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  • 男と女として創造された人間

    The Creation of Humankind as Male and Female
    December 8, 2025

    ピーター・アムステルダム

    オーディオ所要時間: 10:20
    オーディオ・ダウンロード(英語) (9.4MB)

    創世記1章の天地創造の説明によれば、宇宙とその中にあるすべてのもの、つまり太陽や月や星や惑星、海陸、そして獣、魚、鳥も、すべて人間より先に創造されました。人間は最後に造られたのです。聖書には、神が最初の男であるアダムをまず造り、それから最初の女であるエバ(イブ)を造られたと書いてあります。

    人類の起源について、キリスト教は、神が歴史において最初の男女を造られたという聖書の教えを忠実に信じています。どの程度の時間をかけて神が世界や人類を創造されたかという話は別として、アダムとエバの創造や存在は、神話や文学手法として捉えられてはいません。むしろ、彼らは世界の歴史上実在した人たちであるというのが、キリスト教の標準的見解です。

    旧約聖書には、アダムと旧約聖書に出てくる他の歴史的人物とのつながり、結びつきが書かれています。人類の初めの幾世代と、それに続く旧約時代の人物との家系的つながりが描かれているのです。(そこに書かれた系図には、すべての世代が含まれておらず、主要な代、もっとも重要な代だけが記録されているという可能性はあります。その場合、それらの系図に記されたよりも多くの時間が経っており、より多くの代が存在したということになります。)

    新約聖書には、アダムは歴史的人物であることがはっきりと述べられています(1コリント15:45; 1テモテ2:13)。アダムとエバや創世記の記述の史実性について、J・I・パッカーは次のように述べています。

    やや比喩的な文体で話が書かれているものの、創世記を読むには、それを歴史的なものとして捉える必要があります。創世記には、アダムが系図の上で族長たちとつながっており、さらに族長たちによって人類全般とつながっていることが記されています(5、10、11章)。つまり、アダムはアブラハム、イサク、ヤコブと同じように時空的歴史の一部だということです。[1]

    次の聖句には、男と女が造られたことが具体的に述べられています。最初の節は創世記1章からで概要が書かれ、その後のものは2章と5章からで、もっと詳しく書かれています。

    神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。…」 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された(創世記1:26–27 新共同訳)。

    主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった(創世記2:7 新共同訳)。

    主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから(創世記2:21–23 新共同訳)。

    神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた(創世記5:1–2 新共同訳)。

    男と女、つまりアダムとエバは二人とも神にかたどられ、神に似せて、造られました。そして造られた時点で、神は二人をまとめて「人」[英語ではMan]と名付けられたのです。以前は、英語で人類(男女ともに)を指す場合、「man」あるいは「mankind」という言葉が一般に用いられました。今ではあまり使われなくなり、それよりも「humankind」や「humanity」という言葉がもっとよく使われるようになっています。[訳注:manには「人間・人類」以外に「男」という意味もあるため。]

    先に引用されたように、創世記1章26–27節にはこう書かれています。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』 … 男と女に創造された。」 神が男性と女性を等しく神のかたちに造られたということは、男女の平等性を表しています。男女とも等しく人間なのです。

    父、子、聖霊がその本質において等しく神であるのと同様、男と女もその本質において等しく人間です。人格性においても重要性においても同等です。神学者ウェイン・グルーデムは、その点を次のように説明しています。

    私たちが等しく神のかたちに造られているというのなら、神にとっては男性と女性が等しく重要であり、等しく大切であるというのは確かなことです。私たちは永遠に、神のみ前において、同等の価値があります。男性も女性も「神のかたち」に造られていると聖句で言われているのだから、優越感や劣等感を持ったり、または、どちらかがもう一方より「優れている」とか「劣っている」とか考えたりする余地は全く残らないはずです。… もし神が私たちは同等の価値を持っていると考えておられるなら、それで問題は解決です。なぜなら、神による評価は、永遠にわたって個人的価値の真の尺度だからです。[2]

    聖書に登場する女性

    新約聖書はかなりの男性優位社会に生きる信者たちによって書かれたものの、それは神との関係における女性の平等性を教えています。ひとつ主要な例をあげれば、聖霊は男女両方に平等に注がれました。

    神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう(使徒2:17–18)。

    聖霊の賜物について語るとき、パウロもペテロも、それが「各自・それぞれ」に与えられると語っており、それは男女ともに賜物をいただけるということを示しています(1コリント12:11)。

    イエスが地上におられたとき、女性にとって不利な社会的禁制をあえて破られました。人前で女性と話したり、サマリヤの女性と二人きりで話をしたり(ヨハネ4:4–26)、パリサイ人シモンの家で髪の毛の覆いを取り、イエスに触れた女性の行動を是認したり(ルカ7:36–44)、婦人たちがご自分や弟子たちとともに旅をするようにさせたり(ルカ8:1–3)—こういったことはすべて、当時のユダヤ社会においては文化的に受け入れられないことでした。

    パウロは、教会においては誰もが平等であり、男女とも等しいことを指摘しました。「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」(ガラテヤ3:27–28)。

    クリスチャン著作家であるエイミー・オア=ユーイングは、イエスが女性を受け入れられたことや初代教会における女性の役割について、このような見解を与えています。

    当時の文化規範とは対照的に、イエスは大いなる神学的真理を女性にも明かすことを常としました。ヨハネによる福音書で、キリストが実は誰であるのかを最初に見出したのは、井戸のそばにいたサマリヤの女でした。これがどれほど過激なことであったかを過小視すべきではありません。イエスは、女性を教えたり、彼女らが弟子になるのを許したりすることで、文化的タブーをくつがえなさったのです。

    実際のところ、イエスの教えの中に見られる手本として、またその教えを受ける者として、イエスの活動において女性が充分にかつ生き生きと、その役割を果たしていたことは明らかです。この21世紀にあっては、まったく適切で当然のことのように思えるかもしれませんが、1世紀のパレスチナにおいて、それがどれほど過激なことであったかを覚えていなければいけません。イエスは故意に女性を認め、仲間に入れられたのです。[3]

    異なる役割

    男性と女性は、等しく神のかたちに造られ、人格性と本質において同等であっても、聖書によれば異なった役割を担っています。女性が造られた時についての節には、役割の違いに関する概念が述べられています(創世記2:18–24; 1コリント11:3)。

    役割の違いに関するしるしをいくつか挙げると、アダムが最初に造られたこと、動物に名前をつける責任を与えられたり、エバに「女」という呼び名を付けたりしたこと、二人が罪を犯した後に神が最初に話をされたのがアダムであったこと、アダムが人類の代表であるように見られていること(ローマ5:12–18)などがあります。これは、アダムが指導者となる立場を与えられたことを示しています。

    役割においてはアダムとエバとの間で違いはあったものの、関係においては和合があったようです。ルイスとデマレストは、それをこのように説明しています。

    堕落の前、アダムとエバは創造者であり扶養者である方との完全な交わりを享受していました。明らかに、彼らが朝夕、その造り主と出会いに行くのは普通のことだったようです(創世記3:8)。人類最初の夫婦は、お互いとの誠実で愛情深い関係も享受していました。堕落の前に、互いへの疑念や羨望・嫉妬・憎しみがあったという兆候は見られません。男性と女性は、神のように、互いへの尊敬・愛・信頼に満ちた関係にあったのです。[4]

    結論を言えば、神はご自身にかたどり、ご自身に似せて、男と女を造られました。そのようにかたどられ、似せられた様は、罪によって損なわれてはいるものの、今も残っています。神の目には、男性も女性も平等なのです。結婚関係において、クリスチャン夫婦は二人の同等な人間として結び合わされ、仲むつまじく、またお互いへの理解と愛とをもって、主がそれぞれに与えられた役割を果すように努めるべきです。そして、キリストによって新しく造られたものとして、私たちはよりキリストに似たものとなり、自分たちの関係に神を映し出すべきです。「わたしたちはみな … 栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」(2コリント3:18)。

    初版は2012年7月 2025年12月に改訂・再版 朗読:ジョン・マーク


    1 J. I. Packer, Concise Theology (Tyndale House Publishers, 1993), 81.

    2 Wayne Grudem, Systematic Theology, An Introduction to Biblical Doctrine (InterVarsity Press, 2000), 456.

    3 Amy Orr-Ewing, Isn’t the Bible Sexist?

    4 Gordon R. Lewis and Bruce A. Demarest, Integrative Theology, Vol. 2 (Zondervan, 1996), 206.

  • 1月 11 失望? それとも神の采配?
  • 1月 7 慈しみの実践
  • 1月 3 新しい年のための恵み
  • 1月 1 新年への希望
  • 12月 29 新年の約束:変わることのない主の臨在
  • 12月 25 最初のクリスマス: 誰が、何を、いつ、どこで、なぜ、どのように
  • 12月 24 クリスマスの希望
  • 12月 23 クリスマスの喜び
  • 12月 21 クリスマスに孤独を感じていますか?
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第12章(12–30節)

    [1 Corinthians: Chapter 12 (verses 12–30)]

    July 29, 2025

    本シリーズの前回の記事では、第1コリント12章の前半において、パウロが霊の賜物とその多様性について語り始めていました。まず、第1コリント12章1–11節で、そのような賜物をいくつか挙げた後、それらは聖霊から与えられるものであり、すべての人の益になるように、また、一致を築くように用いられるべきことを強調しています(1コリント12:4–7)。

    12章の後半でも、パウロは一致と多様性という主題に引き続き焦点を当てています。

    からだが一つであっても肢体[からだの部分]は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである (1コリント12:12–13)。

    パウロはいくつもの書簡の中で、信者の一致、多様性、相互依存性を表現するために、しばしば教会を「キリストのからだ」と呼んでいます。[1] 人間のからだは多くの部分から成っていても一つの単位であるという点で、キリストのからだが人間のからだに似ていることを指摘しているのです。また、キリストのからだが、多様性の点でも人間のからだに似ていることを説明し、さらに教会内の多様性を強調するために、人種的・社会的な多様性も挙げて、それぞれが教会にいかに寄与しているかを述べています。かつては、どんなものがこれらの人々(ユダヤ人、ギリシャ人、奴隷、自由人)を隔てていたとしても、彼らは皆一つの御霊により、キリストにあって一つのからだに結び合わされたのです。

    ある聖書解説者は、次のように説明しています。

    パウロの考えでは、神によって構築されたこの結合(1コリント12:13)、すなわち数多くの多様な部分が有機的に結びつき、相互に依存し、調和して働くように一つとされたこのからだが、今や聖霊を通して、キリストの目に見える臨在と働きの現実をこの世に現している、ということに意味があるのです。[2]

    教会がキリストのからだと呼ばれるのは、キリストが教会の頭(かしら)であり(コロサイ1:18)、一人ひとりの信徒がそのからだの一部だからです(コロサイ3:15)。私たちは皆、主の御業を行うよう召されています。それぞれに異なる賜物が与えられており、それが何であれ、失われた人々にキリストを伝え、キリストのからだを建て上げるという使命において、誰もが大切な存在です(エペソ4:4–6, 11–13)。

    実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか (1コリント12:14–17)。

    パウロはさらに、人間のからだのイメージを用いて、キリストのからだのすべての部分にきちんと敬意を払うことの大切さを示しています。まず、からだの部位が自分を過小評価しているという、想像力に富んだ光景を描き出しています。足は、自分は手ではないので、からだに属していない、と考えるとしましょう。たとえそのように思ったからといって、足がからだの一部でなくなることはありません。耳が「自分は目ではないから、からだに属していない」と感じる場合も同様です。

    パウロは、信者が自分はあまり重要ではないとか、自分の奉仕の場は劣っているとか思い込んだとしても、キリストのからだから切り離されることはないという点を強調していたのです。からだの各部分は、全体の役に立っています。もしからだ全体が目であったなら、聞くことはできないし、もしからだ全体が耳であったなら、嗅覚は失われてしまいます。

    そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである (1コリント12:18–20)。

    ばかばかしく思えるこのような架空のシナリオによって、神が人間のからだの各部分をご自身の神聖な知恵に従って置かれた、という点が強調されています。神は、各部分とその構成を、ご自身の意図された目的を果たすために設計されたのであり、その点に関する神の知恵を疑うべきではありません。このように多様な部分が、神によってうまく結び合わされていることは、からだが機能する上で不可欠なので、パウロは、もしからだのすべての部分が一つの同じ部分、つまり、すべてが目、すべてが耳、あるいはすべてが足であったなら、「どこにからだがあるのか」と指摘しています。明らかに、からだは存在しなくなってしまいます。

    これらの点を強調するため、パウロはこのセクションの主題を繰り返しました。つまり、人間には一つのからだがあり、そのからだには多くの部分が必要だということです。どの部分も、それ自体が重要なのです。

    目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない (1コリント12:21–24a)。

    ここでパウロは、からだの一部が、他の部分に価値があるのか疑問を呈するというシナリオを示しています。目が手に「お前は必要ない」と言ったり、頭が足に同じことを言ったりするのは考えられないことだと述べているのです。むしろ逆であって、目には手が必要であり、頭には足が必要です。弱く見える部分でさえ、重要であり、必要とされています。

    「見劣りする」と考えるからだの部分には、何かをして「いっそう見よくする」ものだ、とあります。この表現はおそらく、指や足、つま先など、からだの「ささいな」部分に見につける衣類や装飾品を指しているのでしょう。同じように、教会も、見過ごされがちな信徒、つまり、貧しかったり、他の人と同じ程度には貢献できなかったり、社会的地位に欠けていたりする人々に、特別な敬意を示すべきです。

    神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ (1コリント12:24b–26)。

    パウロは、目立った誉れに欠けた部分こそ、神はいっそう尊んでくださったと指摘しています。それは、教会内に分裂が生じないようにするため、また、すべての部分が互いに等しく気遣い合うべきであることを強調するためです。痛みや病気で一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみます。キリストのからだの一つの部分が尊ばれると、他の部分も皆共に喜びます。一人の信者が尊ばれ、大切に扱われるとき、すべての信者が共に喜ぶべきなのです。

    あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である (1コリント12:27)。

    パウロは、人間のからだをたとえに用いて、教会をキリストのからだとして説明しており、信者たちこそがキリストのからだであると宣言しました。パウロはさまざまな書簡で、教会を表すためにこの比喩を用いましたが、この箇所で焦点を当てているのは、キリストのからだの各部分の一致、多様性、そして尊厳です。それぞれがからだの一部であるし、キリストに信頼を置いたすべての人は例外なく、キリストのからだの中に自分の居場所を与えられています。

    そして、神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた (1コリント12:28)

    パウロは先ほど、神がご自身の御心に従って、肉体の各部分を配置されたことを指摘しましたが、ここではキリストのからだを形作るそのような「部分」をいくつか挙げています。パウロはまず、教会における3つの職務(使徒、預言者、教師)を重要度に基づいて並べ、その後に5つの賜物を順不同で列挙しているようです。このような順序にしたのは、使徒、預言者、教師は、奇跡(力あるわざ)、癒やし、補助(援助)、管理、異言といった他の賜物とは異なり、教会を建て上げる上で重要な役割を果たしていたからかもしれません。

    使徒は、教会において特別かつ独特な役割を担った指導者であり、イエスの死と復活の証人として、エルサレムから出てキリストの福音を伝えながら、新しく教会を設立していきました。イエスが最初の12使徒を任命し(マタイ10:2–4)、のちにマッテヤ(マティア)がユダのあとを継ぎました(使徒1:23–26)。その後、パウロは異邦人への使徒として、12人の仲間に加えられました(1テモテ2:7)。他にも、バルナバ(使徒14:14)や、イエスの兄弟ヤコブ(ガラテヤ1:19)といった他の信者も使徒として言及されています。シラスとテモテ(使徒7:10–15)やアンデロニコとユニア(ローマ16:7)のように、特に使徒と呼ばれてはいなくても、正式に「遣わされた者」という意味合いにおいて、使徒の役割を果たした人たちもいました。

    新約聖書の預言者は、聖書としての神的権威をもつ言葉を語って書き記した旧約聖書の預言者とは、役割が異なっていました。新約聖書において、神の霊感を受けた聖書の執筆は、使徒たちと、その奉仕に同行した者たちによって行われています。新約聖書における「預言者」という言葉は、神のメッセージを聞き手に伝えるような霊感に満ちた言葉を語る、普通のクリスチャンを指すことの方が多かったのです。[3] 使徒以外の信徒で、他の信徒たちを励まし、導き、力づけるような預言を受けた例としては、ユダとシラス(使徒15:32)、伝道者ピリポ(フィリポ)の4人の娘(使徒21:8-9)、そしてエルサレムでのパウロの投獄について預言したアガボ(使徒21:10–11)などが挙げられます。

    教師もまた、重要でした。初代教会において、教師はユダヤ教のラビのような存在だったのです。彼らは聖書を研究して、教会に正しい教義を教えました。信徒が個人で聖書を所有することは稀だったため、教師の役割は重要でした。[4] パウロはまた、教師の職を牧師(牧者)の職と関連させて述べています(エペソ4:11–13)。

    パウロは、賜物を用いた人たちのことに続けて、賜物そのものについて語り、そこに奇跡、癒やしの賜物、補助、管理、異言を挙げています。奇跡と癒やしと異言の賜物は、本章の前半(1コリント12:8–10)でもすでに言及されているものですが、管理の賜物と補助の賜物については、ここで簡単に触れられるのみで、新約聖書でこれ以上の詳しい説明は与えられていません。

    みんなが使徒だろうか。みんなが預言者だろうか。みんなが教師だろうか。みんなが力あるわざを行う者だろうか。みんながいやしの賜物を持っているのだろうか。みんなが異言を語るのだろうか。みんなが異言を解くのだろうか (1コリント12:29–30)。

    パウロは、それぞれの職務や賜物について、反語的質問を列挙して、「そうではない」という答えを期待しました。これらの問いを通して、多様性が重要であることを改めて強調しているのであり、そのことは、聖書注解者レオン・モリスも次のように指摘しています。

    この一連の反語的質問は、まさにパウロらしい論証スタイルであり、多様性についての事実を強く印象づけています。クリスチャンは、神から授かった賜物の面で、互いに異なっています。すべての人が持っているからという理由で、いかなる賜物も軽んじてはいけません。なぜなら、すべての人は異なっているからです。[5]

    私たち皆が、信者の一致、多様性、相互依存という概念を受け入れられますように。それは、キリストのからだが建て上げられ、ついには、私たちが皆、神の御子に対する信仰と知識において一つになるためです(エペソ4:12–13)。

    (第31節は、次回の投稿で扱います。)


    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    1 例として、次の聖句を参照してください: ローマ12:4–5; エペソ1:22–23, 3:6; コロサイ1:24; 1コリント12:27.

    2 Alan F. Johnson, 1 Corinthians, The IVP New Testament Commentary Series (IVP Academic, 2004), 230.

    3 Wayne Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Bible Doctrine (Zondervan, 1994), 1052–1055.

    4 Leon Morris, 1 Corinthians: An Introduction and Commentary, vol. 7, Tyndale New Testament Commentaries (InterVarsity Press, 1985), 157.

    5 Morris, 1 Corinthians, 158.

     

     

  • 11月 11 第1コリント:第12章(1–11節)
  • 11月 4 弟子の生き方(パート2): 私たちの全存在をもって神を愛する
  • 10月 28 第1コリント:第11章(17–34節)
  • 9月 2 第1コリント:第11章(2–16節)
  • 8月 26 弟子の生き方: 前書き
  • 8月 19 第1コリント:第10章(16–33節)
  • 7月 29 第1コリント:第10章(1–15節)
  • 7月 12 第1コリント:第9章(18–27節)
  • 4月 29 第1コリント:第9章(1–17節)
   

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