アンカー

ユーザーフレンドリーなデボーション記事

  • キリストは失われた魂を探し求める

    Christ Seeking the Lost
    December 1, 2025

    ジョン・リンカーン・ブラント

    オーディオ所要時間: 12:55
    オーディオ・ダウンロード(英語) (11.8MB)

    人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。—ルカ19:10

    人は救い主を必要としている状態にあります。神の似姿を失ってしまい、罪によって、その心は神から引き離されています。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、義人はいない、ひとりもいない」とあるとおり、人は本質において失われた存在なのです(ローマ3:23; 3:10)。人は時に、社会からも家族からも失われた存在となります。また、自分自身を見失ってしまうこともあります。それは、海上で船体に穴が開き、乗組員がどれほど努力しても、なすすべなく漂流してしまう船のようなものです。このようにして、人の心は罪によって漂流してしまうのです。

    人の魂は神からの最高の賜物であり、その才能、想像力、感情、力の中には、最も高い天にも、最も深い淵にも至り得る可能性が宿っています。キリストは、自分自身を見失い、この世をさまよっている魂を探し出して救うために来られました。聖書の中で、失われた魂は、目の見えない人、飢え乾き、裸で、倒れた者、重い皮膚病の人、囚人、捕らわれ人、負債を負う者、そして死んだ者として描かれています。このような状態にある失われた魂は、自らを救うことができず、そのため、神からの救い主を必要としています。断崖の縁に立ち、きわめて危険な状態にあるため、救い出されなければなりません。それで、キリストは失われた者を尋ね求め、救うために来られたのです。

    それが主の使命でした。キリストは天から、父なる神の御座、御使いたちの礼拝の場である天の都から、来られました。ご自身の栄光を空しくし、人と同じ姿を取られました。神と等しい方でありながら、それに固執することなく、ご自分を低くして堕落した人間のもとに来られたのです(ピリピ2:6–8)。主は貧しくなられました。それは、私たちが主の貧しさによって豊かになるためでした。主はこの世界が造られる前から父と共に持っておられた栄光を捨てられたのです。

    主は自ら進んで、この堕落し、暗闇に覆われた世界に来られました。反逆と争いに満ち、罪と不義に支配され、苦しみと死が横たわる世界へと来られたのです。なんという降臨でしょうか。一時的な訪問ではなく、この世界の市民として来られるために来られたのです。王の威光や君主の威厳を伴って来られたのではなく、黄金の戦車に乗り、宮殿に住むためでもありませんでした。謙遜のうちに生きるために来られたのです。ベツレヘムでは宿屋には泊まる場所もなく、ガリラヤのつつましい一人の女性からお生まれになり、最初の住まいは家畜小屋でした。

    主はしもべの姿を取り、仕えられるためではなく、仕えるために来られました(マタイ20:28)。しもべのしもべとなり、失われた者を捜し求め、救うために来られたのです。これは、記録に残されているものの中で最も壮大な使命であり、そしてイエスはこの世に現れた最も偉大な宣教師でした。

    人はさまざまな使命を帯びて旅立っていきました。アレクサンドロス大王は世界を征服するために、カエサルは敵を征圧するために、プラトンとソクラテスは知を求めて、それぞれ旅立ちました。コロンブスは新大陸を発見するために、ケイン医師は北極点を目指して、スタンレーはアフリカを探検するために、出発しました。また、戦士たちは軍勢を打ち破るために進軍し、その行軍の跡には、血と苦しみ、そして死が刻まれてきました。

    慈善家たちは憐れみの務めをもって世に出かけましたが、私たちの祝福されたメシアは天から降りて、恥を受け、鞭打ちに耐え、死を遂げるために来られたのです。それは、人類をその滅びゆく状態から救うためでした。神はイエスがこのわざを行うよう定められたのであり、神は決して過ちを犯されない方です。

    神はそのひとり子、愛する御子を、人々を罪から救うために遣わされました。神はこの御子を高く上げ、人々の君また救い主とされたのです。神は恵みをもって御子を高く上げられました。律法がモーセを通して与えられたように、恵みとまことはキリストによってもたらされたからです(ヨハネ1:17)。また、神は名において御子を高く上げ、すべての名にまさる名をお与えになりました(ピリピ2:9–10)。さらに、知恵において御子を高く上げられました。知恵と知識の宝は、キリストのうちに隠されているからです(コロサイ2:3)。そして、力においても御子を高く上げ、天においても地においても、すべての権威をお与えになりました(マタイ28:18)。神は御子を、父なる神の完全なかたち、またその栄光の輝きとされたのです (ヘブル1:3)。

    キリストの性質は、失われた者を救う力を明らかに示していました。キリストは神の御子であり、人の子、インマヌエル「神われらと共にいます」なのです(マタイ1:23)。主は神の御心を知り、また人の心をも知っておられます。その生涯は一点の汚れもありません。主は傷もしみもない小羊と呼ばれています(1ペテロ1:19)。その口には偽りがなく、だれひとりとして、彼は罪を犯したと責めることはできません(1ペテロ2:22)。イエスは、天におられる父が完全であられるように完全であり、人の魂を滅ぼす力を持つ罪のない方なのです。

    イエスの教えは、失われた者を救う力を明らかに示しています。イエスについては、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」と言われ、また、律法学者やパリサイ人のようではなく、権威ある者として教えられた、と伝えられています(マタイ7:29)。主はすべての事柄において、完全な自由と権威をもって語られました。人の内にあるものを知り、公の場で人々の思いを読み取られることもしばしばでした。また、以前に会ったこともなかったナタナエルの名を知っておられました(ヨハネ1:48)。サマリヤの女の生涯のことも知っておられ、そのことに彼女は大きな驚きを覚えました(ヨハネ4:16–19)。さらに、ザアカイに対しても、紹介される前からその名を呼ばれました(ルカ19:1–5)。ラザロが死んだことも、使いの者が到着する前からご存じでした(ヨハネ11:14–15)。現在の世界について知っておられたのと同じように、未来についても知っておられました。過去も現在も未来も、イエスにとっては一冊の開かれた書のようであったのです。

    主は聴衆に合わせて教えを適応させられました。また、天の御国について、世界にまったく新しい理解をもたらされました。神を父として、人類が兄弟姉妹であるという新たな観念を提示し、確証されたのです。他のいかなる教師も、主の前では色あせてしまいます。主の言葉は知性を納得させ、心を揺り動かし、良心に触れます。主の教えと奇跡は、失われた者を救う力を証明しています。3年間の公の宣教活動の中で、主は罪人を救う力を持っておられることを、すべての時代にわたって示すに十分なことを成し遂げられたのです。

    主は律法を全うし、罰を負い、血を流されました。海を静め、悪霊を追い出し、重い皮膚病の人を清め、病人を癒やし、群衆を養い、罪を赦し、死人をよみがえらせられました。自然を支配し、悪霊を支配し、病を支配し、死を支配し、現世の命と来るべき命を支配する力を持っておられました。

    とりわけ重要なのは、復活という偉大な奇跡です。主はこの出来事を、ご自身が神の御子であり、人類の救い主であるという主張に対する、最終的な試金石また確証として示されました。3日目、墓は空になっていました。その後の40日の間に、主はさまざまな時に、さまざまな場面で、さまざまな人々の前に現れました(使徒1:3)。また、ある時には500人以上の人々が同時に主を目撃しました(1コリント15:6)。

    主が失われた者を救う力を持っておられることを証しする、生ける証人の群れが存在します。パウロは、「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来て下さった」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値する、と語りました(1テモテ1:15)。この言葉は、今日においても変わらず真実です。作り話ではなく、生きた事実です。過ぎ去った時代に生きた数えきれないほど多くのクリスチャンの証言によって裏づけられているだけでなく、今この時代に生き、主によって救われた、無数の人々の証によっても証しされているのです。

    では、どのようにして、キリストが救う力を持っておられることを知るのでしょうか。それは、私たちがそれを見、感じ、体験してきたからです。「[あなたがたは]真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:32)。感謝すべきことに、私たちの救い主は、救う力を持っておられるだけでなく、喜んで救ってくださる方です。その愛はその力と同じほどに大きく、そのあわれみは、その全能の力ほどに豊かなのです。

    主の招きは、労苦し重荷を負っているすべての人に向けられています(マタイ11:28)。また、渇きさまようすべての人にも向けられています。だれもが主のもとに来て、安らぎと平安、そして赦しを見いだすよう招かれているのです。さらに私たちは、主が完全に救うことのできる方であることを確信しています。すなわち、あらゆる意味において、完全に救うことができるということです(ヘブル7:25)。主は私たちを罪から救い出し、神の恵みのうちへと導き、私たちを神の相続人、また御自身と共同の相続人としてくださるのです(ローマ8:17)。

    罪は人の心を支配する恐るべき現実です。罪の報酬は死、すなわち永遠の死ですが、キリスト・イエスにある神の賜物は、永遠のいのちです(ローマ6:23)。キリストにあっては贖いがあり、さらに罪の赦しがあります。イエスは死によって死のとげを取り除き、その福音を通して、いのちと不滅性をもたらされたのです。

    主に見えないほど遠く離れた者は一人もなく、主の手が届かないほど低くある者もいません。主の呼びかけを聞けない耳はなく、主の手が届かないほど硬い心もありません。主がその罪を洗い流すことのできないほど黒い罪はなく、主が赦すことのできないほど恐ろしい罪もありません。ほむべきかな、その御名。主はいつの時代においても救うことのできる方です。ガリラヤの丘や平野を歩いておられたあの時と同じように、今日においても、主は変わらず救う力を持っておられます。主は逆境の中でも、試みにあっても、苦難のただ中でも、救うことがおできになります。また、喜びと繁栄の時にも、苦しみと死に直面する時にも、救うことのできる方なのです。

    イエス・キリストは、その愛に満ちた憐れみによって人を救われます。失われた者を捜し求め、救うために来られたからです。迷い出た羊を追い求める優しい羊飼いのように、イエス・キリストは、迷い出た罪人を追い求め、救おうとされます。海で遭難した人々のもとへ救命艇が出動するように、偉大なる航海者であるイエス・キリストは、人生という海で難破した者たちのもとへ、救いの舟を差し向けられます。病を癒すために医師が薬を与えるように、魂の大医師であるキリストは、罪から私たちを清める、永遠のいのちの軟膏を与えてくださいます。総督が死刑囚に恩赦と自由を与えるように、王であるイエス・キリストは、ご自分を救い主として受け入れるすべての人に、赦しを与えてくださるのです。

    罪の中に迷い、世俗に埋もれ、無関心のうちにあるすべての人へ。キリストはあなたを捜し求めておられ、あなたを救うために来られました。あなたを救うことを切に願い、喜んで救おうとされ、そして確かに救う力を持っておられます。だれひとりとして滅びることを望まず、忍耐をもって捜し求めておられるのです(2ペテロ3:9)。主はあわれみに満ちた愛、涙を流す愛、祈る愛、命を与えるほどの愛をもって捜しておられます。

    あなたは貧しいですか。枕する場所さえなかったキリストは(ルカ9:58)、貧しく、目の見えない物乞いを救われました(マルコ10:46–52)。あなたは悲しみの中にいるでしょうか。主は、悲しむ者が慰めを受けるために、祝福を携えて来られます(マタイ5:4)。あなたは、キリストを救い主として受け入れますか。もしそうするなら、父なる神の心を大いに喜ばせることになります。その時、父はこう歌うでしょう。「私のこの息子は、いなくなっていたが、見つかった」と(ルカ15:24)。

    ジョン・リンカーン・ブラント(1860–1946)著『魂を救うリバイバル説教集』(クリスチャンパブリッシング社、1907年発行)より、一部変更 

    2025年12月アンカーに掲載 朗読:ルーベン・ルチェフスキー

  • 1月 15 男と女として創造された人間
  • 1月 11 失望? それとも神の采配?
  • 1月 7 慈しみの実践
  • 1月 3 新しい年のための恵み
  • 1月 1 新年への希望
  • 12月 29 新年の約束:変わることのない主の臨在
  • 12月 25 最初のクリスマス: 誰が、何を、いつ、どこで、なぜ、どのように
  • 12月 24 クリスマスの希望
  • 12月 23 クリスマスの喜び
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第12章(12–30節)

    [1 Corinthians: Chapter 12 (verses 12–30)]

    July 29, 2025

    本シリーズの前回の記事では、第1コリント12章の前半において、パウロが霊の賜物とその多様性について語り始めていました。まず、第1コリント12章1–11節で、そのような賜物をいくつか挙げた後、それらは聖霊から与えられるものであり、すべての人の益になるように、また、一致を築くように用いられるべきことを強調しています(1コリント12:4–7)。

    12章の後半でも、パウロは一致と多様性という主題に引き続き焦点を当てています。

    からだが一つであっても肢体[からだの部分]は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである (1コリント12:12–13)。

    パウロはいくつもの書簡の中で、信者の一致、多様性、相互依存性を表現するために、しばしば教会を「キリストのからだ」と呼んでいます。[1] 人間のからだは多くの部分から成っていても一つの単位であるという点で、キリストのからだが人間のからだに似ていることを指摘しているのです。また、キリストのからだが、多様性の点でも人間のからだに似ていることを説明し、さらに教会内の多様性を強調するために、人種的・社会的な多様性も挙げて、それぞれが教会にいかに寄与しているかを述べています。かつては、どんなものがこれらの人々(ユダヤ人、ギリシャ人、奴隷、自由人)を隔てていたとしても、彼らは皆一つの御霊により、キリストにあって一つのからだに結び合わされたのです。

    ある聖書解説者は、次のように説明しています。

    パウロの考えでは、神によって構築されたこの結合(1コリント12:13)、すなわち数多くの多様な部分が有機的に結びつき、相互に依存し、調和して働くように一つとされたこのからだが、今や聖霊を通して、キリストの目に見える臨在と働きの現実をこの世に現している、ということに意味があるのです。[2]

    教会がキリストのからだと呼ばれるのは、キリストが教会の頭(かしら)であり(コロサイ1:18)、一人ひとりの信徒がそのからだの一部だからです(コロサイ3:15)。私たちは皆、主の御業を行うよう召されています。それぞれに異なる賜物が与えられており、それが何であれ、失われた人々にキリストを伝え、キリストのからだを建て上げるという使命において、誰もが大切な存在です(エペソ4:4–6, 11–13)。

    実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか (1コリント12:14–17)。

    パウロはさらに、人間のからだのイメージを用いて、キリストのからだのすべての部分にきちんと敬意を払うことの大切さを示しています。まず、からだの部位が自分を過小評価しているという、想像力に富んだ光景を描き出しています。足は、自分は手ではないので、からだに属していない、と考えるとしましょう。たとえそのように思ったからといって、足がからだの一部でなくなることはありません。耳が「自分は目ではないから、からだに属していない」と感じる場合も同様です。

    パウロは、信者が自分はあまり重要ではないとか、自分の奉仕の場は劣っているとか思い込んだとしても、キリストのからだから切り離されることはないという点を強調していたのです。からだの各部分は、全体の役に立っています。もしからだ全体が目であったなら、聞くことはできないし、もしからだ全体が耳であったなら、嗅覚は失われてしまいます。

    そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである (1コリント12:18–20)。

    ばかばかしく思えるこのような架空のシナリオによって、神が人間のからだの各部分をご自身の神聖な知恵に従って置かれた、という点が強調されています。神は、各部分とその構成を、ご自身の意図された目的を果たすために設計されたのであり、その点に関する神の知恵を疑うべきではありません。このように多様な部分が、神によってうまく結び合わされていることは、からだが機能する上で不可欠なので、パウロは、もしからだのすべての部分が一つの同じ部分、つまり、すべてが目、すべてが耳、あるいはすべてが足であったなら、「どこにからだがあるのか」と指摘しています。明らかに、からだは存在しなくなってしまいます。

    これらの点を強調するため、パウロはこのセクションの主題を繰り返しました。つまり、人間には一つのからだがあり、そのからだには多くの部分が必要だということです。どの部分も、それ自体が重要なのです。

    目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない (1コリント12:21–24a)。

    ここでパウロは、からだの一部が、他の部分に価値があるのか疑問を呈するというシナリオを示しています。目が手に「お前は必要ない」と言ったり、頭が足に同じことを言ったりするのは考えられないことだと述べているのです。むしろ逆であって、目には手が必要であり、頭には足が必要です。弱く見える部分でさえ、重要であり、必要とされています。

    「見劣りする」と考えるからだの部分には、何かをして「いっそう見よくする」ものだ、とあります。この表現はおそらく、指や足、つま先など、からだの「ささいな」部分に見につける衣類や装飾品を指しているのでしょう。同じように、教会も、見過ごされがちな信徒、つまり、貧しかったり、他の人と同じ程度には貢献できなかったり、社会的地位に欠けていたりする人々に、特別な敬意を示すべきです。

    神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ (1コリント12:24b–26)。

    パウロは、目立った誉れに欠けた部分こそ、神はいっそう尊んでくださったと指摘しています。それは、教会内に分裂が生じないようにするため、また、すべての部分が互いに等しく気遣い合うべきであることを強調するためです。痛みや病気で一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみます。キリストのからだの一つの部分が尊ばれると、他の部分も皆共に喜びます。一人の信者が尊ばれ、大切に扱われるとき、すべての信者が共に喜ぶべきなのです。

    あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である (1コリント12:27)。

    パウロは、人間のからだをたとえに用いて、教会をキリストのからだとして説明しており、信者たちこそがキリストのからだであると宣言しました。パウロはさまざまな書簡で、教会を表すためにこの比喩を用いましたが、この箇所で焦点を当てているのは、キリストのからだの各部分の一致、多様性、そして尊厳です。それぞれがからだの一部であるし、キリストに信頼を置いたすべての人は例外なく、キリストのからだの中に自分の居場所を与えられています。

    そして、神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた (1コリント12:28)

    パウロは先ほど、神がご自身の御心に従って、肉体の各部分を配置されたことを指摘しましたが、ここではキリストのからだを形作るそのような「部分」をいくつか挙げています。パウロはまず、教会における3つの職務(使徒、預言者、教師)を重要度に基づいて並べ、その後に5つの賜物を順不同で列挙しているようです。このような順序にしたのは、使徒、預言者、教師は、奇跡(力あるわざ)、癒やし、補助(援助)、管理、異言といった他の賜物とは異なり、教会を建て上げる上で重要な役割を果たしていたからかもしれません。

    使徒は、教会において特別かつ独特な役割を担った指導者であり、イエスの死と復活の証人として、エルサレムから出てキリストの福音を伝えながら、新しく教会を設立していきました。イエスが最初の12使徒を任命し(マタイ10:2–4)、のちにマッテヤ(マティア)がユダのあとを継ぎました(使徒1:23–26)。その後、パウロは異邦人への使徒として、12人の仲間に加えられました(1テモテ2:7)。他にも、バルナバ(使徒14:14)や、イエスの兄弟ヤコブ(ガラテヤ1:19)といった他の信者も使徒として言及されています。シラスとテモテ(使徒7:10–15)やアンデロニコとユニア(ローマ16:7)のように、特に使徒と呼ばれてはいなくても、正式に「遣わされた者」という意味合いにおいて、使徒の役割を果たした人たちもいました。

    新約聖書の預言者は、聖書としての神的権威をもつ言葉を語って書き記した旧約聖書の預言者とは、役割が異なっていました。新約聖書において、神の霊感を受けた聖書の執筆は、使徒たちと、その奉仕に同行した者たちによって行われています。新約聖書における「預言者」という言葉は、神のメッセージを聞き手に伝えるような霊感に満ちた言葉を語る、普通のクリスチャンを指すことの方が多かったのです。[3] 使徒以外の信徒で、他の信徒たちを励まし、導き、力づけるような預言を受けた例としては、ユダとシラス(使徒15:32)、伝道者ピリポ(フィリポ)の4人の娘(使徒21:8-9)、そしてエルサレムでのパウロの投獄について預言したアガボ(使徒21:10–11)などが挙げられます。

    教師もまた、重要でした。初代教会において、教師はユダヤ教のラビのような存在だったのです。彼らは聖書を研究して、教会に正しい教義を教えました。信徒が個人で聖書を所有することは稀だったため、教師の役割は重要でした。[4] パウロはまた、教師の職を牧師(牧者)の職と関連させて述べています(エペソ4:11–13)。

    パウロは、賜物を用いた人たちのことに続けて、賜物そのものについて語り、そこに奇跡、癒やしの賜物、補助、管理、異言を挙げています。奇跡と癒やしと異言の賜物は、本章の前半(1コリント12:8–10)でもすでに言及されているものですが、管理の賜物と補助の賜物については、ここで簡単に触れられるのみで、新約聖書でこれ以上の詳しい説明は与えられていません。

    みんなが使徒だろうか。みんなが預言者だろうか。みんなが教師だろうか。みんなが力あるわざを行う者だろうか。みんながいやしの賜物を持っているのだろうか。みんなが異言を語るのだろうか。みんなが異言を解くのだろうか (1コリント12:29–30)。

    パウロは、それぞれの職務や賜物について、反語的質問を列挙して、「そうではない」という答えを期待しました。これらの問いを通して、多様性が重要であることを改めて強調しているのであり、そのことは、聖書注解者レオン・モリスも次のように指摘しています。

    この一連の反語的質問は、まさにパウロらしい論証スタイルであり、多様性についての事実を強く印象づけています。クリスチャンは、神から授かった賜物の面で、互いに異なっています。すべての人が持っているからという理由で、いかなる賜物も軽んじてはいけません。なぜなら、すべての人は異なっているからです。[5]

    私たち皆が、信者の一致、多様性、相互依存という概念を受け入れられますように。それは、キリストのからだが建て上げられ、ついには、私たちが皆、神の御子に対する信仰と知識において一つになるためです(エペソ4:12–13)。

    (第31節は、次回の投稿で扱います。)


    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    1 例として、次の聖句を参照してください: ローマ12:4–5; エペソ1:22–23, 3:6; コロサイ1:24; 1コリント12:27.

    2 Alan F. Johnson, 1 Corinthians, The IVP New Testament Commentary Series (IVP Academic, 2004), 230.

    3 Wayne Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Bible Doctrine (Zondervan, 1994), 1052–1055.

    4 Leon Morris, 1 Corinthians: An Introduction and Commentary, vol. 7, Tyndale New Testament Commentaries (InterVarsity Press, 1985), 157.

    5 Morris, 1 Corinthians, 158.

     

     

  • 11月 11 第1コリント:第12章(1–11節)
  • 11月 4 弟子の生き方(パート2): 私たちの全存在をもって神を愛する
  • 10月 28 第1コリント:第11章(17–34節)
  • 9月 2 第1コリント:第11章(2–16節)
  • 8月 26 弟子の生き方: 前書き
  • 8月 19 第1コリント:第10章(16–33節)
  • 7月 29 第1コリント:第10章(1–15節)
  • 7月 12 第1コリント:第9章(18–27節)
  • 4月 29 第1コリント:第9章(1–17節)
   

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