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アンカー

ユーザーフレンドリーなデボーション記事

  • キリストの弟子になること(パート1):召命

    Christian Discipleship, Part 1: The Call
    May 11, 2026

    ピーター・アムステルダム

    オーディオ所要時間: 12:00
    オーディオ・ダウンロード(英語) (10.9MB)

    福音書には、イエスの生涯、宣教、死、そして復活について書かれており、また、弟子として従ってきた者たちにイエスが教えられたことも記録されています。4福音書全体を通して、従ってきた者たちとのイエスの触れ合い、そして、彼らがイエスとは誰なのかを理解するに至る霊的な旅路、またイエスの教えを時に誤解したことで生じた問題について、読むことができます。

    福音書全体を通して、弟子の全体的なあり方が描かれています。そして、各福音書にイエスの弟子たちについて書かれていることには、類似点もあれば、いくらか異なっている点もあります。[1] 例えば、ルカの福音書では、イエスが使徒として任命した12弟子(ルカ6:13)と共に、他の福音書には言及されていない、その12人とは別の72人というより大きな弟子の集まりについても書かれています(ルカ10:1)。また、ルカの福音書は「大ぜいの弟子たち」にも触れており、彼らは「みな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた」とあります(ルカ19:37)。

    福音書に描かれている弟子たちは、間違いを犯し、イエスの言われたことを誤解し、内輪もめをし、高慢で自分勝手な態度を示す普通の人間であり、それと同時に、他の者たちが去った時にもイエスのそばを離れず、その内にイエスが神の子であるメシア(キリスト)だと理解するに至った人たちです(マタイ16:16)。

    イエスの生きておられた頃、神の言葉に完全に従うことによって神を崇めることを望むユダヤ人男性は、ラビの弟子になることがありました。そのためには、自分が学び仕えたいラビを選び、次にそのラビと師弟関係を結ぶ必要があります。けれどもイエスは、ご自身の弟子について、通常とは逆の手順を行い、イエスの方から弟子を選ばれました。

    さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った(マタイ9:9)。

    イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ4:19)。

    あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである(ヨハネ15:16)。

    イエスの方から弟子たちを選び、召されたのですが、弟子たちもそれに応えました。たとえば、シモン(ペテロ)とアンデレ兄弟は、「すぐに網を捨てて、イエスに従った」 し、ヤコブとヨハネ兄弟は、「父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟において、イエスのあとについて行った」 とあります(マルコ1:17–20)。

    弟子になる召命に応えたことで、彼らのライフスタイルは著しく変りました。イエスがこう語られたように。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」(ルカ9:23–24)。イエスが地上で生きておられた当時、弟子になることは、誰よりもキリストに忠誠を誓うことを意味していました。

    この忠誠は、福音書で様々な形に描かれています。12弟子やイエスの他の弟子たちは、所有物や土地、家族など後にして、イエスに従ってともに宣教を行うという召命を受けました。

    弟子になる代価をあらかじめ数えることは、全ての弟子に求められたことですが、町々を旅するイエスに従うことが、全ての人に求められたわけではありませんでした。それは、例えばイエスによって悪霊から救い出された人が、弟子として従わせてほしいと願った話に見られます。イエスは彼にこう答えられました。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 その後のことが、こう書かれています。「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた」(マルコ5:18–20 新共同訳)。その人はイエスの言うとおりにし、立派にイエスのことを人々に説きました。そうやって、イエスとともに旅することはなかったけれど、弟子としての行動はしたのです。

    また、アリマタヤのヨセフはある時点で弟子となりましたが、ユダヤ教団内に留まったようです。福音書には、彼は「地位の高い議員」(マルコ15:43)また「金持」であり(マタイ27:57)、「ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となった」(ヨハネ19:38)と書かれています。彼はピラトの所へ行き、イエスの体を引き取って自分の墓に納めるのを願うことによって、弟子としての忠誠を示しました。イエスの時代においても、弟子たちは必ずしも仕事や家、家族を後にしたわけではありません。

    福音書に書かれていることから、弟子たちは完璧とは程遠く、イエスの教えを理解しないこともしばしばだったのは明らかです。また、時とともに理解が深まっていったことが見て取れます。読んでいてわかるのは、彼らには弱さがあったけれど、それでもイエスは彼らを教え、正すことによって、彼らがより多くの弟子を作り、世界中に福音を伝える手助けができるほど強くなれるようにしておられたことです。

    ルカは使徒行伝で、イエスを信じて従うことを、弟子であることと同じ意味として書いています。使徒行伝には、パウロがエペソを訪れた際、そこで「ある弟子たち」に出会ったと記されています。パウロが彼らに、キリストを信じた際に聖霊を受けたかどうか尋ねたところ、彼らは「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えました(使徒19:1–2)。イエスを信じるこの人たち(ここでは「弟子」と呼ばれています)は、まだ聖霊について聞いたことがなかったのです。

    パウロとバルナバが幾つもの町で宣教をした時は、またそれぞれの町に引き返して、「弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励し、『わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない』と語った」とあります(使徒14:22–23)。ここでも、信者たちが弟子と呼ばれていることがわかります。使徒行伝の後半の方や書簡では、信者の群れが「教会」と呼ばれているのがわかります。そして彼らは、やがてクリスチャンと呼ばれるようになりました(使徒11:26)。

    また福音書の様々な箇所で、弟子の中には女性もいたことが記されており、幾人かはイエスが旅をするときにお供をしていました(ルカ8:1–2)。この女性たちは、イエスがエルサレムへ行かれた時について行き、十字架にかけられた時にその場におり、そして、復活後の空っぽの墓に最初に着いた人たちです。使徒行伝には、教会で重要な役割を担った女性たちが出てきます。タビタという名前の弟子について書かれている箇所では、弟子という言葉が女性形で使われており、男性も女性も弟子として認められていたことが確認できます(使徒9:36)。[日本語訳聖書では、「女弟子」や「婦人の弟子」などと訳されています。]

    クリスチャンであることはイエスの弟子であることと同じであると理解したとき、弟子としての生き方に関するイエスの教えはすべての信者に当てはまることが分かります。それは、宣教師やクリスチャン・ワーカー、牧師、説教師といった、キリスト教の奉仕を全時間で行うよう召された人たちだけに与えられた指針なのではありません。イエスの言葉は、全信者に向けられたものであり、私たち全員がそれを信じて実践するよう求められています。

    自分を否定すること、日々自分の十字架を負うこと、イエスの足跡に従うこと、物質的な富に対する見方を改めることといったイエスの教えの多くは、かなり厳しいものです。ヨハネの福音書には、しばらく弟子としてイエスに従ったものの、イエスが彼らにとって受け入れがたいことを言われた時に去っていった人たちのことが書かれています。「弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、『これは、ひどい [ギリシャ語原文では「厳しい」「過酷な」]言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか。』… それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった」(ヨハネ6:60, 66)。

    彼らは当初、ある程度の決意をもっていたものの、こうしてイエスを去っていきました。ここで「去っていった」と訳されている箇所は、自分たちが後に残したものの所へ引き返したことが示唆されています。彼らは、後ろを向いて、弟子であることをやめたのです。

    イエスの生涯の間もその後も、イエスを信じ従った人の多くにとって、弟子になる召命、つまり、イエスを信じ、その教えに喜んで従うという召命は、個人的に多大な犠牲を伴いました。イエスに従う者になるには、強い決意、献身、自己犠牲が必要とされ、イエスは説教や教えの中で、そのことをかなり明確にされています。

    弟子たることについての、そのような教えのひとつが、ルカの福音書に記されています。それは弟子になりそうな3人についての話で、そのうちの2人は自分からイエスに従いたいと告げ、もう1人はイエスから招かれました。「道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、『あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります。』 イエスはその人に言われた、『きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない』」(ルカ9:57–58)。

    イエスに従うことを申し出たこの人が、イエスの言われたことにどう反応したのかは書かれていません。しかし、メッセージは明白です。主を信じ、主のために生きることには犠牲が伴うのです。

    「またほかの人に、『わたしに従ってきなさい』と言われた。するとその人が言った、『まず、父を葬りに行かせてください。』 彼に言われた、『その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい』」(ルカ9:59–60)。

    イエスはこの人に、従ってくるよう言われましたが、すぐに網や舟や仕事を後にしてイエスに従った何人かの弟子たちとは違い、イエスに従う前に家族への責任を果たそうとしました。親を埋葬することに重きが置かれていることを考えると、この人の父親が最近死んだからということは、まずありえません。[2] この人が言っていたのは、父親が生きている限り、父親に対する責任を果たさねばならず、それが済むまでは、イエスに従うことを先延ばしにしなければならないということです。それは、数年後かもしれないし、数十年後かもしれません。

    この箇所の要点は、家族への責任や家族との関係をけなすことではありませんでした。イエスは他の箇所で、パリサイ人たちが父親と母親を敬っていないと非難しておられます(マタイ15:3–9)。ここでイエスが話しておられたのは、ご自身に従ってくるなら、神と御国を最優先することになり、それまでの忠誠関係を見直さなければいけないということです。それは、家族や友人、自分の持つ責任に対する忠誠が大切ではないということではなく、キリストへの献身が優先されるということです。

    これらの例から、私たちは神の御国の召命を最優先しなければならないと教えられています。弟子になること、すなわち、イエスの教えを信じて、それを実践し、神とともに歩むことを目標とする人になることは、神の優先順位に合わせて自らの人生の方向を定め直すことを意味しているのです。

    初版は2017年9月 2026年5月に改訂・再版 朗読:ジョン・マーク


    1 本記事で取り上げるポイントは、以下の書籍の「Discipleship」(M. J. Wilkins)という章から要約されたものです:『The Dictionary of Jesus and the Gospels』(Edited by Joel B. Green and Scot McKnight. InterVarsity Press, 1992), 182–188.

    2 Kenneth E. Bailey, Through Peasant Eyes (Eerdmans, 1980), 26.

  • 6月 24 それは井戸だけの話ではなかった
  • 6月 20 忍耐力を成長させる(パート1)
  • 6月 16 あなたの人生のタペストリー
  • 6月 12 思考はなぜ大切なのか
  • 6月 8 聖書の存在意義
  • 6月 4 弟子の足を洗う
  • 5月 31 ストレスを乗り越える
  • 5月 27 礼儀正しくあることの大切さ
  • 5月 23 金を借りた二人の人のたとえ
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • すべての美徳の実践

    [Practicing All the Virtues]

    December 10, 2024

    本シリーズを締めくくるにあたり、ガラテヤ5章22–23節に挙げられている9つの美徳――愛、喜び、平安(平和)、忍耐(寛容)、親切(慈愛)、善意、誠実(忠実)、優しさ(柔和)、自制――を、私たちの生活の中でどのように育み、実践していくといいのかを考えるのは、有意義なことだと思いました。

    これらの美徳を育むうえで重要な要素の一つは、主との関係です。主を愛するがゆえに、私たちは主との深い関係を築きたいと願い、その関係を強めるために時間と労力を注ぎます。そして、それには、御言葉を読むこと、祈りを通して主と交わること、イエスが示してくださった模範に従うことが含まれます。

    神が私たち一人ひとりを個人的に愛しておられることを理解すると、神が他の人々をもご自身との関係に招き入れたいと願っておられることに気づくようになります。まだ神を知らない人たちに対しても、神が揺るぎない愛を抱いておられることに気づくとき、私たちは人々に、彼らを深く愛し、彼らの人生の一部になりたいと願っている方がいることを、最善を尽くして知らせたいという思いに駆られます。全人類に対する神の愛のメッセージを伝えることが私たちの使命となり、キリストに似た者へと成長することに情熱を注ぐようになるのです。

    キリストへの愛は、私たちの心と魂と思いと力を尽くして熱心に主を愛し、主との親しい関係を育むよう私たちを駆り立てます。この愛は、イエスに似た者となり、主の性質にならい、神の愛を他の人たちに伝えようと努力することを、私たちに迫ります。それは、彼らもまた主を知るようになるためなのです。[1]

    イエスに従う者として、私たちの目標の一つは、キリストに倣うことです。私たちは主の性質と属性を身につけたいと願うし、主との関係が深まるにつれ、御霊の実が現れるようになります。私たちは神の御旨にかなった態度を示し、神の御旨にかなった道徳観を持ち、誠実さを保ち、御言葉に生きるようになるのです。イエスにもっと似た者となっていくにつれ、イエスが私たちを通して輝かれます。そしてそのとき、つまり、私たちが主に倣っている姿を他の人々が見るとき、彼らは、神の愛が実践されているのを目にする機会を得るのです。

    キリストの足跡をたどる

    アメリカの偉大な伝道者ドワイト・L・ムーディは、品性について次のような簡潔な言葉を残しています。「品性とは、暗闇の中であなたがどのような人間かということだ。」

    クリスチャンとして、私たちは皆、霊的成熟とキリストに似た者になるという面において、成長したいと願っています。最悪の瞬間の自分や罪を捨て去り、御霊の実である愛、親切、柔和、自制などを示す生き方をし、キリストの助けによって自分がなり得るどんな者にもなりたいのです。

    突き詰めて言えば、私たちはイエスのようになり、イエスが考えられたように考え、イエスが振る舞われたように振る舞いたいと願っています。聖書は、私たちがキリストの足跡をたどるよう励ましています。「神の内に生きていると言う人は、イエスがされたように人生を生きるべきである」(1ヨハネ2:6 英語NLT訳)。もっとも暗く、辛い経験をしているときでも、私たちの品性が他の人々にとって神の真理の証となることを、私たちは願っています。

    高潔な人格を築き上げ、育むことは、本や説教からは学べないし、意志力や努力だけで学べるわけでもありません。自動的に、偶然に、あるいは突然に、起こるものでもありません。また、自分自身の力や決意だけで生み出せるものでもありません。それは、私たちの生活に臨在しておられる聖霊による変革の御業であり、聖霊の実なのです。

    第1ペテロ2章21節には、こうあります。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。」 使徒パウロはさらに踏み込んで、神は私たちの信仰を強め、キリストに似た者へと成長させるために、問題や試練さえも用いてくださると記しています。「わたしたちは、問題や試練に遭遇したときにも、喜ぶことができる。なぜなら、そのおかげで忍耐力を養えると知っているからである。そして、忍耐は強い品性を生み出し、品性は救いへの確かな希望を強める」(ローマ5:3–4 英語NLT訳)。—ローナン・キーン [2]

    実を結ばせる神の力

    人生に必要とされる力は、単なる意志力以上のものです。神の力が必要なのです。御霊の実とは、聖霊があなたの内に住まわれるときに、神があなたの人生に与えてくださる資質であり、それは「愛、喜び、平安、忍耐、親切、善意、誠実、優しさ、自制」です(ガラテヤ5:22–23 英語NLT訳)。

    神は、どのようにして、あなたの人生に実を結ばせてくださるのでしょうか。それは、意志力によるのではありません。思い切って、「もっと忍耐強い人間になるぞ!」と言ったところで、そうなれるとは限りません。

    聖霊が内側からその実を育ててくださる必要があります。「もっと忍耐強くなるぞ。もっと愛情深くなるんだ」と言ったとしても、それはユーカリの木にオレンジをくくりつけて、「これはオレンジの木だ」と言うようなものです。そんなふうにはいきません。御霊の実は、内側からしか生まれません。神の御霊があなたを通して生きてくださることによってのみ生まれるのです。

    聖霊はあなたの人生において、どのように働かれるのでしょうか。その答えは、「徐々に」です。「主、すなわち御霊は、わたしたちをますます主と似た者とし、わたしたちは主の栄光のかたちに造り変えられていくのです」(2コリント3:18 英語NLT訳)。—リック・ウォレン [3]

    御霊の実を育む

    御霊の実を育むための最初のステップは、神に身を委ねることです。マタイ16章24–26節で、イエスはこう言われています。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。」 神に身を委ねるとは、自分の願望や計画を捨て、私たちの人生における神の御心に従うことを意味します。

    御霊の実を育むための第2のステップは、御霊の内を歩むことです。ガラテヤ5章16–17節には、こうあります。「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい …。」 御霊の内を歩むとは、自分の欲望ではなく、聖霊に導かれる生き方をすることです。

    御霊の実を育むための第3のステップは、キリストにとどまることです。ヨハネ15章4–5節で、イエスはこう言っておられます。「わたしにつながっていなさい[とどまりなさい(新改訳2017)]。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」 キリストにとどまるとは、祈り、聖書を読むこと、そして礼拝を通して、キリストにつながった状態でいることを意味します。—エリック・ラフィン [4]

    *

    このシリーズにふさわしい省察になると思い、マックス・ルケードの次の記事を紹介します。私たち皆が、御霊のあらゆる賜物において成長し続け、「主の栄光を … 見つつ、栄光から栄光へと」、御霊である「主と同じ姿に変えられていく」[5] ことができますように。

    私は選ぶ

    もうじき一日が始まる。… 一人の穏やかな時間は、人類の慌ただしいペースに取って代わられる。早朝の安らぎの場は、下すべき決断や、守るべき締切に侵されていく。これからの12時間、私はこの日が与える様々な要求にさらされる。私が選択をすべきとき、それは今。ゴルゴタのおかげで、私は自由に選択できる。だから、私は選択をする。

    私は愛を選ぶ。どんな状況であっても、憎しみは正当化されない。どんな不正にあっても、恨みは正当化されない。私は愛を選ぶ。今日、私は神を愛し、神が愛しておられるものを愛する。

    私は喜びを選ぶ。… 私はどんな問題も、神に目を向ける機会としてしか見ないようにする。

    私は平和を選ぶ。赦された者として生きる。生きるために赦す。

    私は忍耐を選ぶ。世の中のやっかいさを気に留めたりしない。… 待ち時間が長すぎると文句を言う代わりに、祈る時間を与えてくださった神に感謝する。新しい任務に拳を握りしめる代わりに、喜びと勇気をもってそれに向き合う。

    私は親切を選ぶ。貧しい人に親切にする。彼らが孤独でいるから。裕福な人に親切にする。彼らが恐れているから。そして不親切な人にも親切にする。なぜなら、神が私にそう接してくださったから。

    私は善意を選ぶ。不正な1ドルを手にするくらいなら、1ドルもなしで済ませる方が良い。自慢するよりは、気づかれないままが良い。人を非難するよりは、自分の非を打ち明ける。私は善意を選ぶ。

    私は誠実を選ぶ。今日、約束を守る。私に貸しがある人に、私を信頼したことを後悔させない。仲間に、私の言葉を疑わせるようなことをしない。妻に、私の愛を疑わせるようなことをしない。そして子どもたちに、父親が家に帰らないのではと心配させるようなことをしない。

    私は優しさを選ぶ。力ずくで勝ち取れるものなど何もない。私は優しくすることを選ぶ。声を上げることがあるなら、それはただ賛美するためであるように。拳を握ることがあるなら、それはただ祈りのときであるように。何かを要求することがあるなら、それはただ自分自身に対してであるように。

    私は自制を選ぶ。私は霊的な存在だ。この体が死んだ後、私の霊は舞い上がる。朽ちゆくものに、永遠を支配させはしない。私は自制を選ぶ。酔うのは喜びだけにする。情熱を注ぐのは信仰だけにする。影響を受けるのは神だけにする。教えを受けるのはキリストからだけにする。私は自制を選ぶ。

    愛、喜び、平和、忍耐、親切、善意、誠実、優しさ、自制。今日一日、これらのことに全力を傾ける。うまくやれたら、感謝を捧げる。しくじったなら、主の恵みを求める。そして、この一日が終わったら、枕に頭をのせて休もう。—マックス・ルケード [6]

    御霊の実を求める祈り

    愛する天のお父さま、

    私は今日、深い感謝と、愛に満ちあふれた心をもって、あなたの御前に進み出ます。ガラテヤ5章で、私たちの歩みを導く御霊の実について思い起こさせてくださったことを感謝します。主よ、あなたの知恵は尊い賜物です。私はあなたの教えに従って生きる者でありたいと願います。

    主よ、どうか私の人生において、これらの実を結ぶことができるようお助けください。これらはあなたの性質を映し出すものだと知っているからです。父よ、私の心を愛で満たしてください。あなたが私を愛してくださったように、私も他の人々を愛することができるようにです。この混乱に満ちた世にあって、私が喜びを広め、平和の源となれますように。人生で出会う人々に示すべき忍耐と親切を、私に授けてください。あなたの恵みの証として、常に善を行うよう努めることができますように。

    主よ、忠実さを授けてください。逆境にあってもあなたの約束を信じ、あなたへの揺るがぬ献身を持ち続けられますように。人を傷つけるのではなく、励まし支えるような優しい霊をお与えください。また、私の願望をあなたの御心に委ね、人生のあらゆる面で自制を働かせることができますように。

    あなたは私たちに、「御霊に歩調を合わせる」よう励ましておられます。あなたの聖なる霊の導きによって、この信仰の旅路を進むことができるよう祈ります。私があなたの道に歩み、あなたの御言葉に従って生き、あなたの力に頼る者となれますように。

    主よ、私は自分の欠点を告白し、あなたが私を赦し、変えてくださるよう求めます。自分のためだけでなく、この世であなたの愛と恵みを映し出す光として輝くために、御霊の実を結ぶ者でありたいと切に願います。アーメン。—リッチ・ビターマン [7]

    思考の糧

    「あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。」(ピリピ4:9)

    「もし神に、御霊の実において成長するのを助けてくださいと祈るなら、神がそうしてくださることを100%確信できます。神は、ご自分の子どもたちがイエスにもっと似た者となるよう助けることを喜ばれます。ですから、今日、新たな力であなたを満たしてくださるよう、… 御霊の実において成長できるよう、聖霊に求めてください。」 —ラブ・ワース・ファインディング

    「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。」(コロサイ3:12)

    「私たちは、神に選ばれ、愛され、聖別されることを望んで、聖霊の実を実践しようと努めることがよくありますが、実際にはその逆なのです。私たちが選ばれ、聖なる者とされ、選び分かたれて、今や、イエスが私たちの心に住んでくださるからこそ、私たちは御霊の実を結ぶことができるのです。」 —ケリー・ミンター


    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    1 2コリント5:14.

    2 Ronan Keane, “The Character Builder” (adapted), Activated, July 2019.

    3 Rick Warren, “Sometimes the Change Is Gradual,” PastorRick.com, February 22, 2024, https://pastorrick.com/sometimes-the-change-is-gradual/.

    4 Errick Ruffin, “The Secret to Cultivating the Fruits of the Spirit: Steps to Develop a Christ-Like Character,” Medium, April 14, 2023, https://medium.com/@littlepreacher68/the-secret-to-cultivating-the-fruits-of-the-spirit-steps-to-develop-a-christ-like-character-a609d745b2ef.

    5 2コリント3:18.

    6 Max Lucado, “It’s a New Day: The Choice is Yours,” https://maxlucado.com/new-day-choice/.

    7 Rich Bitterman, “Fruits of the Spirit Prayer (Galatians 5),” Medium, September 9, 2023, https://medium.com/@richbitterman/fruits-of-the-spirit-prayer-galatians-5-d471e3e2cb2c.

  • 6月 2 他の人を励ます
  • 5月 26 キリストに従う者にとっての美徳: 自制・節制
  • 5月 19 第1コリント:第14章(26–40節)
  • 5月 12 キリストに従う者にとっての美徳: 優しさ・柔和
  • 5月 5 第1コリント:第14章(1–25節)
  • 2月 24 弟子の生き方(パート3): キリストにとどまる
  • 2月 1 第1コリント:第13章(1–13節)
  • 12月 30 第1コリント:第12章(12–30節)
  • 11月 11 第1コリント:第12章(1–11節)
   

信条

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