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  • ルツ物語(パート1)

    The Story of Ruth—Part 1
    February 23, 2026

    ピーター・アムステルダム

    オーディオ所要時間: 13:48
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    ルツ記は、旧約聖書の歴史書の1つで、エステル記と共に、聖書で女性の名がつけられた2つの書の1つです。あるモアブ人女性が、イスラエルの偉大な王であるダビデ王の曽祖母になるまでの物語を、4章にわたって記しています。

    この物語は、まず次のように始まります。

    さばきづかさ[士師]が世を治めているころ、国に飢きんがあったので、ひとりの人がその妻とふたりの男の子を連れてユダのベツレヘムを去り、モアブの地へ行ってそこに滞在した。その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、ふたりの男の子の名はマロンとキリオンといい、ユダのベツレヘムのエフラタびとであった。彼らはモアブの地へ行って、そこにおった …(ルツ1:1–2)。

    士師時代(紀元前1200~1020年)のある時期、ベツレヘムにいたイスラエル人であるエリメレクとナオミの一家が、近隣のモアブの地に移住しました。一時的にモアブに滞在することで飢饉を乗り切り、飢饉が収まったら故郷に戻ろうというわけです。モアブへの移住後しばらくすると、エリメレクが亡くなりました。ナオミと2人の息子はモアブに残り、息子たちはそれぞれモアブ人女性をめとりました。10年ほど暮らした頃、息子たちが死んで、彼らのモアブ人妻オルパとルツはやもめとなり、あとに残されました。ナオミは、夫と息子たちに先立たれたのです(ルツ1:3–5)。

    その時、ナオミはモアブの地で、主がその民を顧みて、すでに食物をお与えになっていることを聞いたので、その嫁と共に立って、モアブの地からふるさとへ帰ろうとした。そこで彼女は今いる所を出立し、ユダの地へ帰ろうと、ふたりの嫁を連れて道に進んだ(ルツ1:6–7)。

    故郷での飢饉が収まってきたことを耳にしたナオミは、ユダの地に帰ることにしたのです。その途上で、おそらく自分が外国に移住して、その結果、異国の地でほとんど何もない状態になったことを回想したのでしょう。昔自分がしたように、これから異国の地に入ろうとしている2人の嫁のことを考えました。

    そこで、ナオミは2人の嫁にこう言いました。「あなたがたは、それぞれ自分の母の家に帰って行きなさい。あなたがたが、死んだふたりの子とわたしに親切をつくしたように、どうぞ、主があなたがたに、いつくしみを賜わりますよう」(ルツ1:8)。ナオミは自らを犠牲にして、2人の嫁に、自分たちと同じ民族の中から新しい夫を見つけられるよう、モアブにある自分たちの母親の家に帰るよう言ったのです。これは、ナオミが嫁たちのために祈った最初の祝福の祈りでした。

    そして、2つ目の祝福の祈りが、これです。「どうぞ、主があなたがたに夫を与え、夫の家で、それぞれ身の落ち着き所を得させられるように」(ルツ1:9)。ナオミは、彼女らが嫁として義理の母に対して負うあらゆる責任から2人を解放していたのです。この祝福の言葉を述べた後、ナオミが口づけをすると、2人とも声を上げて泣きました。

    [嫁たちは]ナオミに言った、「いいえ、わたしたちは一緒にあなたの民のところへ帰ります。」 しかしナオミは言った、「娘たちよ、帰って行きなさい。どうして、わたしと一緒に行こうというのですか。あなたがたの夫となる子がまだわたしの胎内にいると思うのですか。娘たちよ、帰って行きなさい。わたしは年をとっているので、夫をもつことはできません。たとい、わたしが今夜、夫をもち、また子を産む望みがあるとしても、そのためにあなたがたは、子どもの成長するまで待っているつもりなのですか。あなたがたは、そのために夫をもたずにいるつもりなのですか。娘たちよ、それはいけません。主の手がわたしに臨み、わたしを責められたことで、あなたがたのために、わたしは非常に心を痛めているのです」(ルツ1:10–13)。

    嫁たちは、忠義の心から、姑と一緒に残ると言い、外国人となってベツレヘムに移住することを誓ったのです。しかし、ナオミは、現実的に物事を考えていました。自分は子どもを産むには年を取りすぎているし、たとえまだ望みがあって、男の子を産めたとしても、その子たちが大きくなって結婚できるまで、2人は待てるだろうかと。

    オプラはモアブに戻って再婚することにしましたが(ルツ1:14–15)、ルツはナオミといっしょにいることを選びました。そこで、ナオミは、ルツもモアブに帰るよう説得を試みました。

    しかしルツは言った、「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。あなたの死なれる所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。もし死に別れでなく、わたしがあなたと別れるならば、主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください」(ルツ1:16–17)。

    ルツはナオミと一緒にいるために、自分の文化と言語、家族、そして将来の家族の可能性までも放棄することを決意したのです。この時点から、彼女は永久にナオミの民の一員になると言います。「ナオミはルツが自分と一緒に行こうと、固く決心しているのを見たので、そのうえ言うことをやめた」(ルツ1:18)。

    ルツの決意を見て、ナオミは彼女が一緒にベツレヘムへ行くことを承諾しました。物語は次に、彼らがベツレヘムに到着したときの様子に変わります。

    彼らがベツレヘムに着いたとき、町はこぞって彼らのために騒ぎたち、女たちは言った、「これはナオミですか。」 ナオミは彼らに言った、「わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら全能者がわたしをひどく苦しめられたからです。わたしは出て行くときは豊かでありましたが、主はわたしをから手で帰されました。主がわたしを悩まし、全能者がわたしに災をくだされたのに、どうしてわたしをナオミと呼ぶのですか」 (ルツ1:19–22)。

    彼女らがどれだけの時間をかけて、どれだけの距離を旅したのかは、分かりませんが、その経路次第で、72~144キロの旅路だったことでしょう。私たちに分かっているのは、2人がこの旅をしたこと、そして、到着した時、町中の人に知られたことです。ナオミと夫がベツレヘムを離れてから10年経った今、ナオミだけ、モアブ人嫁と一緒に戻ってきました。ナオミは、ベツレヘムに戻った先の見通しに絶望していました。彼女からすれば、自分は全能者にひどく苦しめられたと思えたし、神はなぜ自分にこんな苦悩を味わわせたのかという疑問があったのです。

    しかし、物語はそこで終わりではありません。

    さてナオミには、夫エリメレクの一族で、非常に裕福なひとりの親戚があって、その名をボアズといった。モアブの女ルツはナオミに言った、「どうぞ、わたしを畑に行かせてください。だれか親切な人が見当るならば、わたしはその方のあとについて落ち穂を拾います。」 ナオミが彼女に「娘よ、行きなさい」と言った …」(ルツ2:1–2)。

    2人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まった頃で、それは3月下旬から4月初旬のあたりです。レビ記では、農作物の収穫の際、その一部を貧しい人々のために残すことが命じられています(レビ19:9–10)。ルツはナオミに、ベツレヘムにある畑に行って、落ち穂拾いをさせてくれる人がいたら、そうすればいいと言いました。「ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた」(ルツ2:3)。

    ボアズはベツレヘムの有力者で、エリメレクと同じ一族の人でした。「立派な人」(ルツ2:1 英語ESV訳)と呼ばれています。自分の労働者たちや、畑で落ち穂を拾う人たちのことを知っていたので、ルツを見て、新しい人が来たと分かったのでしょう。

    ボアズは刈る人たちを監督しているしもべに言った、「これはだれの娘ですか。」 刈る人たちを監督しているしもべは答えた、「あれはモアブの女で、モアブの地からナオミと一緒に帰ってきたのですが、彼女は『どうぞ、わたしに、刈る人たちのあとについて、束のあいだで、落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました」(ルツ2:4–7)。

    監督者からいい報告を受けたボアズは、直接ルツと話をしました。

    ボアズはルツに言った、「娘よ、お聞きなさい。ほかの畑に穂を拾いに行ってはいけません。またここを去ってはなりません。わたしのところで働く女たちを離れないで、ここにいなさい。人々が刈りとっている畑に目をとめて、そのあとについて行きなさい。わたしは若者たちに命じて、あなたのじゃまをしないようにと、言っておいたではありませんか。あなたがかわく時には水がめのところへ行って、若者たちのくんだのを飲みなさい」(ルツ2:8–9)。

    「(私の)娘よ」と呼びかけたのは、彼女がそれだけ自分よりも若かったからでしょう。また、ボアズのところで働く女たちのそばで落ち穂を拾っていいのであり、今は自分の保護下にあるのだということを表しているのかもしれません。

    彼女は地に伏して拝し、彼に言った、「どうしてあなたは、わたしのような外国人を顧みて、親切にしてくださるのですか。」 ボアズは答えて彼女に言った、「あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れて、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」(ルツ2:10–12)。

    ルツはボアズの優しい言葉にびっくりして、モアブ人である自分に、どうしてそれほど親切にしてくれるのかと尋ねました。するとボアズは、彼女が何を手放してこの地に来たかを知っていると説明し、神が彼女の犠牲に報いてくださるよう祈りました。ルツは、ボアズが言ってくれたことや、外国人である自分への接し方に、深く心を打たれました。「彼女は言った、『わが主よ、まことにありがとうございます。わたしはあなたのはしためのひとりにも及ばないのに、あなたはこんなにわたしを慰め、はしためにねんごろに語られました』」(ルツ2:13)。

    働いている人たちが食事をする時間になると、ボアズは、一緒に座るようルツを誘って、パンを勧めました。そして、おそらく固いパンを柔らかくするためのソースのようなものだと思われますが、ワインビネガーにパンを浸すよう言いました。「彼女が刈る人々のかたわらにすわったので、ボアズは焼麦を彼女に与えた。彼女は飽きるほど食べて残した(ルツ2:14)。ルツは食べ切れなかったので、残りをナオミにあげるため、家に持ち帰りました。

    そして彼女がまた穂を拾おうと立ちあがったとき、ボアズは若者たちに命じて言った、「彼女には束の間でも穂を拾わせなさい。とがめてはならない。また彼女のために束からわざと抜き落しておいて拾わせなさい。しかってはならない」(ルツ2:15–16)。

    ルツがまた穂を拾いに行くと、ボアズは刈る人たちに、積極的に彼女を助けるように言いました。また、彼女を辱めたり、恥ずかしい気持ちにさせたり、惨めな思いをさせたりしないようにと指示しました。そしてルツは、夕暮れ時まで休まず働き続け、集めた穂を打って脱穀しました。その日の作業の結果は、大麦1エパ(約22リットル)となりましたが、これは、ルツとナオミが数週間食べ続けられる量です(ルツ2:17–18)。

    しゅうとめは彼女に言った、「あなたは、きょう、どこで穂を拾いましたか。どこで働きましたか。あなたをそのように顧みてくださったかたに、どうか祝福があるように。」 そこで彼女は自分がだれの所で働いたかを、しゅうとめに告げて、「わたしが、きょう働いたのはボアズという名の人の所です」と言った。ナオミは嫁に言った、「生きている者をも、死んだ者をも、顧みて、いつくしみを賜わる主が、どうぞその人を祝福されますように。」 ナオミはまた彼女に言った、「その人はわたしたちの縁者で、最も近い親戚[買い戻しの権利のある親類(新改訳2017)、私たちの家を絶やさないようにする責任のある者(聖書協会共同訳)]のひとりです」 (ルツ2:19–20)。

    ナオミは、ルツがどうやってそんなにも多くの穂を拾えたのか、詳しく知りたがりました。ルツが詳しく説明し、ボアズのことも伝えると、ナオミは慈しみ深い主を賛美しました。ナオミはそれまで、主がもはや自分を気にかけておられないように感じていたのですが、今は、ボアズの優しさを通して、神が彼女やルツに慈しみを示されたことに気づいたのです。

    ボアズは、彼女らにとって、買い戻しの権利のある親類の1人です。買い戻しの権利のある親類とは、売りに出された(あるいは、売りに出されそうな)土地を買い戻して、それが一家の手から失われることを防ぐ責任を持つ近親者のことです(参照: レビ25:25; 申命25:5–10)。時間が経つにつれ、その人は貧しい親族の面倒を見る責任も負うべきであると考えられるようになりました。

    ナオミはさらに、ボアズのところで働く者たちと一緒にいるのはいいことだとルツに語りました。そこの若い女性たちと共に働けば安心だと。「娘よ、その人のところで働く女たちと一緒に出かけるのはけっこうです。そうすればほかの畑で人にいじめられるのを免れるでしょう」(ルツ2:21–23)。そこでルツは、大麦と小麦の収穫が終わるまで、そこで落ち穂拾いを続けました。それは、およそ3ヶ月の間です。

    初版は2022年10月 2026年2月改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー

  • 3月 9 永遠の現実性
  • 3月 4 赦すようにとの呼びかけ
  • 2月 28 愛とは
  • 2月 24 永遠にわたる驚異
  • 2月 20 神の導きに従う
  • 2月 16 塩となれ、光となれ
  • 2月 12 キリスト教が及ぼした影響: 労働と科学的発見
  • 2月 8 人生の季節を受け入れる
  • 2月 4 どんな状況にあっても感謝
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 弟子の生き方(パート3): キリストにとどまる

    [The Life of Discipleship, Part 3: Abiding in Christ]

    September 16, 2025

    キリストにとどまることは、弟子としての歩みにおいて重要な要素です。それには、自分の全存在をもって神を愛し、御言葉を学んでそれにとどまり、その原則に従って人生を整え、イエスの教えと手本に従うことが含まれます。

    イエスは死の前夜、告別説教の中で、イエスにとどまる必要性と、その結果として得られる祝福や益について、弟子たちに語られました。ご自身と密接なつながりを保つことの重要性と、そうすることで私たちは実を結ぶようになるのだということを、強調されたのです。弟子は実を結ぶように定められており、そうすることによって神は栄光をお受けになるのだと、イエスはヨハネ15章で説明しておられます。

    わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです (ヨハネ15:4–5, 8 新改訳2017)。

    イエスはさらに、ご自分を愛することと戒めを守ることとの関連性や、ご自身にとどまっていることで与えられる祝福と喜びを明らかにされました。

    父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました (ヨハネ15:9–11 新改訳2017)。

    もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう (ヨハネ14:23)。

    イエスは、「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」と言って(ヨハネ14:15)、主への愛と、主の教えへの従順とを、明確に結びつけられました。この箇所で「守る」と訳されているギリシャ語は、「注意深く従う、遵守する」、という意味です。つまり、私たちがイエスを愛するなら、イエスの教えを守り、それに従い、その原則を自分の生活に適用するということです。イエスへの愛は、イエスの言葉を守り、実践し、その原則に基づいて生活する姿に現れます。

    ヨハネの福音書には、イエスの言葉の内にとどまることが、弟子であることの決定的な要素だと記されています。「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである」、とイエスが言われたとおりです(ヨハネ8:31)。もっとも、イエスの厳しい教えの中には、口で言うほど簡単ではないものもあります。たとえば、「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」(ルカ14:27)や、その数節後の「自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない」(ルカ14:33)といった言葉です。

    イエスはこれらの聖句で、神の召命に耳を傾け、神に従い、神の御心を行うことが何よりも重要である、という霊的な原則を示されました。私たちに、人生のすべてを主に捧げ、救いについて主だけを信頼し、その上で弟子として主に従う事を求めておられるのです。イエスが「わたしについて来なさい」と言われるとき、ついてくるようあなたに呼びかけておられるその道は、あなたにとっての弟子の道です。それは、固有の道であって、イエスについて行く者一人ひとりに、それぞれ他とは異なる道が与えられています。ここで原則となっているのは、弟子は神に属しており、その忠誠は第一に神に捧げられるものだということ、そして、心と精神と思いを尽くして神を愛し、神に従うということです。

    主は全員に同じ形の奉仕や同じ弟子の資質が現れることを求めないし、主の子どもたち全員に同じコミットメントや犠牲を求めたりされません。歴史を通じて、異なる状況下で主のために偉大な仕事をした人々の例はたくさんあります。海外の宣教地、政府、事業、裕福な家庭、病床、貧困、物理的に切迫した状況などにいた人もいれば、教壇に立った人、世界的に有名だった人、そして多くの陰の英雄がいます。クリスチャンとしてのコミットメントと弟子の資質を示すテスティモニーに共通した、私たちを発奮させ、意欲を高めてくれることとは、イエスへの愛と主の召しへの忠実さです。

    主が私たち一人ひとりを、どんな形で主に従い仕えるよう求められるとしても、「イエスにとどまる」という原則は、イエスとの永続的な関係を絶えず育んでいくことを指します。イエスは弟子たちに、ご自身の内にとどまり、イエスの言葉を彼らの内にとどまらせ、教えに従うよう求められました。そして、そうするとき、私たちはイエスの愛の内にとどまって実を結ぶようになり、弟子である私たちに主が与えてくださる喜びが私たちの内にとどまるのです。

    単なるコーヒーブレイク以上のもの

    イエスは、私たちがご自身の内にとどまっているべきだと言われました。イエスから離れては、私たちは何もできないからだと(ヨハネ15:4–5)。私たちの多くは、イエスとの「コーヒーブレイク」なら喜んでとろうとしますが、「とどまる」とは、そういった短い訪問以上の意味を持ちます。「とどまる」と訳された言葉は、ギリシャ語の原語では「住む、存続する」という意味です。… 神の臨在の内にとどまるとき、神は御心をさらに明らかにしてくださいます。ご自身について、またあなたの人生に対する計画と目的について、より深い啓示を与えてくださるのです。…

    [私たちは、]人生の最優先事項として、神に自分を捧げる[必要があります]。仕事から、無益なことで時間をつぶす行為(例えば、テレビの前で何時間も過ごすこと)に至るまで、そういった私たちの気を散らすものを脇に置くとき、神は私たちの霊的な力を増し加えてくださいます。主の御前を歩むなら、神はあなたを霊的に強健にしてくださるのです。イザヤもこう書いています。「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(イザヤ40:31)。—K・A・ポール [1]

    つながる

    J・C・ライルは、キリストにとどまることを、「主との絶え間ない親密な交わりの習慣」と表現しています。細胞が癒合して、ぶどうの木にしっかり接着するまで、接ぎ木された枝がテープで人為的に固定される必要があるように、こうした習慣も、最初は不自然に感じられるかもしれません。

    しかし、そういった習慣そのものではなく、その目的である「命の源であるキリストにとどまり、つながっている」ことに焦点を合わせていれば、時間とともにより自然にできるようになり、生涯にわたるキリストとの結びつきを育むことになります。

    この習慣には、以下のようなものがあります。

    • 御言葉を通して語られる神の声に耳を傾け、神とつながること。
    • 祈りを通して御言葉に応答し、神と交わること。
    • 私たちへの神の大きな愛を思い出させる福音の真理を、繰り返し心に刻むこと。
    • あらゆる状況で神を必要としていることを、常に意識すること。
    • 自力で問題を解決しようとする誘惑に駆られるときに、神を信頼すること。
    • 神の道が自分の道と異なって見えるときにも、罪を避けることであれ、善を追い求めることであれ、従順に神に従うこと。
    • 大勢の聖徒たちと共に、忍耐を貫き、救い主に目を留めつつ、競走を走り抜くこと(ヘブル12:1–2)。—ベラ・クリスチャン [2]

    神の言葉にとどまる

    イエスにとどまることについて、大切な要素とは、御言葉を読み、学び、黙想し、暗記することです。神は、聖書を通してご自身を私たちに啓示されました。私たちは聖書に書かれたことから、神について、また、人類に対する神の愛や私たちのための救いの計画について、学びます。神は、私たちへの愛を語り、不完全で限界のある存在である私たちがどのように神との関係を築けるかを示しておられます。聖書を読むことで、私たちはイエスの教えに耳を傾け、その愛の模範を見ます。そして、私たちのために捧げられたイエスの犠牲により、生まれ変わって神の子どもとなるよう促されます。

    御言葉にとどまればとどまるほど、また、御言葉を私たちの内にとどまらせればとどまらせるほど、どうすれば御心に従って神とその愛を映し出す生き方ができるかについて理解が深まり、学びと成長が進みます。毎日、聖書やデボーション資料を読むために時間を取ることで、私たちは読んだものを通して主に語っていただき、主の教えと導きを受け取り、人生の問題や困難を切り抜けるための助けを得られるようになるのです。御言葉は、私たちが従うべき道徳的規範を知らせ、決断すべきときに導きを与えてくれます。

    御言葉にとどまるにつれ、主が私たち一人ひとりに与えられた価値と、すべての人間に対して抱いておられる愛と憐れみに、ますます気づくようになります。聖書に書かれた真理を吸収して、日々の生活に適用するにつれ、私たちは人生の錨を主の内に下ろすようになります。そして、イエスが語られたたとえ話に出てくる、岩の上に家を建てた賢い人のようになるのです。雨が降り、風が吹いて家に打ち付けても、その家は倒れませんでした。岩を土台としていたからです。イエスはこのたとえの要点を、次のように語っておられます。「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう」(マタイ7:24–27)。

    神が御言葉の中で私たちに語られたことを読む時間を毎日取ることは、日々押し寄せる情報とインプットの渦を無事通り抜けるための道を与え、真理と偽りを見分ける霊的能力を高めてくれます。すると、神の御心にかなった生き方をする上で大切なことを心の軸にすることが、もっと容易になります。それは、人生が私たちにもたらすあらゆるものを耐え抜き、克服する助けとなるのです。

    毎日、神の言葉を読んで学ぶ時間を確保するのは簡単ではありません。それには自己鍛錬を要します。しかし、普段から聖書を読み、神と交わる時間を取ることは、私たちを霊的に強め、神の真理と愛に根差した、より強いクリスチャンへと成長させます。イエスは、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」と言われました(ヨハネ6:63)。御言葉を読むことで築かれる神とのつながりは、他者との相互関係や、意思決定において御霊に導かれることを助け、日々の誘惑に直面しても強くあれるようにしてくれます。

    キリストにとどまりたいのなら、私たちは主とその言葉と共に過ごす時間を取る必要があります。常日頃から御言葉の水を心に深く吸収することによって、私たちは次第に新たにされ、変えられて、もっとイエスに似た者とされていくのです。私たちが読み、黙想した御言葉を実践することで、神の御心に沿った人生を生きるための恵みが与えられます。なぜなら、神の言葉は私たちの足の灯火であり、私たちの道の光だからです(詩篇119:105)。

    とどまることを学ぶ

    ヨハネ15章10節まで来ると、イエスにとどまるとはどういうことかがわかってきます。「わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです」(新改訳2017)。 イエスにとどまるとは、イエスの戒めを守ることを意味し、その戒めを守るとは、心と精神と思いを尽くして神を愛し、自分自身のように隣人を愛することです(マタイ22:37–39)。神への愛を示すには、神への信頼と祈りと献身を通してそうするのが一つの方法です。私たちは関係を持つことで、とどまります。愛をもって追い求めます。愛をもって祈ります。愛をもって従います。

    そして、ここに良い知らせがあります。私たちがイエスを愛するのは、イエスがまず私たちを愛してくださったからなのです(1ヨハネ4:19)。 私たちが主を選んだのではありません。主に従順になって信仰の道を歩めるよう、主が私たちを選んでくださったのです(ヨハネ15:16)。キリストから離れては、私たちは何一つできません(ヨハネ15:5)。これはまた、キリストを追い求めて知るためには(そしてイエスが強調されたように隣人を愛するためには)、自分の力を振り絞らねばならないと思いこんで疲れ果ててしまった人にとっても、良い知らせです。恵みも力も、主が与えてくださるのです。…

    イエスは、友のために命を捨てることほど大きな愛はないと、私たちに思い起こさせておられます。そして、続けてこう言われたのです。「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ15:13–14)。

    イエスは、愛せよというイエスの戒めに従うなら、私たちはイエスの友なのだと言われます(この言葉をちょっと噛み締めてみてください)。そして、その戒めは、「とどまる」ことによって全うされるのだと。… そして、イエスの友となれるというこの申し出、すなわち、私たちの信仰の創始者にして完成者、アルファでありオメガである方、美しいお方、私たちの罪と背きとを身に負われたお方、そんなお方の友となれるというこの申し出は、クリスチャンにとって非常に魅力的なものです。

    イエスにとどまりなさい。そうすれば、イエスもあなたの内にとどまってくださいます。あなたの内に良いわざを始められた方は、それを完成してくださいます(ピリピ1:6)。あなたを召された方は、真実です。必ずそれを成し遂げてくださるのです(1テサロニケ5:24)。—トリリア・ニューベル [3]

    「あなたがわたしにとどまり、わたしがあなたの内にとどまる」というこの原則は、神との関係やキリストとの歩みの土台であり、心と精神と思いを尽くして神を愛するという原則と関係しています。誰かを愛していれば、その人と時間を過ごしたいと思うものです。弟子は、イエスが歩まれたように歩むよう召されています。ヨハネの第一の手紙にはこうあります。「神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません」(1ヨハネ2:6 新改訳2017)。その方法とは、イエスが示された模範に従おうと努め、イエスの言葉と行動にある原則を学び、それを人生に適用することです。

    イエスは人間の姿となり、人間として生き、しかも罪なく完全にそうされたことで、私たちに模範を示してくださいました。ピリピ人への手紙には、「キリストは、神のかたちであられたが、… 僕のかたちをとり、人間の姿になられた」とあります(ピリピ2:6–7)。地上でのイエスの生涯は、神が人間として生きる姿そのものであり、まさに模範でした。「神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ」てくださったのです(コロサイ1:19 新改訳2017)。私たちの人生の手本として、イエスの生涯と教え以上に優れた模範があるでしょうか。これ以上のロールモデル、これ以上に優れた指針があるでしょうか。

    噛みしめるべき言葉

    「キリストにとどまる」という表現は、単に表面的な知り合い関係ではなく、親密で近しい関係を表しています。ヨハネ15章4–7節で、イエスはぶどうの木につながれた枝のたとえを用いて、弟子たちに、ご自身から命を得ることが不可欠だと語られました。救いによってもたらされる、この極めて重要なキリストとの結合がなければ、命も実りもないのです。—Got Questions [4]

    イエスの健全な弟子であるためには、神の言葉に養われることを最優先しなければなりません。イエスはそれを「とどまる」と表現されました。… 聖書の言葉を日々黙想することほど、あなたの人生を変え、イエスに似た者へと造り変えることのできる習慣はありません。神の真理を深く思い、キリストの模範に真剣に従うとき、私たちは「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」のです。—リック・ウォレン

    [キリスト]にとどまるとは、イエスの言葉を受け入れ、信じ、信頼することです。それは、御父とご自分の民に対するイエスの愛、そして、御父と私たちに対してイエスが抱いておられる喜びを受け入れることを意味します。—ジョン・パイパー

    聖書は何と言っているか

    「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(1ヨハネ4:16 新共同訳)。

    「だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません」(1ヨハネ2:5–6 新改訳2017)。

    「あなたがたは … 上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである」(コロサイ3:1–3)。

    とどまり続けるための祈り

    イエスさま、あなたがぶどうの木で、私がその枝であることを感謝します。日々あなたにとどまり、言葉と行いのすべてにおいて実を結べるよう助けてください。私は、あなたなしには何もできないことを知っています。そして、あなたの内に安らぐなら、父なる神に喜ばれる実を結ぶことができることも知っています。私はあなたとつながり、あなたの内に安らぎ、あなたにとどまり続けたいのです。アーメン。[5]


    1 K. A. Paul, Left for Dead (Encourager Media, 1997).

    2 Vera Christian, “How to Abide in Christ,” https://www.verachristian.com/connecting-the-dots/how-to-abide.

    3 Trillia Newbell, “Learning to Abide in Christ,” Desiring God, June 10, 2014, https://www.desiringgod.org/articles/learning-to-abide-in-christ

    4 “What Does It Mean to Abide in Christ?” GotQuestions.org, https://www.gotquestions.org/abide-in-Christ.html.

    5 “Prayers on Abiding in Jesus,” Knowing Jesus, https://prayer.knowing-jesus.com/Prayers-on-Abiding-in-Christ#.

     

  • 2月 1 第1コリント:第13章(1–13節)
  • 12月 30 第1コリント:第12章(12–30節)
  • 11月 11 第1コリント:第12章(1–11節)
  • 11月 4 弟子の生き方(パート2): 私たちの全存在をもって神を愛する
  • 10月 28 第1コリント:第11章(17–34節)
  • 9月 2 第1コリント:第11章(2–16節)
  • 8月 26 弟子の生き方: 前書き
  • 8月 19 第1コリント:第10章(16–33節)
  • 7月 29 第1コリント:第10章(1–15節)
   

信条

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