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  • クリスマスの贈り物

    The Gifts of Christmas
    December 19, 2023

    引用文集

    オーディオ所要時間: 14:31
    オーディオ・ダウンロード(英語) (13.2MB)

    神がクリスマスに私たちにくださったのは、ご自身の御子だけではありません。私たちに真理を与えてくださいました。受け入れるなら私たちを変えてくれる真理を。神がクリスマスに与えてくださったのは、まったく新しい人生なのです。

    ルカによる福音書第1章で、エリサベツはこう語っています。「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいな[多くの英訳聖書でblessed=祝福されている]ことでしょう。」 エリサベツはマリアに、そして私たちに、こう言っているのです。「もしあなたが、この赤ちゃんについて天使が言ったことを本当に信じ、受け入れるなら、あなたは祝福されるでしょう。」

    しかし、英語の「blessed」という言葉はとても弱々しく軽いものです。英語[の日常的な用法]で「blessed」は「inspired(実に素晴らしい)」というような意味で使われます。しかし、「blessed」と訳されたこの言葉は、ヘブル語やギリシャ語で書かれた聖書では、それよりもずっと深い意味を持っていました。祝福されることは、あなたを完全なシャーロームに引き戻します。それは、完全な人間の機能であり、神があなたのために意図したものすべて、ということです。祝福されるとは、あなたがすべての人間的能力において強められ、修復されて、完全に変容することなのです。

    エリサベツがマリアに言っていること、また、ルカが私たちに言っていることは、こういうことです。「受肉というこの美しい概念が実際に現実化すると、あなたは信じていますか。もしあなたが信じて、それを人生の中心に据えるなら、あなたは祝福され、変容し、完全に変えられるでしょう。」…

    あなたがクリスマスを信じるのなら、つまり、神が人間になられたと信じるのなら、あなたには苦しみに立ち向かう能力があり、苦しみに会うにあたって、他の人にはないリソースがあります。世俗主義や古代ギリシャ・ローマの異教、東洋思想、ユダヤ教、イスラム教など、他のどの宗教も、神が脆弱な存在となったり、苦しみを味わったり、肉体を持ったりしたと信じてはいません。東洋思想では、肉体は幻想であると信じられています。古代ギリシャ・ローマ人は、肉体は悪であると信じていました。ユダヤ教とイスラム教は、神が肉体に宿るようなことをするとは信じていません。

    しかし、クリスマスは、神が霊的なことだけに関心を持っておられるのではないと教えています。なぜなら、神はもはやただの霊ではないからです。神には体があります。神は、貧しいこと、避難民となること、迫害や飢餓に直面すること、殴られたり刺されたりすることがどのようなものかを知っておられます。死ぬことがどのようなものかも知っておられます。したがって、受肉と復活を合わせて考えると、神はただ霊だけではなく、体のことも気にかけておられるとわかるのです。神は霊と体を造られたし、霊も体も贖ってくださいます。

    クリスマスは、神が霊的な問題だけではなく、身体的な問題をも気遣っておられることを示しています。そこで私たちは、人々を罪や不信仰から贖うことについて語ると同時に、安全なまちづくりや、貧しい人々のために手頃な価格の住宅を提供することについても語ることができるのです。… クリスマスは、自分が他の誰かよりも優れていると考えることを終える時です。なぜなら、クリスマスは、あなたが自分一人の力で天国に行くことは決してできないと教えているからです。神があなたのもとに来なければならなかったのです。—ティモシー・ケラー [1]

    主は私たちのために貧しくなられた

    最初のクリスマスに起こった、その出来事にこそ、キリスト教の啓示の最も深遠で測ることのできない深みがあります。「言は肉体となった。」(ヨハネ1:14) 神が人間となられました。御子がユダヤ人の一人となられたのです。全能の神が、無力な人間の赤ちゃんとして地上に現れた時、ただ横たわり、じっと見つめ、体をくねらせ、音を立てることしかできませんでした。他のどんな子とも同じく、食事や着替えの世話をしてもらい、話し方を教えられる必要がありました。そこには何の幻想も欺瞞もなく、神の御子は実際に幼少期を過ごされたのです。そのことを考えれば考えるほど、驚くばかりです。作り話だって、この受肉の真実ほど素晴らしいものはありません。…

    それは、大いなる謙遜とへりくだりの行為でした。パウロは、こう書いています。「彼は、常に神の身であったが、神と等しい者としての優位性に固執しようとはせず、かえって僕の身となることに応じ、死すべき人間として生まれることで、いかなる特権をも捨て去られた。そして、人間となった彼は、へりくだって、死に至るまで完全に従順な生活を送られた。しかも、その死は犯罪者としての死であった。」(ピリピ2:6 英語フィリップス訳新約聖書) そして、それはすべて、私たちの救いのためだったのです。…

    神の御子が自らをむなしゅうして、貧しくなられたのは、栄光を捨てることを意味していました。ご自身の力を自ら抑えること。苦難、孤立、不当な扱い、悪意、誤解を受け入れること。そして、最後に、肉体的な苦痛以上でさえある霊的な苦痛を伴う死を迎えることを意味しており、主の心はそれを想って張り裂けそうになったほどです。それが意味していたのは、「彼の貧しさによって富む者に」なった、愛のない人々に対する極限までの愛です。(2コリント8:9

    このクリスマスのメッセージは、荒廃した人類社会にも希望があるということです。赦しの希望、神との平和の希望、栄光の希望であり、それがあるのは、イエス・キリストが父の御心によって貧しい者となり、30年後に十字架にかけられるようにと、家畜小屋にお生まれになったからです。これは、世界がこれまでに聞き、あるいは、これから聞くことになるメッセージの中で、最も素晴らしいものです。…

    なぜなら、クリスマスの精神とは、主がされたように、私たちも人類仲間を豊かにするために貧しくなり、自らを費やし、費やされるという原則に従って生涯を過ごす人々の精神なのです。そうした人は、時間、労力、配慮、そして関心を注いで、自分の友人だけではなく、他者全般に対し、何であれ必要と思われる方法で、善を行います。

    「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」 「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。」(ピリピ2:5 新改訳2017)—J・I・パッカー [2]

    救いの贈り物

    キリスト教の核心にあるのは、イエスが神であるということであり、それを信じることによって、人はクリスチャンとなるのです。イエスが神でないなら、信仰の核心は存在せず、私たちの信仰は根拠のないものとなってしまいます。イエスはご自分が神であると断言されました。イエスの弟子たちはそれを信じ、それを説いて、キリスト教運動を始め、それは2000年以上続いています。この運動は今では、この基盤となる真理を信じる20数億もの人から成っています。

    新約聖書は、イエスが他の何よりも先に存在し、万物を作り、また、人となってその被造物のうちに入り、罪をゆるし、ご自身の死とよみがえりを通して、救いと死に対する勝利とをもたらされたと宣言しています。イエスの奇跡のすべて、また、天の父との特別な関係は、イエスが神であることを示しています。イエスの教えも、彼が人をさばくと語られたことも、そのことを示しています。

    イエスの活動の大きな転換点の一つは、彼に従う人たちが、彼は一体どなたであるのかを理解し始めた時のことです。

    イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子[イエスご自身のこと]をだれと言っているか」。彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である」。(マタイ16:13–17)

    私たちもペテロと同じような信仰の表明をすることができます。つまり、イエスは生ける神の子であると。それだけでなく、私たちは彼自身が神であると知っているのです。これは、標準的なキリスト教の教えであり、すべての真のクリスチャンはこれを信じています。イエスは神であるからこそ、命の水であり、世の光であり、天から下るパンであり、よみがえりまた命であり、私たちの罪をゆるして、ご自身を受け入れるすべての者に永遠の命をお与えになる方です。イエスの人生、死、よみがえりの結果として、神からの尊い贈り物である救いがあるのです。—ピーター・アムステルダム

    クリスマスの約束

    永遠の時間の流れのこちら側では、クリスマスはまだ約束の状態です。たしかに、救い主が来て、地に平和がもたらされましたが、物語はまだ終わっていません。たしかに、私たちの心には平和がありますが、世界も平和になることを切望しているのです。

    毎年やってくるクリスマスは、今の段階では、イエスが戻ってこられるまで「ページをめくる」ようなものです。毎年12月25日は、私たちを時の終わりに近づける新たな一年の始まりを示しています。私たちを … 故郷へと近づける年です。

    イエスが私たちの最も深い切望に対する答えであり、さらにはクリスマスの切望に対する答えであることを理解する時、アドベント(待降節)が来るたびに、私たちはイエスの地上への栄光の帰還に近づきます。王の王、主の主という、イエスのありのままの姿を見る時、それこそが本当に「クリスマス」となることでしょう。…

    私たちは、永遠の縁でつま先立ちをして待ち、新しい天と新しい地にいつでも足を踏み入れられる状態です。私はそうするのが待ちきれません。天で主を礼拝するために、友人や家族と集まって、「さあ来たれ、信仰篤き者たちよ」(賛美歌『神の御子は今宵しも』)を歌うのが待ちきれないのです。そして、精錬された信仰の贈り物、「聖徒たちが受け継ぐべき栄光の富」を主に捧げるのが待ちきれません。(エペソ1:18

    私たちはひざまずき、王たちや羊飼いたちと共に、主を賛美し、「いと高きところでは、神に栄光があるように」と歌うことでしょう。(ルカ2:14) そして、永遠にわたり、私たちは「輝く明けの明星」である方に従っていくのです。(黙示録22:16)—ジョニー・エレクソン・タダ [3]

    2023年12月アンカーに掲載 朗読:ジョン・ローレンス 音楽:『Christmas Moments』アルバムより、許可を得て使用


    1 http://www.godrenews.us/by/advent-gifts

    2 J. I. Packer, Knowing God (1973).

    3 Joni Eareckson Tada, A Christmas Longing (Multnomah, 1990).

  • 12月 17 忠実な僕と悪い僕
  • 12月 14 主を喜ぶことによって、強くあれ
  • 12月 10 クリスマスの真の喜び
  • 12月 1 クリスマスの不思議
  • 11月 29 制作過程の作品
  • 11月 23 7月のクリスマス
  • 11月 17 父の食卓で座る位置
  • 11月 11 愛のカラー
  • 11月 5 ザレパテのやもめ: 希望の物語
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第4章(6–14節)

    [1 Corinthians: Chapter 4 (verses 6–14)]

    August 20, 2024

    コリントの信徒たちに宛てた手紙のこの部分で、パウロは、一部の信徒が自分は他の信徒よりも偉いと考える原因となっている競争心に反対して語っています。

    兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、「しるされている定めを越えない」[聖書協会共同訳:書いてあることを越えない]ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。[1]

    パウロは、なぜ自分自身とアポロを教会の指導者の例として用いたのかを説明しています。彼はコリントで分裂を招いている指導者たちに向けて話していますが、自分のメッセージの原則を自分自身とアポロに当てはめることによって、叱責を和らげようとしたのです。ほとんどの解説者は、パウロが自分自身とアポロを例に挙げたのは、彼が指導者について語っていることで、コリントの信徒たちから反発を招かないようにするためだとしています。

    パウロは、自分がアポロといかに協力して働いてきたかに、注目させようとしています。彼らの謙虚さと、互いに自慢したり比べたりしないことは、彼らの宣教がキリストを中心としたものであることを示しています。彼は、信者たちが「高ぶる」こと、つまり他人に対して自分を誇示することを望んでいません。パウロは、コリントの信徒たちが、意識して互いに比べ合おうとしていることを懸念しています。それがコミュニティを分裂させているものだからです。コリントの人たちは、自分がどんな賜物をいただいているかに基づいて、互いに高ぶるべきではないのです。

    パウロが彼らに「書いてあることを越えない」よう警告しているのは、聖書のことを言っています。コリントの人たちは、聖書に記されていること(「書いてあること」)を越えるべきではないことを、パウロとアポロから学ぶべきなのです。

    いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。[2]

    この3つの質問を通して、パウロはコリント教会が抱える問題の核心に迫っています。まず尋ねたのは、彼らを他の人よりも偉いとみなしているのは誰なのか、ということです。彼らのどこが、他の人よりも特別だというのでしょうか。他の信者にはないどんな資質があるのでしょうか。彼らは何の権利があって、指導者たちを裁いているのでしょうか。彼らは他の信者より偉いわけではありません。神の目には、すべての人が重要な存在なのです。

    パウロは次に、彼らの持っているもので、もらっていないものがあるのかと尋ねています。誰であれ、彼らが持っている能力や資質のうち、神から与えられていないものがあるでしょうか。言うまでもなく、その答は「いいえ、ありません」です。あらゆる良い賜物は、神からの贈り物として与えられたものであり、それには彼らの才能や個人的な資質も含まれています。[3]

    次に尋ねているのは、彼らにある良いものが、すべて神からの贈り物としていただいたものであるなら、どうしてそれを自慢できるのかということです。彼らの内にある良きものが、自分自身からではなく神の恵みによるものであるなら、自分自身や自分の意見の方が他の信者のものよりも優れていると誇れるでしょうか。

    あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ。ああ、王になっていてくれたらと思う。そうであったなら、わたしたちも、あなたがたと共に王になれたであろう。[4]

    この節から13節まで、パウロは皮肉っぽく語っています。パウロは、彼自身や使徒たちがたどる十字架の道と、コリント教会の中でも自分は霊的に優れているのだと考える人たちの道の間には、大きな違いがあることを示しています。「すでに」という言葉を使ったことで、状況を強烈かつ明確に表現しており、パウロがこれから言おうとしていることの雰囲気と表現方法が方向づけられています。また、パウロは「わたしたちを差しおいて」という言い方をすることで、自分は霊的だと考える人々が、使徒たちでさえ持っていないものが自分たちにはあると主張していることを指摘しています。彼らは、十字架が重要ではないかのように振る舞っているのです。

    パウロは彼らに対し、あたかも自分が彼らの父親であるかのように話しています。彼らを自分の愛する子どもと考え、子どもが親にするような反応の仕方をするよう期待しているのです。彼らとの関係が深く個人的なものであることや、彼らがパウロの話を聞くだけではなく、「私に倣いなさい」という呼び掛けに従うことを求めるのに、十分な権威が自分にはあることを知っていました。

    彼は、現実になることのない願いを口にしています。もし彼らが「王に」なるのなら、自分も彼らと共に王になりたいというのです。パウロは、いずれ、人々が満ち足りて豊かになり、神と共に「王になる(支配する)」時が来ると知っています。コリントの人々は、この栄光はキリストが来られる時に初めて訪れるものであり、彼らの世俗的な栄光の概念とは何の関係もないことを理解する必要がありました。

    わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。[5]

    神は使徒たちを、死刑判決を受けた犯罪者のように引き出し、見世物にされました。パウロの時代には、死刑を宣告された者がしばしば円形闘技場に引き出され、人々を楽しませるための見世物とされました。ここでパウロが焦点を当てているのは、自分自身ではなく、すべての使徒たちです。パウロは使徒たちの苦しみを、神にとって称賛に値する人生であるとしています。

    わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられている。[6]

    キリストのために愚か者となるには、福音に対する強い献身が必要です。キリストに従う者たちは、世俗的な知恵や称賛よりも、キリストへの忠誠を優先する生き方をしなければなりません。世俗的な知恵よりもキリストへの忠誠を優先し、謙虚さと犠牲と奉仕を受け入れるよう求められているのです。キリストのために愚か者となるという選択は、たとえそれがこの世の期待に反することであっても、福音のために謙虚さと自己犠牲と奉仕を受け入れるということです。

    今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ[聖書協会共同訳:着るものがなく]、打たれ、宿なしであり、苦労して自分の手で働いている。[7]

    パウロは苦難のリストを載せるに当たり、「今の今まで」という表現をしていますが、それはコリントの信徒たちに、パウロの生活は、彼らの元を去って以降も変わっていないことを思い起こさせるものです。パウロたちの苦難は、使徒たちがより霊的になるにつれて乗り越えられるような、一時的な段階のものではありません。むしろ、これを書いていた時でさえ、パウロたちはキリストのために苦難を味わっていました。

    彼は、迫害され、殴られ、食べ物や飲み物を欠き、定住の場所がないなど、使徒としての自分の人生に関する苦難を挙げています。そうすることで、殴られることも、自らの手で働く必要もないコリントの栄誉ある市民と、彼自身との違いを示しているのです。

    パウロは、自分の人生経験を話すことで、コリントの信徒たちが従うべき手本を示しています。彼が模範としたのは、キリストの教えでした。「飢え、かわき」というのは、おそらく彼が福音を広めるために旅をし、投獄された時の経験を言っているのでしょう。

    イエスは、空腹の弟子たちについて話されました。[8] さらに、弟子たちが社会から憎まれ、追い出され、ののしられることについても話されましたが、[9] それは、パウロや使徒たちが後に経験していたことです。「着るものがなく」という表現は、新約聖書でここにだけ見られるものです。いわゆる「賢い者」であれば、コミュニティにおける彼らの地位にふさわしい服装をしていることでしょう。「打たれ」という動詞は、群衆から、または牢獄で受けた身体的危害を指しているものと思われます。

    「宿なし」は、絶えず旅をしていた多くの宣教師たちの状態を指しています。そう訳された言葉には「放浪者」、すなわち一定の住居を持たずにあちこち移動する人という意味もあります。パウロはこれを、コリントの信徒たちが彼に倣うべき点として指摘しました。

    それからパウロは、彼と使徒たちは自分の手で働いていると語ります。これは、多くの時間を教えたり説教したりして過ごし、しかも、夜遅くまでそうしていたことも度々ありながら、同時に生活費を稼ぐための仕事もしていたパウロ自身が経験していたことなのでしょう。「兄弟たちよ。あなたがたはわたしたちの労苦と努力とを記憶していることであろう。すなわち、あなたがたのだれにも負担をかけまいと思って、日夜はたらきながら、あなたがたに神の福音を宣べ伝えた。」[10]

    はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられ[新改訳2017:中傷され]ては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。[11]

    パウロのこの言葉には、ペテロがイエスについて書いた次の言葉との類似点が見られます。「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。」[12] ののしられ、はずかしめられた際にクリスチャンが示す反応とは、相手を祝福し、優しい言葉を返すことです。迫害が起こった時、彼らはそれを耐え忍んだのであり、反撃することはありませんでした。ペテロとパウロは、キリストの弟子は迫害されるが、耐え忍ぶことによって命を勝ち取るという主の教えを守っていました。[13]

    「中傷」とは、誰かに対して虚偽の非難をすることであり、パウロはそれに対して優しさのこもった懇願で応じるべきだと言います。パウロが語っているのは、使徒たちが中傷される時、たとえ対立者たちによって故意にメッセージが歪められたとしても、キリストについて真実を語り続け、他の人たちに優しく接したということです。

    「この世のちりのように、人間のくずのようにされている」という表現は、新約聖書ではここでのみ使われています。この言葉には、削り落とされた、拭き取られた、という意味合いがあります。パウロはコリントの信徒たちに、「神への奉仕に費やす人生は、この世の目から見た富や地位を伴うものだ」と期待すべきではないことを、わかってもらいたいのです。

    わたしがこのようなことを書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、むしろ、わたしの愛児としてさとすためである。[14]

    パウロの手紙は、コリントの信徒たちにとってかなり厳しいものでした。それでも、パウロは子を思う父親のように、彼らのことを気にかけているのです。これまで彼らを「兄弟(と姉妹)たち」と呼んでいましたが、[15] ここで、この手紙を書いている目的は、父親が子どもたちにするように警告することなのだと力説しています。父親は、時には子どもたちに強く注意しなければならないこともありますが、それはその子を愛しているからです。パウロは、コリントの人々がこのことを理解し、彼との関係を維持してくれることを願っていました。

    彼は、彼らを「はずかしめる」ためにこのようなことを書いているのではないと説明しています。「恥をかかせられた」と彼らに感じさせようとしているわけではないことを、はっきりさせたかったのです。彼の意図は、互いの前で彼らの面目をつぶすことではありません。そうではなく、彼らの「帰属」が確かなものであると理解するのを助けることでした。「キリストにあって」、その帰属はこの世には理解されにくい形で表れるものではありますが。

    (続く)


    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    1 1コリント 4:6.

    2 1コリント 4:7.

    3 ヤコブ 1:17.

    4 1コリント 4:8.

    5 1コリント 4:9.

    6 1コリント 4:10.

    7 1コリント 4:11–12.

    8 ルカ 6:21.

    9 ルカ 6:22.

    10 1テサロニケ 2:9. こちらも参照:1テサロニケ 4:11, 2テサロニケ 3:6–10.

    11 1コリント 4:12–13.

    12 1ペテロ 2:23.

    13 ルカ 21:12–19.

    14 1コリント 4:14.

    15 1コリント 1:10, 26; 2:1; 3:1; 4:6.

     

  • 11月 26 キリストに従う者にとっての美徳: 忠実・誠実
  • 11月 12 第1コリント:第3章(3:18–4:5)
  • 11月 2 第1コリント:第3章(10-17節)
  • 10月 10 キリストに従う者にとっての美徳: 善意
  • 9月 24 キリストに従う者にとっての美徳: 親切
  • 8月 27 キリストに従う者にとっての美徳: 忍耐
  • 7月 9 第1コリント:第3章(1-9節)
  • 6月 26 キリストに従う者にとっての美徳: 平安
  • 6月 19 苦しみの中に神を見る
   

信条

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