アンカー

ユーザーフレンドリーなデボーション記事

  • 従順な僕のたとえ

    The Parable of the Obedient Servant
    August 3, 2026

    ピーター・アムステルダム

    オーディオ所要時間: 12:39
    オーディオ・ダウンロード(英語) (11.5MB)

    ルカの福音書には、答えが明白な質問で始まるたとえがいくつも出てきます。例えば、イエスは次のような質問をしておられます。「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか」(ルカ15:4)。次のような質問もなさいました。「あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、… まず、すわってその費用を計算しないだろうか」(ルカ14:28)。

    他にも、次のように、誰もが否定の答えを出すであろう質問もされています。「あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか」(ルカ11:11)。

    従順な僕(しもべ)のたとえは、ただ1つの質問から始まるのではなく、3つの質問が含まれています。そのうちの2つは否定の答えが期待され、もう1つは肯定の答えが返ってくるはずのものです。

    「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。

    命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17:7–10 新共同訳)。

    このたとえでは、イエスが僕について話しておられます。聖書の訳本によって、この僕という言葉は奴隷と訳されている場合があります。それは、ここで使われているギリシャ語のドゥーロスと言う言葉が、僕とも奴隷とも訳せるからです。イエスの時代、奴隷制はローマ帝国全体で一般的に行われていました。帝国全域の人口の20~30%が奴隷であったと推定されています。僕または奴隷を例にしたからといって、イエスが奴隷制を容認されたというわけではありません。要点を伝えるために、僕・奴隷のたとえを使われたのは、当時は奴隷が一般的だったために、人々が確実にその概念を理解できたからです。

    イエスは、負債をゆるすよう弟子たちに求められましたが(マタイ6:12)、それによって債務奴隷の土台を揺るがしたであろうことを考えると、奴隷制に対するイエスの態度を垣間見ることができるかもしれません。また、聖書には、イエスについて、このように書かれています。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをと … られた」(ピリピ2:6–7)。ここで「僕」と訳された言葉も、ドゥーロスです。

    イエスの時代の奴隷制は、17世紀の植民地における奴隷制のような、人種に関係したものではありませんでした。ローマ帝国時代には、奴隷がいるからこそ、他の人が自由であれると信じられていました。彼らは、自由である権利が全ての人にあるとか、奴隷制は悪であるという考え方とは無縁でした。当時の奴隷の大部分は、戦いに敗れた側の者や、彼らに生まれた子どもたちでした。

    また、貧困から抜け出したり、負債を返済したりするために、自ら身売りして奴隷になる者もいたし、特定の仕事が欲しくて奴隷になる者もいました。奴隷の中には、財産を管理し、自分自身の奴隷を所有した者もいます。ある時点で、奴隷が解放されたり、自由を買い取ったりすることは珍しくありませんでした。学識豊かな奴隷もいて、その多くは機密を扱い、極めて責任の重い地位についていました。また、訓練を受けて、医者や設計技師、工芸人、小売店主、料理人、理髪師、芸術家として仕える人もいたし、主人の事業を経営し、その家の者と見なされた人もいます。

    当時の文化では、多くの人が、社会的・経済的に高い地位にある人に仕え、その家の者となることを通して、目的意識と個人の名誉、そして経済と食料の安定を得ていました。いつもそうできたわけではないものの、珍しいことではなかったのです。しかし、どのような状況にあろうとも、イエスの時代の奴隷は、やはり奴隷であり、自由な人間ではありませんでした。[1]

    誰かに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、来て食事の席に着くようその僕を招いたりするだろうか、という冒頭の問いですが、イエスの話を聞いていた人は一人として、そんなことを考えたこともなかったでしょう。当時、主人と僕の伝統的な役割は明確に定められており、そのようなことを許しでもしたら、それは僕が賓客の地位にある、あるいは主人と同格であると言っていることになりました。イエスがこのような切り出し方でたとえを話されたことで、聞いていた人たちの好奇心はそそられたことでしょう。

    それからイエスは、2番目の質問をします。「むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろう」 (ルカ17:8 新共同訳)。畑で一日の労働を終えた者に対して、食事の準備をして主人に給仕することを期待し、そういった仕事がすべて終わってから初めて食べることが許されるというのは、私たちにはかなり厳しく聞こえるかもしれませんが、古代世界ではごく当たり前のことと考えられていました。

    当時の状況においては、このたとえ話を聞いた人の中で、務めを果たした僕が特別の待遇を受けることを期待した人は一人もいないはずです。その僕は、自分が僕として期待されていることをしただけなのですから。僕が羊を飼ったり畑を耕したりしたからといって、主人は僕に借りができたわけではありません。僕はただ自分の仕事をしていただけなので、この僕が特別扱いされることを期待する人は誰もいなかったことでしょう。

    「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか」(ルカ17:9 新共同訳)という3つ目の質問を聞いた人たちは、またしても「もちろんそんなことはない」と答えたことでしょう。ここで「感謝」と訳されているギリシャ語の言葉はカリスで、新約聖書では通常「恵み」と訳されています。しかし、ルカの福音書では、称賛や好意の意味でも使われています。つまりこの質問は、「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕を称賛したり報いを与えたりするだろうか」ということです。

    ケネス・ベイリーは、次のように説明しています。

    主人が僕に対して、一日の仕事の終りに優しい言葉をかけて、感謝を示すことはあるでしょう。しかし、ここでの論点は、それよりもはるかに深いものです。命じられたことが遂行された時、主人は僕に報いる義務があるのかということです。このたとえにおいて、この質問に期待される答えは、断然否定的なものです。[2]

    この時点で、たとえを聞いている人たち(ルカの福音書では弟子たち)に対して、イエスはこう言っておられます。「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17:10 新共同訳)。

    ここで「取るに足りない僕」、あるいは他の翻訳では「無益な僕」「ふつつかな僕」などとされている箇所は、「お役に立たない僕」とも訳すことができます。つまり、僕や弟子が命じられたことを果たしたとしても、「お役に立たない」存在であり、別の言葉で言えば、主人に対して何の貸しもあるわけではない、ということです。

    ここで弟子たちに与えられた教訓とは、神に仕える者は神に恩を売ったりしないということです。神は、神に仕える人から恩義を受けてなどいません。神は私たちに何も負っていませんが、私たちは、命そのものも含めて、神にすべてを負っています。パウロが書いたように。「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか」(1コリント4:7)。これは、神がご自身を愛し仕える者たちに報いを与えないという意味ではなく、むしろ、私たちと神との関係は、報いを「勝ち取る」ものでも、「当然の権利として得る」ものでも、あるいは「取引して得る」ものでもないということです。弟子とは、主への愛と崇拝、そして忠誠心から、主に仕える僕のことです。

    使徒パウロは、自らを「ドゥーロス(僕・奴隷)」と呼びました。「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロ」(ローマ1:1)。(こちらも参照: テトス1:1。) これは、彼が、金銭的あるいはその他の利益のためではなく、愛と献身をもって召しを果たすために労苦する者として、主との関係を捉えていたことを意味します。パウロは、主人が自分の面倒を見てくださることを知っており、完全な安心感を持って仕えていたのです。

    私たちの救いは神から与えられた贈り物であり、働いて手に入れるものではありません。私たちが神に仕えるのは、あがなってくださった方への感謝と愛、そして献身と忠誠心からです。神に命じられたことを行ったからといって、神に「恩を着せる」わけではないとわかっています。頭のなかで、自分が主のためにしたことを全て帳簿につけ、神は自分に借りがあるという考え方はすべきでありません。

    それは、神に仕える者には何の報いもないという意味ではありません。イエスは、報いについて幾度も語っておられます。

    あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう(マタイ6:3–4, 6)。

    そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである(マタイ25:34–36)。

    私たちには報いが約束されていますが、神との関係は、当然の報いとか、それを当てにするとか、それを得ようとして働くとかいうことではありません。主の僕として、私たちが主のために働くのは主への愛からであり、主に対する務めを果たすのは感謝の気持ちからです。私たちが神からいただくものは、神の手からの贈り物であり、仕えたことに対する支払いではありません。私たちが神に仕えるのは、神が救ってくださり、感謝しているからです。神を愛しているからです。そして、神に対する私たちの奉仕の動機は愛と感謝であって、報いではないからこそ、神は私たちに報いてくださるのです。

    初版は2017年10月 2026年8月に改訂・再版 読:ルーベン・ルチェフスキー


    1 Points taken from J. A. Harrill, Slavery, in C. A. Evans & S. E. Porter, eds., Dictionary of New Testament Background. (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 2000), 1124–1127.

    2 Kenneth Bailey, Through Peasant Eyes (Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 1980), 120.

  • 9月 12 言葉は、傷つけることも癒やすこともできる
  • 9月 6 費用の計算
  • 9月 4 人生の移り変わりに順応する
  • 8月 31 イエスの最後の現れと委任
  • 8月 29 あなたは大いに価値のある存在
  • 8月 25 誰が糸を引いているのか?
  • 8月 23 人生の嵐の中で、共にいてくださる方
  • 8月 19 自然と人生の変化を受け入れる
  • 8月 17 婚宴とぶどう酒
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 弟子の生き方(パート4): 神との関係

    [The Life of Discipleship, Part 4: Relationship with God]

    September 30, 2025

    神との関係——神との交わり——は、弟子としての歩みの中心にあります。私たちはクリスチャンとして、神との個人的な関係を持つという祝福、栄誉、機会に恵まれています。宇宙の創造主である方が、私たちと交わりたいと願われ、私たちがご自身と和解できるように、御子イエスを全人類のために十字架で死なせるほどの大きな犠牲を払われたとは、私たちには測りがたいほどのことです。使徒パウロが書いているように、「神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである」(1コリント1:9)。

    イエスは、父との関係のために時間を取ることについて、手本を示されました。福音書には、イエスが早朝に起きて祈られたこと(マルコ1:35)、祈るために群衆のいない所に身を避けられたこと(ルカ5:15–16)、夜を徹して祈られたこと(ルカ6:12–13)が記されています。イエスは、神と交わって、親しく語り合い、神の指示を受け取るための時間を取られました(ヨハネ5:30)。

    神との交わりとは、神の臨在の中で時を過ごし、神を礼拝し、祈りのうちに神に語りかけ、神の言葉を読み、その御言葉を通して神が語られることに耳を傾け、さらに、神が私たちに個人的に語りかけてくださる御声に耳を傾けることを意味します。私たちは、神がどのようなお方であり、私たちのために何をしてくださったかを思って、神を賛美し、感謝するための時間を設けることで、「さんびのいけにえ … を、たえず神にささげ」る(ヘブル13:15)と共に、1日を通して神と交わる必要があります。大きな愛をもって私たちの命を支え、私たちとの交わりを望んでおられる創造主であり救い主である神と、つながるための時間を取る必要があるのです。

    主との交わりの時間を取るとき、主はそれに応じてくださいます。私たちが、他にしていることをやめて、主の臨在の中へ入るとき、私たちは主に耳を傾けてその指示を受け取る姿勢になっているので、主は助言をもって私たちを導き(詩篇73:24)、御心を行うことを教えてくださいます(詩篇143:10)。

    祈り、神を賛美して礼拝すること、また、私たちの人生——希望や夢、成功と失敗——について神に語りかけ、罪を告白し、神の助けを求め、神を愛していると告げ、神の語られることに耳を傾けることは、どれもみな、私たちが神と持つべき交わり、友情、関係の一部なのです。

    双方向のコミュニケーションは、人間関係における重要な要素であり、主との交わりも例外ではありません。神の声に耳を傾けることと、神に語りかけることの両方が必要なのです。神に耳を傾ける第一の方法は、神の言葉である聖書を読むことです。私たちが聖書を読み、その内容について考え、黙想し、それが自分にとってどんな意味があるのか、その意味することを日々の生活にどう当てはめられるのかと自問するとき、神はそれを通して語りかけてくださいます。また、私たちが心を静めて、主の静かで小さな声に耳を傾けるときにも、神は語ってくださいます。

    私たちが心と生活を主に向けて開き、重荷や悩み、恐れ、また希望や喜び、夢を分かち合うとき、神との関係は深まっていきます。神の言葉を学んで瞑想し、それを自分の生活にどう当てはめるべきかを学ぶ時間を設けることで、私たちは神への信仰と信頼、理解と礼拝を深めていくのです。祈りを通して神と対話し、神を愛し、神の御声に耳を傾ける時間を取り、神から学び、日頃から神と交わりを持つこと、これらすべてが、神に近づき、神に似た者となるための重要な要素です。以下の記事でも、それが強調されています。

    キリストとの交わりが意味するものとは

    神が私たちの人生に関わってくださっているとは、実に驚くべきことです。キリストと交わるとは、私たちがキリストの命にあずかるだけでなく、キリストもまた私たちの命に関わってくださることを意味します。私にとって、この気づきは、これまでとは違った視点をもって人生を歩む助けとなりました。…

    試練や困難な状況が訪れたとき、このことは、イエス・キリストがどのような状況においても、私たちと共にいてくださることを認識する助けとなります。また、物事が順調に進んでいるときにも、イエスが今もなおすべての状況において、私たちと共におられることが分かります。イエスは誰をも包み込み、親密に寄り添う方であり、私たちが自分で物事を解決するよう、一人きりにさせることはありません。イエスは私たちの人生に関わってくださるのです。…

    聖書で「交わり」という言葉が出てくるとき、それは単なる関係を示す概念ではありません。関係という言葉は、「つながっている状態」を意味します。私たちはすでにキリストとつながっていますが(ヨハネ15章)、さらに深いもの、すなわち「交わり」を持つよう招かれています。

    神との関係は、神とつながるための最初の招きであり、イエスによる救いは、私たちを神との関係へと導きます。しかし、神との交わりは、神との親密な関係へと招くものです。それは、神との継続的なつながりであり、神と共に時を過ごすための手段です。… 私たちは、神との関係を持っている(すなわち、神とつながり、神との絆が回復されている)だけでなく、神との交わりも持つことができます。神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩き、互いに交わりを持つのであり、御子イエスの血が、すべての罪から私たちを清めるのです(1ヨハネ1:6–7)。

    これこそが、私たちがより主に似た者となり、自分の人生に主の命を見るための道であり、手段です。私たちがイエスと交わるとき、私たちはより主に似た者となって、主を映し出すようになり、それが神との関係を深めるのです。—ターニャ・レムキフ [1]

    祈りの原則

    弟子たちが祈り方を教えてくださいとお願いした時、イエスは「主の祈り」を教えられました。この祈りを祈るとき、私たちは、神を聖なる方、すべての上におられる方としてあがめ、地において、また自分の人生において、神の御心がなされるように願い、日々の必要を神に頼っていることを認め、自分の罪が赦されることを求めます(マタイ6:9–13)。

    また、イエスは弟子たちに、祈りにおいて油断することなく、「目をさまして祈っていなさい」と教えられました(マタイ26:41)。イエスの模範から、私たちは一人になって祈ること(ルカ6:12)、感謝して祈ること、他の信者たちと共に祈ること、そして他者のために執り成しの祈りをすること(ヨハネ17:20–26)を学びます。生活の忙しさから離れて、一人きりで祈りの時間を持ち、また、他の人たちと共に祈り、あるいはその人たちのために執り成すというイエスの手本は、その足跡をたどりたいと願う人たちのための道しるべとなっています。

    祈りについて、イエスが信者たちに教えられた最も基本的な事柄の一つとは、父なる神との正しい関係を持つことでした。イエスは常に父に祈り、弟子たちにも同様にするよう教えられました。私たちは、神の家族に養子として迎え入れられた、神の息子であり、娘です。ですから、祈るとき、私たちは「アバ」、つまり私たちの父の前に出ているのです。

    クリスチャンとして、私たちは祈りによって神の臨在の中に入るという、計り知れない特権にあずかっています。私たちは神と交わり、神を賛美し、礼拝することができます。また、神が成してくださったすべてのことと、神の慈しみと恵み――私たちに対する身に余る恩寵――に感謝を捧げることができます。神の御前に心をさらけ出し、最も内なる思いや願い、懸念を打ち明け、悩みや問題、必要を神に委ねることができます。助けを必要としている人々のために執り成しの祈りをし、愛する人々を神のご配慮に委ねることができます。あらゆる心配事や不安、懸念を神に委ねることができます。

    弱く、疲れ果てているとき、心の重荷を神に打ち明けることができます。しくじり、過ちを犯し、あるいは間違ったことをし、罪を犯したとき、それを告白して神の赦しを求め、そして赦していただくことができます。嬉しいときも悲しいときも、健やかなときも病んでいるときも、豊かなときも乏しいときも、神と語り合うことができます。なぜなら、この関係は、私たちを造られただけでなく、私たちを深く愛し、私たちの人生のあらゆる側面に関わりたいと願っておられる方との関係だからです。祈りは、神を私たちの日々の生活に招き入れ、私たちの人生に直接かつ親密に関わってくださるようお願いするための手段です。

    祈りとは、私たちが一方的に話し続け、神がただ聞いてくださることを期待するような、一方通行の会話であってはなりません。祈るときには、私たちもまた、読んだ聖書の言葉を通して、敬虔な教師や説教者が語っていることを通して、あるいは神の前に静まり、心を開いて神の声を聞くことを通して、神が私たちに伝えようとしておられることに耳を傾ける必要があります。私たちが御言葉を黙想するとき、読んだ御言葉を日々の生活にどう適用すべきかを示してくださるよう求めるとき、そして心の中を静め、神が私たちに語りかける機会を与えるとき、神はさまざまな方法で私たちに語りかけてくださいます。

    イエスは、ご自身の模範と教えを通して、祈りの重要性を教え、そして最も大切なことに、私たちの祈りが神との親しい関係に根ざしたものであるべきだと教えられました。祈りのために時間を設けることに加えて、私たちは絶えず神との交わりの中にいるよう求められています。それは、神と継続的に対話すること、つまり、一日を通して神に語りかけ、導きを求め、神を賛美し、神の声に耳を傾けることです。これが、「絶えず」祈りなさいというパウロの一般的訓戒(1テサロニケ5:17)の意味である、と捉えることができます。現実的な話として、仕事や生活に関わる責任に追われる忙しい日々の中で、長い間すべての活動を止め、祈りに専念できるような時間はないかもしれません。しかし、一日を過ごす中で、仕事や務めを果たしながら、自分の思いや活動、そして他者とのコミュニケーションを絶えずイエスに委ねることによって、「イエスの臨在を実践する」[2] ことができます。

    祈りに動かされて

    まず、祈りましょう。飢えた人を助けるために旅立つのですか。その任務を祈りに浸してから出かけましょう。不正の結び目を解こうとしているのですか。祈りましょう。人種差別と分断に満ちた世界に疲れていますか。神もそうです。そして神は、そのことについてあなたと語り合いたいと願っておられます。

    何よりも、祈りましょう。神は私たちに、絶えず説教しなさいと命じられましたか。絶えず教えなさいと命じられましたか。絶えず委員会の会合を開きなさいと命じられましたか。絶えず歌いなさいと命じられましたか。いいえ、そうではなく、「絶えず祈りなさい」と命じられたのです(1テサロニケ5:17)。

    イエスは、ご自身の家が学びの家と呼ばれると宣言されたでしょうか。それとも、交わりの家でしょうか。音楽の家でしょうか。展示の家でしょうか。活動の家でしょうか。いいえ、そうではなく、イエスは「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と言われたのです(マルコ11:17)。

    これほどの結果が保証されている霊的な活動は、他にありません。「あなたがたのうちの二人が、どんなことについても、地上で心を合わせて祈るなら、天におられるわたしの父は行動を起こしてくださる」(マタイ18:19 英語MSG訳)。神は、謙虚で祈り深い心に動かされます。祈りに動かされる方なのです。—マックス・ルケード [3]

    交わりへの招き

    神は人類への愛ゆえに、イエスの生涯と死と復活を通して、私たちを罪に対する罰から贖い出されました。私たちは、神の愛する御子の犠牲的な死を通して、神の愛を経験し、神との交わりを回復します。神が私たちを愛し、赦してくださったので、私たちは神を愛し、畏れ敬うのです。

    「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)という言葉を読むとき、私たちはそれが「神は私を個人的に愛しておられる」という意味だと理解します。私たちの救い、また神との関係は、ただひとえに、愛の贈り物として私たちに与えられたイエスの御業に基づいています。神の愛は無条件であり、私たちが犯すかもしれない過ちや罪や失敗にも、また落胆の感情にも、左右されることがありません。私たちは、救いによって神の御子と結ばれているという、ただそれだけの理由で、神の子の一人として神に愛されています。「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:38–39)。

    神との関係を求める気持ちは、祈りと礼拝と聖書を読むことによって神とつながっているよう、私たちを動かます。また、神に仕え、神の愛と真理を他者と分かち合うことで、信仰を実践するよう、私たちを動かします。弟子として、私たちは神との交わりと、私たちの人生における神の臨在を、熱心に求めるのです。

    イエスが黙示録の中で、ある教会になされた呼びかけは、今日の私たちへの呼びかけでもあります。「わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(黙示録3:20)。イエスの時代の文化では、食事を共にするよう招くことは、関係を築こうという招きを意味していました。弟子として、私たちはイエスとの関係をさらに深め、イエスをよりよく知り、より深く愛そうとしています。また、私たちがイエスの臨在の中で過ごすとき、その結果として、イエスの性質である愛、優しさ、思いやり、温かさ、赦し、あわれみを他者に示すようになります。

    戸を開ける者たちに対して、イエスは親しい交わりを約束し、それを食事を共にする姿にたとえられました。… 今日もイエスは、「わたしは戸の外に立って、たたいている」と言い続けておられます。… 主は、完全な交わりを持とうと、熱心に招いておられるのです。天の御国の鍵を持っておられる方(マタイ16:19; 黙示録1:18)が、私たちすべてに、ご自分の声を聞き、戸を開けるよう呼びかけておられます。主が入って来て、私たちと親密な結びつきを持てるようにです。イエス・キリストは、その呼びかけに応じる者たちに、永遠の命への開かれた戸と、天において主と共に治めるという報いを保証しておられます。—Got Questions [4]

    噛みしめるべき言葉

    私たちと神との関係は、まさにその言葉どおり、関係です。神の招きは、明確でシンプルです。「ここに来なさい。話をしよう。」 そして、私たちの応答は、こうです。「主よ、参ります」(詩篇27:8 リビングバイブル)。私たちは神と共にとどまり、神は私たちと共にとどまってくださいます。—マックス・ルケード

    私たちは、神との意識的で個人的な関係を持つために造られました。神を知る恵みにあずかった私たちは、創造主との個人的な関係へと招かれています。… 神は、私たちの人生の苦楽をすべて、共にしてくださるお方です。私たちが何一つ隠し立てしないなら、神はそのすべてを、何の問題もなく受け止めてくださいます。それどころか、私たちが人生のどんな地点にいるときにも、神は私たちを包みこんでくださるのです。—ジョビアン・ワイゲル

    神との友情は、人生のあらゆる経験を神と分かち合うことで築かれます。もちろん、毎日、神とのデボーションの時間を持つ習慣を身につけることは大切ですが、神が望んでおられるのは、あなたの予定表にある約束以上のものです。神は、あらゆる活動、あらゆる会話、あらゆる問題、そしてあらゆる思いに関わることを望んでおられます。あなたは一日を通して、その瞬間に自分がしていることや考えていることについて、絶え間なく終わりのない会話を神と続けることができます。「絶えず祈る」とは、買い物や運転、仕事、その他何であれ日常的なことをしているときも、神と語り合うということです。—リック・ウォレン

    聖書は何と言っているか

    「目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい」(コロサイ4:2)。

    「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである」(1ヨハネ3:1)。

    「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」(1テサロニケ5:16–18)。

    祈り

    天の父よ、私はあなたとの関係をもっと深めたいと願っています。あなたをもっと親しく知り、あなたの性質をもっと豊かに映し出したいのです。… あなたへの信仰と信頼が増し加わりますように。あなたの御言葉への理解を深め、それを日々の生活に適用できるよう、お助けください。私の祈りの生活を強め、あなたの声に耳を傾けることを教えてください。私の人生において成熟する必要のある領域を示し、その課題に立ち向かう勇気を与えてください。日々、自分自身に死に、キリストのために生きることができますように。謙遜と思いやり、そして他者への愛において、成長させてください。主よ、あなたが本来の私として造られたその姿になるよう、私を形作ってください。私の人生が、あなたの変革の力の証となりますように。イエスの御名によって、アーメン。[5]


    1 Tanya Remkiv, “What Does Fellowship with Christ Mean,” December 19, 2022, https://tanyaremkiv.com/2022/12/19/what-does-fellowship-with-christ-mean/

    2 ラウレンシオ修士(ブラザー・ローレンス)が勧めた「イエスの臨在の実践」とは、人生のあらゆる側面において神の臨在を絶えず意識するよう促す、霊的な訓練です。それは、日常の何気ない活動の最中であっても、一日を通して積極的に祈りと黙想を行うことによって、イエスとの深く親密な関係を育むことなのです。

    3 Max Lucado, God Is with You Every Day: 365-day Devotional (Thomas Nelson, 2015),22.

    4 “What Did Jesus Mean When He Said, ‘I Stand at the Door and Knock’?” GotQuestions.org, https://www.gotquestions.org/I-stand-at-the-door-and-knock.html.

    5 “10 Powerful Prayers to Get Closer to God and Find Stillness in His Presence,” My Prayer Item, https://myprayeritem.com/10-powerful-prayers-to-get-closer-to-god/.

     

  • 6月 9 すべての美徳の実践
  • 6月 2 他の人を励ます
  • 5月 26 キリストに従う者にとっての美徳: 自制・節制
  • 5月 19 第1コリント:第14章(26–40節)
  • 5月 12 キリストに従う者にとっての美徳: 優しさ・柔和
  • 5月 5 第1コリント:第14章(1–25節)
  • 2月 24 弟子の生き方(パート3): キリストにとどまる
  • 2月 1 第1コリント:第13章(1–13節)
  • 12月 30 第1コリント:第12章(12–30節)
   

信条

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  • ファミリー・インターナショナル(TFI)は、世界中の人々と神の愛のメッセージを分かち合うことをゴールとする国際的なオンライン・クリスチャン・コミュニティーです。私たちは、誰でもイエス・キリストを通して神との個人的な関係を持つことができると信じます。その関係があれば、幸せや心の平安が得られるだけではなく、他の人を助け、神の愛の良き知らせを伝えようという意欲がわいてきます。

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  • 個の力

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