• 絶えず祈り、常に感謝しよう

  • 私は世の終りまで、いつもあなたと共にいる

  • 天地が滅びても、私の言葉は滅びない

  • 私にできることは、今できますように

  • 神は良き方 どんな時にも

アンカー

ユーザーフレンドリーなデボーション記事

  • 金を借りた二人の人のたとえ

    The Parable of the Two Debtors
    April 13, 2026

    ピーター・アムステルダム

    オーディオ所要時間: 15:56
    オーディオ・ダウンロード(英語) (14.6MB)

    金を借りた二人の人のたとえ、あるいはパリサイ人と罪深い女のたとえとも言われている話は、愛と憐れみと感謝についての美しい物語です。この物語にあるたとえ話の部分は非常に短く、シモンというパリサイ人の家にイエスが訪れて食事をした際の出来事と対話の中に挟まれている2節のみとなっています。たとえ話は短いものの、それは神のゆるしと、それに対する適切な反応に光明を投じています。

    このたとえ話(ルカ7:41–42)が含まれたルカの福音書の記述は、このように始まります。「あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた」(ルカ7:36)。

    その場で起こったことが、そのままに述べられているように見えますが、物語の中心となるのは、そこで「起こらなかった」ことです。当時、家の主人は、客が家に入る際に、その客の頬か手にキスすることが習慣となっていました。次に、客の手と足を洗うために水とオリブ油を持ってきます。家の主人が客の頭に油を注ぐこともありました。しかし、シモンはイエスに対し、これらの礼儀の一つも示していません。これはわざと礼儀作法とマナーを示さなかったものと思われます。

    この物語の後の方で、シモンはイエスのことを「先生」と呼んでいます。昔のユダヤ教文書によると、家で教師や学者をもてなすことは、栄誉と見なされていました。イエスは、シモンの家に呼ばれたことで、挨拶のキスをされ、足を洗うための水と手を洗うためのオリブ油が出されるぐらいは期待できたことでしょう。しかし、その内どれも提供されませんでした。

    その時、イエスは「私は歓迎されていない」と言って、腹を立ててそこを去っても当然だったでしょうが、そうはされませんでした。シモンがイエスをもてなさなかったことが無礼と見なされかねないにもかかわらず、イエスはその侮辱をやんわりと受け止め、手も足も洗わないまま、食卓につかれたのです。

    物語は、次のように展開していきます。「するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で[イエスが]食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った」(ルカ7:37–38)。

    罪人として知られていたという女性はその日、イエスがシモンの家で食事をされることを知ったので、イエスの到着の際にはその場にいました。その女性はおそらく売春婦だったのではないかという解釈が、最も広く受け入れられているものです。さて、この女性がシモンの家での食事に参加できたというのは、いったいどういうことなのでしょう。ある著者はこのように説明しています。

    中東にある村々では、伝統的に、地域社会から蔑視されている者たちを食事から締め出すことをしませんでした。彼らは壁際の床におとなしく座り、皆が食事を終えた時に、食べさせてもらえます。家の主人は、地域社会から蔑視されている者にさえも食べ物を与える気高い人間として見られるので、そういった者たちがいることは、主人にとって栄誉でした。ラビは、「食物を欠かすことのないように」(つまり、神の祝福を締め出さないように)、食事中に戸を開けたままにさせました。[1]

    どうやら、女性がそこいたのは客として招かれていたからではなく、食事の様子を見ることが許されていたからのようです。けれども、なぜ彼女はそこにいたのでしょう。おそらく、以前イエスが話していることを聞いて人生が変わったので、そこにやってきたのでしょう。聖書には明確に述べられていませんが、そのように推測されるし、物語が展開するにつれてそれが明らかになっていきます。この物語の後の方で、イエスがシモンに、「彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった」と仰っています。これは彼女がイエスよりも先にそこにいたか、あるいはイエスが到着時に無礼な歓迎をお受けになったその時に着いて、それを目撃したということでしょう。

    彼女は、イエスが罪人たちとつき合うのをいとわないことを聞いていたのかもしれません。イエスが、罪のゆるしや、神は彼女のような人たちを愛しておられること、たとえ彼女が罪深くても、神の恵みを受けられることについて話しておられるのを聞いたのでしょう。そして、自分の罪がゆるされたことを喜び、この良き知らせを分かち合ってくださった方への感謝の気持ちを表すために、この家に来たのでした。

    彼女は香油が入れてある石膏のつぼを持って来たと書かれています。石膏のつぼとは、香油を入れるために作られた小びんのことで、香油は当時、非常に高価でした。この女性は、イエスが自分にしてくださったことへの感謝のしるしとして、イエスの足に注ぐための香油を用意して来たのです。

    しかし、イエスがシモンからお受けになった、冷たく、むしろ侮辱的な応対を見て、彼女は深い悲しみに襲われました。シモンはイエスの足を洗いませんでした。それはシモンがイエスのことを自分よりも下に見なしていたという、確かな証拠です。イエスが自分で足を洗うための水さえ出しませんでした。接吻の挨拶もなしです。これを見て、女性は涙を流しました。自分の人生を変えてくださった方に対する、明らかなもてなしの欠如を、彼女はどうすれば埋め合わせることができるのでしょう。

    食事をしているイエスの足が洗われていないのを見て、彼女はシモンがしなかったことをしようと思い立ち、涙でイエスの足を濡らしました。足を拭くタオルは持っていなかったので、髪の毛を下ろしてイエスの足を拭いました。それからイエスの足にキスしたのです。ここで「接吻した」として使われているギリシャ語には、何度も何度もキスしたという意味があります。つまり、彼女はイエスの足にキスを繰り返したということになります。イエスには挨拶のキスがされていなかったため、彼女は何度も何度もイエスの足にキスしたのであり、それは、深い謙虚さと献身、そして感謝の念を公に表すものでした。

    夕食に招かれていた客は、この様子を見て愕然としました。彼らはこれを、いろいろな点で間違っていると見なしたことでしょう。女性が髪を下ろすというのは、夫以外の誰の前でも決してしない、親密な行為です。さらに悪いことに、彼女は親戚でない男性に触れました。身持ちの良い女性なら誰もこんなことはしません。

    彼女の行動はそこにいた人たちからすれば恥ずべきことと見られました。いかにも不道徳な女がしそうなことだと。彼らは、その女性が以前にゆるされていたことなど、毛頭知りません。恥ずべき罪人としてしか見ていないのです。彼らは、イエスがなぜこの悪評ある女性が自分にそのようなことをさせるのか、信じられませんでした。

    物語の続きはこうです。「イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、『もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから』」(ルカ7:39)。

    家の主人としての落ち度を見せつけられたにもかかわらず、シモンは心の中でキリストを批判しています。イエスが説教したり教えたりされているのを聞いて、シモンはおそらく、イエスははたして本当に預言者なのだろうかと考えていたのでしょう。どうも、イエスがそうであるという考えを、拒んでいたように見えます。シモンの頭の中では、もしイエスが預言者であるなら、あの女性がイエスに触れるというのは不道徳なことであり、ゆえに彼女から汚されていることを、イエスは知っているはずだと考えていたからです。

    おそらく、シモンがイエスを食事に招いたのは、イエスを試みて、本当に預言者なのかどうかを見るためだったのでしょう。シモンはその場で起きたことを見て、頭の中で、イエスには識別力が欠如していると考えた結果、おそらく、イエスは神の預言者としての霊的基準を満たしていないと確信したことでしょう。

    しかし、シモンは間違っていました。イエスはその女性の霊的状態をご存知でした。後に「その多くの罪」と述べている通りです。イエスはまた、イエスが以前神のゆるしについて語られたのを彼女が聞いて、信仰によってそれを信じたゆえに、彼女の罪がゆるされていることもご存知でした。それ以外にも、イエスはシモンの思いを見抜いたことで、ご自分が預言者であることを示しておられます。シモンは自分の考えを言葉にしなかったというのに、イエスはそれに答えられたのです。

    「そこでイエスは彼にむかって言われた、『シモン、あなたに言うことがある。』 彼は『先生、おっしゃってください』と言った」(ルカ7:40)。

    「あなたに言うことがある」という言葉は、聞き手が聞きたがらないような率直な話をする時の前置きとなる、中東の典型的な言い回しです。話がここまで来て、イエスは金を借りた二人の人についての短いたとえ話をされます。

    「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」(ルカ7:41-42)。

    1デナリは、一日分の労働に対して通常与えられた賃金でした。ですから、たとえ話に出てくる、金を借りた一人の人は、500日分の賃金に当たる額を、そしてもう一人の人は50日分に当たる額を、金貸しから借りていたということになります。明らかに大きな差です。金貸しは、この二人の借り手が払えなくなると、寛大にも借金を帳消しにしてやりました。

    新約聖書を通して、「ゆるす」という動詞は、負債をゆるすといった金銭的な意味と、罪をゆるすといった宗教的な意味の両方に使われています。イエスはたとえ話の中で金銭的な意味で話していましたが、先を読めばわかるように、負債のある者、借りのある者という言葉は、神による罪のゆるしに関しても使われています。

    負債をゆるした人を最も愛したのはどちらかという質問に対し、シモンが答えました。「『多くゆるしてもらったほうだと思います。』 イエスが言われた、『あなたの判断は正しい』」(ルカ7:43)。

    シモンは、このたとえ話がいわば言葉の罠のようであり、自分はそれに引っかかったとわかったので、言葉を濁して、「だと思います」と答えました。たとえ話の要点は、恵みや自分に値しない好意を受けた時の適切な反応とは愛であり、負債を多くゆるされた人が最も愛し、最も感謝の気持ちを表すということです。その点をはっきりさせたうえで、イエスはシモンに率直に語られます。

    「それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、『この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである[この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる(新共同訳)]。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない』」(ルカ7:44–47)。

    この言葉はシモンに対して語られたものですが、イエスは話している時に女性の方を向かれました。そして、「シモン、あなたはこの女を見ないか」と尋ねられた時、イエスはシモンに、彼女を一人の人間として見させようとしていました。罪人としてではなく、多くをゆるされ、それゆえに多く愛し、行動によって愛と感謝を表している人として見てほしかったのです。彼女の罪はゆるされており、もはや罪人としてではなく、神の子どもとして、地域社会に迎え入れても良いことに、シモンが気づき、それを受け入れることを望んでいたのでした。

    イエスはシモンの落ち度を口にされ、女性の気高い行為と対比されました。それは、シモンがすべきだったことを、はるかに超える行為だったのです。そして、イエスは彼女の大きな愛と、ゆるされた罪の大きさとを関連づけられました。

    「そして[イエスは]女に、『あなたの罪はゆるされた[赦されています(新改訳2017)]』と言われた」(ルカ7:48)。

    イエスが言われたのは、その時に彼女の罪をゆるそうということではなく、彼女の罪はすでにゆるされているということです。彼女が表した愛と、溢れ出る感謝の気持ちは、以前にイエスが話されているのを聞いてすでに受け取っていたゆるしへのお礼だったのです。ゆるしを必要としている人がそれにふさわしくなくても、神は慈しみ深くも罪をゆるされるのだと知ることで、彼女に大いなる喜びと解放がもたらされたのでした。

    食卓にいた他の来客は、要点をすっかり逃しました。彼らは検討外れなことに焦点を合わせ、イエスの言われたことを間違って解釈したのです。「すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、『罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう』」(ルカ7:49)。

    イエスはたしかに、福音書全体を通して人々の罪をゆるしましたが(宗教的指導者らはこれを神を冒涜する行為と思いました)、その女性の罪をその場でゆるそうとされたのではありません。彼女の罪はすでにゆるされていたのです。

    「イエスは女にむかって言われた、『あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい』」(ルカ7:50)。

    彼女の信仰が彼女を救いました。神の恵みを信じていたのです。そして、それを受け入れました。自分は救いを受けるにふさわしくないことを、彼女は知っていました。多くの罪を犯していたので、救いを受けるにふさわしい人間になるためにできることは何もありませんでした。彼女は主から言われたこと、すなわち、信仰があり、信じ、受け入れるだけで、十分であるということを、信じ、受け入れたのです。

    それが、この物語の結末です。シモンがどう反応したかは何も書かれていません。彼は要点をつかんだのでしょうか。自分も負債のある者であり、神の愛とゆるしを必要とする罪人であることを理解したでしょうか。その女性がゆるされており、今は別人であることを認めたでしょうか。また、彼女を地域社会に再び受け入れたでしょうか。これらの質問の答えは書かれていません。物語を読む私たちがそれを考え、自分自身で結論を出すようになっています。

    シモンの家での出来事について考えてみると、私たちが主に対してどのように応答し、人をどう扱うべきかについて、人生に適用すべき問いがいくつも浮かんできます。私たちは今でも、自分自身の救いについて感謝の気持ちを抱き、あがないについて神に賛美と感謝を捧げているでしょうか。イエスが私たちの罪を負って罰を受けるためにどれほどの代価がかかったかを、忘れないようにしているでしょうか。あるいは、救いの喜びと驚嘆の気持ちを失ったのでしょうか。

    私たちは、イエスと同じ見方で他の人たちを見ており、イエスは彼らのためにも死なれたのだし、救いという素晴らしい贈り物を彼らにも受け取らせたいのだということを認めているでしょうか。負債がゆるされたことへの感謝によって、他の人たちがそれと同じゆるしを見いだすのを助けようという意欲を駆り立てられているでしょうか。救いに導くために、彼らを愛し、話をし、自分自身や時間、努力、気力を捧げているでしょうか。どんな相手にも、そうしているでしょうか。貧しい人でも、金持ちでも、若い人でも老人でも、無学な人でも、知識人でも、愛するのが難しい人でも、愛しやすい人でも、罪人でも、信心深い人でも、社会ののけ者でも、受け入れられている人でも、関係なく、そうしているでしょうか。イエスは彼らを救おうとしておられます。私たちはそれを実現させるために、自分の分を果たしているでしょうか。

    私たちは皆、多くの罪をゆるされています。私たちも同じように多く愛して、その愛を他の人々と分かち合えますように。

    初版は2013年7月 2026年4月に改訂・再版 朗読:ジョン・マーク


    1 Kenneth E. Bailey, Jesus Through Middle Eastern Eyes (InterVarsity Press, 2008), 246 footnote 15.

  • 5月 19 信仰とは何か
  • 5月 15 試練の時に勝利を収める
  • 5月 11 霊的生活に投資する
  • 5月 7 友情について想う
  • 5月 3 命を選ぶ
  • 4月 29 私の聖書探求の旅
  • 4月 25 神の性質: 愛
  • 4月 20 私たちを救い出される神
  • 4月 15 私たちは皆、赦しが必要
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第14章(26–40節)

    [1 Corinthians: Chapter 14 (verses 26–40)]

    November 11, 2025

    第1コリント14章の前半で、パウロは、霊的賜物を追い求める目的は教会を造り上げ、信者を成長させることにあると強調しました。また、コリントの信徒たちに、礼拝の集いは、未信者への証しとなるように行われるべきだと指摘しました。章の後半でも、これらのテーマを引き続き扱っています。

    すると、兄弟たちよ。どうしたらよいのか。あなたがたが一緒に集まる時、各自はさんびを歌い、教をなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのであるが、すべては徳を高める[あなたがたを造り上げる(新共同訳)、成長に役立てる(新改訳2017)]ためにすべきである (1コリント14:26)。

    この章でパウロがコリントの信徒たちを「兄弟たち」と呼ぶのは、これで3度目です。「どうしたらよいのか」と問いかけることで、これまでに彼が話したことから、どんな結論を導き出すべきかを考えさせようとしています。そして、その答えは、信徒たちの成長のために、すべてが秩序正しく行われるべきだということでした。その点を具体的に示すにあたり、パウロは、各人に与えられた霊的賜物が賛美であれ、教えであれ、啓示であれ、異言でのメッセージであれ、その解釈であれ、それを用いる備えをした上で礼拝に臨むよう指示しました。

    「教え」とは、説教などの教えのことです。「啓示」は、神が信者に明らかにされた具体的な事柄のことで、おそらく預言を指しているのでしょう。このリストは、当時の礼拝において行われていた霊的活動の代表的なものを挙げていると考えられます。パウロは、このように、礼拝中は誰もが何らかの形で参加する機会のあることをはっきりと述べています。

    もし異言を語る者があれば、ふたりか、多くて三人の者が、順々に語り、そして、ひとりがそれを解くべきである。もし解く者がいない時には、教会では黙っていて、自分に対しまた神に対して語っているべきである (1コリント14:27–28)。

    次にパウロは、異言(グロソラリアとも呼ばれます)で語る人々に対して具体的な指示を与え、語る人数を2人か、多くて3人までとしました。そして、同時にではなく順番に語るべきであり、会衆が益を得られるように、語られた内容を解き明かす者がその場にいるべきだとしました。もし解き明かす者がいないなら、礼拝中は声に出して異言で語るべきではないとのことですが、それは、解き明かされない限り、異言が他の人たちを「造り上げる」ことはないという、パウロの先の指摘に沿ったものです。言うまでもなく、礼拝に参加している人が、声に出さずにこの賜物を用いて祈ることはかまいません。

    聖書解説者レオン・モリスは、このように語っています。

    最優先すべきは「徳を高める」ことであるため、異言は、解き明かす者がいない限り語ってはいけません。これは、異言を、御霊による抗しがたい衝動によって、自分の意とは関係なく恍惚とした状態で言葉を発することだ、と考えるべきではないことを示しています。黙っていることもできるのであり、パウロは、解き明かす者がいない限り、そうしているべきだと語っています。これはまた、自分がこれから異言を語ることになると、前もって分かることを示唆しています。そうでなければ、解き明かす者がいるかどうかを確認することはありません。[1]

    預言をする者の場合にも、ふたりか三人かが語り、ほかの者はそれを吟味すべきである (1コリント14:29)。

    パウロはここで、預言者、すなわち預言の賜物を持つ信者たちに焦点を当てています。この賜物を持つ人たちは、何らかのメッセージや啓示を受け取り、それを教会にいる人々に理解できる形で伝えていました。パウロはこの場合も、礼拝中にメッセージを伝える預言者の人数を、2~3人に制限しています。

    また、パウロは、語られたことを他の者たちが吟味すべきだと定めました。これには、そのメッセージが真に神からのものであるかどうかを見極めて判断することが含まれていたと考えられます。彼は、人々が預言することに関して、教会に何らかのチェック・アンド・バランス(抑制と均衡)の仕組みがあるようにしたかったのです。預言者であると主張する者たちが語るメッセージは、無批判に受け入れられるべきではなく、吟味され、判断されなければなりません。[2] 預言に関するこの指示は、パウロがテサロニケの信徒たちに宛てた手紙にも見られます(参照:1テサロニケ5:20–22)。

    しかし、席にいる他の者が啓示を受けた場合には、初めの者は黙るがよい (1コリント14:30)。

    最初の発言者は、他の誰かが啓示を受けた場合、その人に発言を譲ることが奨励されています。これは協調の精神を促し、他の人を自分よりも優れた者と考えるという聖書の原則(ピリピ2:3–4)に沿ったものです。この指針はまた、教会が個人の賜物ではなく、神のメッセージに焦点を合わせておく助けとなります。

    あなたがたは、みんなが学びみんなが勧めを受けるために、ひとりずつ残らず預言をすることができるのだから。かつ、預言者の霊は預言者に服従するものである (1コリント14:31–32)。

    パウロはまず、預言する者たちに対して、互いに譲り合うよう指示しましたが、さらにこの節では、自分の番を待ってひとりずつメッセージを伝えるように命じました。すべての人がそれを聞いて理解し、励ましを受けられるように、預言が秩序正しく語られることを望んでいたのです。

    また、「預言者の霊は預言者に服従する」と述べることで、預言をする人が自制できないほどに、聖霊が人の霊を「乗っ取る」わけではないことを強調しています。むしろその逆で、パウロが挙げる9つの聖霊の実の1つに自制があります(ガラテヤ5:22–23)。霊的賜物を適切に用いている人は、その賜物をいつ、どのように使い、また止めるかを、常に自分で決めることができます。

    神は無秩序の神ではなく、平和の神である (1コリント14:33a)。

    多くの聖書解説者は、この節(第33節)の前半は本来、前の節の一部であるべきで、礼拝の集まりで語る者は秩序をもって語るべきだという点を改めて強調するものだと指摘しています。パウロは、この秩序を「平和」と表現し、秩序は神の性質を反映するものであると述べました。ある著者は、次のように語っています。「パウロが語っていることをより大きな観点から見れば、それは、首尾一貫し、誠実で、自己矛盾のない形で働いておられる神の性質に現れるこの秩序が、神の民の生活様式や礼拝に反映されるべきだということです。」[3]

    聖徒たちのすべての教会で行われているように、婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである (1コリント14:33b–35)。

    ここでパウロは、教会の女性たちに向けて、女性は「黙っていなければならない」、「語ることが許されていない」、「服従すべきである」と述べています。この箇所は、これまで多くの議論と論争を生んできました。というのも、パウロはこの書簡の別の箇所で、女性が教会で祈り、預言する権利を認めているからです。この点について、神学者ウェイン・グルーデムは次のように述べています。「この箇所でパウロは、教会における女性のあらゆる公の発言を禁じているはずがありません。というのも、第1コリント11章5節において、教会で女性が祈り、預言することを明確に認めているからです。」[4]

    一部の著者は、この箇所はコリントでの礼拝中に起きていた特定の状況に関して述べられたものであるという見解を提示しています。つまり、特定の女性や妻たちが、預言が語られている最中に質問をして礼拝を妨げたという見方であり、その質問自体は正当なものだったかもしれませんが、その質問のし方が混乱を招いたり、不適切だったりしたということです。

    パウロは、公の礼拝において女性は黙っているべきだと述べるにあたり、これは「聖徒たちのすべての教会」での慣行であったとしています。パウロは、これから授けようとしている教えは独自のものではなく、キリスト教のすべての教会において一般的なものであったことを強調したのです。当時、ユダヤの律法のもとで生きていた人々にとってと同様、女性は教会で話すことを許されていませんでした。それは、霊的な事柄に関しては、夫が家族を導くことが期待されていたという当時の規範を反映しています。パウロの時代のギリシャ・ローマ世界では、公の場で発言することは男性に限られていたのです。女性が公共の場で発言することは、不適切とみなされ、当時の文化に対する挑戦と受け取られかねませんでした。そのような見方は、第1テモテでも見られます。「女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである」(1テモテ2:11–12)。

    それがパウロの時代の慣行でしたが、今日では(すべてではないものの)大多数のプロテスタント諸派が、女性を牧師として按手しています。(この主題について、さらに詳しくは、こちらを参照してください:『第1コリント:第11章(2–16節)』。)

    それとも、神の言はあなたがたのところから出たのか。あるいは、あなたがただけにきたのか。もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである (1コリント14:36–37)。

    パウロは、公同礼拝における霊的賜物の用い方についての説明を、締めくくろうとしています。まず、彼らの霊的な高慢さを取り上げて、神の言葉がコリント人から出たのではないことを指摘しました。神から出た言葉は、使徒たちを通して、まずイスラエルのユダヤ人に、次に異邦人に伝えられたのです。ある著者はこう述べています。「コリントの人たちは、独自の規則を作り出そうとしていたようです。おそらく自分たちの言葉だけで十分だし、権威がある、さらにはそれが自分たちにとっての神の言葉であるとさえ考えていたのでしょう。」[5]

    さらにパウロは、自分は預言者や霊的な人だと思っている者たちに対し、パウロの教えが主からのものであることを認めるよう指示しています。そうすることで、彼は自らの使徒的権威を確認し、書簡に記したことは単なる個人的な意見ではなく、主からの命令であることを強調しました。これは、パウロが第1テサロニケ2章13節で書いた、次の言葉と一致しています。「これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として――事実そのとおりであるが――受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。」 「神の言(言葉)」という表現は、新約聖書に何度も登場し、ほとんどの場合、キリストについての福音のメッセージを指しています。[6] (例えば、こちらを参照:使徒4:31; 8:14; 11:1; 13:44–48; 2コリント2:17。) 公同礼拝において与えられる預言は吟味・検証されるべきものですが、使徒たちが伝えたと聖書に記録されている言葉は、神の言葉なのです。[7]

    もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視される[それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう(聖書協会共同訳)] (1コリント14:38)。

    パウロは、コリントの信徒たちが自分の教えと指示を軽んじてはならないことを強く訴えました。そこの教会では、礼拝の最中に無秩序(混乱)が生じていたので、パウロは、秩序の重要性と、皆に理解できるメッセージによって信徒を「造り上げる」べきこと、そしてそれに従わない場合の結果を指摘してきました。パウロの教えを無視し、それが主の命令であることを認めない者に起こることは、本人にその責任があるのです。[8]

    わたしの兄弟たちよ。このようなわけだから、預言することを熱心に求めなさい。また、異言を語ることを妨げてはならない[禁じてはなりません(聖書協会共同訳)] (1コリント14:39)。

    コリントの人たちを再び「わたしの兄弟たち」と呼ぶことで、信者同士の親しく深い関係と、キリストの体における一致が表現されています。パウロは、教会の徳を高め、励ますために、教会のメンバーが預言することを望んでおり、そのことは、この章の冒頭で、次のように記されています。「預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである」(1コリント14:3)。

    パウロはここで、異言について先ほどのような厳しいことは言わず、異言を語ることを禁じてはならないと信徒たちに勧めています。この節は、ここに挙げた2つの賜物に関して、パウロが「教会の徳を高めるように異言を解かない限り、異言を語る者よりも、預言をする者の方がまさっている」(1コリント14:5)と語ったことを踏まえて書かれています。

    しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい (1コリント14:40)。

    パウロは霊的賜物に関する論述を締めくくるにあたり、コリントの信徒たちに、自らの振る舞いや礼拝の集会を、よく計画した上で、秩序を正して行うよう求めています。彼らの交わりにおいて、とりわけ礼拝や霊的賜物に関わることは、適切な態度と行動をもってなされるべきです。御霊の賜物は、神の栄光のため、信徒を造り上げて徳を高めるため、そして未信者を罪に気づかせて、神への礼拝へと導き、キリストの弟子となるよう招くために(1コリント14:24–25)用いられるべきなのです。


    1 Leon Morris, 1 Corinthians: An Introduction and Commentary, vol. 7, Tyndale New Testament Commentaries (InterVarsity Press, 1985), 172.

    2 Morris, 1 Corinthians, 172–173.

    3 Anthony Thiselton, The First Epistle to the Corinthians: A Commentary on the Greek Text, Vol. 1 (Eerdmans, 2000), 1145.

    4 Wayne Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Bible Doctrine (Zondervan, 1994), 824.

    5 Ben Witherington, Women in the Earliest Churches (Cambridge University Press, 1988), 98.

    6 Alan F. Johnson, 1 Corinthians, The IVP New Testament Commentary Series (IVP Academic, 2004), 278.

    7 Richard L. Pratt, Holman New Testament Commentary—1 & 2 Corinthians. Vol. 7 (B&H Publishing Group, 2000).

    8 Morris, 1 Corinthians, 175.

     

  • 5月 12 キリストに従う者にとっての美徳: 優しさ・柔和
  • 5月 5 第1コリント:第14章(1–25節)
  • 2月 24 弟子の生き方(パート3): キリストにとどまる
  • 2月 1 第1コリント:第13章(1–13節)
  • 12月 30 第1コリント:第12章(12–30節)
  • 11月 11 第1コリント:第12章(1–11節)
  • 11月 4 弟子の生き方(パート2): 私たちの全存在をもって神を愛する
  • 10月 28 第1コリント:第11章(17–34節)
  • 9月 2 第1コリント:第11章(2–16節)
   

信条

もっと見る…
  • ファミリー・インターナショナル(TFI)は、世界中の人々と神の愛のメッセージを分かち合うことをゴールとする国際的なオンライン・クリスチャン・コミュニティーです。私たちは、誰でもイエス・キリストを通して神との個人的な関係を持つことができると信じます。その関係があれば、幸せや心の平安が得られるだけではなく、他の人を助け、神の愛の良き知らせを伝えようという意欲がわいてきます。

私たちのミッション

もっと見る…
  • ファミリー・インターナショナルが何よりも目標としているのは、神の御言葉のうちに見出される、愛と希望、救いという命を与えるメッセージを分かち合うことによって、より良い人生を皆さんに送っていただくことです。ペースの速い、複雑化した現代社会にあっても、神の愛を日常生活の中で実践することこそ、社会の問題の多くを解決する鍵であると私たちは信じます。聖書の教えにある希望や助言を分かち合うことで、ひとりずつ心が変わって行くことによって、だんだん世界が変わって行き、より良い世界が築かれて行くと信じているのです。

理念

もっと見る…
  • コミュニティー意識

    私たちは、信仰とはコミュニティーにおいて、また他の仲間との関係において、実践されるべきものであると信じています。そして、団結の精神、愛、兄弟愛を育もうと努めます。力を合わせることで、より多くを成すことができます。

TFI について

TFI オンラインは、ファミリー・インターナショナル(TFI)のメンバーのためのコミュニティサイトです。TFI は、世界各地で神の愛のメッセージを伝えることに献身する国際的なクリスチャン・フェローシップです。

TFI について詳しくお知りになりたい方は、私たちのグローバルサイトをご覧ください。

TFI メンバーの方は、 ログイン して他のコンテンツも見ることができます。

最近のシリーズ

もっと見る…
第1・第2テサロニケ
パウロがテサロニケの信徒に宛てた書簡の研究と、その教えがいかに現在に当てはめられるか
そのすべての核心にあるもの
キリスト教信仰・教義の基本を扱ったシリーズ