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    Right Motivation
    September 7, 2026

    ピーター・アムステルダム

    オーディオ所要時間: 14:32
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    マタイの福音書6章で、イエスは山上の説教のこの部分を次のように始めています。「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう」(マタイ6:1)。

    ここで使われる「義」という[多くの翻訳聖書では「善行」と訳される]言葉は、聖書に記されている信仰の実践・順守のことであり、イエスの例には、貧しい人に施すことや祈り、断食が含まれています。この3つは、信仰生活のあらわれとして信者たちが実践することの代表例です。イエスは、これらのことをする際に、他の人に見せることを目的とすべきではないと言っておられます。

    また、「見る」というギリシャ語の言葉は、「見つめる、注意深く眺める、称賛をもって見られる重要な人に目を向ける」という意味です。マタイ書の後の方に、まさにそういったことをしているパリサイ人をイエスが非難して「そのすることは、すべて人に見せるためである」(マタイ23:5)と言っておられる場面があります。

    山上の説教の少し前の方で、イエスは、弟子たちの生き方の結果として、他の人たちが「あなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめる」(マタイ5:16)ようになるべきだと言われました。これは、6章にあるイエスの教えと矛盾しているようにも取れますが、両者の違いは、最初の方でイエスは弟子の人格や生活様式の全体について言われていたのに対し、山上の説教のこの部分では、特に宗教上の実践や義務について語っておられたことです。

    リチャード・フランスは、このように説明しています。

    [この]箇所は、故意に人前で認められようとすることについてですが、5章16節には、真の弟子の特徴とはどうあるべきかを突き詰めた結果が書かれています。そこで焦点が当てられている重要なこととは、そのような生き方をする者は、いやがおうでも「隠れることのできない、山の上にある町」となることです。宗教的な見えの結果は、人からの称賛という望み通りの「報い」を受けることですが、弟子の生き様という光を輝かせた結果は、人々が彼らではなく神に栄光を与えることです。[1]

    弟子として、私たちは自分の人生に神の姿を映し出そうと努めますが、それは、人から気づかれ、称賛されることを目的として祈りや施しをすることで、故意に注目を自分に集めることとはかなり違います。

    イエスがあげられた最初の例は、困っている人に施すことに関してでした。「だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている」(マタイ6:2)。

    生活に苦しむ貧しい人に施しをすることは、ユダヤ人の信仰生活における大切な一部として、聖書が命じていることです。申命記には、こうあります。「貧しい者はいつまでも国のうちに絶えることがないから、わたしは命じて言う、『あなたは必ず国のうちにいるあなたの兄弟の乏しい者と、貧しい者とに、手を開かなければならない』」(申命記15:11)。

    この点について、リチャード・フランスは次のように書いています。

    1世紀までには、シナゴーグ(会堂)を拠点とした、よく整備された救貧制度が存在するようになり、それは、現代では国家が福祉制度によって提供しようとしていることをしていました。この制度の運営資金は、地域住民からの寄付に頼っていました。「貧しい人のための十分の一」に関する規定(申命記14:28–29)に従って与えられたものもありましたが、大きく個人の自主性によるものでした。[2]

    イエスは明らかに、弟子たちが貧しい人に施すことを期待しておられました。「施しをするなら」ではなく「施しをする時には」と言われたのです。イエスは、施しをする時に人の注目を集めて自分がどれほど気前が良いかをほめてもらい、施しをする人に注目を集めるために、ラッパを吹きならしている様子を描写されました。イエスは、貧しい人々を助けることよりも、自己宣伝的な施し方をする人々の偽善を強く非難されています。彼らは、貧しい人に施すという良いことはしているものの、その動機は間違っており、自己欺瞞に陥っています。貧しい人に施す時には、愛と思いやりから、また神のいましめに従おうとしてするべきであり、自分の評判を高めるためにそれを利用してはいけないのです。

    他の人の注目を得ることが目的である人について、イエスは「よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている」と言われました(マタイ6:2)。「よく言っておくが」という厳粛な言葉で始まっているので、これは大切なことだとわかります。イエスが言われたことは、確かに大切なことです。人の注目と称賛を集めるために施しをする人は、受けるべき報いをすべて受けてしまっています。結局のところ、それこそが彼らの求めていたものなのですから。

    何をすべきでないかを示した上で、次にイエスは、神への奉仕をする時に――この場合は生活に困っている人へ施す時に――私たちはどのような態度を取るべきかを説明しておられます。「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(マタイ6:3–4)。

    いうまでもなく、実際、片方の手がしていることをもう一方の手に知らせないというのは、不可能です。イエスはこの修辞表現を使って、私たちは人の称賛を求めるために与えるべきではないというだけでなく、自分が与えたということ自体にこだわり、得意になってもいけないと告げておられます。

    ジョン・ストットは、このように書いています。

    クリスチャンの与え方は、自己犠牲的で自分を忘れて行うことを特徴とすべきであり、自画自賛であってはいけません。助けを必要とする人に何かを与える時、私たちが望むべきなのは、人のほまれや自己称賛の機会ではなく、むしろ神に満足していただくことであるべきです。[3]

    施しをすることは、神のいましめに従って行うあわれみの行為であり、神の性質をあらわし、自分の栄光ではなく神の栄光のためになされるべきことですが、だからといって報いを受けないわけではありません。「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(マタイ6:4)。

    私たちが「義を行う」時、つまり自分の信仰が命じることを行い、祈りによって魂を育み、神を礼拝し、御言葉のうちにとどまり、正しい心の態度を持ってあわれみの行為をなす時、神はそれを見ておられ、報いてくださいます。イエスは、それがどのような報いなのかをはっきりと告げてはおられませんが、福音書の随所で、私たちのした行いとは比べ物にならないほど大きなものであることを繰り返し口にされました。「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』」(マタイ25:21)。「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい』」(マタイ25:34)。「あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく …」(ルカ6:35)。

    私たちの永遠の報いがどのようなものであるかにかかわらず、正しい動機で与える時、私たちはすでに報われています。それは、自分が神に従ったこと、また、与えたものが時間であれ金銭であれ祈りであれ、それが他の人の役に立ったことを知っているからです。それに、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ25:40)ということを知っているのですから。

    それから、イエスは祈りについても同じようなことを語られました。「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている」(マタイ6:5)。

    ここで「会堂や大通りのつじに立って」祈っていたのは、ユダヤ教を実践する人が1日に3回決まって朗誦する祈りのことです。この祈りは、起床の際、神殿の午後の犠牲の時間(3時ごろ)、そして床につく前になされました。それぞれの時間にどこにいたとしても、立ち止まって祈るのです。

    イエスはこの祈りについても、公の場所で祈ることについても、反対しておられたわけではありません。イエスが反対されたのは、自分の予定を調整して、3時の祈りの際にわざと人目をひく場所へ行き、祈っているところを人に見せようとする人たちのことです。人に見せるために施し物を与える人たちの場合と同様、自己宣伝のために祈る人のことも、イエスは非難されました。

    公の場で祈ることは、何も間違ってはいません。それは教会や聖書研究会、祈りの集いなどでよく行われていることです。さらに言えば、いつどこで祈っても構いません。私たちは「絶えず祈りなさい」と言われているのです(1テサロニケ5:17)。ここでイエスが焦点を当てておられるのは、目的や動機であり、特に「人に見せようとして」行うという間違った動機を暴露することです。イエスは、人に見せようとして祈るという例をあげたうえで、そのような目的で祈る人は、報いをすべて受けており、また人からの注目や称賛も受けてしまっているが、それ以上に神から報いを受けることはないと言っておられます。

    それからイエスは、正しい祈り方とはどんなものなのかを説明されました。「祈る時には、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(マタイ6:6)。

    イエスの使われたこの比喩的描写は、神と二人きりでいることを表現したものです。イエスがしばしば父と二人きりになって、祈るための時間を取られたことが書かれています(ルカ5:16; マルコ1:35)。言うまでもなく、イエスは公の場で祈られたし、弟子たちもそうしました。そこで、イエスが非難しておられたのは公の場で祈ることではなく、自分の栄光や注目を得ようという間違った動機で祈ることであったとわかります。

    神との交わりを持ち、神を誠実に求め、正しい動機で祈りつつ神の御前へと行く人には、人目につかない祈りを見聞きしておられる神からの報いが約束されています。イエスが語っておられたのは、私たちの動機です。私たちの動機は、神に喜んでいただくことでなければいけません。主との親密さと関係を求める清い心でこれらのことを行いたいと願うことです。そのような姿勢こそ、神に祝福されるものです。

    私たちはクリスチャンとして、神との関係を持っています。そして、私たちの願いは、神が聖書で告げられたこと、神が喜ばれることを行うことです。それはつまり、礼拝や祈り、惜しみなく与え、人を愛することであり、神との関係を育むことです。そのようなことを、主の愛と栄光を求める心で行うならば、内面の変化、霊的成長、そして成熟がもたらされます。

    神を愛したい、神に喜んでいただきたい、もっと神のようになりたいという願いにもとづいて信仰を実践するなら、神の光をあらわすようになって、人々は神のために生きる人生、神に栄光を帰する人生の結ぶ実を見ることとなります。私たち各自が正しい動機をもって信仰を実践し、それによって、隠れたことを見ておられる私たちの父からの報いをいただけますように(マタイ6:4)。

    初版は2016年6月 2026年9月に改訂・再版 朗読:ジョン・ローレンス


    1 R. T. France, The Gospel of Matthew (Grand Rapids: Eerdmans, 2007), 234.

    2 France, The Gospel of Matthew, 235.

    3 John R. W. Stott, The Message of the Sermon on the Mount (Downers Grove: InterVarsity Press, 1978), 130–31.

  • 9月 30 たじろぐな
  • 9月 24 人生の晩年における精神的回復力
  • 9月 21 神が私たちの心の願いをかなえてくださらないとき
  • 9月 15 従順な僕のたとえ
  • 9月 12 言葉は、傷つけることも癒やすこともできる
  • 9月 6 費用の計算
  • 9月 4 人生の移り変わりに順応する
  • 8月 31 イエスの最後の現れと委任
  • 8月 29 あなたは大いに価値のある存在
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 弟子の生き方(パート4): 神との関係

    [The Life of Discipleship, Part 4: Relationship with God]

    September 30, 2025

    神との関係——神との交わり——は、弟子としての歩みの中心にあります。私たちはクリスチャンとして、神との個人的な関係を持つという祝福、栄誉、機会に恵まれています。宇宙の創造主である方が、私たちと交わりたいと願われ、私たちがご自身と和解できるように、御子イエスを全人類のために十字架で死なせるほどの大きな犠牲を払われたとは、私たちには測りがたいほどのことです。使徒パウロが書いているように、「神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである」(1コリント1:9)。

    イエスは、父との関係のために時間を取ることについて、手本を示されました。福音書には、イエスが早朝に起きて祈られたこと(マルコ1:35)、祈るために群衆のいない所に身を避けられたこと(ルカ5:15–16)、夜を徹して祈られたこと(ルカ6:12–13)が記されています。イエスは、神と交わって、親しく語り合い、神の指示を受け取るための時間を取られました(ヨハネ5:30)。

    神との交わりとは、神の臨在の中で時を過ごし、神を礼拝し、祈りのうちに神に語りかけ、神の言葉を読み、その御言葉を通して神が語られることに耳を傾け、さらに、神が私たちに個人的に語りかけてくださる御声に耳を傾けることを意味します。私たちは、神がどのようなお方であり、私たちのために何をしてくださったかを思って、神を賛美し、感謝するための時間を設けることで、「さんびのいけにえ … を、たえず神にささげ」る(ヘブル13:15)と共に、1日を通して神と交わる必要があります。大きな愛をもって私たちの命を支え、私たちとの交わりを望んでおられる創造主であり救い主である神と、つながるための時間を取る必要があるのです。

    主との交わりの時間を取るとき、主はそれに応じてくださいます。私たちが、他にしていることをやめて、主の臨在の中へ入るとき、私たちは主に耳を傾けてその指示を受け取る姿勢になっているので、主は助言をもって私たちを導き(詩篇73:24)、御心を行うことを教えてくださいます(詩篇143:10)。

    祈り、神を賛美して礼拝すること、また、私たちの人生——希望や夢、成功と失敗——について神に語りかけ、罪を告白し、神の助けを求め、神を愛していると告げ、神の語られることに耳を傾けることは、どれもみな、私たちが神と持つべき交わり、友情、関係の一部なのです。

    双方向のコミュニケーションは、人間関係における重要な要素であり、主との交わりも例外ではありません。神の声に耳を傾けることと、神に語りかけることの両方が必要なのです。神に耳を傾ける第一の方法は、神の言葉である聖書を読むことです。私たちが聖書を読み、その内容について考え、黙想し、それが自分にとってどんな意味があるのか、その意味することを日々の生活にどう当てはめられるのかと自問するとき、神はそれを通して語りかけてくださいます。また、私たちが心を静めて、主の静かで小さな声に耳を傾けるときにも、神は語ってくださいます。

    私たちが心と生活を主に向けて開き、重荷や悩み、恐れ、また希望や喜び、夢を分かち合うとき、神との関係は深まっていきます。神の言葉を学んで瞑想し、それを自分の生活にどう当てはめるべきかを学ぶ時間を設けることで、私たちは神への信仰と信頼、理解と礼拝を深めていくのです。祈りを通して神と対話し、神を愛し、神の御声に耳を傾ける時間を取り、神から学び、日頃から神と交わりを持つこと、これらすべてが、神に近づき、神に似た者となるための重要な要素です。以下の記事でも、それが強調されています。

    キリストとの交わりが意味するものとは

    神が私たちの人生に関わってくださっているとは、実に驚くべきことです。キリストと交わるとは、私たちがキリストの命にあずかるだけでなく、キリストもまた私たちの命に関わってくださることを意味します。私にとって、この気づきは、これまでとは違った視点をもって人生を歩む助けとなりました。…

    試練や困難な状況が訪れたとき、このことは、イエス・キリストがどのような状況においても、私たちと共にいてくださることを認識する助けとなります。また、物事が順調に進んでいるときにも、イエスが今もなおすべての状況において、私たちと共におられることが分かります。イエスは誰をも包み込み、親密に寄り添う方であり、私たちが自分で物事を解決するよう、一人きりにさせることはありません。イエスは私たちの人生に関わってくださるのです。…

    聖書で「交わり」という言葉が出てくるとき、それは単なる関係を示す概念ではありません。関係という言葉は、「つながっている状態」を意味します。私たちはすでにキリストとつながっていますが(ヨハネ15章)、さらに深いもの、すなわち「交わり」を持つよう招かれています。

    神との関係は、神とつながるための最初の招きであり、イエスによる救いは、私たちを神との関係へと導きます。しかし、神との交わりは、神との親密な関係へと招くものです。それは、神との継続的なつながりであり、神と共に時を過ごすための手段です。… 私たちは、神との関係を持っている(すなわち、神とつながり、神との絆が回復されている)だけでなく、神との交わりも持つことができます。神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩き、互いに交わりを持つのであり、御子イエスの血が、すべての罪から私たちを清めるのです(1ヨハネ1:6–7)。

    これこそが、私たちがより主に似た者となり、自分の人生に主の命を見るための道であり、手段です。私たちがイエスと交わるとき、私たちはより主に似た者となって、主を映し出すようになり、それが神との関係を深めるのです。—ターニャ・レムキフ [1]

    祈りの原則

    弟子たちが祈り方を教えてくださいとお願いした時、イエスは「主の祈り」を教えられました。この祈りを祈るとき、私たちは、神を聖なる方、すべての上におられる方としてあがめ、地において、また自分の人生において、神の御心がなされるように願い、日々の必要を神に頼っていることを認め、自分の罪が赦されることを求めます(マタイ6:9–13)。

    また、イエスは弟子たちに、祈りにおいて油断することなく、「目をさまして祈っていなさい」と教えられました(マタイ26:41)。イエスの模範から、私たちは一人になって祈ること(ルカ6:12)、感謝して祈ること、他の信者たちと共に祈ること、そして他者のために執り成しの祈りをすること(ヨハネ17:20–26)を学びます。生活の忙しさから離れて、一人きりで祈りの時間を持ち、また、他の人たちと共に祈り、あるいはその人たちのために執り成すというイエスの手本は、その足跡をたどりたいと願う人たちのための道しるべとなっています。

    祈りについて、イエスが信者たちに教えられた最も基本的な事柄の一つとは、父なる神との正しい関係を持つことでした。イエスは常に父に祈り、弟子たちにも同様にするよう教えられました。私たちは、神の家族に養子として迎え入れられた、神の息子であり、娘です。ですから、祈るとき、私たちは「アバ」、つまり私たちの父の前に出ているのです。

    クリスチャンとして、私たちは祈りによって神の臨在の中に入るという、計り知れない特権にあずかっています。私たちは神と交わり、神を賛美し、礼拝することができます。また、神が成してくださったすべてのことと、神の慈しみと恵み――私たちに対する身に余る恩寵――に感謝を捧げることができます。神の御前に心をさらけ出し、最も内なる思いや願い、懸念を打ち明け、悩みや問題、必要を神に委ねることができます。助けを必要としている人々のために執り成しの祈りをし、愛する人々を神のご配慮に委ねることができます。あらゆる心配事や不安、懸念を神に委ねることができます。

    弱く、疲れ果てているとき、心の重荷を神に打ち明けることができます。しくじり、過ちを犯し、あるいは間違ったことをし、罪を犯したとき、それを告白して神の赦しを求め、そして赦していただくことができます。嬉しいときも悲しいときも、健やかなときも病んでいるときも、豊かなときも乏しいときも、神と語り合うことができます。なぜなら、この関係は、私たちを造られただけでなく、私たちを深く愛し、私たちの人生のあらゆる側面に関わりたいと願っておられる方との関係だからです。祈りは、神を私たちの日々の生活に招き入れ、私たちの人生に直接かつ親密に関わってくださるようお願いするための手段です。

    祈りとは、私たちが一方的に話し続け、神がただ聞いてくださることを期待するような、一方通行の会話であってはなりません。祈るときには、私たちもまた、読んだ聖書の言葉を通して、敬虔な教師や説教者が語っていることを通して、あるいは神の前に静まり、心を開いて神の声を聞くことを通して、神が私たちに伝えようとしておられることに耳を傾ける必要があります。私たちが御言葉を黙想するとき、読んだ御言葉を日々の生活にどう適用すべきかを示してくださるよう求めるとき、そして心の中を静め、神が私たちに語りかける機会を与えるとき、神はさまざまな方法で私たちに語りかけてくださいます。

    イエスは、ご自身の模範と教えを通して、祈りの重要性を教え、そして最も大切なことに、私たちの祈りが神との親しい関係に根ざしたものであるべきだと教えられました。祈りのために時間を設けることに加えて、私たちは絶えず神との交わりの中にいるよう求められています。それは、神と継続的に対話すること、つまり、一日を通して神に語りかけ、導きを求め、神を賛美し、神の声に耳を傾けることです。これが、「絶えず」祈りなさいというパウロの一般的訓戒(1テサロニケ5:17)の意味である、と捉えることができます。現実的な話として、仕事や生活に関わる責任に追われる忙しい日々の中で、長い間すべての活動を止め、祈りに専念できるような時間はないかもしれません。しかし、一日を過ごす中で、仕事や務めを果たしながら、自分の思いや活動、そして他者とのコミュニケーションを絶えずイエスに委ねることによって、「イエスの臨在を実践する」[2] ことができます。

    祈りに動かされて

    まず、祈りましょう。飢えた人を助けるために旅立つのですか。その任務を祈りに浸してから出かけましょう。不正の結び目を解こうとしているのですか。祈りましょう。人種差別と分断に満ちた世界に疲れていますか。神もそうです。そして神は、そのことについてあなたと語り合いたいと願っておられます。

    何よりも、祈りましょう。神は私たちに、絶えず説教しなさいと命じられましたか。絶えず教えなさいと命じられましたか。絶えず委員会の会合を開きなさいと命じられましたか。絶えず歌いなさいと命じられましたか。いいえ、そうではなく、「絶えず祈りなさい」と命じられたのです(1テサロニケ5:17)。

    イエスは、ご自身の家が学びの家と呼ばれると宣言されたでしょうか。それとも、交わりの家でしょうか。音楽の家でしょうか。展示の家でしょうか。活動の家でしょうか。いいえ、そうではなく、イエスは「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と言われたのです(マルコ11:17)。

    これほどの結果が保証されている霊的な活動は、他にありません。「あなたがたのうちの二人が、どんなことについても、地上で心を合わせて祈るなら、天におられるわたしの父は行動を起こしてくださる」(マタイ18:19 英語MSG訳)。神は、謙虚で祈り深い心に動かされます。祈りに動かされる方なのです。—マックス・ルケード [3]

    交わりへの招き

    神は人類への愛ゆえに、イエスの生涯と死と復活を通して、私たちを罪に対する罰から贖い出されました。私たちは、神の愛する御子の犠牲的な死を通して、神の愛を経験し、神との交わりを回復します。神が私たちを愛し、赦してくださったので、私たちは神を愛し、畏れ敬うのです。

    「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)という言葉を読むとき、私たちはそれが「神は私を個人的に愛しておられる」という意味だと理解します。私たちの救い、また神との関係は、ただひとえに、愛の贈り物として私たちに与えられたイエスの御業に基づいています。神の愛は無条件であり、私たちが犯すかもしれない過ちや罪や失敗にも、また落胆の感情にも、左右されることがありません。私たちは、救いによって神の御子と結ばれているという、ただそれだけの理由で、神の子の一人として神に愛されています。「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:38–39)。

    神との関係を求める気持ちは、祈りと礼拝と聖書を読むことによって神とつながっているよう、私たちを動かます。また、神に仕え、神の愛と真理を他者と分かち合うことで、信仰を実践するよう、私たちを動かします。弟子として、私たちは神との交わりと、私たちの人生における神の臨在を、熱心に求めるのです。

    イエスが黙示録の中で、ある教会になされた呼びかけは、今日の私たちへの呼びかけでもあります。「わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(黙示録3:20)。イエスの時代の文化では、食事を共にするよう招くことは、関係を築こうという招きを意味していました。弟子として、私たちはイエスとの関係をさらに深め、イエスをよりよく知り、より深く愛そうとしています。また、私たちがイエスの臨在の中で過ごすとき、その結果として、イエスの性質である愛、優しさ、思いやり、温かさ、赦し、あわれみを他者に示すようになります。

    戸を開ける者たちに対して、イエスは親しい交わりを約束し、それを食事を共にする姿にたとえられました。… 今日もイエスは、「わたしは戸の外に立って、たたいている」と言い続けておられます。… 主は、完全な交わりを持とうと、熱心に招いておられるのです。天の御国の鍵を持っておられる方(マタイ16:19; 黙示録1:18)が、私たちすべてに、ご自分の声を聞き、戸を開けるよう呼びかけておられます。主が入って来て、私たちと親密な結びつきを持てるようにです。イエス・キリストは、その呼びかけに応じる者たちに、永遠の命への開かれた戸と、天において主と共に治めるという報いを保証しておられます。—Got Questions [4]

    噛みしめるべき言葉

    私たちと神との関係は、まさにその言葉どおり、関係です。神の招きは、明確でシンプルです。「ここに来なさい。話をしよう。」 そして、私たちの応答は、こうです。「主よ、参ります」(詩篇27:8 リビングバイブル)。私たちは神と共にとどまり、神は私たちと共にとどまってくださいます。—マックス・ルケード

    私たちは、神との意識的で個人的な関係を持つために造られました。神を知る恵みにあずかった私たちは、創造主との個人的な関係へと招かれています。… 神は、私たちの人生の苦楽をすべて、共にしてくださるお方です。私たちが何一つ隠し立てしないなら、神はそのすべてを、何の問題もなく受け止めてくださいます。それどころか、私たちが人生のどんな地点にいるときにも、神は私たちを包みこんでくださるのです。—ジョビアン・ワイゲル

    神との友情は、人生のあらゆる経験を神と分かち合うことで築かれます。もちろん、毎日、神とのデボーションの時間を持つ習慣を身につけることは大切ですが、神が望んでおられるのは、あなたの予定表にある約束以上のものです。神は、あらゆる活動、あらゆる会話、あらゆる問題、そしてあらゆる思いに関わることを望んでおられます。あなたは一日を通して、その瞬間に自分がしていることや考えていることについて、絶え間なく終わりのない会話を神と続けることができます。「絶えず祈る」とは、買い物や運転、仕事、その他何であれ日常的なことをしているときも、神と語り合うということです。—リック・ウォレン

    聖書は何と言っているか

    「目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい」(コロサイ4:2)。

    「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである」(1ヨハネ3:1)。

    「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」(1テサロニケ5:16–18)。

    祈り

    天の父よ、私はあなたとの関係をもっと深めたいと願っています。あなたをもっと親しく知り、あなたの性質をもっと豊かに映し出したいのです。… あなたへの信仰と信頼が増し加わりますように。あなたの御言葉への理解を深め、それを日々の生活に適用できるよう、お助けください。私の祈りの生活を強め、あなたの声に耳を傾けることを教えてください。私の人生において成熟する必要のある領域を示し、その課題に立ち向かう勇気を与えてください。日々、自分自身に死に、キリストのために生きることができますように。謙遜と思いやり、そして他者への愛において、成長させてください。主よ、あなたが本来の私として造られたその姿になるよう、私を形作ってください。私の人生が、あなたの変革の力の証となりますように。イエスの御名によって、アーメン。[5]


    1 Tanya Remkiv, “What Does Fellowship with Christ Mean,” December 19, 2022, https://tanyaremkiv.com/2022/12/19/what-does-fellowship-with-christ-mean/

    2 ラウレンシオ修士(ブラザー・ローレンス)が勧めた「イエスの臨在の実践」とは、人生のあらゆる側面において神の臨在を絶えず意識するよう促す、霊的な訓練です。それは、日常の何気ない活動の最中であっても、一日を通して積極的に祈りと黙想を行うことによって、イエスとの深く親密な関係を育むことなのです。

    3 Max Lucado, God Is with You Every Day: 365-day Devotional (Thomas Nelson, 2015),22.

    4 “What Did Jesus Mean When He Said, ‘I Stand at the Door and Knock’?” GotQuestions.org, https://www.gotquestions.org/I-stand-at-the-door-and-knock.html.

    5 “10 Powerful Prayers to Get Closer to God and Find Stillness in His Presence,” My Prayer Item, https://myprayeritem.com/10-powerful-prayers-to-get-closer-to-god/.

     

  • 6月 9 すべての美徳の実践
  • 6月 2 他の人を励ます
  • 5月 26 キリストに従う者にとっての美徳: 自制・節制
  • 5月 19 第1コリント:第14章(26–40節)
  • 5月 12 キリストに従う者にとっての美徳: 優しさ・柔和
  • 5月 5 第1コリント:第14章(1–25節)
  • 2月 24 弟子の生き方(パート3): キリストにとどまる
  • 2月 1 第1コリント:第13章(1–13節)
  • 12月 30 第1コリント:第12章(12–30節)
   

信条

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  • ファミリー・インターナショナル(TFI)は、世界中の人々と神の愛のメッセージを分かち合うことをゴールとする国際的なオンライン・クリスチャン・コミュニティーです。私たちは、誰でもイエス・キリストを通して神との個人的な関係を持つことができると信じます。その関係があれば、幸せや心の平安が得られるだけではなく、他の人を助け、神の愛の良き知らせを伝えようという意欲がわいてきます。

私たちのミッション

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  • ファミリー・インターナショナルが何よりも目標としているのは、神の御言葉のうちに見出される、愛と希望、救いという命を与えるメッセージを分かち合うことによって、より良い人生を皆さんに送っていただくことです。ペースの速い、複雑化した現代社会にあっても、神の愛を日常生活の中で実践することこそ、社会の問題の多くを解決する鍵であると私たちは信じます。聖書の教えにある希望や助言を分かち合うことで、ひとりずつ心が変わって行くことによって、だんだん世界が変わって行き、より良い世界が築かれて行くと信じているのです。

理念

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  • 神の御霊の追求

    私たちは、神の言葉の真理、神の神性の本質を知り、理解することを願います。書き記された御言葉にある基本的原則、また神から聞くことと神の導きに従うことを尊びます。

TFI について

TFI オンラインは、ファミリー・インターナショナル(TFI)のメンバーのためのコミュニティサイトです。TFI は、世界各地で神の愛のメッセージを伝えることに献身する国際的なクリスチャン・フェローシップです。

TFI について詳しくお知りになりたい方は、私たちのグローバルサイトをご覧ください。

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最近のシリーズ

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第1・第2テサロニケ
パウロがテサロニケの信徒に宛てた書簡の研究と、その教えがいかに現在に当てはめられるか
そのすべての核心にあるもの
キリスト教信仰・教義の基本を扱ったシリーズ