アンカー

ユーザーフレンドリーなデボーション記事

  • クリスマスに孤独を感じていますか?

    Are You Lonely This Christmas?
    December 16, 2025

    引用文集

    オーディオ所要時間: 13:03
    オーディオ・ダウンロード(英語) (11.9MB)

    長い年月を経て、クリスマスは私にとってさまざまな意味を持つようになってきました。幼い頃には、特別な家族の休日であり、日曜学校でクリスマス物語を読み、雪の中を歩いて帰り、新しい本をもらう、そんなものでした。

    イエスを救い主として受け入れた後、クリスマスは、イエスの誕生と人々への善意とのメッセージを他者に伝えるという意味を持つようになりました。

    さらにその後、結婚して子どもが生まれると、クリスマスは、家族で新しい伝統をつくることになりました。飾りつけをし、プレゼントを贈り合い、にぎやかで温かい雰囲気の中でクリスマスディナーを準備する、そんな時期になったのです。

    これらの過去のクリスマスは、どれも温かい思い出を呼び起こします。ノーマン・ヴィンセント・ピールがいみじくも述べたように、思い返すと、まるでわたしの世界に魔法の杖がそっと振られたようで、すべてがソフトで美しく感じられるのです。

    しかし、離婚をし、子どもたちが巣立って家庭環境が変わったとき、私は「空の巣症候群」というものを実感することになりました。そして、クリスマスを一人で過ごすとこともです。それは決して簡単に慣れることのできるものではありませんでした。

    初めて迎えた一人きりのクリスマスの朝、私は小さなアパートの部屋で、飾りつけはしてあるのに静まり返った家で目を覚ましました。その日遅くに息子家族の家に行く予定だったので、ディナーに持っていく料理を準備し、ツリーの下に置くプレゼントも持っていって配る予定です。自分の家でクリスマスを主催せず、子どもや孫たちに囲まれないのは初めてのことで、寂しさが心に押し寄せてきました。

    その日の家族との時間はとても楽しく、息子や孫、そして息子の妻の家族と過ごす時間を心から楽しみました。でもそれは空っぽのアパートに帰る時までのことでした。一人で運転して帰る道はつらく、家に着くと、私は寂しさに涙を流しました。

    静まり返ったリビングで、コーヒーテーブルにあったクリスマスをテーマにしたギフトブックを手に取りページをめくっているうちに、イエスが天の故郷を離れ、この世に愛と希望を届けに来られたことを思い出しました。そして、孤独なクリスマスを過ごしているのは私だけではないと気づいたのです。私は涙を拭って電話を手に取り、以前から親しくしていた高齢の女性に電話をかけました。話してみると、彼女もまた一人で過ごしていたことがわかり、電話で話せることをとても喜んでくれました。その後、まだ話していなかった子どもたちや外国にいる親戚にも電話をすると、彼らの中にも必ずしも「完璧なクリスマス」を過ごしたわけではない人たちがいたのです。誰かに手を差し伸べることで気持ちが軽くなり、私は来年のクリスマス、そしてこの先すべてのクリスマスは、このことを忘れないようにしよう、と心に決めました。

    それ以来、私のクリスマスは毎年違うものになりました。ある年はボランティアとして、高齢の方々の家に行き、一緒にツリーや部屋を飾りました。年齢を重ねると、飾りつけが大変になる人も多いのです。孫たちとクッキーを焼き、あまり来客の来ないご近所さんに配った年もありました。また、電話やビデオ通話だけでも、違いがあるもので、私自身も笑顔になり、離れて住む人たちも笑顔になったものでした。

    人生にはさまざまなことが起こります。子どもが巣立ったり、離婚や死別などで、クリスマスを一人で迎えることになるかもしれません。これは決して容易い変化ではなく、孤独の涙がこぼれることもあるでしょう。それでも、状況は違えど、クリスマスを一人で過ごすことが必ずしもネガティブな経験になる必要はありません。たとえ一人でも、私たちは決して本当の意味で一人きりではありません。イエスはいつも私たちと共におられます。そして、私たちが手を差し伸べ、他の人々に自分を与えるなら、充実感と喜びが私たちに戻ってくるのです。—リリア・ポッターズ

    *

    古風であろうが現代的であろうが、私の考えるクリスマスは、とてもシンプルなものだ。それは、人を愛すること。考えてみれば、それをするのに、クリスマスまで待つ必要があるのだろうか?—ボブ・ホープ

    *

    ひとりでいることと孤独とは別物です。ひとりでいても孤独を感じない人もいれば、人でいっぱいの部屋にいても孤独を感じる人もいます。ですから、孤独とは心の状態であり、他の人から切り離されていると感じることで引き起こされる感情なのです。…

    ダビデほど、孤独を深く味わった人はいなかったかもしれません。… 実の息子が彼に反旗を翻し、イスラエルの人々も息子の側についたため、彼は都を追われ、家も家族も後に残して逃れなければなりませんでした。孤独と苦しみの中にあったダビデは(詩篇25:16)、神に立ち返り、憐れみと神の介入を必死に求めるほかありませんでした(詩篇25:21)。なぜなら、ダビデの唯一の希望は神にあったからです。…

    孤独の理由が何であれ、クリスチャンにとっての解決法はいつも同じです。それはキリストとの慰めに満ちた交わりです。この主との愛に満ちた関係は、牢獄で苦しんだ無数の人々、さらには主のために死に至った人々にも確信を与え、励まし、支えてきました。主は、「兄弟よりも親密な友人」(箴言18:24 新改訳2017)であり、友のために自分の命を捨ててくださる方(ヨハネ15:13–15)です。そして、世の終わりまで私たちと共にいると約束された方なのです(マタイ28:20)。—GotQuestions.org [1]

    *

    私はクリスマスのことを考えないようにしていました。その日が来るのが怖くて、どこかから天使が現れて、すべてを解決してくれないだろうかと願っていたのです。孤独を紛らわそうと、今日もただ普通の日、何も特別な日なんかじゃないというふりさえしました。

    でも、どうしても避けることはできませんでした。クリスマスは至るところにあふれているのに、私は一人ぼっちでした。話す相手も、笑い合う相手も、「メリークリスマス」と言ってくれる人もいません。刻一刻と気分は沈んでいき、それが何よりも怖かったのです。

    気分を明るくしようとして、私は楽しい思い出で心を埋めることにしました。ふと思い出したのは、日曜学校の先生のことです。気さくで親しみやすく、子どもたちとたくさんの時間を過ごし、どんなことも楽しくしてしまう才能の持ち主でした。よく「イエス様は私の人生の喜びだ」と語っていました。幼い頃を振り返ると、彼の、「ただイエス様を連れて行きなさい」という言葉が脳裏をよぎりました。

    本当にそんなことができるのでしょうか。考えてみました。私は一人だし、私のことなど誰も気づかないでしょう。それで、その時、私はその日一日、イエスを友達にしようと決めました。

    それから私たちは何でも一緒にしました。暖炉のそばでホットチョコレートを飲み、街を歩きながら世界の美しさについて語り、笑い、通りすがりの人に手を振りました。どこへ行っても、まるでイエスの腕が私を抱きしめているようで、イエスが私に語りかける声が聞こえてくるようでした。耳には聞こえないささやき声で、イエスは私を愛している、そう、私を、そして永遠に私の友でいてくれると告げたのです。どういうわけか、私はそのとき、もう二度と孤独になることはないと知ったのでした。

    そのクリスマスの夜、眠りにつこうとしていた私は、とても幸せで、穏やかで、満ち足りた気持ちでいっぱいでした。奇妙にも思えましたが、同時にそうでもないようにも感じました。私はその1日をイエスと過ごしたので、他の人たちも私と同じくらい幸せなクリスマスを過ごしていますように、と願いました。—ヴィヴィアン・ピーターソン

    *

    「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」 —イエス、マタイ28:20

    *

    私たちはなぜ、楽しい休暇の思い出を作ろうと必死で頑張っているのに、結局は失敗したと感じてしまうのでしょうか? … 一年で一番素晴らしいシーズンのはずなのに。では、グリンチのような不機嫌さや、チャーリー・ブラウンのような悲しさをどうやって追い出し、クリスマスの喜びを取り戻せばよいのでしょうか。

    私は、聖書に記されている賢者たちの物語に勇気づけられています。彼らは輝く星を何百マイルも追ってイエスを探していましたが、その途中でヘロデ王のエルサレム宮殿に立ち寄ります。

    しかしヘロデ王は彼らに、イエスはそこにはおらず、ベツレヘムにいるのだと告げなければなりませんでした。

    「彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた」(マタイ2:9–10)。

    非常な喜びにあふれた。

    この言葉に、私は深く心を留めます。ESV訳では、「彼らはこの上なく大きな喜びをもって喜んだ」と書かれています(マタイ2:10)。

    これこそ、このクリスマスシーズンに、私たちのために願うことです。ホリデーシーズンの混乱で乱れてしまった焦点をもう一度合わせ、世の光であるキリストに視線を向け直すことです。そうすれば、はるか昔の東方の三博士たちのように、歓喜に満ちて、祝い賛美することができるのです。

    クリスマスの喜びを求める祈りを捧げます。これは私たちの目を再び王であるイエスへと向ける、シンプルな道筋です。この言葉があなたを導き、何度でも主の御前に立ち返らせてくれますように。

    「主よ、あなたはなんと創造的な方でしょう。天の星さえ用いて、人々をあなたの御前へと導かれました。どうかこのクリスマスシーズンに、私たちをあなたに近づけてください。失望を祈りへのきっかけに変え、祝祭のひとときを、讃美の道へと導いてください。

    本当の喜びを与えてくださるのは、ただあなただけです。ですから、心を静め、歩みをゆるめ、どんな星よりも明るく輝く光であるイエスよ、あなたに目をとめていられますように。賢者たちが大きな喜びに満たされたように、私たちの心をあなたの誕生の不思議で満ちあふれさせてください。

    あなたを求める私たちの目に再びきらめきを、心に救いの喜びを回復させてください。今日も、そして毎日、あなたを求め続ける私たちを。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。」 —アシェリタ・チウチウ [2]

    2025年12月アンカーに掲載 朗読:ジェリー・パラディーノ 音楽:『Christmas Moments』アルバムより、許可を得て使用


    1 “What does the Bible say about loneliness?” GotQuestions.org, https://www.gotquestions.org/loneliness.html

    2 Asheritah Ciuciu, “A Prayer for Christmas Joy,” Proverbs31.org, December 2, 2024, https://proverbs31.org/read/devotions/full-post/2024/12/02/a-prayer-for-christmas-joy

  • 12月 19 イエスの憐れみ
  • 12月 15 キリスト教が及ぼした影響: 病院と学校
  • 12月 13 孤独というパンデミック
  • 12月 10 決断、決断
  • 12月 7 なぜクリスマスが重要なのか
  • 12月 3 天国の市民権
  • 12月 1 なぜクリスマスを祝うのか
  • 11月 24 荒野での誘惑
  • 11月 22 今この瞬間をつかもう! 先延ばしにしないで!
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第12章(1–11節)

    [1 Corinthians: Chapter 12 (verses 1–11)]

    July 1, 2025

    兄弟たちよ。霊の賜物については、次のことを知らずにいてもらいたくない (1コリント12:1)。

    パウロが、コリントの信徒たちへの書簡のこの章を、「さて(聖書協会共同訳等)、… については」という言葉で始めているので、彼らから送られてきた手紙で提起されていた質問や問題に話を戻していることがわかります。この主題について書き始めるにあたり、パウロは、霊の賜物について知らずにいてもらいたくないと述べています。また、彼らを「兄弟たち」と呼ぶことで、家族的な雰囲気をつくり出しています。

    あなたがたがまだ異邦人であった時、誘われるまま、物の言えない偶像のところに引かれて行ったことは、あなたがたの承知しているとおりである。そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない (1コリント12:2–3)。

    パウロはこの2つの節で、コリントの信徒たちがまだ異邦人(異教徒)であり、惑わされて、物の言えない偶像に引かれて行ったときと、クリスチャンになって、神の霊によって語るようになった経験とを、対比しています。一部の解釈者は、パウロが対比しているのは、異教徒は偶像に導かれ、クリスチャンは聖霊に導かれるという点であると考えています。また別の解釈では、異教における恍惚状態で話をする経験と、教会における聖霊の超自然的な働き(特に異言と預言に関して)とを対比していると考えられています。

    コリントの信徒の中には、異教の礼拝に関わったことがあるため、これらの賜物について懸念を抱く者がいたのかもしれません。パウロは彼らに、御霊に満たされた人の口は「イエスは主である」(1コリント12:3)と告白するのだと、保証しています。

    霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。務は種々あるが、主は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである (1コリント12:4–6)。

    これらの節でパウロは、御霊と主と神という、三位一体の3つの位格すべてに言及しています。パウロはコリントの信徒たちに、すべての信者に与えられる賜物について説明をしようとしており、そうするにあたり、その賜物の源は、「すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる」三位一体の神ご自身であることを明確にしています。

    パウロはまず、「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じ」であり、それぞれが教会で異なる目的を果たしていると述べています。パウロの要点は、聖霊はただおひとりであり、その方がキリストを信じるすべての人の内に宿っておられるということです。御霊が、一部の信者にのみ与えられ、他の信者には与えられない、ということはありません(ローマ8:9)。信者は皆救われており、神の御霊がその内に宿っておられます。霊の賜物はさまざまでも、それらはすべて聖霊から来ているのです。

    さらにパウロは、「務は種々あるが、主は同じである」と付け加えています。「務め」と訳されているギリシャ語は、「奉仕」とも訳されることがあります。パウロは、信徒たちのさまざまな奉仕や務めや活動の中に、同じ主が働いておられるのだと指摘しています。彼はコリントの教会に、神が彼らにさまざまな賜物と務めを与えてくださったのは、一致を築くためだと理解してほしいのです。

    各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである (1コリント12:7)。

    ここでパウロは、まず、神は各信者に御霊の現れをお与えになると述べてから、一致、多様性、配分という主題について説明していきます。聖霊が内住している信者には、概して、その人生において御霊の臨在が何らかのかたちで現れるものです。パウロは、各信者に御霊の現れがあるのは「全体の益になるため」だと述べることで、一致を強調しています。ある人が書いているように、「霊の賜物は常に、それが用いられるために与えられるのであり、しかも、その賜物を有している個人ではなく、信者の集まり全体を造り上げるために使われるべきです。」[1]

    御霊によって与えられる霊の賜物はすべて、キリストの体に属する他者に仕えるためのものです。霊の賜物のどれ一つとして、それを賜わった本人だけに益となり、役立つように与えられてはいません。

    すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、またほかの人には力あるわざ[奇跡を行う力(聖書協会共同訳)]、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている (1コリント12:8–10)。

    パウロはここで、クリスチャンの人生における霊の賜物の現れの例をいくつか挙げています。そうするにあたり、御霊に4回言及することによって、これらの賜物が神から、すなわち聖霊から来ることをコリントの信徒たちに思い起こさせています。

    新約聖書に記された、御霊の現れの他のリストと比較してみると、このリストはおそらく、コリント教会に現れている御霊の働きとしてパウロが知っていたものを、霊の賜物のいくつかの例として挙げたに過ぎないことがわかります。たとえば、ローマ12章6–8節にあるリストには、奉仕、教え、勧め、分け与え(施し・寄付)、指導といった他の賜物が含まれています。また、エペソ4章11–12節には、伝道や牧会といった、「聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ」るために与えられた他の賜物が記されています。

    パウロはコリントの信徒たちへの手紙で、霊の賜物の現れを9つ、簡潔に挙げています。いくつかの賜物がどのように現れるかについては、詳細がほとんど記されておらず、歴史を通して、聖書学者たちはさまざまな解釈を提示してきました。その内、3つの賜物(知恵の言葉、知識の言葉、霊を見わける力)については、新約聖書で言及されているのはこの箇所だけです。

    以下は、これらの賜物それぞれの概要です。(それぞれの賜物について、より詳しく知りたい場合は、『そのすべての核心にあるもの』シリーズの「御霊の賜物」パート1パート2を参照してください。)

    1. 知恵。コリント人の中には、その時代の知恵を誇る者もいましたが、パウロは自らの教えの中で、世の知恵を退け、真の知恵はキリストの救いの御業にこそ見いだされると宣言しています。(1コリント2:1–5)。このような知恵は、導きと助言をもたらす聖書の真理を、信者が日常生活に適用するのを助けます。

    2. 知識。「知識の言葉」が何を指すかについては、いくつかの解釈があります。聖書学者たちは、一つ前の知恵の賜物と同様に、これはおそらくイエスと福音における神の救いの計画に関する知識を指しているのだろうとしています。学者の中には、パウロが知識を奥義(神秘)や啓示、預言と結びつけることがあるので(1コリント13:2; 14:6)、ここで彼が書いているのは、霊的真理や奥義についての超自然的な知識と理解のことであると考える人たちもいます。

    3. 信仰。信仰の賜物は、人に救いをもたらす信仰、すなわち、すべてのクリスチャンが持っているイエスへの信仰を指すものではありません。それよりも、イエスが「からし種一粒ほどの信仰」と表現された、山をも動かすことのできる類いの信仰を指しているようです(マタイ17:20)。信仰の賜物は、特定の状況において神がある方法で働かれるという強い確信、あるいは、特定の務めを成し遂げるために与えられる特別な信仰と理解できます。

    4. 癒やしの賜物。これは、イエスと初代教会の働きに見られる、病人の超自然的な癒やしを指しています。肉体の癒やしは、終わりの日に起こる体の復活の前味でした(マタイ8:17)。ここでの「賜物」が複数形になっていることは、この御霊の現れは時と場合によって、異なるかたちで起こることを示しているのかもしれません。この世において、すべての信者に癒やしが約束されているわけではありませんが、神の癒やしの賜物は、いずれ行われる体の贖いと、あらゆる病の癒やしを待ち望ませるものとして、与えられています(ローマ8:23)。

    5. 力あるわざ(奇跡を行う力)。この言葉は総称として、癒やしに限らず、さまざまな種類の奇跡を行う力を指しているものと考えられます(ヘブル2:3–4)。奇跡とは、神の超自然的な介入によって起こる、通常の自然法則を超える出来事のことです。聖書全体を通して、神は奇跡によって、ご自身とその性質や計画を現してこられました。四福音書すべてから、奇跡がイエスの宣教において重要な役割を果たしたことがわかります。この賜物が9つの賜物の中で5番目の位置に記されているという点は、他のあまり目立たない御霊の働き以上に強調されたり重視されたりすべきではないことを示唆しています。

    6. 預言。預言の賜物とは、信者が聞き手に対して、神のメッセージを伝える霊感された言葉を語るよう、御霊から与えられる力です。[2] 旧約聖書には、神の霊感のもとで、聖書の言葉と同等の権威をもって、神の言葉を語る預言者たちがいました。新約聖書において、預言の賜物は、神が心に置いたり、思い浮かべさせたりしたことをクリスチャンが他者に伝えることを指すことが多く、その権威は聖書と同等とはみなされませんでした。[3] パウロは教会に対して、預言を「吟味(検討)」し、「良いものを大事に」守るよう勧めています(1コリント14:29; 1テサロニケ5:19–21)。預言の賜物は、共同体を造り上げ、励まし、慰めるのに有益であるため、パウロは奨励していました(1コリント14:1–3)。

    7. 霊を見わける力。旧約時代のイスラエルでは、偽預言者や偽教師の本性を見抜かなければならないことがありました(申命記18:20–22)。新約聖書に記されているように、教会内でも、その始まりからずっと、同じことが起こっていました。「しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている」(2ペテロ2:1)。「真理の霊」と「迷いの霊」を見わける力は、非常に貴重な賜物だったのです(1ヨハネ4:1–6)。

    8. 異言。異言の賜物とは、人が自分の知らない言語で語ることを指しており、その最初の現れは、五旬節の日に弟子たちに起こったことです(使徒2:4–11)。この賜物は、キリスト教会の歴史において、いくぶん意見の分かれるものでした。特に、それは人間の言語が、その言語を知らない人によって語られていたのか、あるいは、人間には知られていない言葉だったのか、という点です。パウロは、この賜物の異なる形態のものを異言とみなす余地を与えるために、意図的に「種々の異言」という曖昧さの残る表現を用いたようです。

    9. 異言を解く(解き明かす)力。「解く」と訳された言葉は、「翻訳する」とも訳せるものです。異言を解き明かす力は、語られた異言の種類によって、異なっていたと思われます。しかし、たとえ既知の人間の言語が話された場合でも、この賜物は、翻訳者が自分の知っている言語を訳す通常の能力を超えたものであり、自分の知らない言語を訳すという超自然的な力として理解されていたようです。パウロは後に、礼拝において異言が語られた場合、皆がそこから益を得られるよう、可能な限りそれを解き明かすべきだと教えています(1コリント14:2–5)。

    すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである (1コリント12:11)。

    こうして、御霊のさまざまな賜物の簡潔なリストを示した後、パウロは、すべての霊の賜物は同一の御霊の働きであると総括して、締めくくっています。これらの賜物が教会にとって重要なのは、聖霊によって授けられた力だからです。教会の各信徒は、それぞれ異なる賜物をいただいていますが、それは、個々の資質や状況の違いによってではなく、ただ一つの基準、すなわち、御霊の御心によって定められるのです(1コリント12:11)。

    (続く)


    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    1 Leon Morris, 1 Corinthians: An Introduction and Commentary, vol. 7, Tyndale New Testament Commentaries (InterVarsity Press, 1985), 167.

    2 Morris, 1 Corinthians, 169.

    3 Wayne Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Bible Doctrine (Zondervan, 1994), 1052–1055.

     

  • 11月 4 弟子の生き方(パート2): 私たちの全存在をもって神を愛する
  • 10月 28 第1コリント:第11章(17–34節)
  • 9月 2 第1コリント:第11章(2–16節)
  • 8月 26 弟子の生き方: 前書き
  • 8月 19 第1コリント:第10章(16–33節)
  • 7月 29 第1コリント:第10章(1–15節)
  • 7月 12 第1コリント:第9章(18–27節)
  • 4月 29 第1コリント:第9章(1–17節)
  • 4月 18 第1コリント:第8章(1–13節)
   

信条

もっと見る…
  • ファミリー・インターナショナル(TFI)は、世界中の人々と神の愛のメッセージを分かち合うことをゴールとする国際的なオンライン・クリスチャン・コミュニティーです。私たちは、誰でもイエス・キリストを通して神との個人的な関係を持つことができると信じます。その関係があれば、幸せや心の平安が得られるだけではなく、他の人を助け、神の愛の良き知らせを伝えようという意欲がわいてきます。

私たちのミッション

もっと見る…
  • ファミリー・インターナショナルが何よりも目標としているのは、神の御言葉のうちに見出される、愛と希望、救いという命を与えるメッセージを分かち合うことによって、より良い人生を皆さんに送っていただくことです。ペースの速い、複雑化した現代社会にあっても、神の愛を日常生活の中で実践することこそ、社会の問題の多くを解決する鍵であると私たちは信じます。聖書の教えにある希望や助言を分かち合うことで、ひとりずつ心が変わって行くことによって、だんだん世界が変わって行き、より良い世界が築かれて行くと信じているのです。

理念

もっと見る…
  • コミュニティー意識

    私たちは、信仰とはコミュニティーにおいて、また他の仲間との関係において、実践されるべきものであると信じています。そして、団結の精神、愛、兄弟愛を育もうと努めます。力を合わせることで、より多くを成すことができます。

TFI について

TFI オンラインは、ファミリー・インターナショナル(TFI)のメンバーのためのコミュニティサイトです。TFI は、世界各地で神の愛のメッセージを伝えることに献身する国際的なクリスチャン・フェローシップです。

TFI について詳しくお知りになりたい方は、私たちのグローバルサイトをご覧ください。

TFI メンバーの方は、 ログイン して他のコンテンツも見ることができます。

最近のシリーズ

もっと見る…
第1・第2テサロニケ
パウロがテサロニケの信徒に宛てた書簡の研究と、その教えがいかに現在に当てはめられるか
そのすべての核心にあるもの
キリスト教信仰・教義の基本を扱ったシリーズ