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  • ゴールラインを越えるまで

    Crossing the Finish Line
    January 13, 2026

    引用文集

    オーディオ所要時間: 12:35
    オーディオ・ダウンロード(英語) (11.5MB)

    自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。—ヘブル12:1 新改訳2017

    信者が走る競走とはどんなものでしょうか。… この「競走」とは、クリスチャンとしての生涯のことです。それは、短距離走ではなくマラソンであり、私たちは最後までコースを外れず、忠実であり続けるよう求められています。パウロは生涯を終えようとしている頃、この同じ比喩を用いて、こう言いました。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした」(2テモテ4:7)。…

    この競走が「自分の前に置かれて」います。私たちがコースを選んだのではなく、神がそれを定められました。そして、私たちはキリストのためにこの競走を走ります。試練や迫害があっても、コースから外れたりしません(ヘブル12:4–11 新改訳2017)。走っている間、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないで」いなければなりません(ヘブル12:2 新改訳2017)。主が御自身の競走を完全に走り終えられたゆえ、主こそが私たちの人生において目を留めるべきお方なのです。私たちは気を散らすあらゆるものから目をそらします。主がすでにゴールにおられるのですから。…

    どれだけ長い競走であっても、私たちは「信仰の創始者であり完成者である」優勝者イエスから目を離しません(ヘブル12:2 新改訳2017)。そこには、喜びが待ち受けています。ソングライターのトワイラ・パリスとスターラ・パリスの言葉を借りれば、「走者よ、競走に勝ったとき、あなたは主の腕の中へと駆け込む」のです。 —GotQuestions.org [1]

    立派に走り切る

    使徒行伝20章で、使徒パウロは人生の競走を立派に走り切ることについて、こう語っています。「しかし、主イエスから委ねられた務め、すなわち神の素晴らしい恵みについての良き知らせを人々に伝えるという務めを果たすために用いるのでなければ、私の命は何の価値もありません」(使徒20:24 英語NLT訳)。

    若い頃は、自分の競走は始まったばかりだと思いがちです。しかし、自分の命がどれほど続くかは、誰にもわかりません。だからこそ、人生という競走を立派に走りたいものです。そして、目標は、最後まで立派に走り切ることです。

    新欽定訳聖書では、パウロがこの聖句で、自分の競走を「喜びをもって」走り終えたいと述べています。中には、喜びを失ったクリスチャンもいます。喜びをもって競走を走り始めたけれど、その後何かが起こった人たちです。神に関することへの興味を失った、あるいは、他のことで主との関係が押しのけられてしまったのでしょう。… そのような人は、詩篇作者ダビデのように、こう祈る必要があります。「あなたの救いの喜びを私に回復させ、喜んであなたに従えるようにしてください」(詩篇51:12 英語NLT訳)。

    クリスチャンにとって、人生の競走は短距離走ではなく、長距離走です。

    ヘブル人への手紙も、こう励ましています。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」(ヘブル12:1–2 新改訳2017)。…

    競走を立派に走り、立派に終える秘訣、それは、イエスのために走ることです。人々のために走ってはなりません。単なる義務感で走ってもいけません。あなたには、大切な観客が一人います。イエス・キリストご自身があなたを見ておられるのです。だから、主のために走ってください。立派に走り始めるだけではいけません。立派に走り切りましょう。そして、喜びをもって走り終えるのです。—グレッグ・ローリー [2]

    ゴールライン

    信仰の競走には、一つの目標があります。それは、イエス・キリストの栄光の内に、主と共にいられることです。この競走を妨げようとするどんなものにも、止められたり遅らせられたりしないようにしましょう。それが困難であれ、思い煩いであれ、罪であれ。私たちは、思い煩いや不安、ストレス、病気、あるいは霊的な戦いと闘うことがあります。そのような時こそ、神の言葉に立ち、神が私たちに与えてくださったあらゆる約束によって反撃しましょう(マタイ16:19)。

    神は、私たちが全員、信仰の競走を走り抜くことを望んでおられます。私たちが最終目的地に達し、ゴールラインを越えて永遠の主の臨在の内にいられるよう、必要なものを備え、私たちを支え続けてくださるのです。—アブナー・ガルバン [3]

    旅人の道

    世界の鉄道の中でも、私のお気に入りは、オーストラリアのインディアンパシフィックです。この路線は、東海岸のシドニーから西海岸のパースまで続いています。つまり大陸を横断して、太平洋とインド洋という二つの海を結んでいるのです。3つの時間帯を通過して、4352キロを運行しています。

    所要時間は65時間で、そのほとんどは、極めて荒涼とした景色の中を走ります。途中で通過するナラボー平原は、木が生えていない乾燥気候の平原で、月の表面のように見えます。線路の両側には、乾燥し、不毛な石灰岩の台地以外に何もなく、それが延々と地平線の先まで続いているのです。そこには、いっさいカーブのない線路が478キロも続いており、これは世界最長の鉄道直線区間となっています。

    いつまでも続くかのように思えた旅もようやく終わりを告げ、列車は終点のパースに到着します。それはまるで、まったくの別世界に来たかのようです。繁栄した都会、立派な建物、公園や広場、そして、海へと流れ込む川を目にすると、ほんの少し前までは、いくら見渡しても土ぼこりと低木しかなかったことが信じられません。このきらめく都市に到着するには、まず、何もない荒野を延々と進まなければならないのです。

    これは、クリスチャンの旅路と、何とよく似通っていることでしょう。この束の間の世を通り過ぎる旅人として、私たちは険しい道を進むこともあるし、時にはかなり過酷な状況にも直面するでしょう。それでも私たちは、前進し続け、神が私たちのために備えてくださった道を歩むことが求められています。ちょうど、列車がそのために敷かれたまっすぐな線路を進んでいくように。私たちは、神の御霊に助けられ、神からいただいた平安と慰めをもって、この世の荒野を通り抜けることができます。

    旅の終わりには、きらめく新しい都市が私たちを待っています。人の手によらず、創造者である神ご自身によって建てられた都です。黙示録21章が描写しているように、それは地上にあるどんな都市とも違う都であり、神を愛し、神の愛の内にとどまっている神の子どもたちのために備えられたものです。人間の作った都市とは違い、善がそこに満ちており、悪は入り込めません。この世のつらい暑さと、土ぼこりや雑木を後にして、私たちはこの都市に入っていくのです。「さきの悩みは忘れられて … おぼえられることなく、心に思い起すことはない」(イザヤ65:16–17)。—ウダイ・ポール

    競走を投げ出さないで

    映画『ルディ/涙のウイニング・ラン』は、ダニエル(愛称:ルディ)・ルティガーの物語を描いています。彼の唯一の夢は、ノートルダム大学でフットボールをすることでした。大学に入るだけの学力も、チームに加わるだけのフットボールの技術もなかったのですが。それでも彼は、粘り強さと努力と忍耐力によって、ウォークオンとしてチームに加わり、1975年シーズンの最終戦に出場するに至りました。

    映画では、かなり脚色されたエンディングになっていますが、試合の終わり頃に、控え選手たちが彼の名前を呼び始め、やがてスタジアム全体が「ルディ、ルディ、ルディ!」と声を上げていきます。最後にルディは、チームメイトに担ぎ上げられ、割れんばかりの歓声と拍手が湧いて、名前が大合唱される中、フィールドを後にします。

    あの場面は感動的でした。しかし、あなたがいつか自分の競走を走り抜き、ゴールラインを越えて永遠の世界に入り、天からの拍手に迎えられるときの歓迎ぶりに比べれば、あの場面は取るに足りません。イエスがあなたを迎え、すべての聖徒たちがあなたの名を呼んで祝福する、そんな情景を思い描いてみてください。

    私たちは、天からの拍手のために生きるべきです。なぜなら、それこそが永遠に意味を持つものだからです。いつの日か、あなたは自分の創造主である神の御前で、神からのこんな言葉を聞いて、この上ない喜びを味わうでしょう。「がんばったね。あなたは競走を走り抜いた。途中で道をそれたり、投げ出したりはしなかった。よくやった。永遠にこれを祝おうじゃないか。」

    使徒パウロも、その報いを待ち望んでいました。第2テモテ4章7–8節で、彼はこう述べています。「私は競走に最善を尽くし、全距離を走り抜き、信仰を守り通しました。今や、神と和解するという勝利賞が私を待っています。それは、正しい審判者である主が、かの日に授けようとしておられるものであり、私だけでなく、主の出現を愛をもって待ち望むすべての人に授けられるものです」(英語GNT訳)。

    もしかすると、あなたはキリストを受け入れ、力強く走り始めたものの、いつの間にか無関心になってしまったのかもしれません。道を外れたり、怪我をしたり、落胆したりしているのかもしれません。一日も待たずに、競走に戻りましょう。まず、次の祈りを祈ってください。

    「神さま、私は残りの人生を傍観者として過ごしたくありません。あなたが私を地上に置かれた目的であるこの競走を、最後まで走り抜きたいのです。永遠と、私を待つ報いに、目を留めていられるよう助けてください。あなたの永遠のご計画のために生き、残りの人生を最高のものにしたいのです。最後まで立派に走れるようお助けください。イエスの御名で祈ります。アーメン。」 —リック・ウォレン [4]

    2026年1月アンカーに掲載 朗読:ジェリー・パラディーノ 音楽:マイケル・ドーリー


    1 “What does it mean to ‘run the race set before us’ (Hebrews 12:1)?” GotQuestions.org, https://www.gotquestions.org/run-the-race-set-before-us.html

    2 Greg Laurie, “It’s How You Finish,” Harvest.org, November 2, 2023, https://harvest.org/resources/devotion/its-how-you-finish-2/

    3 Abner Galvan, “How to Finish Strong in the Race of Faith,” Coastalchurch.org, https://coastalchurch.org/how-to-finish-strong-in-the-race-of-faith/

    4 Rick Warren, “It’s Time to Get Back in the Race,” Pastor Rick’s Daily Hope, January 6, 2025, https://pastorrick.com/its-time-to-get-back-in-the-race/

  • 1月 19 キリストは失われた魂を探し求める
  • 1月 15 男と女として創造された人間
  • 1月 11 失望? それとも神の采配?
  • 1月 7 慈しみの実践
  • 1月 3 新しい年のための恵み
  • 1月 1 新年への希望
  • 12月 29 新年の約束:変わることのない主の臨在
  • 12月 25 最初のクリスマス: 誰が、何を、いつ、どこで、なぜ、どのように
  • 12月 24 クリスマスの希望
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第12章(12–30節)

    [1 Corinthians: Chapter 12 (verses 12–30)]

    July 29, 2025

    本シリーズの前回の記事では、第1コリント12章の前半において、パウロが霊の賜物とその多様性について語り始めていました。まず、第1コリント12章1–11節で、そのような賜物をいくつか挙げた後、それらは聖霊から与えられるものであり、すべての人の益になるように、また、一致を築くように用いられるべきことを強調しています(1コリント12:4–7)。

    12章の後半でも、パウロは一致と多様性という主題に引き続き焦点を当てています。

    からだが一つであっても肢体[からだの部分]は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである (1コリント12:12–13)。

    パウロはいくつもの書簡の中で、信者の一致、多様性、相互依存性を表現するために、しばしば教会を「キリストのからだ」と呼んでいます。[1] 人間のからだは多くの部分から成っていても一つの単位であるという点で、キリストのからだが人間のからだに似ていることを指摘しているのです。また、キリストのからだが、多様性の点でも人間のからだに似ていることを説明し、さらに教会内の多様性を強調するために、人種的・社会的な多様性も挙げて、それぞれが教会にいかに寄与しているかを述べています。かつては、どんなものがこれらの人々(ユダヤ人、ギリシャ人、奴隷、自由人)を隔てていたとしても、彼らは皆一つの御霊により、キリストにあって一つのからだに結び合わされたのです。

    ある聖書解説者は、次のように説明しています。

    パウロの考えでは、神によって構築されたこの結合(1コリント12:13)、すなわち数多くの多様な部分が有機的に結びつき、相互に依存し、調和して働くように一つとされたこのからだが、今や聖霊を通して、キリストの目に見える臨在と働きの現実をこの世に現している、ということに意味があるのです。[2]

    教会がキリストのからだと呼ばれるのは、キリストが教会の頭(かしら)であり(コロサイ1:18)、一人ひとりの信徒がそのからだの一部だからです(コロサイ3:15)。私たちは皆、主の御業を行うよう召されています。それぞれに異なる賜物が与えられており、それが何であれ、失われた人々にキリストを伝え、キリストのからだを建て上げるという使命において、誰もが大切な存在です(エペソ4:4–6, 11–13)。

    実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか (1コリント12:14–17)。

    パウロはさらに、人間のからだのイメージを用いて、キリストのからだのすべての部分にきちんと敬意を払うことの大切さを示しています。まず、からだの部位が自分を過小評価しているという、想像力に富んだ光景を描き出しています。足は、自分は手ではないので、からだに属していない、と考えるとしましょう。たとえそのように思ったからといって、足がからだの一部でなくなることはありません。耳が「自分は目ではないから、からだに属していない」と感じる場合も同様です。

    パウロは、信者が自分はあまり重要ではないとか、自分の奉仕の場は劣っているとか思い込んだとしても、キリストのからだから切り離されることはないという点を強調していたのです。からだの各部分は、全体の役に立っています。もしからだ全体が目であったなら、聞くことはできないし、もしからだ全体が耳であったなら、嗅覚は失われてしまいます。

    そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである (1コリント12:18–20)。

    ばかばかしく思えるこのような架空のシナリオによって、神が人間のからだの各部分をご自身の神聖な知恵に従って置かれた、という点が強調されています。神は、各部分とその構成を、ご自身の意図された目的を果たすために設計されたのであり、その点に関する神の知恵を疑うべきではありません。このように多様な部分が、神によってうまく結び合わされていることは、からだが機能する上で不可欠なので、パウロは、もしからだのすべての部分が一つの同じ部分、つまり、すべてが目、すべてが耳、あるいはすべてが足であったなら、「どこにからだがあるのか」と指摘しています。明らかに、からだは存在しなくなってしまいます。

    これらの点を強調するため、パウロはこのセクションの主題を繰り返しました。つまり、人間には一つのからだがあり、そのからだには多くの部分が必要だということです。どの部分も、それ自体が重要なのです。

    目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない (1コリント12:21–24a)。

    ここでパウロは、からだの一部が、他の部分に価値があるのか疑問を呈するというシナリオを示しています。目が手に「お前は必要ない」と言ったり、頭が足に同じことを言ったりするのは考えられないことだと述べているのです。むしろ逆であって、目には手が必要であり、頭には足が必要です。弱く見える部分でさえ、重要であり、必要とされています。

    「見劣りする」と考えるからだの部分には、何かをして「いっそう見よくする」ものだ、とあります。この表現はおそらく、指や足、つま先など、からだの「ささいな」部分に見につける衣類や装飾品を指しているのでしょう。同じように、教会も、見過ごされがちな信徒、つまり、貧しかったり、他の人と同じ程度には貢献できなかったり、社会的地位に欠けていたりする人々に、特別な敬意を示すべきです。

    神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ (1コリント12:24b–26)。

    パウロは、目立った誉れに欠けた部分こそ、神はいっそう尊んでくださったと指摘しています。それは、教会内に分裂が生じないようにするため、また、すべての部分が互いに等しく気遣い合うべきであることを強調するためです。痛みや病気で一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみます。キリストのからだの一つの部分が尊ばれると、他の部分も皆共に喜びます。一人の信者が尊ばれ、大切に扱われるとき、すべての信者が共に喜ぶべきなのです。

    あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である (1コリント12:27)。

    パウロは、人間のからだをたとえに用いて、教会をキリストのからだとして説明しており、信者たちこそがキリストのからだであると宣言しました。パウロはさまざまな書簡で、教会を表すためにこの比喩を用いましたが、この箇所で焦点を当てているのは、キリストのからだの各部分の一致、多様性、そして尊厳です。それぞれがからだの一部であるし、キリストに信頼を置いたすべての人は例外なく、キリストのからだの中に自分の居場所を与えられています。

    そして、神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた (1コリント12:28)

    パウロは先ほど、神がご自身の御心に従って、肉体の各部分を配置されたことを指摘しましたが、ここではキリストのからだを形作るそのような「部分」をいくつか挙げています。パウロはまず、教会における3つの職務(使徒、預言者、教師)を重要度に基づいて並べ、その後に5つの賜物を順不同で列挙しているようです。このような順序にしたのは、使徒、預言者、教師は、奇跡(力あるわざ)、癒やし、補助(援助)、管理、異言といった他の賜物とは異なり、教会を建て上げる上で重要な役割を果たしていたからかもしれません。

    使徒は、教会において特別かつ独特な役割を担った指導者であり、イエスの死と復活の証人として、エルサレムから出てキリストの福音を伝えながら、新しく教会を設立していきました。イエスが最初の12使徒を任命し(マタイ10:2–4)、のちにマッテヤ(マティア)がユダのあとを継ぎました(使徒1:23–26)。その後、パウロは異邦人への使徒として、12人の仲間に加えられました(1テモテ2:7)。他にも、バルナバ(使徒14:14)や、イエスの兄弟ヤコブ(ガラテヤ1:19)といった他の信者も使徒として言及されています。シラスとテモテ(使徒7:10–15)やアンデロニコとユニア(ローマ16:7)のように、特に使徒と呼ばれてはいなくても、正式に「遣わされた者」という意味合いにおいて、使徒の役割を果たした人たちもいました。

    新約聖書の預言者は、聖書としての神的権威をもつ言葉を語って書き記した旧約聖書の預言者とは、役割が異なっていました。新約聖書において、神の霊感を受けた聖書の執筆は、使徒たちと、その奉仕に同行した者たちによって行われています。新約聖書における「預言者」という言葉は、神のメッセージを聞き手に伝えるような霊感に満ちた言葉を語る、普通のクリスチャンを指すことの方が多かったのです。[3] 使徒以外の信徒で、他の信徒たちを励まし、導き、力づけるような預言を受けた例としては、ユダとシラス(使徒15:32)、伝道者ピリポ(フィリポ)の4人の娘(使徒21:8-9)、そしてエルサレムでのパウロの投獄について預言したアガボ(使徒21:10–11)などが挙げられます。

    教師もまた、重要でした。初代教会において、教師はユダヤ教のラビのような存在だったのです。彼らは聖書を研究して、教会に正しい教義を教えました。信徒が個人で聖書を所有することは稀だったため、教師の役割は重要でした。[4] パウロはまた、教師の職を牧師(牧者)の職と関連させて述べています(エペソ4:11–13)。

    パウロは、賜物を用いた人たちのことに続けて、賜物そのものについて語り、そこに奇跡、癒やしの賜物、補助、管理、異言を挙げています。奇跡と癒やしと異言の賜物は、本章の前半(1コリント12:8–10)でもすでに言及されているものですが、管理の賜物と補助の賜物については、ここで簡単に触れられるのみで、新約聖書でこれ以上の詳しい説明は与えられていません。

    みんなが使徒だろうか。みんなが預言者だろうか。みんなが教師だろうか。みんなが力あるわざを行う者だろうか。みんながいやしの賜物を持っているのだろうか。みんなが異言を語るのだろうか。みんなが異言を解くのだろうか (1コリント12:29–30)。

    パウロは、それぞれの職務や賜物について、反語的質問を列挙して、「そうではない」という答えを期待しました。これらの問いを通して、多様性が重要であることを改めて強調しているのであり、そのことは、聖書注解者レオン・モリスも次のように指摘しています。

    この一連の反語的質問は、まさにパウロらしい論証スタイルであり、多様性についての事実を強く印象づけています。クリスチャンは、神から授かった賜物の面で、互いに異なっています。すべての人が持っているからという理由で、いかなる賜物も軽んじてはいけません。なぜなら、すべての人は異なっているからです。[5]

    私たち皆が、信者の一致、多様性、相互依存という概念を受け入れられますように。それは、キリストのからだが建て上げられ、ついには、私たちが皆、神の御子に対する信仰と知識において一つになるためです(エペソ4:12–13)。

    (第31節は、次回の投稿で扱います。)


    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    1 例として、次の聖句を参照してください: ローマ12:4–5; エペソ1:22–23, 3:6; コロサイ1:24; 1コリント12:27.

    2 Alan F. Johnson, 1 Corinthians, The IVP New Testament Commentary Series (IVP Academic, 2004), 230.

    3 Wayne Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Bible Doctrine (Zondervan, 1994), 1052–1055.

    4 Leon Morris, 1 Corinthians: An Introduction and Commentary, vol. 7, Tyndale New Testament Commentaries (InterVarsity Press, 1985), 157.

    5 Morris, 1 Corinthians, 158.

     

     

  • 11月 11 第1コリント:第12章(1–11節)
  • 11月 4 弟子の生き方(パート2): 私たちの全存在をもって神を愛する
  • 10月 28 第1コリント:第11章(17–34節)
  • 9月 2 第1コリント:第11章(2–16節)
  • 8月 26 弟子の生き方: 前書き
  • 8月 19 第1コリント:第10章(16–33節)
  • 7月 29 第1コリント:第10章(1–15節)
  • 7月 12 第1コリント:第9章(18–27節)
  • 4月 29 第1コリント:第9章(1–17節)
   

信条

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