• 天地が滅びても、私の言葉は滅びない

  • 祈りとは、神の心へと登っていくこと (マルティン・ルター)

  • 良きおとずれを伝えよう 時が良くても悪くても

  • 1本のロウソクでも、暗闇では大きな違いを生み出す

  • 主の喜びは私たちの力

アンカー

ユーザーフレンドリーなデボーション記事

  • 「わたしは新しいことを行っている」

    “I Am Doing a New Thing!”
    July 22, 2025

    引用文集

    オーディオ所要時間: 10:22
    オーディオ・ダウンロード(英語) (9.5MB)

    友よ、もしあなたが今、暗闇の季節にいるなら――誰かがあなたの顔を両手で包み込んで、救出が近づいていることを思い出させてくれたらと願っているなら――今日、私がその人になりましょう。

    深呼吸をして、私が今から言うことを聞いてください。聖書の言葉に基づき、あなたは決して一人ではないと約束します。どんなことに直面しても、あきらめずに踏ん張ってください。たとえ目には見えなくても、神はあなたの人生に新しいことを始めようとしています。それは、あなたが期待しているものや、期待しているタイミングではないかもしれませんが、必ずやってきます。イザヤ43章19節にある希望にしがみついてください。「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」

    どんな人生の季節にあっても、これまでの人生における神の真実な御手の跡をたどる時間を取ってください。神の救出に感謝の涙を流しましょう。そして、心が軽くなり始めたら、神が真実な方であることを喜びましょう。

    私もあなたと共に喜んでいます。私たちの神は、とても良い方であり、惜しみなく与える方です。苦難の中で神が与えてくださった慰めにしがみつき、私たちも同じように心が傷ついた人々を慰めることができるよう、自らを奮い立たせましょう。(2コリント1:4) 神は私たちに、その恵みと御言葉と愛の運び手となることを求めておられるのです。—メレディス・ブロック [1]

    *

    私たち夫婦は、最近、再び自分たちだけで暮らすことになりました。40年以上子どもたちを育ててきたので、こんな日が訪れるのは考えてもいなかったことです。

    家族の絆は昔から固かったけれど、あたり前のことながら、子どもが大きくなるにつれて一人また一人と家を出ていき、私はその度に、心の一部がむしり取られたかのように感じて涙しました。

    可愛い末っ子を見送った今、私は思いました。〈これからどうしよう。どうやって気持ちを切り替え、新たな人生を始めればいいのかしら。〉 変化や変更は、なんであれ難しいものです。その都度、意識を切り替えなくてはいけないし、新しい習慣や思考パターンを身に着ける必要があります。神は私の心に、これは私にとって、神に委ね、私の人生に新たなことをしていただくチャンスだと言われました。

    そのことについて考えたり読んだりした結果、私の人生の旅路において助けとなったヒントがあるので、紹介したいと思います。

    • 人生の新しい季節が始まったのは良いことだ、と自分に言い聞かせ続ける。それは新たな人生、新たな始まりなのだと。
    • この変化は良いものとなり、悪いものにはならないことを期待する。
    • これは、今までしたくてもできなかったことをするチャンスかもしれない。
    • 以前にやり始めたけれど、そのままになっていたことを成し遂げる。
    • 興味を感じることについて勉強する。
    • 本を書いたり、ブログやYouTubeチャンネルを開設したりして、自分の人生経験を公表する。
    • 祈りや聖書学習のグループを立ち上げる。
    • 可能性は無限。

    (祈り:) イエスさま、あなたが私の人生に新しいことを行っておられることを受け入れます。あなたが私のもとに送られるものを、何でも感謝できますように。私の人生も、子どもたちの人生も、あなたの御手に委ね、あなたの世話に全幅の信頼を置きます。私の人生と心のただ中にいてください。—メロディ・ケーグル

    *

    私たちが直面するすべての新しい始まりは、その先にどんなことが起こるかわからないため、一歩踏み出す信仰の行為と言えます。しかし、何年か後に振り返ったとき、あなたは何を見たいでしょうか。未来に目を向けて、恐れや心配、不安を感じることもありますが、それは、未来が自分の意のままにはならないと感じるからです。

    幸いなことに、どんな変化が訪れ、どんな新しい始まりが待っていようとも、神は常に私たちと共にいてくださいます。神があなたの行く手に特別な何かを置かれたこと、そして、あなたを備えるために、さまざまな機会をこれまで与えてきてくださったことを知り、また、信じなさい。私たちは学び、神を信頼しなければなりません。そして、こうした機会によって成長し、向上し、信仰を深めていかなければならないのです。

    イスラエルの指導者の座をモーセから引き継いだヨシュアのことを考えてみてください。それは彼にとっても、イスラエルの民にとっても、大きな新しい始まりであり、変化でした。それが起こったとき、神はヨシュアにこう約束されました。「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。強く、また雄々しくあれ。」(ヨシュア1:5–6) これを励ましとしましょう。神がこの旅路をあなたと共に歩んでいるということを。新しい始まりを経験するとき、あなたは一人ではありません。—ビリー・グラハム [2]

    *

    私たちは引っ越しをしているところです。屋根裏部屋の箱を片付ける作業で、私は思っていた以上に動揺し、エモーショナルになりました。木箱を一つひとつ開けるたびに、むかし私が大好きだった趣味や、していたことの数々など、かつての生活が鮮明に思い出されます。思い出の品にざっと目を通しながら、今の自分の生活は、自分が望んだ通りのものではないと改めて感じるのです。計画通りにいったことは何一つありません。神が私にとって最善の人生を歩ませてくださっていると深く確信している一方で、かつての生活を失ったことを嘆く日もあります。… ポリオ後症候群と診断されたことで、[すべてが]変わってしまったのです。

    誰もが皆、失望に直面することがあります。人生は、想像していたものとは大きく異なっていることが多いのです。特定の職業や成果を夢見ても、家族の問題や予期せぬ出来事で、後回しにしなくてはいけないことがあります。若き恋人たちが、自分たちは完璧な家族を築くんだと信じていても、実際の家族がその理想とはかけ離れてしまうこともあります。では、どうすればいいのでしょうか。人生はこんなものじゃないはずだという、このもやもやした気持ちを、どう乗り越えればいいのでしょうか。…

    ジョン・パイパーのこの助言は、私にとって計り知れない助けになりました。「時には、望んでいた人生でないことを思って深く涙しなさい。失ったものを嘆き悲しみなさい。そして顔を洗いなさい。神を信頼し、今ある人生を受け入れなさい。」

    涙を流して悲しんだ後、私は顔を洗います。ただ涙を拭うだけではなく、頬に残る塩の筋を、温かい布で優しく拭き取ります。その温もりが肌を包み込むのを感じます。それから、冷たい水を顔にかけて気分をリフレッシュし、思考を切り替え、目を主に向けます。そうして初めて、私は前に進むことができるのです。

    これは意図的行動であり、再び集中するために、私はこの方法を選ぶのです。再集中するとき、私は目を問題からそらして、主に向けます。そして、主を信頼することを選びます。真っ暗な状況でも、主を信頼します。主が私のために働いておられると信じます。主が最善をご存知だと信じます。

    そして最後にすべきことですが、私は今の人生を受け入れることを求められています。大切な友人を抱きしめるかのように、心から受け入れます。いやいや従うのではなく、喜んで受け入れます。受け入れるとは、主が与えてくださるものが何であれ、それを喜んで受け取り、たとえそれが自分の計画になかったものであっても歓迎することを意味します。それは、心から今の状況を受け止め、現在を生き、この瞬間に喜びを見つけ、過去を恋しがらないことです。

    ですから、あなたがもし今日、人生に疲れや失望を感じているなら、悲しむ時間を自分に与えてください。深く涙し、望んでいたものを失ったことを嘆いてください。しかし、嘆き悲しんだ後は、顔を洗い、神を信頼し、神が与えてくださった人生を受け入れてください。

    大きな悲しみと喪失があった中で、神はご自身の民にこう言われました。「先にあったことを思い起こすな。昔のことを考えるな。見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。確かに、私は荒れ野に道を 荒れ地に川を置く。」(イザヤ43:18–19 聖書協会共同訳)

    主は確かに、私の人生に新しいことをなしておられます。あなたの人生においても同様です。主は荒れ野に道を作り、荒れ地に川を設けておられます。その御業に身を委ね、受け入れてください。神は美しいことをなさっているのです。—ヴァニーサ・レンドール・ライズナー [3]

    2025年7月アンカーに掲載 朗読:ジェリー・パラディーノ 音楽:マイケル・フォガティ


    1 Meredith Brock, “Rescue Is Coming—Don’t Give Up Yet,” Proverbs 31, May 15, 2024, https://proverbs31.org/read/devotions/full-post/2024/05/15/rescue-is-coming-dont-give-up-yet

    2 Billy Graham, “5 Things the Bible Says About New Beginnings,” Billy Graham Library blog, January 5, 2022, https://billygrahamlibrary.org/blog-5-things-the-bible-says-about-new-beginnings-2

    3 Vaneetha Rendall Risner, “Embrace the Life You Have,” Desiring God, May 15, 2017, https://www.desiringgod.org/articles/embrace-the-life-you-have

  • 7月 31 2人のしもべの話
  • 7月 28 神の導き
  • 7月 26 主はいつもあなたと共に
  • 7月 24 お金では買えないもの
  • 7月 22 賛美の力
  • 7月 20 神の臨在の中に平安を見出す
  • 7月 18 これからのより良い日々(パート6)
  • 7月 16 老齢と勝利
  • 7月 14 神の道徳的御心に沿って生きる
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第10章(1–15節)

    [1 Corinthians: Chapter 10 (verses 1–15)]

    April 8, 2025

    パウロは、クリスチャン生活について語り、賞を得るためには一意専心と自己鍛錬が必要であることを強調するために、競走の比喩を用いた後、さらにコリントの信徒たちへの勧告を続けています。

    兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。(1コリント10:1–2)

    パウロはここで、「兄弟たち」(「兄弟姉妹たち」と訳している翻訳聖書もあります)という言葉を使って、コリントの信徒たちへの気遣いを見せています。彼らに厳しく接したのは、彼らを愛し、心配しているからこそです。コリントの信徒たちの中で、偶像に捧げられた肉を食べていた人々は、「偶像なるものは実際は世に存在しない」ことや、「唯一の神のほかには神がない」ことを理解して、ある程度の知識は持っていました。(1コリント8:4) しかしパウロは、彼らが旧約聖書の歴史の教訓や、偶像礼拝がもたらす危険について、無知であることを危惧していたのです。

    彼は、コリントの信徒たちが経験していることと、イスラエルの民が荒野をさまよったこととを比較することによって、その危険性を説明しています。第一に、神はイスラエルの民をエジプトから導き出すために雲を与え(出エジプト13:21–22)、彼らを救うためにモーセを使って紅海を分けました。(出エジプト14:21–31) パウロは、これらの出来事によって、イスラエルの民が皆、「モーセにつくバプテスマを受けた」と解釈し、バプテスマ(洗礼)を受けているコリントの信徒たちも同様に、キリストにつくバプテスマを受けたことになるという点を強調しました。パウロはこの比喩で、イスラエルの民をコリントの信徒たちに重ね合わせることによって、イスラエルの民の教訓をコリントの人たちに当てはめようとしています。

    また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。(1コリント10:3–4)

    パウロが霊の食物と霊の飲み物と表現したものは、神がイスラエルの民に40年間与え続けた天からのマナ(出エジプト16:12–35)と、少なくとも二度にわたって岩から湧き出させた水(出エジプト 17:6; 民数記20:11)のことです。パウロは、キリストと、水を与える岩とを象徴的に結びつけ、「この岩はキリストにほかならない」と述べています。そうすることでパウロは、キリストをイスラエルの民に「ついてきた」方だと表現し、旧約聖書で神の名として使われる「岩」をキリストの称号としています。(申命記 32:4, 詩篇18:2

    しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。(1コリント10:5)

    次にパウロは、自分がおもに懸念している点を述べています。彼は、イスラエルの民が「みな」共通の体験をしたことを、わずか4節の中で5回も言及しました。(1コリント10:1–4) イスラエルの民が神の恵みを共に体験して一つに結ばれたのは、コリントの信徒たちがバプテスマと主の晩餐によって一つに結ばれているのと同様です。

    イスラエルの民は皆、神の恵みにあずかったのですが、その大多数は神の御心にかないませんでした。そのため、その人たちは約束の地に入ることを許されず、荒野で死んだのです。パウロはこの件に言及することによって、コリント教会内にあった同じような状況に注意を促しました。コリント教会の人々は皆、キリストにあって霊的な旅を始め、誰もがバプテスマと主の晩餐にあずかっていましたが、それは神を不快にさせるような行動を自由に行ってよいという意味ではありません。そのような行動こそが、イスラエルの民に厳しい裁きをもたらしたものなのです。

    これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。(1コリント10:6)

    コリントの信徒たちは、悪に心を向けないようにすべきでした。パウロはおそらく、民数記11章4–6節の記述をほのめかしているのでしょう。そこには、イスラエルの民が神への忠誠よりもエジプトの食物を重んじたことが記されています。イスラエルはあまりにも多くの罪を犯したため、エジプトを出た成人のうち、たった二人を除いて全員が荒野で死にました。(民数記32:11–13) モーセでさえ、約束の地に入ることを許されなかったのです。(民数記20:12

    パウロは、神の祝福の本質について、コリントの人々に警告するために、これらの例を挙げました。もし彼らが意図的に神に背くなら、神はイスラエルを裁かれたように、彼らをも裁かれるかもしれないのです。パウロは、コリントの信徒たちが、自分たちのわがままな欲望によって、神への忠誠心を台無しにすることのないように願っていました。

    だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。(1コリント10:7)

    第二に、パウロは信者たちに、(彼らの一部が明らかにそうであったように)偶像礼拝者とならないよう警告しました。ここで彼は、出エジプト記32章6節のことを考えており、論点を明確にするため、その聖句を引用しています。モーセがシナイ山で十戒を受け取っている間、イスラエルの民は自分たちが作った金の子牛の前で異教的な宴にふけり、それには、コリントの信徒たちが異教の神殿で行っていたのと同様の異教的な食事も含まれていました。そのような偶像礼拝のために、神はイスラエルの民を滅ぼしかけました。実際、神の命令により、モーセは3千人を処刑しています。(出エジプト32:28)。こうしてパウロは、コリントの信徒たちに、偶像礼拝的な飲食の誘惑を真剣に受け止めるよう警告したのです。

    また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。(1コリント10:8)

    三番目の例で、パウロは民数記に記録されている出来事を引き合いに出して、性的不品行を戒めました。イスラエルの民が偶像崇拝と豊穣儀礼にふけった後、2万3千人が死んだという出来事です。(民数記25:1–9) 民数記の記述によれば、これらの罪に対する神の罰として疫病が下り、2万4千人が死にました。パウロがあげた数は、若干異なりますが、要点は明らかであり、それは、多くの人々が異教の豊穣儀礼に参加したため命を落としたということです。

    豊穣信仰を実践した人々は、宗教的な売春や乱交に参加することが、健康、豊穣、繁栄をもたらすと信じていました。パウロの時代のコリントで行われていた偶像礼拝には、そのような豊穣儀式が含まれていたのです。パウロの警告は明確でした。異教の神殿で偶像に捧げられた肉を食べ、その儀式に参加することは、性的不品行につながる可能性があり、それは、コリントの人たちが陥りがちだったことです。(1コリント6:15–16

    また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。(1コリント10:9)

    第四の例において、パウロはコリントの人々に、イスラエルの民が過去にマナを拒んで神を冒涜したときのように、主を試してはならないと警告しています。(民数記21:4–9) パウロがこのたとえを用いたのは、コリントの一部の人々が、キリストにあって神が与えてくださったものに満足していなかったからです。昔のイスラエルの民がマナ以外の食物を求めたように、コリントの信徒たちは肉を強く求めるあまり、他の考慮すべき事柄をすべて無視していました。古代イスラエル人に神が与えた懲罰は、コリントの人々にとって、そのような行いを戒める警告となりました。

    また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいては[不平を言っては(聖書協会共同訳)]ならない。つぶやいた者は、「死の使」[滅ぼす者(聖書協会共同訳)]に滅ぼされた。(1コリント10:10)

    パウロの五番目の警告は、コリントの信徒たちは、一部の者たちがしていたように、不平を言うべきではないということでした。神とその指導者たちに不平を言うことは、荒野で何度も起こったことです。(出エジプト15:24; 申命記1:27) 聖書には、イスラエルの民が荒野にいたときに、「滅ぼす者」または「滅ぼす御使い」が現れた、というような特定の出来事は記されていませんが、同様の概念は、旧約聖書のさまざまな箇所に見られます。[1] パウロが意味していることは明白で、それは、神に対して不平や文句を言うことは、神の裁きと彼らの滅びを招いたということです。

    これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告[前例(新共同訳)]としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。(1コリント10:11)

    パウロはここで再び、荒野においてイスラエルの民が罪を犯して、裁きを受けたのは、他に対する警告としてであり、それが旧約聖書に記録されたのは、クリスチャンに対する訓戒のためであると指摘しています。これらの出来事が記録されたのは、旧約時代の神の民のためだけではないのです。新約時代の教会も、これらの教訓から益を得ることができました。キリストに従う者たちには、自らの恵みの体験を「罪の許可証」として受け止めてしまうという危険が常につきまといますが、旧約聖書にある前例は、そのような許可証を禁じています。

    パウロがどのような意味で、信者たちを「世[諸時代(英語ESV訳)]の終りに臨んでいる」者たちと呼んだのかについて、学者たちの見解はさまざまです。ある人たちは、キリストの到来とその贖いによって、それまでの時代が定められた終りを迎えた、ということだと考えています。また、この表現は、新約聖書のさまざまな著者たちが用いた、「この終りの時に至って」(1ペテロ1:20–21)、「今は終りの時」(1ヨハネ2:18)、「終りの時には」(2テモテ3:1)といった表現と同様の、終末論的な言及であるようにも見えます。

    だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。(1コリント10:12)

    自信過剰で、自分はしっかり立っていると思い込んでいるクリスチャンは、荒野でイスラエルの民がそうなったように倒れないよう気をつけなければなりません。パウロは、そのような人が救いを失うと言っているのではありません。そうではなく、神が禁じた行為にふけってもかまわない、という誤った考え方をしている人々への警告として語っているのです。

    パウロは、偶像の神殿で食事をする自由があると信じていた人々に向けてこの言葉を語ったのでしょう。彼らは、そうすることで自分が「倒れる」ことはないという確信を持って行動していましたが、実際には、偶像崇拝や性的不品行に陥る危険に自らをさらしていたのです。パウロが考えていたのは、彼らを見て、自分たちも偶像の神殿で食事をしてもかまわないと思うようになった弱い兄弟姉妹のことかもしれません。パウロは、少し前の章で、これらの兄弟姉妹がそのような行為によって滅ぼされる可能性があることに懸念を示しています。

    あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。(1コリント10:13)

    この節にある「試練」という言葉は、試練と誘惑の両方を指す、広い意味で使われています。ある著者はこう説明しています。「これは、起伏の多い地域で厳しい状況に追い込まれた軍隊が、峠を通ってそこから脱出するというイメージです。」[2]

    パウロのこの言葉は、クリスチャンが耐えられない誘惑に直面することはないことを明確にしています。第一に、クリスチャンが直面するすべての誘惑は、偶像礼拝の誘惑を含めて、誰にでも起こり得るもの(世の常)であると指摘しました。コリントの信徒たちが直面した、偶像に捧げられたと分かっている食物を食べることで妥協してしまう誘惑は、珍しいことではなく、むしろ誰にでもあることです。また、それは克服できない誘惑や試練でもありません。他のクリスチャンは偶像礼拝への誘惑に抵抗してきたのであり、コリントの信徒たちも同様にそうすることができるのです。

    第二に、神は真実なお方であり、ご自分の民を見捨てることはありません。ですから、クリスチャンが耐えられないほどの誘惑にあうのを、神がお許しになることはない、と信じていいのです。神は常に誘惑から逃れる道を備えてくださるので、クリスチャンはそれに立ち向かうことができ、罪に陥らないですみます。神ご自身は、誰をも誘惑することがないし(ヤコブ1:13)、ご自分の子どもたちへの深い愛ゆえに、クリスチャンを打ち負かすほど強い誘惑を許すことはありません。むしろ、クリスチャンが罪に陥ってしまうのは、それに立ち向かうことを怠り、神が備えてくださった逃れる道を探し求めないときなのです。

    それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい[偶像礼拝から逃げなさい(英語ESV訳)]。(1コリント10:14)

    パウロはコリントの信徒たちに、親しみを込めて「愛する者たち」と呼びかけました。パウロの助言は、シンプルながらも劇的な、「偶像礼拝から逃げなさい」というものでした。他の書簡でも、パウロは読者に対して、誘惑に陥りそうなときには罪を「避けなさい」(罪から逃げなさい)と教えています。(1テモテ6:11; 2テモテ2:22) これまでの節が示すように、偶像礼拝は深刻な問題です。クリスチャンは、それを軽く考えるべきではありません。罪に関して唯一賢明な行動とは、罪と関わりを持たず、むしろ罪から逃げ去ることなのです。

    賢明な[分別ある(新共同訳)]あなたがたに訴える。わたしの言うことを、自ら判断してみるがよい。(1コリント10:15)

    パウロは、コリントの信徒たちには分別があると考え、彼らがこの問題を自分で判断することを願いました。彼が主張していたことに含まれる知恵によって、彼らが自分の見解に納得してくれるようになるだろうと考えたのです。

    (続く)


    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    1 例えば、次のような聖句です: 出エジプト12:23, 歴代上 21:15, 詩篇78:49.

    2 Leon Morris, 1 Corinthians: An Introduction and Commentary, vol. 7, Tyndale New Testament Commentaries (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 1985), 142.

     

  • 7月 12 第1コリント:第9章(18–27節)
  • 4月 29 第1コリント:第9章(1–17節)
  • 4月 18 第1コリント:第8章(1–13節)
  • 3月 27 第1コリント:第7章(17–40節)
  • 2月 28 第1コリント:第7章(1–16節)
  • 2月 8 第1コリント:第6章(1–20節)
  • 1月 30 第1コリント:第5章(1–13節)
  • 1月 17 第1コリント:第4章(15–21節)
  • 12月 20 第1コリント:第4章(6–14節)
   

信条

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