕天使たちを裁くことになります。そういうわけだから、コリントの信徒たちはこのような些細な事柄を裁けるはずだということです。

    それだのに、この世の事件[日常の生活をめぐる争い(聖書協会共同訳)]が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。(1コリント6:4)

    パウロは、神の聖なる民を意味する「聖徒」の立場にあるコリントの信徒たちが、なぜ異教徒や非信者に裁きを求めようとするのか理解できませんでした。それで、コリントの信徒たちが、教会内での良い評判があまりない、またはまったくない者、さらには非信者でさえある裁判官に不満を持って行ったことに驚きを示したのです。

    わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。 (1コリント6:5–6)

    パウロは、そのような知恵が信徒たちの間に存在するものと思っていましたが、コリントの人たちはそのような人物を見つけることができませんでした。それどころか、互いに訴え合い、しかもそれを信者ではない人たちの前で行うという、信じられないことをしていたのです。

    そこには二つの問題が存在していました。第一に、クリスチャンが自分たち同士の民事上の争いにつき法律に訴えていたこと。第二に、信者でない人たちの前で訴え合っていたことです。パウロは、非信者によって制定されたその土地の世俗の法律は、信者間の争いを裁くための神の知恵に劣っているという点を指摘しました。クリスチャンは互いに兄弟姉妹であり、同じ霊的家族の一員です。その絆は、だまされた時の不満を上回るものであるはずです。

    そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。(1コリント6:7–8)

    パウロは、信徒が互いに民事訴訟を起こしていることに憂慮を示しています。クリスチャン同士が裁判沙汰を起こしていることは、教会の証と評判を傷つけました。コリントの信徒たちは、このように教会を傷つけることによって、他のクリスチャンから不当な扱いを受けたことによって以上に、自らに害を及ぼしていたのです。法廷での判決がどうあれ、クリスチャンは法的手続きに訴えること自体で敗北したことになります。

    教会内で訴訟を抱えていることは、コリントの信徒たちがクリスチャンとして生きるべき原則を見失っていることを示していました。キリストは、教会のメンバーたちに、互いに愛し合うことを教えています。「もしあなたがたが、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。」(ヤコブ2:8) クリスチャンは「互に仕え」るべきだし(ガラテヤ5:13)、各メンバーは、他のメンバーと調和して働くべきです。 (エペソ4:16) これらの理由から、一般的に言って、不当に扱われたり、騙されたりするほうが、互いに争うよりも良いということなのです。

    コリントの信徒たちは、正義と補償を要求しているという点だけではなく、もう一方の頬を差し出さなかったという点でも、過ちを犯していました。「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」(マタイ5:39) 「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。」(マタイ5:40) 彼らは過ちを犯しており、互いにだまし合い、不当な扱いをしていました。

    それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。(1コリント6:9–10)

    パウロは、神の国を受け継ぐことのできない者たち、すなわち不義な者、邪悪な者、不正を行う者のことを、彼らに思い出させています。彼は、不義を行う者たちが犯している罪を持ち出して、どんな人たちがいるのか、例を挙げています。これらの罪のほとんどは、当時のギリシャやローマの文化では、一般的なものでした。

    性的な罪については、以下の者たちに言及しています。(1)婚前または婚外の性的関係に関与している者。(2)偶像崇拝者。性的不品行と多くの異教とが密接に関係しているため。(3)姦淫をする者、つまり結婚相手以外と性的関係を持つ者。(4)男娼。異教の性的な宗教儀式に携わり、同性愛的関係を持っていました。

    この罪のリストは、第1コリント5章10–11節にあるものとよく似ています。パウロは、そのような生活を送る信者たちが、自分は本当に信仰を持っているのかどうか気にかけるべきであると示唆しています。また、そういった悪を行う者たちがクリスチャン同士のことを正しく裁くことはできないので、そのような人々に訴えを持ち込むことの愚かさを指摘しているのです。

    あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。(1コリント6:11)

    コリントの信徒の多くは、以前は罪深い生活を送っていましたが、キリストを信じることによって洗われ、清められ、神の前で無罪の宣言を受けました。世から分けられて、神との関係に入ったのです。この祝福は、信徒たちが救いを得るために主を呼び求め、主に寄り頼む時、「主イエス・キリストの名によって」もたらされます。それはまた、御霊がキリストの働きを信徒たちにさせていくにつれ、「わたしたちの神の霊によって」もたらされるものです。

    すべてのことは、わたしに許されている。[「すべてのことが私には許されている」と言いますが(新改訳2017)]しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。(1コリント6:12)

    「すべてのことは、わたしに許されている」という言い回しは、パウロがこの手紙の他の箇所でも使っているものです。(10:23) どうやら、この言い回しは、当時のコリント人の間で一般的に使われていた決まり文句で、さまざまな不法行為を正当化するために用いられたようです。この場合は性的不品行をしてもいいということで、後の方では偶像に捧げられた肉を食べることに言及したものです。

    パウロは、この決まり文句に対して二つの反論をしています。まず一方で、すべてが益となるわけではないと指摘しました。クリスチャンにどのような自由があろうとも、その選択が霊的に益となるのか、慎重に判断されなければなりません。クリスチャンにとって許されているものであっても、多くのことは、その人のキリストとの歩みや他の人の生活、あるいは教会に、悪い影響を及ぼす可能性があります。クリスチャンがどのような行動を取ろうかと考える際には、この点を常に考慮しなければなりません。

    パウロはまた、自分は「何ものにも支配されることはない」と述べています。性的欲求は、結婚関係においては、健全で良いものです。しかし、コリントの人たちは、自分の欲望のとりことなってしまいました。性的不品行にふける内に、自分の体を制御できなくなり、みずからの性欲に支配されるようになったのです。キリストを信じる者たちは、世俗的な欲望から解放されて、忠実に主に従うべきです。

    食物は腹のため、腹は食物のためである。[「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」と言いますが(新改訳2017)]しかし神は、それもこれも滅ぼすであろう。からだは不品行のためではなく、主のためであり、主はからだのためである。(1コリント6:13)

    この二つ目の決まり文句は、性的不品行を良しとするために使われたものであり、おそらく当時の一般的な決まり文句でもあったことでしょう。パウロの反応から言って、コリントの人たちは、食物は食べるためのものであるのと同様に、性的欲求は満たされるべきだという考えを正当化するために、この言い回しを周囲の文化から取り入れて用いていたものと思われます。この論法に基づき、彼らは性的不品行を生物学的に自然な流れとして擁護しました。つまり、肉体的な欲望や渇望を満たすのは自然であり、許されることだと。神が人間を性的な存在として創造されたのだから、性行為は適切で良いものであり、満たされるべき自然な欲求であるという考え方です。言うまでもなく、それにはいくらかの真実があります。性の喜びは自然なもので、神が計画されたものの一部ですが、この真理はあらゆる形の性的快楽を正当化するものではありません。

    パウロはこの決まり文句の適用の仕方に反論して、神は私たちの生き方を制限して導く権威を持っておられることを、コリントの人たちに指摘しています。食物が腹のためにあるというのは自然の秩序ですが、パウロは、神がその両方を滅ぼすと宣言しました。言い換えれば、神がいつの日か、現在知られているような自然の秩序を破壊するという事実は、生物学的機能が人間の道徳的義務を決定づけるものではないことを示しているということです。神は、人間がどのように行動すべきかを決定する究極の権威です。自然界全体の究極の支配者であり、その言葉が人間の生き方を規定するのです。

    その点をより明確にするために、パウロはコリント人の決まり文句に似たことわざで答えました。性的不品行は、自然な生物学的行為として正当化できないものです。なぜなら、人間の体は性的不品行のためではなく、主のためにあるからであり、主は体のためにおられるのです。神がキリストにおいて表れたことは、その自然の秩序が、単なる生物学的観察から明らかになっているものとは非常に異なることを明確に示しています。私たちの体とキリストとの間には、関係性があります。私たちは、自分の体をもって主に仕えることになっているし(ローマ12:1)、キリストは私たちの体をあがなってくださいます。

    そして、神は主をよみがえらせたが、その力で、わたしたちをもよみがえらせて下さるであろう。(1コリント6:14)

    パウロは読者に、キリストの復活について思い起こさせています。神は単にキリストの霊だけを死からよみがえらされたわけではありません。聖霊の力によって(ローマ1:4)、キリストの体をよみがえらされたのです。同じように、最後の審判の日に、神はすべてのクリスチャンの体を死からよみがえらせてくださるでしょう。将来、死人の中から体が復活するというクリスチャンの希望は、クリスチャンの体がキリストのものであり、キリストの奉仕のために用いられるべきであるという自然の秩序を示しています。

    あなたがたは自分のからだがキリストの肢体[キリストの体の一部(聖書協会共同訳)]であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。(1コリント6:15)

    パウロは、彼らの体がキリストの体の一部であることを思い起こさせています。彼の言葉は、クリスチャンが単に霊的にキリストと結びついているわけではないことを明らかにしています。そうではなく、彼らはその存在のあらゆるレベルでキリストと深く結びついており、肉体さえもキリストと結ばれて、地上におけるキリストの体の一部となっているのです。コリントの人たちは、神がいずれ肉体を滅ぼすので、肉体は重要でないとして、性的不品行の重大さを軽視していました。(6:13

    しかしパウロは、クリスチャンの体はすでにキリストの一部なので重要なのだと教えました。彼らの体は、永遠の世界だけではなく現世においても重要です。それどころか、クリスチャンの体はキリストと結びついているので、彼らが「遊女」と性的関係を持つなら、それはキリストをその行為に巻き込んでいることになります。体がキリストと結びついていることは、遊女と結びつくことが正当であるとは考えられないことを意味します。キリストの体の一部である者は、遊女と結びついてはなりません。

    それとも、遊女につく[遊女と交わる(新改訳2017)]者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。(1コリント6:16)

    パウロは、そこの信徒たちがすでに知っていたこと、すなわち、遊女と結びつく者は遊女と一つの体になることを指摘しました。そのような関係は、見かけほど軽いものではありません。そのため、パウロは自らの主張を裏付けるために、旧約聖書を引用しています。

    創世記2章24節は、アダムとエバが性的な結びつきによって「一体」となったことに関して述べられています。聖書の観点から見ると、結婚の絆を超えた性的関係でさえ、それに関与した者たちの体を一つにします。クリスチャンの体はキリストと結びついているため、クリスチャンが遊女と一つの体になる時、キリストをその遊女と性的に結びつけることになるのです。それによってキリストの聖さが損なわれることはありませんが、このことは、クリスチャンが非信者のように生きることはいかに不適切であるかを強調しています。

    しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。(1コリント6:17)

    パウロは、すでにクリスチャンの体がキリストの体の一部であると言いましたが(6:15)、ここでは、主と結びつくことによって、主と一つの霊になるのだと付け加えています。

    不品行を避けなさい[不品行から逃げなさい(塚本虎二訳)]。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。(1コリント6:18)

    パウロは、このセクションの結論を、「不品行から逃げなさい」という命令で始めています。おそらく、ヨセフがポテパルの妻から逃げたという例を念頭に、そう言ったのでしょう。(創世記39:7–12) パウロは、若き教会指導者テモテにも、同様のことを指示しています。(2テモテ2:22) パウロは、不品行に対して弱々しく抵抗するのではなく、その罪から離れるべきことを力説しました。

    彼の助言は、性的罪の特異性に基づくものです。性的結びつきには霊的な要素があるため、性的不品行は他の罪と対照的に、キリストに対して、また自分自身の体に対して犯される特異な罪となっています。多くの罪、たとえば薬物乱用や暴飲暴食、自殺は、体に有害な影響を及ぼします。パウロの言葉は、罪によって引き起こされる病気その他の悪影響を指しているわけではありません。そうではなく、それは第6章12–17節で取り上げたことに関連して述べられたものです。その箇所でパウロは、クリスチャンの体はキリストと結びつくことで、キリストご自身の一部となることを明らかにしていました。

    性的不品行は、その人の体を不適切な「一つの体」の結びつきへと導き、キリストとの神秘的な結びつきをあなどることによって、その人の体を侵害する行為です。そういった意味において、性的不品行は体に対する特異な罪なのです。それは、信者の肉体的存在に関するもっとも重要な事実、すなわち彼らの体がキリストのものであるということに反しています。

    あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。(1コリント6:19–20)

    パウロは、すでに教えたことに従うよう、コリントの信徒たちにここで再び訴えかけています。クリスチャンの体は、聖霊の宮です。御霊は信者の内に宿って、彼らの体を神の臨在が宿る聖なる場所とします。聖霊が信者の内に宿るということは、信者の体が聖別されて聖なるものとなり、キリストと一体となったという新しい性質を持っていることを示しています。キリストにある人が性的不品行に関わるなら、それは彼らの体の新しい性質やアイデンティティに反することです。クリスチャンは、良い行いをするためにあがなわれました。(エペソ2:10) したがって、彼らは自分の体を、罪のためではなく、善行や正しいことのために使うべきなのです。

    パウロはコリントの信徒たちに、彼らには自分の体に対する権利がないことを指摘しました。自分の体を好き勝手に使う自由はないのです。パウロは、キリストが代価を払って、すなわちご自身の血によって、彼らを買い取ったと力説しています。キリストは、彼らの罪のために十字架で苦しみ、死ぬという代価によって、彼らの体も魂も買い取られました。クリスチャンは主のものなので、主が禁じた方法で自分の体を使って主に逆らうという権利はありません。この買い取りは、あがないと救いをもたらすものであるため、反抗ではなく、感謝と従順を促すはずなのです。

    パウロはコリントの信徒たちに、自分の体をもって神を敬うよう指示しました。クリスチャンは、単に罪に抵抗するだけではなく、自らをキリストによって買い取られた神の宮とみなすべきなのです。キリストは信じる者のために死んであがないをなされたので、私たちは従順になって、主に敬意を払う義務があります。神が指示された方法で自分の体を使うことによって、神に栄光を捧げる方法を探すべきなのです。

    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。

     

  • 1月 30 第1コリント:第5章(1–13節)
  • 1月 17 第1コリント:第4章(15–21節)
  • 12月 20 第1コリント:第4章(6–14節)
  • 11月 26 キリストに従う者にとっての美徳: 忠実・誠実
  • 11月 12 第1コリント:第3章(3:18–4:5)
  • 11月 2 第1コリント:第3章(10-17節)
  • 10月 10 キリストに従う者にとっての美徳: 善意
  • 9月 24 キリストに従う者にとっての美徳: 親切
  • 8月 27 キリストに従う者にとっての美徳: 忍耐
   

信条

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  • ファミリー・インターナショナル(TFI)は、世界中の人々と神の愛のメッセージを分かち合うことをゴールとする国際的なオンライン・クリスチャン・コミュニティーです。私たちは、誰でもイエス・キリストを通して神との個人的な関係を持つことができると信じます。その関係があれば、幸せや心の平安が得られるだけではなく、他の人を助け、神の愛の良き知らせを伝えようという意欲がわいてきます。

私たちのミッション

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  • ファミリー・インターナショナルが何よりも目標としているのは、神の御言葉のうちに見出される、愛と希望、救いという命を与えるメッセージを分かち合うことによって、より良い人生を皆さんに送っていただくことです。ペースの速い、複雑化した現代社会にあっても、神の愛を日常生活の中で実践することこそ、社会の問題の多くを解決する鍵であると私たちは信じます。聖書の教えにある希望や助言を分かち合うことで、ひとりずつ心が変わって行くことによって、だんだん世界が変わって行き、より良い世界が築かれて行くと信じているのです。

理念

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  • 霊的な解決策

    私たちは、障害を乗り越え、対立を解決し、可能性を最大限に伸ばし、心をいやすという日々のチャレンジに対して、霊的な原則を適用します。また、霊的な富や知識を他の人たちと分かち合うように努めます。

TFI について

TFI オンラインは、ファミリー・インターナショナル(TFI)のメンバーのためのコミュニティサイトです。TFI は、世界各地で神の愛のメッセージを伝えることに献身する国際的なクリスチャン・フェローシップです。

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第1・第2テサロニケ
パウロがテサロニケの信徒に宛てた書簡の研究と、その教えがいかに現在に当てはめられるか
そのすべての核心にあるもの
キリスト教信仰・教義の基本を扱ったシリーズ