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  • イエスの最後の現れと委任

    The Final Appearances and Commission of Jesus
    July 27, 2026

    ピーター・アムステルダム

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    マタイ、マルコ、ルカによる福音書はすべて、イエスと弟子たちとの最後の交流と、それに続くイエスの昇天の話で締めくくられています。

    マタイの福音書には、こうあります。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた」(マタイ28:16–17)。イエスを見たとき、ほとんどの弟子の反応はイエスを拝することでしたが、ユダの死後に残された「十一人の弟子たち」(使徒)の中には、ためらいや迷いを抱え、疑う者もいた、とあります。それは、自分の目の前にいるのが実際にイエスであると確信できなかったということかもしれません。

    福音書の他の箇所には、弟子たちがイエスに気づかなかったときのことが書かれています。「彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」(ルカ24:16)。「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった」(ヨハネ21:4)。(こちらも参照:ルカ24:30–31。)

    マタイによれば、弟子たちが山に着いたとき、「イエスは彼らに近づいてきて言われた、『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた』」(マタイ28:18)。イエスは先ず、ご自身は復活されることによって、彼らがよく知っていたような巡回伝道者や、癒やしを行う者、奇跡を起こす者とはかなり違った存在になったことを告げられたのです。

    「天においても地においても、いっさいの権威を」 という言葉は、ダニエル7章14節を思い出させます。「彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。」

    イエスはマタイの福音書の幾つかの箇所で、人の子による将来の統治について、ダニエル7章13–14節にある言葉を用いて語っておられます。たとえば、「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう」(マタイ24:30–31)。

    天と地のいっさいの権威を授けられていると告げた後、イエスは弟子たちに、次のような指示を与えられました。「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」(マタイ28:19–20)。

    イエスは、その権威がどのように行使されるかについては特に語らず、ただそれが弟子たちにとって何を意味するのかを告げられました。彼らと話しているのは復活のキリスト、神の子であり、神のいっさいの権威を授かっている方なので、「行って … 弟子と」する権限を弟子たちに与えることができたのです。彼らの仕事とは、イエスの生涯と死と復活について皆に知らせ、さらに、信じた者たちを教え訓練することであり、それによって、その人たちもまた世界中にメッセージを伝えることができるようにすることです。

    マタイの福音書に書かれた、イエスの最後の言葉とは、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」というものでした(マタイ28:20)。イエスの弟子たちは、最善をつくしてイエスに従うにあたり、自分ひとりでそうするわけではなく、イエスが共におられるのだという最終的な約束で、この福音書は締めくくられているのです。

    マルコによる福音書の「長い結び」

    マルコによる福音書の最後の章(マルコ16章)には、マグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、そしてサロメが、イエスの体に塗るための香料を持って墓へ行ったことが書かれています(マルコ16:1–4)。一行が墓に入ってみると、右手に真白な長い衣を着た若者(天使)が座っており、非常に驚きました(マルコ16:5)。天使は彼女らにこう告げました。「今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と。」 すると、「女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ16:7–8)。

    翻訳聖書の中には、この時点をもって、マルコによる福音書を終わらせているものがあります。しかし、他のほとんどの翻訳聖書には、もう12節(マルコ16:9–20)多く載せられています。これは、「長い結び」と呼ばれているものです。現代の聖書にこの箇所が含まれるとき、通常は斜体で印刷されており(英訳聖書)、多くの場合、最初の8節と区切るために括弧で囲まれています。

    初期のクリスチャン、たとえば殉教者ユスティノス(100年頃–165年)は、その著作にマルコ16:20を引用しており、他の1~2世紀のクリスチャンたちもそうしているので、この箇所を原文の一部とする根拠はあります。ただ、もっとも古い写本(ギリシャ語、ラテン語、シリア語、コプト語、アルメニア語)の中には、この最後の12の節が含まれていないものがあるため、その部分は後に追加された可能性も考えられるのです。ESVスタディノートは、この箇所について次のように解説しています。

    多くの翻訳聖書がしているように、ESVの編集者たちは、この部分を括弧で囲むことによって、マルコが本来書いたものの一部であったかどうかについて疑念を示すと同時に、教会内で長きに渡り多くの人々に受け入れられてきたという事実も認めています。9–20節の内容は、福音書の他の箇所や新約聖書の残りの部分と照らし合わせて解釈するのが最も適切です。(その内容の大部分は他の箇所にも見られ、9–20節の有無によって教理上の要点が左右されることはありません。)

    ほとんどの翻訳聖書には、この「長い結び」が含まれているので、本記事でもこの箇所について解説していきます。

    「週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。マリヤは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた。彼らは、イエスが生きておられる事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが、信じなかった」(マルコ16:9–11)。

    週の初めの日、つまり日曜日に、イエスがマグダラのマリヤにご自身を現されたとあります。ルカとヨハネの福音書にも、マグダラのマリヤは、イエスがもはや墓におられないと発見した人の一人であることや、そのことを弟子たちに知らせに行ったことが書かれています。マルコの福音書では、イエスの死を悼み、悲しんでいた弟子たちは、マグダラのマリヤがイエスに会ったことや、イエスが生きておられることを信じるのを拒んでいます。それと同様の反応が、ルカの福音書にも記されています。「使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった」(ルカ24:11)。

    「この後、そのうちのふたりが、いなかの方へ歩いていると、イエスはちがった姿で御自身をあらわされた。このふたりも、ほかの人々の所に行って話したが、彼らはその話を信じなかった」(マルコ16:12–13)。これは、ルカの福音書にある、エマオという村へ行く途上でイエスに会ったけれど、それがイエスだとは気づかなかった2人の弟子の話を思い出させます(ルカ24:13–16)。ここでは、イエスが彼らに会われた時の「違った姿」とはどういったものなのか、またすぐにイエスだと気づいたかどうかは書かれていません。エマオに向かっていた弟子たちと同様、この弟子たちも、残りの弟子たちのところへ戻り、自分たちがイエスに会ったことを伝えました。

    「その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」(マルコ16:14)。イエスは「十一弟子」に現れ、彼らの不信仰とかたくなな心とをおとがめになりました。11人の誰も、弟子仲間が彼らに本当のことを話していると信じなかったとは想像しにくいことですが、その少し前に起こったこと(イエスの逮捕、十字架刑、埋葬、復活)を考慮すれば、おそらく弟子たちにとって、それは非常に辛く頭が混乱させられる時だったのでしょう。

    それからイエスは、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と言われました(マルコ16:15)。ここでイエスは、弟子たちに、イエスのメッセージである福音を携え、それをすべての人に伝えることを委任されたのです。言い換えれば、マルコの福音書で、「すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」という言葉が意味するのは、イエスのメッセージはイスラエルの枠を超え、ユダヤ教の枠を超えて、伝えられていくべきだということです。弟子たちは、すべての場所で、すべての人に、福音を伝えるべきなのです。

    ここでイエスは、さらにこう言われます。「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる」(マルコ16:16)。イエスを信じることは、救いに不可欠です。この点は、福音書のさまざまな箇所に記されています。「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」(ヨハネ3:36)。

    「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」(マルコ16:17–18)。

    使徒行伝には、信じる者にはしるしが伴うというイエスの約束の成就が書かれています。「そのころ、多くのしるしと奇跡とが、次々に使徒たちの手により人々の中で行われた」(使徒5:12)。また、弟子たちが悪霊を追い出したことについても記されています。一例をあげると、使徒パウロがある女性から霊を追い出した時のことです(使徒16:16–18)。異言を話すことについては、ペンテコステの日に、弟子たち「一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」と記されています(使徒2:1–4)。

    マルコの福音書の「長い結び」は、イエスの昇天で幕を閉じます。「主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった」(マルコ16:19–20)。

    使徒行伝にも、イエスが弟子たちに宣教を委任し、昇天された様子が記されています。「イエスは・・四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話され」、「お選びになった使徒たちに聖霊を通して指示を与え、天に上げられた」(使徒1:2–3 聖書協会共同訳)。イエスはこの箇所で、福音書における弟子たちへの委任と同様のことを、昇天前の最後の言葉として、次のように語られています。「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)。

    マタイによる福音書の結びであるマタイ28章18–20節において、天と地のいっさいの権威を授かったイエスは、弟子たちに、至るところに「行って」、人々を「弟子と」しなさいと指示されました。この方向性は、同じ福音書の前のほうで、イエスが弟子たちに次のように命じられたものとは異なっています。「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな」(マタイ10:5)。

    ここでは、行って、すべての国民に手を差し伸べ、父と子と聖霊との名によって(三位一体の神)、信じる者たちにバプテスマを施しなさいと命じられています。なぜなら、「からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」(エペソ4:4–6)。

    イエスの弟子たちは、行って、人々を弟子とすること以外にも、「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように」彼らに教えるよう言われています(マタイ28:20)。信者たちは、イエスに命じられたことを人に教えると共に、自分自身もイエスの教えを守り、それを日々の生活に当てはめるよう求められました。神の愛、イエスの犠牲的な死、そして永遠の命という贈り物のメッセージに生き、それを伝えることが、私たち一人ひとりに委任されています。

    愛をもって、また神への奉仕をもって、人生を生き、最善をつくして神の愛と救いのメッセージを他の人に伝える時、イエスの次の約束を耳にして、私たちは喜びと安らぎを得ることができます。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)。

    初版は2022年8月 2026年7月に改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー

  • 8月 29 あなたは大いに価値のある存在
  • 8月 25 誰が糸を引いているのか?
  • 8月 23 人生の嵐の中で、共にいてくださる方
  • 8月 19 自然と人生の変化を受け入れる
  • 8月 17 婚宴とぶどう酒
  • 8月 13 行く先々で善い行いをする
  • 8月 11 神の愛を分かち合う
  • 8月 7 もっとキリストに似た者となる
  • 8月 5 神の性質:優しさ
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 弟子の生き方(パート4): 神との関係

    [The Life of Discipleship, Part 4: Relationship with God]

    September 30, 2025

    神との関係——神との交わり——は、弟子としての歩みの中心にあります。私たちはクリスチャンとして、神との個人的な関係を持つという祝福、栄誉、機会に恵まれています。宇宙の創造主である方が、私たちと交わりたいと願われ、私たちがご自身と和解できるように、御子イエスを全人類のために十字架で死なせるほどの大きな犠牲を払われたとは、私たちには測りがたいほどのことです。使徒パウロが書いているように、「神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである」(1コリント1:9)。

    イエスは、父との関係のために時間を取ることについて、手本を示されました。福音書には、イエスが早朝に起きて祈られたこと(マルコ1:35)、祈るために群衆のいない所に身を避けられたこと(ルカ5:15–16)、夜を徹して祈られたこと(ルカ6:12–13)が記されています。イエスは、神と交わって、親しく語り合い、神の指示を受け取るための時間を取られました(ヨハネ5:30)。

    神との交わりとは、神の臨在の中で時を過ごし、神を礼拝し、祈りのうちに神に語りかけ、神の言葉を読み、その御言葉を通して神が語られることに耳を傾け、さらに、神が私たちに個人的に語りかけてくださる御声に耳を傾けることを意味します。私たちは、神がどのようなお方であり、私たちのために何をしてくださったかを思って、神を賛美し、感謝するための時間を設けることで、「さんびのいけにえ … を、たえず神にささげ」る(ヘブル13:15)と共に、1日を通して神と交わる必要があります。大きな愛をもって私たちの命を支え、私たちとの交わりを望んでおられる創造主であり救い主である神と、つながるための時間を取る必要があるのです。

    主との交わりの時間を取るとき、主はそれに応じてくださいます。私たちが、他にしていることをやめて、主の臨在の中へ入るとき、私たちは主に耳を傾けてその指示を受け取る姿勢になっているので、主は助言をもって私たちを導き(詩篇73:24)、御心を行うことを教えてくださいます(詩篇143:10)。

    祈り、神を賛美して礼拝すること、また、私たちの人生——希望や夢、成功と失敗——について神に語りかけ、罪を告白し、神の助けを求め、神を愛していると告げ、神の語られることに耳を傾けることは、どれもみな、私たちが神と持つべき交わり、友情、関係の一部なのです。

    双方向のコミュニケーションは、人間関係における重要な要素であり、主との交わりも例外ではありません。神の声に耳を傾けることと、神に語りかけることの両方が必要なのです。神に耳を傾ける第一の方法は、神の言葉である聖書を読むことです。私たちが聖書を読み、その内容について考え、黙想し、それが自分にとってどんな意味があるのか、その意味することを日々の生活にどう当てはめられるのかと自問するとき、神はそれを通して語りかけてくださいます。また、私たちが心を静めて、主の静かで小さな声に耳を傾けるときにも、神は語ってくださいます。

    私たちが心と生活を主に向けて開き、重荷や悩み、恐れ、また希望や喜び、夢を分かち合うとき、神との関係は深まっていきます。神の言葉を学んで瞑想し、それを自分の生活にどう当てはめるべきかを学ぶ時間を設けることで、私たちは神への信仰と信頼、理解と礼拝を深めていくのです。祈りを通して神と対話し、神を愛し、神の御声に耳を傾ける時間を取り、神から学び、日頃から神と交わりを持つこと、これらすべてが、神に近づき、神に似た者となるための重要な要素です。以下の記事でも、それが強調されています。

    キリストとの交わりが意味するものとは

    神が私たちの人生に関わってくださっているとは、実に驚くべきことです。キリストと交わるとは、私たちがキリストの命にあずかるだけでなく、キリストもまた私たちの命に関わってくださることを意味します。私にとって、この気づきは、これまでとは違った視点をもって人生を歩む助けとなりました。…

    試練や困難な状況が訪れたとき、このことは、イエス・キリストがどのような状況においても、私たちと共にいてくださることを認識する助けとなります。また、物事が順調に進んでいるときにも、イエスが今もなおすべての状況において、私たちと共におられることが分かります。イエスは誰をも包み込み、親密に寄り添う方であり、私たちが自分で物事を解決するよう、一人きりにさせることはありません。イエスは私たちの人生に関わってくださるのです。…

    聖書で「交わり」という言葉が出てくるとき、それは単なる関係を示す概念ではありません。関係という言葉は、「つながっている状態」を意味します。私たちはすでにキリストとつながっていますが(ヨハネ15章)、さらに深いもの、すなわち「交わり」を持つよう招かれています。

    神との関係は、神とつながるための最初の招きであり、イエスによる救いは、私たちを神との関係へと導きます。しかし、神との交わりは、神との親密な関係へと招くものです。それは、神との継続的なつながりであり、神と共に時を過ごすための手段です。… 私たちは、神との関係を持っている(すなわち、神とつながり、神との絆が回復されている)だけでなく、神との交わりも持つことができます。神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩き、互いに交わりを持つのであり、御子イエスの血が、すべての罪から私たちを清めるのです(1ヨハネ1:6–7)。

    これこそが、私たちがより主に似た者となり、自分の人生に主の命を見るための道であり、手段です。私たちがイエスと交わるとき、私たちはより主に似た者となって、主を映し出すようになり、それが神との関係を深めるのです。—ターニャ・レムキフ [1]

    祈りの原則

    弟子たちが祈り方を教えてくださいとお願いした時、イエスは「主の祈り」を教えられました。この祈りを祈るとき、私たちは、神を聖なる方、すべての上におられる方としてあがめ、地において、また自分の人生において、神の御心がなされるように願い、日々の必要を神に頼っていることを認め、自分の罪が赦されることを求めます(マタイ6:9–13)。

    また、イエスは弟子たちに、祈りにおいて油断することなく、「目をさまして祈っていなさい」と教えられました(マタイ26:41)。イエスの模範から、私たちは一人になって祈ること(ルカ6:12)、感謝して祈ること、他の信者たちと共に祈ること、そして他者のために執り成しの祈りをすること(ヨハネ17:20–26)を学びます。生活の忙しさから離れて、一人きりで祈りの時間を持ち、また、他の人たちと共に祈り、あるいはその人たちのために執り成すというイエスの手本は、その足跡をたどりたいと願う人たちのための道しるべとなっています。

    祈りについて、イエスが信者たちに教えられた最も基本的な事柄の一つとは、父なる神との正しい関係を持つことでした。イエスは常に父に祈り、弟子たちにも同様にするよう教えられました。私たちは、神の家族に養子として迎え入れられた、神の息子であり、娘です。ですから、祈るとき、私たちは「アバ」、つまり私たちの父の前に出ているのです。

    クリスチャンとして、私たちは祈りによって神の臨在の中に入るという、計り知れない特権にあずかっています。私たちは神と交わり、神を賛美し、礼拝することができます。また、神が成してくださったすべてのことと、神の慈しみと恵み――私たちに対する身に余る恩寵――に感謝を捧げることができます。神の御前に心をさらけ出し、最も内なる思いや願い、懸念を打ち明け、悩みや問題、必要を神に委ねることができます。助けを必要としている人々のために執り成しの祈りをし、愛する人々を神のご配慮に委ねることができます。あらゆる心配事や不安、懸念を神に委ねることができます。

    弱く、疲れ果てているとき、心の重荷を神に打ち明けることができます。しくじり、過ちを犯し、あるいは間違ったことをし、罪を犯したとき、それを告白して神の赦しを求め、そして赦していただくことができます。嬉しいときも悲しいときも、健やかなときも病んでいるときも、豊かなときも乏しいときも、神と語り合うことができます。なぜなら、この関係は、私たちを造られただけでなく、私たちを深く愛し、私たちの人生のあらゆる側面に関わりたいと願っておられる方との関係だからです。祈りは、神を私たちの日々の生活に招き入れ、私たちの人生に直接かつ親密に関わってくださるようお願いするための手段です。

    祈りとは、私たちが一方的に話し続け、神がただ聞いてくださることを期待するような、一方通行の会話であってはなりません。祈るときには、私たちもまた、読んだ聖書の言葉を通して、敬虔な教師や説教者が語っていることを通して、あるいは神の前に静まり、心を開いて神の声を聞くことを通して、神が私たちに伝えようとしておられることに耳を傾ける必要があります。私たちが御言葉を黙想するとき、読んだ御言葉を日々の生活にどう適用すべきかを示してくださるよう求めるとき、そして心の中を静め、神が私たちに語りかける機会を与えるとき、神はさまざまな方法で私たちに語りかけてくださいます。

    イエスは、ご自身の模範と教えを通して、祈りの重要性を教え、そして最も大切なことに、私たちの祈りが神との親しい関係に根ざしたものであるべきだと教えられました。祈りのために時間を設けることに加えて、私たちは絶えず神との交わりの中にいるよう求められています。それは、神と継続的に対話すること、つまり、一日を通して神に語りかけ、導きを求め、神を賛美し、神の声に耳を傾けることです。これが、「絶えず」祈りなさいというパウロの一般的訓戒(1テサロニケ5:17)の意味である、と捉えることができます。現実的な話として、仕事や生活に関わる責任に追われる忙しい日々の中で、長い間すべての活動を止め、祈りに専念できるような時間はないかもしれません。しかし、一日を過ごす中で、仕事や務めを果たしながら、自分の思いや活動、そして他者とのコミュニケーションを絶えずイエスに委ねることによって、「イエスの臨在を実践する」[2] ことができます。

    祈りに動かされて

    まず、祈りましょう。飢えた人を助けるために旅立つのですか。その任務を祈りに浸してから出かけましょう。不正の結び目を解こうとしているのですか。祈りましょう。人種差別と分断に満ちた世界に疲れていますか。神もそうです。そして神は、そのことについてあなたと語り合いたいと願っておられます。

    何よりも、祈りましょう。神は私たちに、絶えず説教しなさいと命じられましたか。絶えず教えなさいと命じられましたか。絶えず委員会の会合を開きなさいと命じられましたか。絶えず歌いなさいと命じられましたか。いいえ、そうではなく、「絶えず祈りなさい」と命じられたのです(1テサロニケ5:17)。

    イエスは、ご自身の家が学びの家と呼ばれると宣言されたでしょうか。それとも、交わりの家でしょうか。音楽の家でしょうか。展示の家でしょうか。活動の家でしょうか。いいえ、そうではなく、イエスは「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と言われたのです(マルコ11:17)。

    これほどの結果が保証されている霊的な活動は、他にありません。「あなたがたのうちの二人が、どんなことについても、地上で心を合わせて祈るなら、天におられるわたしの父は行動を起こしてくださる」(マタイ18:19 英語MSG訳)。神は、謙虚で祈り深い心に動かされます。祈りに動かされる方なのです。—マックス・ルケード [3]

    交わりへの招き

    神は人類への愛ゆえに、イエスの生涯と死と復活を通して、私たちを罪に対する罰から贖い出されました。私たちは、神の愛する御子の犠牲的な死を通して、神の愛を経験し、神との交わりを回復します。神が私たちを愛し、赦してくださったので、私たちは神を愛し、畏れ敬うのです。

    「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)という言葉を読むとき、私たちはそれが「神は私を個人的に愛しておられる」という意味だと理解します。私たちの救い、また神との関係は、ただひとえに、愛の贈り物として私たちに与えられたイエスの御業に基づいています。神の愛は無条件であり、私たちが犯すかもしれない過ちや罪や失敗にも、また落胆の感情にも、左右されることがありません。私たちは、救いによって神の御子と結ばれているという、ただそれだけの理由で、神の子の一人として神に愛されています。「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:38–39)。

    神との関係を求める気持ちは、祈りと礼拝と聖書を読むことによって神とつながっているよう、私たちを動かます。また、神に仕え、神の愛と真理を他者と分かち合うことで、信仰を実践するよう、私たちを動かします。弟子として、私たちは神との交わりと、私たちの人生における神の臨在を、熱心に求めるのです。

    イエスが黙示録の中で、ある教会になされた呼びかけは、今日の私たちへの呼びかけでもあります。「わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(黙示録3:20)。イエスの時代の文化では、食事を共にするよう招くことは、関係を築こうという招きを意味していました。弟子として、私たちはイエスとの関係をさらに深め、イエスをよりよく知り、より深く愛そうとしています。また、私たちがイエスの臨在の中で過ごすとき、その結果として、イエスの性質である愛、優しさ、思いやり、温かさ、赦し、あわれみを他者に示すようになります。

    戸を開ける者たちに対して、イエスは親しい交わりを約束し、それを食事を共にする姿にたとえられました。… 今日もイエスは、「わたしは戸の外に立って、たたいている」と言い続けておられます。… 主は、完全な交わりを持とうと、熱心に招いておられるのです。天の御国の鍵を持っておられる方(マタイ16:19; 黙示録1:18)が、私たちすべてに、ご自分の声を聞き、戸を開けるよう呼びかけておられます。主が入って来て、私たちと親密な結びつきを持てるようにです。イエス・キリストは、その呼びかけに応じる者たちに、永遠の命への開かれた戸と、天において主と共に治めるという報いを保証しておられます。—Got Questions [4]

    噛みしめるべき言葉

    私たちと神との関係は、まさにその言葉どおり、関係です。神の招きは、明確でシンプルです。「ここに来なさい。話をしよう。」 そして、私たちの応答は、こうです。「主よ、参ります」(詩篇27:8 リビングバイブル)。私たちは神と共にとどまり、神は私たちと共にとどまってくださいます。—マックス・ルケード

    私たちは、神との意識的で個人的な関係を持つために造られました。神を知る恵みにあずかった私たちは、創造主との個人的な関係へと招かれています。… 神は、私たちの人生の苦楽をすべて、共にしてくださるお方です。私たちが何一つ隠し立てしないなら、神はそのすべてを、何の問題もなく受け止めてくださいます。それどころか、私たちが人生のどんな地点にいるときにも、神は私たちを包みこんでくださるのです。—ジョビアン・ワイゲル

    神との友情は、人生のあらゆる経験を神と分かち合うことで築かれます。もちろん、毎日、神とのデボーションの時間を持つ習慣を身につけることは大切ですが、神が望んでおられるのは、あなたの予定表にある約束以上のものです。神は、あらゆる活動、あらゆる会話、あらゆる問題、そしてあらゆる思いに関わることを望んでおられます。あなたは一日を通して、その瞬間に自分がしていることや考えていることについて、絶え間なく終わりのない会話を神と続けることができます。「絶えず祈る」とは、買い物や運転、仕事、その他何であれ日常的なことをしているときも、神と語り合うということです。—リック・ウォレン

    聖書は何と言っているか

    「目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい」(コロサイ4:2)。

    「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである」(1ヨハネ3:1)。

    「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」(1テサロニケ5:16–18)。

    祈り

    天の父よ、私はあなたとの関係をもっと深めたいと願っています。あなたをもっと親しく知り、あなたの性質をもっと豊かに映し出したいのです。… あなたへの信仰と信頼が増し加わりますように。あなたの御言葉への理解を深め、それを日々の生活に適用できるよう、お助けください。私の祈りの生活を強め、あなたの声に耳を傾けることを教えてください。私の人生において成熟する必要のある領域を示し、その課題に立ち向かう勇気を与えてください。日々、自分自身に死に、キリストのために生きることができますように。謙遜と思いやり、そして他者への愛において、成長させてください。主よ、あなたが本来の私として造られたその姿になるよう、私を形作ってください。私の人生が、あなたの変革の力の証となりますように。イエスの御名によって、アーメン。[5]


    1 Tanya Remkiv, “What Does Fellowship with Christ Mean,” December 19, 2022, https://tanyaremkiv.com/2022/12/19/what-does-fellowship-with-christ-mean/

    2 ラウレンシオ修士(ブラザー・ローレンス)が勧めた「イエスの臨在の実践」とは、人生のあらゆる側面において神の臨在を絶えず意識するよう促す、霊的な訓練です。それは、日常の何気ない活動の最中であっても、一日を通して積極的に祈りと黙想を行うことによって、イエスとの深く親密な関係を育むことなのです。

    3 Max Lucado, God Is with You Every Day: 365-day Devotional (Thomas Nelson, 2015),22.

    4 “What Did Jesus Mean When He Said, ‘I Stand at the Door and Knock’?” GotQuestions.org, https://www.gotquestions.org/I-stand-at-the-door-and-knock.html.

    5 “10 Powerful Prayers to Get Closer to God and Find Stillness in His Presence,” My Prayer Item, https://myprayeritem.com/10-powerful-prayers-to-get-closer-to-god/.

     

  • 6月 9 すべての美徳の実践
  • 6月 2 他の人を励ます
  • 5月 26 キリストに従う者にとっての美徳: 自制・節制
  • 5月 19 第1コリント:第14章(26–40節)
  • 5月 12 キリストに従う者にとっての美徳: 優しさ・柔和
  • 5月 5 第1コリント:第14章(1–25節)
  • 2月 24 弟子の生き方(パート3): キリストにとどまる
  • 2月 1 第1コリント:第13章(1–13節)
  • 12月 30 第1コリント:第12章(12–30節)
   

信条

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  • ファミリー・インターナショナル(TFI)は、世界中の人々と神の愛のメッセージを分かち合うことをゴールとする国際的なオンライン・クリスチャン・コミュニティーです。私たちは、誰でもイエス・キリストを通して神との個人的な関係を持つことができると信じます。その関係があれば、幸せや心の平安が得られるだけではなく、他の人を助け、神の愛の良き知らせを伝えようという意欲がわいてきます。

私たちのミッション

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  • ファミリー・インターナショナルが何よりも目標としているのは、神の御言葉のうちに見出される、愛と希望、救いという命を与えるメッセージを分かち合うことによって、より良い人生を皆さんに送っていただくことです。ペースの速い、複雑化した現代社会にあっても、神の愛を日常生活の中で実践することこそ、社会の問題の多くを解決する鍵であると私たちは信じます。聖書の教えにある希望や助言を分かち合うことで、ひとりずつ心が変わって行くことによって、だんだん世界が変わって行き、より良い世界が築かれて行くと信じているのです。

理念

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パウロがテサロニケの信徒に宛てた書簡の研究と、その教えがいかに現在に当てはめられるか
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