We Are Imperfect, He Is Perfect
March 4, 2025
引用文集
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エペソ4章13節には、霊的な賜物が与えられているのは、私たちがキリストの体を建て上げて、「神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」ためである、とあります。(新改訳2017) 私たちが(「成熟した大人」ではなく)「完全な者」になると訳している翻訳聖書もあるため、ある人たちは、この地上での人生において罪のない完全な状態に達することができると誤解してきました。聖書は、私たちが肉体の内にある間は、常に罪の性質と戦うことになると教えています。(参照: ローマ7:14–24) 天国へ行くまでは、(罪のないという意味で)「完全」になれる人は誰もいないのです。
エペソ4章13節で「成熟した」と訳されているギリシャ語の言葉は「テレイオス」です。それは、新約聖書全体を通じて、「完全な」「完成した」「十分に成長した」「成熟した」という意味で使われています。エペソ4章13節が教えているのは、キリストにおいて成長すればするほど、私たちは教会としてより強く、より一つになっていくということです。この聖句は、私たちが罪を犯さないようになると教えているわけではありません。…
真に完全な者となるのは、私たちが引き上げられ、空中でイエスに会うという、教会(クリスチャン)の携挙があってからのことです。(1テサロニケ4:17) その時、キリストにあって死んだ者は復活し、生きている者の体は変えられます。(ピリピ3:20–21; 1コリント15:54)… 私たちの贖いは完成し、私たちの罪は永遠に消え去るのです。私たちは永遠に、罪のない完全な状態でキリストと共に生き、支配することでしょう。—GotQuestions.org [1]
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10歳の時に初めてアルベルト・シュバイツァーのことを聞いて、その献身に深い感動を覚えました。あまりの感動に、私も医者になって、アフリカでシュバイツァーと同じ道を歩もうと思ったほどです。あの頃は、何かについて詳しく知りたい場合、本や事典で調べなくてはならず、ほとんどのときは図書館へ行く必要がありました。要するに、好奇心がすぐに満たされることはなく、思いがけない発見の喜びや謎めいたこともあったわけです。
私は本の虫だったので、宣教師や探検家、自由の闘士などについて読み始めました。シュバイツァーがその一人目で、キング牧師、ジョン・F・ケネディ、ガンディー、フローレンス・ナイチンゲール、その他数多くの人が続きます。そうやって、この地上には、学校の歴史の本で読まなければいけないひどい悪人ばかりではなく、かなり素晴らしい人たちも生きてきたことに気づきました。
そこで私は、若くして、自分も世界を変える人たちの一人になろうと決意したのです。あれから何年も経ちましたが、嬉しいことにそれは実現してきました。自分の心に従い、困難だけれどやりがいを感じる宣教の地で、長年過ごすことができたのです。今でも、支援を必要とする、さまざまな価値ある目的のために自分の時間のほとんどを捧げています。
そうするために、犠牲を払わなかったわけでも、間違いを犯さなかったわけでもありませんが、それはそれでいいのです。この「たちまち情報にアクセスできる」新時代の弊害の一つは、私が多くのヒーローについてあれこれと読むようになり、彼らは私の思っていたほど完璧でも罪と無縁の存在でもないとわかったことでした。全てのヒーローに、考えてもみなかった弱点があったし、彼らの信じたことや言動のあるものに、最初は失望しがちでした。
でも後になって、私の高慢の鼻がへし折られた時に、彼らのまさにそういった欠点や人間的な弱さこそが、私を励ましてくれたのです。
世界を変えたこの人たちがなした善は、私たちが周りの世界を変えるのに、完璧でなくてもいいということを証明しています。何と言っても、彼らの誰一人として完璧ではないのに、自分の周りの世界を変えたのですから!—アンナ・ペルリニ
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第1ヨハネ1章6節には、こうあります。「神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。」 言い換えれば、私たちの歩み方が、自分は本当に神との関係を持っているかどうかを物語るということです。
ヨハネはさらに、こう告げます。「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」(1ヨハネ1:7) つまり、私たちがイエスの血によって罪から清められていることを示すには、光の中を歩むことが不可欠であると言っているのです。
そして、第1ヨハネ1章8節には、こうあります。「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。」 つまり、「光の中を歩くことは、罪のない状態を意味し得ない」ということです。この点をよく考えてみてください。ヨハネは先ほど、「光の中を歩かなければならない」とは言ったけれど、光の中を歩くことは罪のない状態を意味し得ません。なぜなら、「もし自分には罪がないと言うなら、それは大間違いだ」とも言っているからです。では、光の中を歩くとはどういう意味なのでしょうか。
そこでヨハネは、次の節、第1ヨハネ1章9節でこう続けます。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」 というわけで、ヨハネはこのように不完全なクリスチャンを描写しているのです。不完全なクリスチャンは、自分が完全・完璧だと主張するのではなく、光の中を歩みます。なぜなら、光の中を歩かなければ、神との交わりはなく、イエスの血が私たちを罪から清めることも、罪を覆うこともないからです。
「光の中を歩く」こと(1ヨハネ1:7)が罪のない状態を意味しているのでないならば、何を意味しているのでしょうか。ヨハネの答えは、それは習慣的かつ誠実な罪の告白を含む従順のパターンを意味するというものです。光の中を歩く人は、罪をあるがままに受け止め、それを憎み、告白し、感謝と謙遜の心でそれを赦していただき、神と人々をより良く愛するという決意を新たにして進み続けるための、十分な光を持っています。… 今私たちに必要なのは、神がこの聖書的なパターンの奇跡を、私たちの人生に組み込んでくださるよう祈ることです。—ジョン・パイパー [2]
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考えてもみてください。もし私が完全・完璧な人間であったなら、イエスを必要としないことでしょう。イエスが地上に来て私のために死んでくださったのは、私が完全な状態に達することはできないからです。
コロサイ2章13–14節にあるように、「あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。」
この節を読むと、私は深い感謝の念を覚えます。キリストが十字架上で完成された御業によって、私たちの債務証書は無効とされました。私たちが自分の罪のゆえに受けるべき罰を、キリストがご自分の身に負われたのです。
主は私たちの負債(罪)を完全に返済してくださいました。主がそうしてくださった理由は、私たちがどんな人間で何をしたかではなく、主がどんな方でどれほど私たちを愛してくださったか、ということです。そのため、神は私たちを見るときに、イエスを見られます。これが福音であり、良き知らせです。
私の代わりに主が死んでくださったので、私は自由と喜びをもって生きることができます。他の人を喜ばせ、完璧になり、良い評判を保つことを追い求めるような人生から解放されているのです。
子育てや結婚であれ、仕事であれ、単に他の人たちを交えて人生を生きていくことであれ、すべてを正しく行うことは決してできません。そもそも、それがゴールではないのです。自分の過ちや不完全さ、そして毎日毎分イエスを必要としていることを、正直に認めることのできる人間になりましょう。—クリスタル・ペイン [3]
2025年3月アンカーに掲載 朗読:レノア・ウェルシュ 音楽:マイケル・ドーリー
