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  • ルツ物語(パート2)

    The Story of Ruth—Part 2
    March 9, 2026

    ピーター・アムステルダム

    オーディオ所要時間: 14:02
    オーディオ・ダウンロード(英語) (12.8MB)

    前回の記事の終わりで、ボアズはルツに、刈入れが全部終わるまで、彼の畑で落ち穂を拾っていいと言いました。そこでルツは、大麦と小麦の刈入れの間ずっと、他の女性たちと一緒にボアズの畑で作業を続けました。

    時にしゅうとめナオミは彼女に言った、「娘よ、わたしはあなたの落ち着き所を求めて、あなたをしあわせにすべきではないでしょうか。あなたが一緒に働いた女たちの主人ボアズはわたしたちの親戚ではありませんか。彼は今夜、打ち場で大麦をあおぎ分けます。それであなたは身を洗って油をぬり、晴れ着をまとって打ち場に下って行きなさい。ただ、あなたはその人が飲み食いを終るまで、その人に知られてはなりません。そしてその人が寝る時、その寝る場所を見定め、はいって行って、その足の所をまくって、そこに寝なさい。彼はあなたのすべきことを知らせるでしょう。」 ルツはしゅうとめに言った、「あなたのおっしゃることを皆いたしましょう」(ルツ3:1–5)。

    ナオミはルツの将来を案じていました。ルツの落ち着き先、安定の場、家庭を捜してあげたいと思ったのです。ボアズは、彼女らにとって買い戻しの権利のある親類なので、ルツの亡き夫(マロン)の名が残るように、ルツと結婚する責任がありました。ナオミは、その晩、ボアズが麦打ち場(脱穀場)で大麦をふるい分けるのを知っていたので、ルツに、体を洗って香油を塗り、一番いい衣(あるいは上着)をまとって行くよう言いました。ルツはおそらく、それまで服喪中であることを示す衣を着ていたのでしょう。別の衣をまとうことで、自分はもはや喪に服してはおらず、普段の生活に戻るのだということを示しています。

    そしてナオミは、ボアズが横になって眠るまで、姿を見られないようにしなさいと指示しました。ボアズは自分のもとで働く人たちと一緒にではなく、おそらく少し離れた特別の場所で寝ていたのでしょう。ルツは、ボアズが眠りについたら、彼の足の所をまくって、そこに寝るよう言われました。ナオミは、ボアズが起きて、足の所にルツがいるのを見た時、彼が彼女のすべきことを知らせると、確信を持って言いました。

    こうして彼女は打ち場に下り、すべてしゅうとめが命じたとおりにした。ボアズは飲み食いして、心をたのしませたあとで、麦を積んである場所のかたわらへ行って寝た。そこで彼女はひそかに行き、ボアズの足の所をまくって、そこに寝た(ルツ3:6–7)。

    食事をして、お酒も飲み、ボアズはいい気分になっていたことでしょう。寝る時間になると、彼は積み重ねてある麦の端の方に行って、そこで寝ました。ルツはボアズの寝場所を見届けた上で、彼が眠りについてからそこへ行き、足の所をまくって(足は夜の空気にさらされたことでしょう)、ボアズの足の所に寝ました。

    夜中になって、その人は驚き、起きかえって見ると、ひとりの女が足のところに寝ていたので、「あなたはだれですか」と言うと、彼女は答えた、「わたしはあなたのはしためルツです。あなたのすそで、はしためをおおってください。あなたは最も近い[買い戻しの権利のある(新改訳2017)]親戚です」(ルツ3:8–9)。

    ルツは自分が誰なのかをボアズに明かすにあたり、「あなたは買い戻しの権利のある親戚です」と告げています。ボアズとルツのこの接触は性的なものだったと推測する人もいますが、ESV訳聖書の注釈では、このように説明されています。「彼の『足の所』(ヘブル語でマルゲロー)とは、性的接触の婉曲表現だとされることがありますが、それを裏付ける証拠はないし、そのような捉え方はこの物語では不適切なものとなります。」

    ボアズは「買い戻しの権利のある親戚」の責任を理解していました。それは、ルツと結婚することです。そして、息子が生まれたら、その子は、彼女の最初の夫でありナオミの息子であるマロンの子とみなされます。

    ボアズは言った、「娘よ、どうぞ、主があなたを祝福されるように。あなたは貧富にかかわらず若い人に従い行くことはせず、あなたが最後に示したこの親切は、さきに示した親切にまさっています。それで、娘よ、あなたは恐れるにおよびません。あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう。わたしの町の人々は皆、あなたがりっぱな女であることを知っているからです。たしかにわたしは近い[買い戻しの権利のある]親戚ではありますが、わたしよりも、もっと近い親戚があります」(ルツ3:10–12)。

    ボアズは、気が進まないとか、ためらったとかいうことはなく、むしろ、ルツとの結婚に積極的で、彼女が神から祝福されるように祈りました。ここでもまた、ルツを「娘」と呼んでいるので、年齢はかなり離れていたはずです。ボアズは、「あなたが最後に示したこの親切は、さきに示した親切にまさっています」 と言いましたが、おそらく、ルツがナオミの世話をしてきたことを「さきに示した親切」と言ったのでしょう。ボアズの頭の中では、ルツが彼との結婚を選んだ優しさは、彼女がナオミのためにしたすべてのことにもまさる優しさだったのです。

    ボアズは、ルツの求め通りにすることを承諾しました。しかし、2人の間に立ちはだかる障壁がありました。彼女の亡き夫には、ボアズよりも近い親戚がいたので、ルツと結婚する責任を有しているのはその人だということです。もし、その人がルツと結婚しないことを選んだなら、ボアズがその次に近い親戚で、彼女と結婚すべき人になります。

    「今夜はここにとどまりなさい。朝になって、もしその人が、あなたのために親戚の義務をつくすならば、よろしい、その人にさせなさい。しかし主は生きておられます。その人が、あなたのために親戚の義務をつくすことを好まないならば、わたしはあなたのために親戚の義務をつくしましょう。朝までここにおやすみなさい。」 ルツは朝まで彼の足のところに寝たが、だれかれの見分け難いころに起きあがった。それはボアズが「この女の打ち場にきたことが人に知られてはならない」と言ったからである。そしてボアズは言った、「あなたの着る外套を持ってきて、それを広げなさい。」 彼女がそれを広げると、ボアズは大麦六オメルをはかって彼女に負わせた。彼女は町に帰り …(ルツ3:13–15)。

    そのように決断した上で、ボアズはルツに、朝まで自分の足の所で休みなさいと言いました。ルツが行く前に、ボアズは大麦を6杯量って、それを彼女に与えました。万が一、誰かがそんなに朝早くルツを見かけたとしても、彼女は穀物を買って家に帰るところだと思われたことでしょう。

    [ルツが]しゅうとめのところへ行くと、しゅうとめは言った、「娘よ、どうでしたか。」 そこでルツはその人が彼女にしたことをことごとく告げて、言った、「あのかたはわたしに向かって、から手で、しゅうとめのところへ帰ってはならないと言って、この大麦六オメルをわたしにくださいました。」 しゅうとめは言った、「娘よ、この事がどうなるかわかるまでお待ちなさい。あの人は、きょう、その事を決定しなければ落ち着かないでしょう」(ルツ3:16–18)。

    ナオミはルツに、事の次第がはっきりするまで、辛抱強く待っていればいいと言いました。彼女はその日の内に決着がつくと確信していましたが、二人とも、結果が分かるまで待っていなければならなかったのです。一方、ボアズはルツと結婚できるように手配をするため、動き出しました。

    ボアズは町の門のところへ上っていって、そこにすわった。すると、さきにボアズが言った親戚の人が通り過ぎようとしたので、ボアズはその人に言った、「友よ、こちらへきて、ここにおすわりください。」 彼はきてすわった。ボアズはまた町の長老十人を招いて言った、「ここにおすわりください。」 彼らがすわった時 …(ルツ4:1–2)。

    古代において、町の門ではよくビジネスや法的取引が行われたり、人々が集まって交流したりしていました。買い戻しの権利のある人が来たので、ボアズは彼に座ってくれるよう頼みました。それから、門のところにいた町の長老10人を連れて来て、これから起こることの証人になるために、一緒に座るようお願いしました。

    ボアズは親戚の人に言った、「モアブの地から帰ってきたナオミは、われわれの親族エリメレクの地所を売ろうとしています。それでわたしはそのことをあなたに知らせて、ここにすわっている人々と、民の長老たちの前で、それを買いなさいと、あなたに言おうと思いました。もし、あなたが、それをあがなおうと思われるならば、あがなってください。しかし、あなたがそれをあがなわないならば、わたしにそう言って知らせてください。それをあがなう人は、あなたのほかにはなく、わたしはあなたの次ですから。」 彼は言った、「わたしがあがないましょう」(ルツ4:3–4)。

    ボアズは早速本題に入り、買い戻しの権利のあるその人に、ナオミとルツ、そしてエリメレクの所有地の状況を知らせています。というのも、その人が一番近い親族として、所有地を買い取る資格があったからです。最も資格のあるその人は、土地を買い取ることに最初は同意しましたが、買い取りに条件があることにまだ気づいていません。その点について、ボアズがさらに説明します。

    そこでボアズは言った、「あなたがナオミの手からその地所を買う時には、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買って[引き受け(新改訳2017)]、死んだ者の名を起してその嗣業を伝えなければなりません。」 その親戚の人は言った、「それでは、わたしにはあがなうことができません。そんなことをすれば自分の嗣業をそこないます。あなたがわたしに代って、自分であがなってください。わたしはあがなうことができませんから」(ルツ4:5–6)。

    ルツの説明をするにあたり、ボアズは彼女を「死んだ者の妻」、また「モアブの女」と呼んでいます。おそらく、その人が土地を買い取ってルツと結婚するのはいい考えではないと思わせようとしたのでしょう。ナオミの世話をし、ルツと結婚しなければならないとなれば、彼の生活やすでに持っている土地の面で、話がややこしくなってきます。そこで、考えを改め、買い戻しの権利をボアズに譲りました。そして、それを正式な決定とするために、法的取引における当時の慣習に従い、自分の履物をボアズに渡しました(ルツ4:7–8)。

    その親戚の人が土地の買い取りを断った後、ボアズは取引の証人である長老たちと、そこに集まっていた「すべての民」に話しかけ、ナオミの夫エリメレクとその息子たちの所有地を買い取ること、そして、ルツと結婚することを宣言しました(ルツ4:9–10)。

    すると門にいたすべての民と長老たちは言った、「わたしたちは証人です。どうぞ、主があなたの家にはいる女を、イスラエルの家をたてたラケルとレアのふたりのようにされますよう。どうぞ、あなたがエフラタで富を得、ベツレヘムで名を揚げられますように。どうぞ、主がこの若い女によってあなたに賜わる子供により、あなたの家が、かのタマルがユダに産んだペレヅの家のようになりますように」(ルツ4:11–12)。

    長老たちと共に町の門にいた人たちは、自分たちが、ナオミに属するすべての物をボアズが買い取ったことの証人であると言いました。また、3つの祝福を与えましたが、それはおそらく長老の中の代表者が行ったのでしょう。1つ目は、ルツが、2人合わせて12人の息子がいたラケルとレアのように多くの子を授かれるように。2つ目の祝福は、ボアズがこの新しい家族の家長として繁栄し、その名がイスラエルで絶えることなく残り続けるようにとのことです。3つ目の祝福は、今はまだ妊娠もしていないけれど、ボアズとルツにいずれ生まれることになるオベデという子どもに関連しています。

    2人が結婚してまもなく、ルツは妊娠し、男の子を産みました(ルツ4:13)。

    そのとき、女たちはナオミに言った、「主はほむべきかな、主はあなたを見捨てずに、きょう、あなたにひとりの近親[買い戻しの権利のある者(新改訳2017)]をお授けになりました。どうぞ、その子の名がイスラエルのうちに高く揚げられますように。彼はあなたのいのちを新たにし、あなたの老年を養う者となるでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人のむすこにもまさる彼女が彼を産んだのですから。」 そこでナオミはその子をとり、ふところに置いて、養い育てた。近所の女たちは「ナオミに男の子が生れた」と言って、彼に名をつけ、その名をオベデと呼んだ。彼はダビデの父であるエッサイの父となった(ルツ4:14–17)。

    ナオミがかつて非常に虚しく感じていたこと(ルツ1:19–20)を知っていたベツレヘムの女性たちは、ここで賛美と祈りを捧げています。ナオミを見捨てず、買い戻しの権利のある者を与えてくださったことで、主を賛美し、イスラエル中でその子の名が上げられるようにと祈ったのです。また、ナオミに対して無条件の愛を示してきた嫁のルツを称賛し、彼女は「七人のむすこにもまさる」と言いました。

    その子はオベデ(しもべ、仕える者という意味)と名付けられましたが、それはおそらくオバデヤ(主のしもべという意味)を短くしたものでしょう。そして、オベデはエッサイの父となり、エッサイはダビデ王の父となったので、ルツはダビデの曽祖母ということになります(ルツ4:18–22)。

    ある著者は、ルツ記を要約して、このように述べています。「最終的に神はすべての障害を克服して、虚しさを感じていたナオミを豊かな人生に導き、独身のボアズを幸せな結婚生活に導き、異国出身のやもめルツをイスラエルで最も偉大な王の曾祖母という立場に導かれたのです。」[1]

    初版は2022年11月 2026年3月に改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー


    1 W. Gary Phillips, Holman Old Testament Commentary, Judges and Ruth (B&H Publishing Group, 2004), 353.

  • 3月 18 信仰にもとづいて歩む
  • 3月 14 ルツ物語(パート1)
  • 3月 9 永遠の現実性
  • 3月 4 赦すようにとの呼びかけ
  • 2月 28 愛とは
  • 2月 24 永遠にわたる驚異
  • 2月 20 神の導きに従う
  • 2月 16 塩となれ、光となれ
  • 2月 12 キリスト教が及ぼした影響: 労働と科学的発見
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 弟子の生き方(パート3): キリストにとどまる

    [The Life of Discipleship, Part 3: Abiding in Christ]

    September 16, 2025

    キリストにとどまることは、弟子としての歩みにおいて重要な要素です。それには、自分の全存在をもって神を愛し、御言葉を学んでそれにとどまり、その原則に従って人生を整え、イエスの教えと手本に従うことが含まれます。

    イエスは死の前夜、告別説教の中で、イエスにとどまる必要性と、その結果として得られる祝福や益について、弟子たちに語られました。ご自身と密接なつながりを保つことの重要性と、そうすることで私たちは実を結ぶようになるのだということを、強調されたのです。弟子は実を結ぶように定められており、そうすることによって神は栄光をお受けになるのだと、イエスはヨハネ15章で説明しておられます。

    わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです (ヨハネ15:4–5, 8 新改訳2017)。

    イエスはさらに、ご自分を愛することと戒めを守ることとの関連性や、ご自身にとどまっていることで与えられる祝福と喜びを明らかにされました。

    父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました (ヨハネ15:9–11 新改訳2017)。

    もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう (ヨハネ14:23)。

    イエスは、「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」と言って(ヨハネ14:15)、主への愛と、主の教えへの従順とを、明確に結びつけられました。この箇所で「守る」と訳されているギリシャ語は、「注意深く従う、遵守する」、という意味です。つまり、私たちがイエスを愛するなら、イエスの教えを守り、それに従い、その原則を自分の生活に適用するということです。イエスへの愛は、イエスの言葉を守り、実践し、その原則に基づいて生活する姿に現れます。

    ヨハネの福音書には、イエスの言葉の内にとどまることが、弟子であることの決定的な要素だと記されています。「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである」、とイエスが言われたとおりです(ヨハネ8:31)。もっとも、イエスの厳しい教えの中には、口で言うほど簡単ではないものもあります。たとえば、「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」(ルカ14:27)や、その数節後の「自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない」(ルカ14:33)といった言葉です。

    イエスはこれらの聖句で、神の召命に耳を傾け、神に従い、神の御心を行うことが何よりも重要である、という霊的な原則を示されました。私たちに、人生のすべてを主に捧げ、救いについて主だけを信頼し、その上で弟子として主に従う事を求めておられるのです。イエスが「わたしについて来なさい」と言われるとき、ついてくるようあなたに呼びかけておられるその道は、あなたにとっての弟子の道です。それは、固有の道であって、イエスについて行く者一人ひとりに、それぞれ他とは異なる道が与えられています。ここで原則となっているのは、弟子は神に属しており、その忠誠は第一に神に捧げられるものだということ、そして、心と精神と思いを尽くして神を愛し、神に従うということです。

    主は全員に同じ形の奉仕や同じ弟子の資質が現れることを求めないし、主の子どもたち全員に同じコミットメントや犠牲を求めたりされません。歴史を通じて、異なる状況下で主のために偉大な仕事をした人々の例はたくさんあります。海外の宣教地、政府、事業、裕福な家庭、病床、貧困、物理的に切迫した状況などにいた人もいれば、教壇に立った人、世界的に有名だった人、そして多くの陰の英雄がいます。クリスチャンとしてのコミットメントと弟子の資質を示すテスティモニーに共通した、私たちを発奮させ、意欲を高めてくれることとは、イエスへの愛と主の召しへの忠実さです。

    主が私たち一人ひとりを、どんな形で主に従い仕えるよう求められるとしても、「イエスにとどまる」という原則は、イエスとの永続的な関係を絶えず育んでいくことを指します。イエスは弟子たちに、ご自身の内にとどまり、イエスの言葉を彼らの内にとどまらせ、教えに従うよう求められました。そして、そうするとき、私たちはイエスの愛の内にとどまって実を結ぶようになり、弟子である私たちに主が与えてくださる喜びが私たちの内にとどまるのです。

    単なるコーヒーブレイク以上のもの

    イエスは、私たちがご自身の内にとどまっているべきだと言われました。イエスから離れては、私たちは何もできないからだと(ヨハネ15:4–5)。私たちの多くは、イエスとの「コーヒーブレイク」なら喜んでとろうとしますが、「とどまる」とは、そういった短い訪問以上の意味を持ちます。「とどまる」と訳された言葉は、ギリシャ語の原語では「住む、存続する」という意味です。… 神の臨在の内にとどまるとき、神は御心をさらに明らかにしてくださいます。ご自身について、またあなたの人生に対する計画と目的について、より深い啓示を与えてくださるのです。…

    [私たちは、]人生の最優先事項として、神に自分を捧げる[必要があります]。仕事から、無益なことで時間をつぶす行為(例えば、テレビの前で何時間も過ごすこと)に至るまで、そういった私たちの気を散らすものを脇に置くとき、神は私たちの霊的な力を増し加えてくださいます。主の御前を歩むなら、神はあなたを霊的に強健にしてくださるのです。イザヤもこう書いています。「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(イザヤ40:31)。—K・A・ポール [1]

    つながる

    J・C・ライルは、キリストにとどまることを、「主との絶え間ない親密な交わりの習慣」と表現しています。細胞が癒合して、ぶどうの木にしっかり接着するまで、接ぎ木された枝がテープで人為的に固定される必要があるように、こうした習慣も、最初は不自然に感じられるかもしれません。

    しかし、そういった習慣そのものではなく、その目的である「命の源であるキリストにとどまり、つながっている」ことに焦点を合わせていれば、時間とともにより自然にできるようになり、生涯にわたるキリストとの結びつきを育むことになります。

    この習慣には、以下のようなものがあります。

    • 御言葉を通して語られる神の声に耳を傾け、神とつながること。
    • 祈りを通して御言葉に応答し、神と交わること。
    • 私たちへの神の大きな愛を思い出させる福音の真理を、繰り返し心に刻むこと。
    • あらゆる状況で神を必要としていることを、常に意識すること。
    • 自力で問題を解決しようとする誘惑に駆られるときに、神を信頼すること。
    • 神の道が自分の道と異なって見えるときにも、罪を避けることであれ、善を追い求めることであれ、従順に神に従うこと。
    • 大勢の聖徒たちと共に、忍耐を貫き、救い主に目を留めつつ、競走を走り抜くこと(ヘブル12:1–2)。—ベラ・クリスチャン [2]

    神の言葉にとどまる

    イエスにとどまることについて、大切な要素とは、御言葉を読み、学び、黙想し、暗記することです。神は、聖書を通してご自身を私たちに啓示されました。私たちは聖書に書かれたことから、神について、また、人類に対する神の愛や私たちのための救いの計画について、学びます。神は、私たちへの愛を語り、不完全で限界のある存在である私たちがどのように神との関係を築けるかを示しておられます。聖書を読むことで、私たちはイエスの教えに耳を傾け、その愛の模範を見ます。そして、私たちのために捧げられたイエスの犠牲により、生まれ変わって神の子どもとなるよう促されます。

    御言葉にとどまればとどまるほど、また、御言葉を私たちの内にとどまらせればとどまらせるほど、どうすれば御心に従って神とその愛を映し出す生き方ができるかについて理解が深まり、学びと成長が進みます。毎日、聖書やデボーション資料を読むために時間を取ることで、私たちは読んだものを通して主に語っていただき、主の教えと導きを受け取り、人生の問題や困難を切り抜けるための助けを得られるようになるのです。御言葉は、私たちが従うべき道徳的規範を知らせ、決断すべきときに導きを与えてくれます。

    御言葉にとどまるにつれ、主が私たち一人ひとりに与えられた価値と、すべての人間に対して抱いておられる愛と憐れみに、ますます気づくようになります。聖書に書かれた真理を吸収して、日々の生活に適用するにつれ、私たちは人生の錨を主の内に下ろすようになります。そして、イエスが語られたたとえ話に出てくる、岩の上に家を建てた賢い人のようになるのです。雨が降り、風が吹いて家に打ち付けても、その家は倒れませんでした。岩を土台としていたからです。イエスはこのたとえの要点を、次のように語っておられます。「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう」(マタイ7:24–27)。

    神が御言葉の中で私たちに語られたことを読む時間を毎日取ることは、日々押し寄せる情報とインプットの渦を無事通り抜けるための道を与え、真理と偽りを見分ける霊的能力を高めてくれます。すると、神の御心にかなった生き方をする上で大切なことを心の軸にすることが、もっと容易になります。それは、人生が私たちにもたらすあらゆるものを耐え抜き、克服する助けとなるのです。

    毎日、神の言葉を読んで学ぶ時間を確保するのは簡単ではありません。それには自己鍛錬を要します。しかし、普段から聖書を読み、神と交わる時間を取ることは、私たちを霊的に強め、神の真理と愛に根差した、より強いクリスチャンへと成長させます。イエスは、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」と言われました(ヨハネ6:63)。御言葉を読むことで築かれる神とのつながりは、他者との相互関係や、意思決定において御霊に導かれることを助け、日々の誘惑に直面しても強くあれるようにしてくれます。

    キリストにとどまりたいのなら、私たちは主とその言葉と共に過ごす時間を取る必要があります。常日頃から御言葉の水を心に深く吸収することによって、私たちは次第に新たにされ、変えられて、もっとイエスに似た者とされていくのです。私たちが読み、黙想した御言葉を実践することで、神の御心に沿った人生を生きるための恵みが与えられます。なぜなら、神の言葉は私たちの足の灯火であり、私たちの道の光だからです(詩篇119:105)。

    とどまることを学ぶ

    ヨハネ15章10節まで来ると、イエスにとどまるとはどういうことかがわかってきます。「わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです」(新改訳2017)。 イエスにとどまるとは、イエスの戒めを守ることを意味し、その戒めを守るとは、心と精神と思いを尽くして神を愛し、自分自身のように隣人を愛することです(マタイ22:37–39)。神への愛を示すには、神への信頼と祈りと献身を通してそうするのが一つの方法です。私たちは関係を持つことで、とどまります。愛をもって追い求めます。愛をもって祈ります。愛をもって従います。

    そして、ここに良い知らせがあります。私たちがイエスを愛するのは、イエスがまず私たちを愛してくださったからなのです(1ヨハネ4:19)。 私たちが主を選んだのではありません。主に従順になって信仰の道を歩めるよう、主が私たちを選んでくださったのです(ヨハネ15:16)。キリストから離れては、私たちは何一つできません(ヨハネ15:5)。これはまた、キリストを追い求めて知るためには(そしてイエスが強調されたように隣人を愛するためには)、自分の力を振り絞らねばならないと思いこんで疲れ果ててしまった人にとっても、良い知らせです。恵みも力も、主が与えてくださるのです。…

    イエスは、友のために命を捨てることほど大きな愛はないと、私たちに思い起こさせておられます。そして、続けてこう言われたのです。「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ15:13–14)。

    イエスは、愛せよというイエスの戒めに従うなら、私たちはイエスの友なのだと言われます(この言葉をちょっと噛み締めてみてください)。そして、その戒めは、「とどまる」ことによって全うされるのだと。… そして、イエスの友となれるというこの申し出、すなわち、私たちの信仰の創始者にして完成者、アルファでありオメガである方、美しいお方、私たちの罪と背きとを身に負われたお方、そんなお方の友となれるというこの申し出は、クリスチャンにとって非常に魅力的なものです。

    イエスにとどまりなさい。そうすれば、イエスもあなたの内にとどまってくださいます。あなたの内に良いわざを始められた方は、それを完成してくださいます(ピリピ1:6)。あなたを召された方は、真実です。必ずそれを成し遂げてくださるのです(1テサロニケ5:24)。—トリリア・ニューベル [3]

    「あなたがわたしにとどまり、わたしがあなたの内にとどまる」というこの原則は、神との関係やキリストとの歩みの土台であり、心と精神と思いを尽くして神を愛するという原則と関係しています。誰かを愛していれば、その人と時間を過ごしたいと思うものです。弟子は、イエスが歩まれたように歩むよう召されています。ヨハネの第一の手紙にはこうあります。「神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません」(1ヨハネ2:6 新改訳2017)。その方法とは、イエスが示された模範に従おうと努め、イエスの言葉と行動にある原則を学び、それを人生に適用することです。

    イエスは人間の姿となり、人間として生き、しかも罪なく完全にそうされたことで、私たちに模範を示してくださいました。ピリピ人への手紙には、「キリストは、神のかたちであられたが、… 僕のかたちをとり、人間の姿になられた」とあります(ピリピ2:6–7)。地上でのイエスの生涯は、神が人間として生きる姿そのものであり、まさに模範でした。「神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ」てくださったのです(コロサイ1:19 新改訳2017)。私たちの人生の手本として、イエスの生涯と教え以上に優れた模範があるでしょうか。これ以上のロールモデル、これ以上に優れた指針があるでしょうか。

    噛みしめるべき言葉

    「キリストにとどまる」という表現は、単に表面的な知り合い関係ではなく、親密で近しい関係を表しています。ヨハネ15章4–7節で、イエスはぶどうの木につながれた枝のたとえを用いて、弟子たちに、ご自身から命を得ることが不可欠だと語られました。救いによってもたらされる、この極めて重要なキリストとの結合がなければ、命も実りもないのです。—Got Questions [4]

    イエスの健全な弟子であるためには、神の言葉に養われることを最優先しなければなりません。イエスはそれを「とどまる」と表現されました。… 聖書の言葉を日々黙想することほど、あなたの人生を変え、イエスに似た者へと造り変えることのできる習慣はありません。神の真理を深く思い、キリストの模範に真剣に従うとき、私たちは「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」のです。—リック・ウォレン

    [キリスト]にとどまるとは、イエスの言葉を受け入れ、信じ、信頼することです。それは、御父とご自分の民に対するイエスの愛、そして、御父と私たちに対してイエスが抱いておられる喜びを受け入れることを意味します。—ジョン・パイパー

    聖書は何と言っているか

    「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(1ヨハネ4:16 新共同訳)。

    「だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません」(1ヨハネ2:5–6 新改訳2017)。

    「あなたがたは … 上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである」(コロサイ3:1–3)。

    とどまり続けるための祈り

    イエスさま、あなたがぶどうの木で、私がその枝であることを感謝します。日々あなたにとどまり、言葉と行いのすべてにおいて実を結べるよう助けてください。私は、あなたなしには何もできないことを知っています。そして、あなたの内に安らぐなら、父なる神に喜ばれる実を結ぶことができることも知っています。私はあなたとつながり、あなたの内に安らぎ、あなたにとどまり続けたいのです。アーメン。[5]


    1 K. A. Paul, Left for Dead (Encourager Media, 1997).

    2 Vera Christian, “How to Abide in Christ,” https://www.verachristian.com/connecting-the-dots/how-to-abide.

    3 Trillia Newbell, “Learning to Abide in Christ,” Desiring God, June 10, 2014, https://www.desiringgod.org/articles/learning-to-abide-in-christ

    4 “What Does It Mean to Abide in Christ?” GotQuestions.org, https://www.gotquestions.org/abide-in-Christ.html.

    5 “Prayers on Abiding in Jesus,” Knowing Jesus, https://prayer.knowing-jesus.com/Prayers-on-Abiding-in-Christ#.

     

  • 2月 1 第1コリント:第13章(1–13節)
  • 12月 30 第1コリント:第12章(12–30節)
  • 11月 11 第1コリント:第12章(1–11節)
  • 11月 4 弟子の生き方(パート2): 私たちの全存在をもって神を愛する
  • 10月 28 第1コリント:第11章(17–34節)
  • 9月 2 第1コリント:第11章(2–16節)
  • 8月 26 弟子の生き方: 前書き
  • 8月 19 第1コリント:第10章(16–33節)
  • 7月 29 第1コリント:第10章(1–15節)
   

信条

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