• 私にできることは、今できますように

  • 絶えず祈り、常に感謝しよう

  • あなたの手を神の手にあずけよう

  • 私たちが神を愛するのは、神がまず愛してくださったから

  • 祈りとは、神の心へと登っていくこと (マルティン・ルター)

アンカー

ユーザーフレンドリーなデボーション記事

  • 私たちは不完全で、主は完全な方

    We Are Imperfect, He Is Perfect
    March 4, 2025

    引用文集

    オーディオ所要時間: 10:21
    オーディオ・ダウンロード(英語) (9.48MB)

    エペソ4章13節には、霊的な賜物が与えられているのは、私たちがキリストの体を建て上げて、「神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」ためである、とあります。(新改訳2017) 私たちが(「成熟した大人」ではなく)「完全な者」になると訳している翻訳聖書もあるため、ある人たちは、この地上での人生において罪のない完全な状態に達することができると誤解してきました。聖書は、私たちが肉体の内にある間は、常に罪の性質と戦うことになると教えています。(参照: ローマ7:14–24) 天国へ行くまでは、(罪のないという意味で)「完全」になれる人は誰もいないのです。

    エペソ4章13節で「成熟した」と訳されているギリシャ語の言葉は「テレイオス」です。それは、新約聖書全体を通じて、「完全な」「完成した」「十分に成長した」「成熟した」という意味で使われています。エペソ4章13節が教えているのは、キリストにおいて成長すればするほど、私たちは教会としてより強く、より一つになっていくということです。この聖句は、私たちが罪を犯さないようになると教えているわけではありません。…

    真に完全な者となるのは、私たちが引き上げられ、空中でイエスに会うという、教会(クリスチャン)の携挙があってからのことです。(1テサロニケ4:17) その時、キリストにあって死んだ者は復活し、生きている者の体は変えられます。(ピリピ3:20–21; 1コリント15:54)… 私たちの贖いは完成し、私たちの罪は永遠に消え去るのです。私たちは永遠に、罪のない完全な状態でキリストと共に生き、支配することでしょう。—GotQuestions.org [1]

    *

    10歳の時に初めてアルベルト・シュバイツァーのことを聞いて、その献身に深い感動を覚えました。あまりの感動に、私も医者になって、アフリカでシュバイツァーと同じ道を歩もうと思ったほどです。あの頃は、何かについて詳しく知りたい場合、本や事典で調べなくてはならず、ほとんどのときは図書館へ行く必要がありました。要するに、好奇心がすぐに満たされることはなく、思いがけない発見の喜びや謎めいたこともあったわけです。

    私は本の虫だったので、宣教師や探検家、自由の闘士などについて読み始めました。シュバイツァーがその一人目で、キング牧師、ジョン・F・ケネディ、ガンディー、フローレンス・ナイチンゲール、その他数多くの人が続きます。そうやって、この地上には、学校の歴史の本で読まなければいけないひどい悪人ばかりではなく、かなり素晴らしい人たちも生きてきたことに気づきました。

    そこで私は、若くして、自分も世界を変える人たちの一人になろうと決意したのです。あれから何年も経ちましたが、嬉しいことにそれは実現してきました。自分の心に従い、困難だけれどやりがいを感じる宣教の地で、長年過ごすことができたのです。今でも、支援を必要とする、さまざまな価値ある目的のために自分の時間のほとんどを捧げています。

    そうするために、犠牲を払わなかったわけでも、間違いを犯さなかったわけでもありませんが、それはそれでいいのです。この「たちまち情報にアクセスできる」新時代の弊害の一つは、私が多くのヒーローについてあれこれと読むようになり、彼らは私の思っていたほど完璧でも罪と無縁の存在でもないとわかったことでした。全てのヒーローに、考えてもみなかった弱点があったし、彼らの信じたことや言動のあるものに、最初は失望しがちでした。

    でも後になって、私の高慢の鼻がへし折られた時に、彼らのまさにそういった欠点や人間的な弱さこそが、私を励ましてくれたのです。

    世界を変えたこの人たちがなした善は、私たちが周りの世界を変えるのに、完璧でなくてもいいということを証明しています。何と言っても、彼らの誰一人として完璧ではないのに、自分の周りの世界を変えたのですから!—アンナ・ペルリニ

    *

    第1ヨハネ1章6節には、こうあります。「神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。」 言い換えれば、私たちの歩み方が、自分は本当に神との関係を持っているかどうかを物語るということです。

    ヨハネはさらに、こう告げます。「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」(1ヨハネ1:7) つまり、私たちがイエスの血によって罪から清められていることを示すには、光の中を歩むことが不可欠であると言っているのです。

    そして、第1ヨハネ1章8節には、こうあります。「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。」 つまり、「光の中を歩くことは、罪のない状態を意味し得ない」ということです。この点をよく考えてみてください。ヨハネは先ほど、「光の中を歩かなければならない」とは言ったけれど、光の中を歩くことは罪のない状態を意味し得ません。なぜなら、「もし自分には罪がないと言うなら、それは大間違いだ」とも言っているからです。では、光の中を歩くとはどういう意味なのでしょうか。

    そこでヨハネは、次の節、第1ヨハネ1章9節でこう続けます。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」 というわけで、ヨハネはこのように不完全なクリスチャンを描写しているのです。不完全なクリスチャンは、自分が完全・完璧だと主張するのではなく、光の中を歩みます。なぜなら、光の中を歩かなければ、神との交わりはなく、イエスの血が私たちを罪から清めることも、罪を覆うこともないからです。

    「光の中を歩く」こと(1ヨハネ1:7)が罪のない状態を意味しているのでないならば、何を意味しているのでしょうか。ヨハネの答えは、それは習慣的かつ誠実な罪の告白を含む従順のパターンを意味するというものです。光の中を歩く人は、罪をあるがままに受け止め、それを憎み、告白し、感謝と謙遜の心でそれを赦していただき、神と人々をより良く愛するという決意を新たにして進み続けるための、十分な光を持っています。… 今私たちに必要なのは、神がこの聖書的なパターンの奇跡を、私たちの人生に組み込んでくださるよう祈ることです。—ジョン・パイパー [2]

    *

    考えてもみてください。もし私が完全・完璧な人間であったなら、イエスを必要としないことでしょう。イエスが地上に来て私のために死んでくださったのは、私が完全な状態に達することはできないからです。

    コロサイ2章13–14節にあるように、「あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。」

    この節を読むと、私は深い感謝の念を覚えます。キリストが十字架上で完成された御業によって、私たちの債務証書は無効とされました。私たちが自分の罪のゆえに受けるべき罰を、キリストがご自分の身に負われたのです。

    主は私たちの負債(罪)を完全に返済してくださいました。主がそうしてくださった理由は、私たちがどんな人間で何をしたかではなく、主がどんな方でどれほど私たちを愛してくださったか、ということです。そのため、神は私たちを見るときに、イエスを見られます。これが福音であり、良き知らせです。

    私の代わりに主が死んでくださったので、私は自由と喜びをもって生きることができます。他の人を喜ばせ、完璧になり、良い評判を保つことを追い求めるような人生から解放されているのです。

    子育てや結婚であれ、仕事であれ、単に他の人たちを交えて人生を生きていくことであれ、すべてを正しく行うことは決してできません。そもそも、それがゴールではないのです。自分の過ちや不完全さ、そして毎日毎分イエスを必要としていることを、正直に認めることのできる人間になりましょう。—クリスタル・ペイン [3]

    2025年3月アンカーに掲載 朗読:レノア・ウェルシュ 音楽:マイケル・ドーリー

  • 3月 22 タラントのたとえ話
  • 3月 18 人生から学ぶ
  • 3月 14 福音書に登場する信仰の女性たち
  • 3月 10 主はすべての所におられる
  • 3月 8 神の贈り物を思い起こす
  • 3月 4 すべての場所で、すべての人に福音を
  • 3月 2 優しさと感謝の言葉と行動
  • 3月 1 天国はどんなところ?
  • 2月 26 「そばに行く」ことの大切さ
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第7章(1–16節)

    [1 Corinthians: Chapter 7 (verses 1–16)]

    January 28, 2025

    パウロはこれまでの章で、コリントの信徒たちの間で起きていることとして報告されていた、性に対する態度、罪、教会内の分裂などの問題に対処してきました。この章では、以前に彼らが手紙で尋ねてきた特定の質問に焦点を当てています。

    さて、あなたがたが書いてよこした事について答えると、男子は婦人にふれないがよい。しかし、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい。(1コリント7:1–2)[1]

    コリントの信徒たちが質問していたという事実が、この件について意見の相違があったことを示しています。この教会には、売春を正当化するメンバーもいれば(1コリント6:12–20)、結婚しない方が良いと主張する人もおり、他にも、性的関係は良くないと感じる人がいました。引用符で囲まれた箇所(男子は婦人にふれないがよい)の意味は、誰にとっても最良の選択は性的関係を控えることであるということです。これがパウロの見解であったと主張する学者もいますが、ほとんどの学者はそれが正しい解釈であるとは考えていません。

    パウロは旧約聖書をよく知り、愛していたし、旧約聖書は結婚と子どもが神からの祝福であることを明確に示していることを考えると、彼がすべての人に独身でいることを勧めたとは考えにくいです。彼は、神ご自身が人類の益のために結婚を定められたことを知っていました。

    むしろパウロは、性的関係を否定的なものと捉えずに、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女はそれぞれ自分の夫を持つことを提唱しています。それは、この文脈から言えば、未婚者は結婚すべきだということではなく、すでに結婚している者たちは互いとの性的な関係を持ち続けるべきだということです。

    パウロは、性的不品行に陥る強い誘惑について述べていますが、おそらくそれには、コリント教会が抱えていた売春(6:15–16)や近親相姦(5:1)の問題も含まれていることでしょう。教会内の一部の人がそのような行為に及んだ一方で、結婚生活においても禁欲すべきだと主張する人たちもいたわけです。パウロは、結婚は性的不品行の誘惑から身を守るものだと指摘しています。

    夫は妻にその分を果し[妻が持つ夫婦の権利に応え(英語ESV訳)]、妻も同様に夫にその分を果すべきである。妻は自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは夫である。夫も同様に自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは妻である。(1コリント7:3–4)

    コリントのクリスチャンの中には、いかなる性的関係をも避けるべきであり、それは結婚生活においてでさえ同様である、という見解を持つようになった人たちがいたようです。パウロは、そのような見解に対して、夫婦の務めについて明確に記すことによって、反論しようとしています。夫には妻に対する性的な義務があり(それをここでは「夫婦の権利に応えるべき」と表現)、妻にも夫に対する性的な義務があると指摘しており、それを英語NIV訳では「夫婦の務め」と呼んでいます。そして、夫にも妻にも、正当な理由なく相手を拒む権利はないということです。

    パウロは自分の見解を賢明に表現しました。妻の体は彼女だけのものではなく、夫のものでもあります。同様に、夫の体も彼だけのものではなく、妻のものでもあります。夫婦は互いの体に対して平等に権限を持っているということです。

    互に拒んではいけない。ただし、合意の上で祈に専心するために、しばらく相別れ、それからまた一緒になることは、さしつかえない。そうでないと、自制力のないのに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑するかも知れない。以上のことは、譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではない。(1コリント7:5–6)

    理想的には、クリスチャンの夫婦は、祈りに専念するために一時的に合意するのでない限り、互いを性的に拒むべきではありません。旧約聖書全体を通して、断食のように、性的行為を控えることなどが求められる特別な宗教的活動が記されています。(サムエル上21:4–5) この祈りと禁欲の期間が終わったら、夫婦は通常の性生活に戻って、サタンが彼らを誘惑して不法な性的関係に携わせることのないようにしなさいということです。パウロは禁欲期間を命じているわけではないし、夫婦が互いを拒むことを勧めてもいません。

    わたしとしては、みんなの者がわたし自身のようになってほしい。しかし、ひとりびとり神からそれぞれの賜物をいただいていて、ある人はこうしており、他の人はそうしている。(1コリント7:7)

    他の人たちも「わたし自身のように」なってほしいと願っていることから、パウロは結婚していなかったと思われます。パウロの結婚歴については、あまり知られていませんが、かつて結婚していた可能性が高いと断言する学者もいます。パウロはラビの資格を持っており、ラビは概して結婚していたからというのが、その理由です。いずれにせよ、パウロはこの手紙を書いた時点で独身であったし、結婚しないことにはいくつか利点があることを認め、それを「賜物」と呼んでいます。同時に、神がすべての人に独身でいることを求めておられるわけではないことも理解していました。人はそれぞれ、神からの賜物をいただいています。神はある人には結婚するよう呼びかけ、別の人には独身でいるよう呼びかけておられるのです。パウロは、神がそれぞれの人に与える賜物は異なっていると指摘することによって、結婚している人たちに非難が降りかかる可能性を取り除きました。

    次に、未婚者[独身の人]たちとやもめたちとに言うが、わたしのように、ひとりでおれば、それがいちばんよい。(1コリント7:8)

    パウロはさらに、独身者とやもめに向けて、結婚しないままでいることは彼らにとって良いことだと助言しました。彼の見解は、創世記に書かれていることと矛盾してはいません。創世記は、結婚を、自然かつ適切で、一般的に人間にとって良い創造のパターンとして、人類の繁栄のために神が定められた計画の中心的な部分としています。(創世記1:27–28) それでもパウロは、状況によっては、独身でいる方が結婚するよりも有利な点があると認めた上で、どちらも「賜物」とみなすべきであると述べています。

    しかし、もし自制することができないなら、結婚するがよい。情の燃えるよりは、結婚する方が、よいからである。(1コリント7:9)

    パウロの見解は、彼自身がそうだったように、独身のままでいるのが最善であるというものでしたが、ほとんどの人は、ずっと独身でいるつもりはありませんでした。ですから、独身であることは、主のお仕事にひたすら打ち込めるという点では最善のことかもしれませんが、パウロはそれが標準だというわけではないことを認めており、やもめと独身者は自制することができないなら結婚すべきだと述べています。

    更に、結婚している者たちに命じる。命じるのは、わたしではなく主であるが、妻は夫から別れてはいけない。(しかし、万一別れているなら、結婚しないでいるか、それとも夫と和解するかしなさい)。また夫も妻と離婚してはならない。 (1コリント7:10–11)

    パウロはここで、信者同士の離婚について述べています。まず、主イエスご自身がこの見解を認めておられると強調してから、そのように命じました。使徒として、パウロは教会のために指針を定めていたわけです。彼は主の名を出す(「わたしではなく主である」)必要はなかったのですが、自分の言葉に重みを持たせるために、そうしました。

    彼は、妻が従うべき一般的指針として、「妻は夫から別れてはいけない」と述べました。続けて、夫たちに、「夫も妻と離婚してはならない」と指示しています。この箇所で使われた「別れる」という言葉は、「離婚」と同じ意味です。つまり、妻も夫も、配偶者と別れ(離婚し)てはならないということです。イエスは、性的不品行は離婚の正当な理由であると明言されました。(マタイ19:9) そして、パウロは、遺棄されることも離婚の理由になると述べています。(1コリント7:15) この2つの例外を念頭に置きつつ、クリスチャンは離婚すべきではないと、パウロは明言しているのです。

    彼は、信者の間で離婚が起こっていることを知っていました。そして、正当でない理由で離婚した人たちに、結婚しないでいるか、あるいは元の配偶者と和解するか、という2つの選択肢を与えています。和解の試みが拒絶された場合にどうすればいいかは述べていません。

    そのほかの人々に言う。これを言うのは、主ではなく、わたしである。ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。また、ある婦人の夫が不信者であり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。(1コリント7:12–13)

    パウロはここで、「そのほかの人々」、つまり自分自身は信者であっても、結婚相手が信者ではない人に向けて語っています。この教えは主からではなく、彼自身のものであると言いますが、使徒として、主に代わって語っているので、このことは彼の教えの権威を弱めるものではありません。彼が言っているのは、自分の知る限り、イエスがその生涯において、信者と未信者の結婚について語られたことはないということです。

    パウロは、信者でない配偶者が兄弟(信者)と一緒に暮らすことを望んでいる場合、その兄弟は信者でない配偶者と離婚すべきではないと教えました。宗教的な違いは夫婦間の緊張につながることもありますが、パウロは、その違いは必ずしも離婚の正当な理由にはならないと述べています。

    なぜなら、不信者の夫は妻によってきよめられており、また、不信者の妻も夫によってきよめられているからである。もしそうでなければ、あなたがたの子は汚れていることになるが、実際はきよいではないか。(1コリント7:14)

    パウロは、自分の見解を2つの方法で説明しています。まず、信者ではない夫や妻は、信者である配偶者によってきよめられているというものです。「きよめられており」(翻訳聖書によっては「聖なる者とされている」)という表現は、神の御用や目的のために、特別な存在として分かたれたことを意味します。それは、信じない人が罪からあがなわれているということではありません。もしあがなわれているなら、「信者でない」と言われることはなかったでしょう。そうではなく、信者である配偶者を通して、信者でない人も神の民の共同体にあずかっているということです。

    夫婦によって、状況はそれぞれ異なります。信者ではない人が、信者である配偶者を通していずれ信者となる場合もあれば、その関係に影響されない場合もあります。少なくとも、そのような未信者は、他の人たちが決して経験しない方法で、福音やキリスト教の影響に触れているのです。

    パウロは、聖書全体を通して見られる、ある教えを前提としています。それは、信者の子どもたちは、あがなわれてはいなくとも、神の目には特別な存在であるということです。これらの子どもたちは必ずしも信者ではありませんが、信者である親が神と持っている関係を受け継ぐことが期待されます。

    しかし、もし不信者の方が離れて行くのなら、離れるままにしておくがよい。兄弟も姉妹も、こうした場合には、束縛されてはいない。神は、あなたがたを平和に暮させるために、召されたのである。(1コリント7:15)

    そのような混合結婚において、信者でない配偶者が影響を受ける可能性があるとは言え、パウロは、信者でない方の配偶者が結婚を続けることを望まない場合が多いことを知っていました。そのため、信者ではない配偶者が離れていくことを選ぶのなら、そうさせるべきだと付け加えたわけです。信者は、そのような状況下では結婚生活を継続する義務はありません。

    なぜなら、妻よ、あなたが夫を救いうるかどうか、どうしてわかるか。また、夫よ、あなたも妻を救いうるかどうか、どうしてわかるか。(1コリント7:16)

    パウロは、信者でない配偶者と離婚する際には、慎重に考慮するよう求めています。未信者の配偶者の人生において、神が誰をどのように用いられるのか、私たちにはわかりません。信者である夫や妻が、未信者が信仰を持つきっかけとなるのは、よくあることです。

    (続く)

    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    訳注:

    1 「男子は婦人にふれないがよい」の箇所は、口語訳ではパウロからの答えとされていますが、新改訳2017では、コリント教会の手紙からの引用として、「さて、『男が女に触れないのは良いことだ』と、あなたがたが書いてきたことについてですが」と訳されています。また、英語の翻訳聖書では多くの場合、誰の言葉か明記することなく、引用符でくくるなどしています。

     

  • 2月 8 第1コリント:第6章(1–20節)
  • 1月 30 第1コリント:第5章(1–13節)
  • 1月 17 第1コリント:第4章(15–21節)
  • 12月 20 第1コリント:第4章(6–14節)
  • 11月 26 キリストに従う者にとっての美徳: 忠実・誠実
  • 11月 12 第1コリント:第3章(3:18–4:5)
  • 11月 2 第1コリント:第3章(10-17節)
  • 10月 10 キリストに従う者にとっての美徳: 善意
  • 9月 24 キリストに従う者にとっての美徳: 親切
   

信条

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