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  • 父の食卓で座る位置

    A Place at the Father’s Table
    November 11, 2024

    ピーター・アムステルダム

    オーディオ所要時間: 7:01
    オーディオ・ダウンロード(英語) (6.4MB)

    ルカによる福音書14章は、イエスが安息日にパリサイ人(ファリサイ派)のある指導者の家へ食事に招かれた話で始まります。イエスは到着すると(家に入る前に水腫を患っている男を癒やしてから)、たとえを語られました。

    客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって、彼らに一つの譬を語られた。「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。」(ルカ14:7–9)

    イエスの時代の地中海世界には、食事の際に誰がどこに座るかについて、重要な決まり事がありました。特に婚宴のように大きな行事の際はそうです。そのような時には、客の地位や名声により、食卓の上座(上席)から見てどの位置に座るかが決まります。最高の栄誉を受ける人が上座に座り、他の主だった人たちはその近くに座ります。当時にあっては、地位や社会階級、そして正しい礼儀作法が極めて重要であり、客を間違った席に座らせることによってその人の名誉を汚すことは、極めて無礼で侮辱的なことでした。

    晩餐に招かれた人たちの何人かが上位の座席に着こうとしていることにイエスは気づかれました。彼らはユダヤ教徒だったので、以下の箴言はよく知っていたことでしょう。「王の前で自ら高ぶってはならない、偉い人の場に立ってはならない。尊い人の前で下にさげられるよりは、『ここに上がれ』といわれるほうがましだ。」(箴言25:6–7)

    このたとえを話すことによって、イエスは同様の原則に光を当てられました。先を争って上座に着こうとする人は、後になってから、自分よりも身分が高く、その席に着くにふさわしい人が到着するかもしれないというリスクを冒しています。主催者は、より名誉ある客を下位の座席に着かせることはしません。それは礼儀作法に甚だしく反することです。

    そのような場合、主催者に唯一できることは、上座に座る資格がないのにそうしてしまった人に話をして、下位の座席に移動するよう促すことです。その頃までには他の客もすでに席に着いているので、空いているのは最末座となることでしょう。厚かましくも勝手に上座に着いていた人は、立ち上がって、皆の見ている前で恥をかきながら、最末座まで歩かざるを得なくなります。

    イエスは話を聞いている人たちに、それとは反対のことをすべきであると言われました。

    「むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこす[誉れを得る]ことになるであろう。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(ルカ14:10–11)

    イエスは、謙虚になって末座に着いた方がよく、そうすれば主催者が上座の方のもっといい席に座らせてくれるかもしれないとおっしゃいました。それによって、自分を偉そうに見せて恥をかく代わりに、他の客の前で誉れを得るのです。

    イエスは、謙虚になることが最善の道であることを示しており、それは福音書の他の箇所でも、次のように教えておられるとおりです。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるため … であるのと、ちょうど同じである。」(マタイ20:26–28) また、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」(マタイ18:4 新共同訳)

    謙虚さに関するイエスの教えの反映は、次のように、新約聖書全体を通して見られます。「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う。 … 主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。」(ヤコブ4:6,10) 使徒たちは、信者に次のように促しています。「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。」(ピリピ2:3) 「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。」(1ペテロ5:5)

    厚かましくも最上座を選んだために、人前で恥をかく羽目になった例の客について説明した後、イエスはご自身を食事に招いた人に、次のように言われました。

    「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう。」(ルカ14:12–14)

    (当時はイスラエルも含まれていた)ローマ社会においては社会的信望が著しく重要であったため、晩餐の席に、将来向こうから自分を招いて返礼してくることを期待できるような「適切な」客を招待するのが通例でした。それは現代でも珍しいことではありません。イエスは、晩餐の主催者であるパリサイ人や招待客が、自分の利益のための返礼の連鎖に捕らわれていることに気づかれたことでしょう。

    そこでイエスは、より神の御心にかなった方法を示されました。お返しすることが期待される友人や兄弟、親族、金持ちを招待するのではなく、むしろ返礼のできない人たちこそ招待されるべきであると教えられたのです。そして、返礼を期待されるその4種類の人たちと対照的に、困窮している4種類の人たちを挙げられました。貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人、です。

    このようにイエスは、何らかの形でお返しされることを期待せずして、人をもてなすべきことを示されました。その方が、お返しで成り立つ「返礼制度」よりもいい方法なのだと。心から惜しみなく与えたいということだけを動機とするなら、神はそれを喜ばれます。イエスは、そのような与え方をする人は幸いになるし、次の世において報われると言われました。(報いを受け取ることを動機としているわけではありませんが。) 親切と犠牲の行いは、他の人へのイエスの愛と憐れみを反映しており、また、イエスへの私たちの愛が結ぶ実なのです。

    初版は2018年7月 2024年11月に改訂・再版 朗読:ジョン・マーク

  • 11月 11 愛のカラー
  • 11月 5 ザレパテのやもめ: 希望の物語
  • 10月 30 神がすぐに癒やしてくださらない時
  • 10月 24 神と共に歩む
  • 10月 18 クレマチスのつる
  • 10月 12 乏しい時も豊かな時も満足する
  • 10月 9 死は終わりではない
  • 10月 3 時事問題:さまざまな推測と意見
  • 9月 27 人の子の来臨
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第3章(3:18–4:5)

    [1 Corinthians: Chapter 3 (verses 3:18–4:5)]

    July 23, 2024

    本記事では、第1コリント第3章の最後の6節、そして、同じトピックを扱う第4章の最初の5節を見て行きます。

    だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。[1]

    パウロがコリント教会の信徒たちにこのように書いたのは、コリントの住民が自分たちは賢いと思っていることを、パウロは知っていたからです。しかし、神の目から見て賢い者になるということは、この世においては愚か者になるということです。

    パウロはまず、コリントの信徒たちに、彼らは自分が賢いと思っているかもしれないけれど、実際には自分を欺いているのだと指摘します。神の見方は、彼らの見方とは異なります。彼らはクリスチャンとして、「キリストの思い」[2] を持つ必要があるのです。

    パウロはこの章の前の方で、教会はただキリストという土台の上にのみ建てられるべきであると指摘した上で、終わりの日になれば主の審判によって、間違った建て方をした者には裁きが与えられ、正しい建て方をした者には報酬が与えられるということを語っていました。ですから、神の前で自分がどのような立場にあるのかについて、自分を欺くのは深刻なことであるとみなされるべきなのです。審判の日が来て、自分は「立っている」と思っていたのに、実際にはそうでなかったことが判明した時、それは衝撃的な発見となることでしょう。

    パウロは続けて、こう書いています。

    なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」と書いてあり、更にまた、「主は、知者たちの論議[思い計ること]のむなしいことをご存じである」と書いてある。[3]

    パウロは、先に語っていた「神の知恵[十字架につけられたキリスト]は、この世にとっては愚かなものだ」[4] ということを逆の方向から表現して、ここでは、「この世の知恵は、神の前では愚かなものだ」と書いています。自分たちの知恵の愚かさを示されたコリントの信徒たちは、人間の知恵は愚かなものなので、神の見方で物事を見るよう促されています。

    引用されている聖句の最初のものは、ヨブ5章13節の「彼は賢い者を、彼ら自身の悪巧みによって捕え …」です。それはエリパズが、神の前では誰も正しくあり得ないと(誤って)主張している箇所からです。彼はまた、神の前に正しくない者は「知恵もなく 」滅びると、正しく語っています。[5] そして、「愚かな者」(神の御心を行わない者)はねたみによって死に至ると語っています。[6] その後に、こう語っているのです。「[主は]悪賢い者の計りごとを敗られる。… 彼は賢い者を、彼ら自身の悪巧みによって捕え …。」[7] エリパズはヨブに、自分の主張を神に委ねるよう促しており、それはまさにパウロが、自分を欺いているかもしれない人々に言っていることです。

    パウロが2つ目に引用している聖句は詩篇94篇11節からで、言葉を若干変えています。詩篇にはこうあります。「主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。」[8] 一方、パウロはこう書いています。「主は、知恵のある者の思い計ることがいかに空しいかを、知っておられる。」(1コリント3:20 新改訳2017) パウロは、人間の計画や考えはすべて空しいと指摘しており、神はそれが永続的な価値をもたらすものではないとご存知なのです。神の知恵と計画は、この世の思いや計画、知恵とは対照的です。

    だから、だれも人間を誇ってはいけない。[9]

    十字架につけられたキリストのメッセージを理解した人にとって、「誇る」べきものは、ただ主ご自身であるべきです。パウロの目的は信徒たちが一つになることですが、そのためには、神と神の方法とを正しく理解する必要があります。人間の知恵に頼ることは、それが何であれ、神の民の思考から排除されなければなりません。

    すべては、あなたがたのものなのである。パウロも、アポロも、ケパも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものである。そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである。[10]

    パウロは、先に第1章12節でしたように、指導者たちの名前をあげています。ただ、ここで注目すべきは、そのリストがより広範なものになっているということです。パウロは、特定の指導者たちについてではなく、神の民が受け継ぐもの全体を考えるよう、読者を導いています。「私はパウロにつく」、あるいはアポロのもの、ケパのものだ、と考えるべきではなく、「すべては、あなたがたのものなのである」と、パウロは教会に告げています。

    パウロは第3章16-17節で、5回も 「神」という名を出して強調したばかりなので、手紙のこの部分を「神」という言葉で、すなわち「キリストは神のものである」という表現で終えるのは適切なことです。キリストは神の御子であり、メシアであり、教会のために地上に来られた方です。そして、教会はキリストのものなのです。すべてのものは神とその御子のものなので、すべてのものは信者の益のためにあるということになります。そして、彼らはキリストのものです。

    パウロは第4章で、以下のように続けています。

    このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。[11]

    パウロはコリントの信徒たちに、パウロやアポロたちをキリストに仕える者と見るべきだと書いています。パウロは少し前に、自分たち指導者を、主人の畑で特定の仕事を与えられた同労者であると表現していました。[12] パウロはこの点を強調することによって、コリントの信徒たちが、特定のキリスト教教師への忠誠心に基づき派閥を形成して分裂しないよう促しています。パウロは、彼らが、彼自身やアポロのような人間ではなく、何よりもまずキリストに従うことを望んでいるのです。

    この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。[13]

    この箇所で、パウロは自分自身や他の教会指導者たちを、「神の奥義の管理者」と表現しています。「管理者」とは、自分のものではない何かを管理しているのであり、たとえば、裕福な人から資産の管理や家全体の切り回しを任された、信頼できる僕がそうです。このレベルの信頼を与えられる人は、誠実であって、信頼に値し、忠実な人であることが知られている人でなければなりません。パウロが言いたいのは、彼自身や他のキリスト教教師たちが神の奥義の管理者となるには、神によって忠実であると認められなければならないということです。信頼に足る、誠実な人でなければならないのです。

    わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。[14]

    パウロは、コリント人や他の人たちが、自分やアポロ、その他の教会指導者たちがふさわしい存在であるのかどうかと裁いていることを知っていました。パウロは彼らの裁きを退けて、彼らに裁かれても、あるいは人間の裁判所に裁かれたとしても、それは非常に小さなことなので、何ら意に介さないと言っています。しかし、パウロが自分は彼らの裁きより上にあると言うのは、彼の使徒としての立場からではありません。これに続く箇所で、彼らに裁かれても意に介さない理由とは、彼を裁くべき者は彼らではないからであることを明言しています。

    パウロはさらに、彼自身にも、自分を裁く資格はないと言っています。彼自身が自分を裁けないのであれば、どうして他人の意見を気にする必要があるでしょうか。

    わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。[15]

    パウロは、管理者としての自分を省みて、誠実さの欠如や職務遂行における不忠実さなど、やましいことはいっさい思い当たりませんでした。しかし、だからといって、パウロは潔白だと言っているわけではないのです。彼はエレミヤ17章9節にある、この真実をよく知っていました。「心はよろずの物よりも偽るもので、 はなはだしく悪に染まっている。 だれがこれを、よく知ることができようか。」 パウロは、自分は完璧でも完全無欠でもないと知っていました。ただ、神の意見に比べれば、人間の意見など、たとえそれが自分の意見であっても、どうでもよいと言っているのです。

    だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれ[称賛]を受けるであろう。[16]

    その終わりの日には、主の裁きがすべてをあらわにします。それは、その人が本当に主のものであったかを明らかにし、また、指導者の仕事の永続的な価値はどのようなものだったのかなども明らかにします。神は管理者の忠実さを調べ、心の奥にある思いや心づもりを探り、その人の真の姿をあらわにされるのです。

    パウロが将来の裁きについてこれらの事実を述べているのは、コリントの信徒たちがパウロや他の人たちを裁くのをやめるようにです。パウロはコリントのクリスチャンたちに、他の人の主への奉仕の質を裁くのをやめるように言います。むしろ、主が戻られるのを待つべきであり、その時が来れば、主が裁定を下されるのです。神の裁定だけが重要であり、神だけが人の内面を評価する資格のある方です。クリスチャンは、主の裁きに基づいて、神から報いを受け取ることになります。


    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    1 1コリント 3:18.

    2 1コリント 2:16.

    3 1コリント 3:19–20.

    4 1コリント 1:18–25.

    5 ヨブ 4:21 英語ESV訳.

    6 ヨブ 5:1–2.

    7 ヨブ 5:12–13.

    8 詩篇 94:11 新改訳第三版.

    9 1コリント 3:21.

    10 1コリント 3:21–23.

    11 1コリント 4:1.

    12 1コリント 3:5–9.

    13 1コリント 4:2.

    14 1コリント 4:3.

    15 1コリント 4:4.

    16 1コリント 4:5.

     

  • 11月 2 第1コリント:第3章(10-17節)
  • 10月 10 キリストに従う者にとっての美徳: 善意
  • 9月 24 キリストに従う者にとっての美徳: 親切
  • 8月 27 キリストに従う者にとっての美徳: 忍耐
  • 7月 9 第1コリント:第3章(1-9節)
  • 6月 26 キリストに従う者にとっての美徳: 平安
  • 6月 19 苦しみの中に神を見る
  • 6月 11 第1コリント:第2章(9-16節)
  • 6月 4 キリストに従う者にとっての美徳: 喜び
   

信条

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