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アンカー

ユーザーフレンドリーなデボーション記事

  • どんな状況にあっても感謝

    Thankful … No Matter What
    November 27, 2025

    引用文集

    オーディオ所要時間: 11:47
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    いかなる状況にあっても、感謝しなさい。なぜなら、それが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに望んでおられることだからである。—1テサロニケ5:18 英語ESV訳

    あなたは、どんなことがあっても感謝していますか。憤慨してもしょうがない境遇にあったのに、そうしなかった人の話を聞いて下さい。

    その人は、次に廊下で響く足音が、自分を処刑場へ連行する看守のものかもしれない、と知っていました。彼が横になれる場所といえば、湿っぽく狭い牢獄の冷たく硬い石の床だけです。それから1時間も経たない内に、彼は煩わしい鎖や、手首と足首に食い込む鉄製の手かせ足かせの痛みから解放されました。

    彼は友から引き離され、不当な訴えを起こされ、残酷な扱いを受けてきたので、もし不平を言う権利のある人がいるとすれば、それは、過酷なローマの牢獄で、ほとんど忘れ去られた状態でいたこの人でした。しかし、彼の唇からは、不平ではなく、賛美と感謝の言葉が響き渡ったのです。

    この人物は使徒パウロであり、大きな逆境のただ中にあってさえも、真に感謝するとはどういうことかを学びました。ローマで以前に投獄された時、パウロはこう書いています。「詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し …」(エペソ5:19–20)。

    考えてみてください。どんな状況にあっても、すべてのことにつき、いつも感謝しなさいというのです。使徒パウロにとって、感謝は年に一度の行事(感謝祭)ではなく、日々の現実であり、それが彼の人生を変え、どんな状況でも喜びに満ちた人へと変えたのです。神の祝福すべてにつき、感謝を捧げることは、イエス・キリストを信じる者にとって最も特徴的なしるしの一つであるべきです。…

    古代世界において、ツァラアトは恐ろしい病気でした。それにかかった人は無惨な姿に変えられ、社会の通常の生活から永久に切り離されたのです。例外なく、すべてのツァラアト患者が切望していたのはただ一つ、癒やされることでした。

    ある日、10人のツァラアト患者が村の外でイエスに近づき、声を張り上げて癒やしを懇願しました。すると、イエスはすぐに彼ら全員を完全に治してくださったのですが、戻ってきて感謝したのは、たった1人でした。残りの者たちは、一言の感謝もなくどこかへ行ってしまい、その心にあるのは自分のことばかりで、感謝の念など微塵もなかったのです。[ルカ17:11-19]

    今日でも、恩知らずで感謝しないことは、あまりにも一般的になっています。… 礼儀が軽んじられており、他の人から助けられても、それを当然のことと受け止めています。そして何より、神の祝福に感謝することを怠っているのです。…

    反抗的な人類に対して聖書が告発している点の一つは、「彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず」にいるということです(ローマ1:21)。感謝のない心は、神に対して冷たく、神のあわれみと愛に無関心な心であり、私たちがすべてにおいて神に依存しているということを忘れてしまった心です。

    聖書の初めから終わりまで、私たちは感謝するよう命じられています。というよりも、感謝とは、神と調和した心から自然にあふれ出るものなのです。詩篇の作者は、「主に感謝して歌え」と述べました(詩篇147:7)。そしてパウロは、「感謝していなさい」と記しました(コロサイ3:15)。感謝の霊は、いつでも、喜びに満ちたクリスチャンのしるしです。—ビリー・グラハム [1]

    感謝の実践

    私たち一人ひとりが、神からの愛と世話を受けています。そして、神に感謝する態度を育んでいくと、人生に対して、また人生がもたらすものすべてに対して、感謝する態度が心の内に培われます。少し手を休めて、周りを見渡してみましょう。鳥や空、景色、花、緑。さらに、私たちが人生で楽しんでいるもの、たとえば、私たちが抱いている愛や周りと分かち合う愛、子どもたち、様々な経験などに思いをめぐらしてみると、感謝できることがいっぱい見つかることでしょう。聖書に、感謝することについてたくさん書かれているのも、不思議ではありません。

    感謝の心があると、持っていないものや、まだ受け取っていないものよりも、すでに持っている素晴らしいものに焦点を当てるようになります。そして、自分がとてもたくさん持っていることを認め、そのすべてに感謝し、豊かに持っているものに焦点を当てると、神からのさらなる祝福が人生に入るための扉を開くことになるのです。

    私自身の人生で感謝の心を育む助けになっているのは、感謝日誌をつけることです。書きとめていくと、神が自分のためにして下さったことを思い起こすことができるので、とても気に入っています。人生における数々の喜び、答えられた祈り、勝利、自分の身内や友人の人生で主がしてくださったことをもっと考えるようになるので、神が私の人生に関わっておられることを思い、神への愛と感謝が深まります。

    今では、他の人にも感謝日誌をつけるよう励ましています。日誌をつけることで、毎日がどれほど特別な日で、小さなことがどれほど素晴らしいことかに気づくことでしょう。そういったことを書き留める時間を取ると、感謝すべきことにもっと気づくし、実際に感謝するようになります。そして、それらは人生の難局に直面したときに神の恵みを思い起こさせるものとなり、将来への新たな希望を与えてくれるのです。—ピ-タ-・アムステルダム

    感謝の姿勢が持つ力

    私たちの世界では、困難や苦悩に心を奪われやすいものです。ないものねだりをしてしまい、すでに自分の人生に与えられている祝福に感謝するよりも、もっと多くを求めてしまうことがよくあります。慌ただしい日々の生活を送っていても、そうなることがあるのです。

    昨年、私はまさにその状態にいました。困難な時期を乗り越えたと思ったら、今度は体調が悪化し、慢性的な痛みが生じて、うまく動けなくなったのです。感謝が湧き上がり、喜びが花開き、神の臨在を強く感じられていたあの場所に、もう私は足を踏み入れることができなくなってしまいました。

    そうやって出現した新しい自分は、誇れるような姿ではありませんでした。周りの環境についても、周りの人々についても、私の目に入るのは欠点ばかりで、神は遠く感じられ、喜びは跡形もなく消え失せました。あなたにも、そんな経験はありませんか。…

    感謝を実践することで、私たちの視線を欠乏から豊かさへ、絶望から希望へと、切り替えることができます。すると、困難のただ中にあっても、感謝すべきことがまだまだたくさんあると気づき始めるのです。

    感謝を実践すると、私たちの心は日常生活の中にあるポジティブな側面を探し出すように鍛えられます。欠けているものや、うまく行っていないことにとらわれる代わりに、すでにあるものや、うまく行っていることに意識を向けるようになるのです。心の持ち方をこのように転換することで、満ち足りた思いが育まれ、今のこの瞬間を大切に思うようになります。…

    感謝とは、私たちのもとにやってくる良いものについて、神に「ありがとうございます」と言うこと以上のものです。それは生き方そのものであり、大小を問わず、神の豊かな祝福を絶えず認識することです。思いと言葉、行動に染みわたった姿勢であり、それによって、私たちの世界観は形づくられているのです。感謝の姿勢を育むと、たとえ試練や困難のただ中にあっても、イエスが私たちの人生において働いておられる無数のしるしに気づけるようになります。

    感謝を捧げることによって、私たちは神との関係を育みます。感謝の理由を探し求めるうちに、私たちの心は神の臨在と、私たちに向けられた神の愛に気づきやすくなるのです。感謝することで、自分を深く顧みておられる神から無条件に愛されているという、満ち足りた思いを抱くことができます。

    どのような状況の中にも神の御手を見、痛みや不透明さの瞬間でさえ、神が私たちの益となるよう働いておられると理解できるようになるのです。この実践は、神への信頼を深め、信仰を強め、神の御心にさらに近づく助けとなります。過去の祝福を振り返るとき、神が何度も何度も私たちに必要なものを与え、私たちを守り、困難をくぐり抜けさせてくださったことを思い起こすものです。…

    感謝の心を育むことは、神により近づき、より多くの喜びを見出す助けとなります。神への感謝を表すことを実践するうちに、私たちの内に聖なる空間が創り出され、神が私たちの人生に入りこんで、驚くべき御業を行うことを可能にします。感謝のレンズを通して見ると、困難のただ中にあっても、祝福が私たちの周りに溢れているのが見えてきます。この実践は、あらゆる機会に神の臨在を招き入れ、私たちの喜びを増し加えるのです。—マリー・ディー [2]

    今日の祈り

    愛するイエスさま、あなたが与えてくださったこの命を感謝します。私をこの世に生まれさせてくださったこと、そして、あなたを知り、愛せるという最高の贈り物を授けてくださったことを、感謝します。私は、それを得ようと努力したり、特別なことをしたり、それに値する者となったりする必要はありませんでした。あなたが私に求めたことは、ただ、それを受け取ることでした。イエスさま、私は本当にそれに値しない者だと知っているので、ただただ感謝しています。

    あなたは長年にわたって、私を困難から切り抜けさせてくださったので、そのことも感謝しています。浮き沈みもありましたが、そのすべてを通して、私はあなたを信頼することを学びました。あなたのなさることは何もかも素晴らしいということが、ようやくわかりました。私の人生の毎日、毎時間、毎分、毎秒があなたに知られているように、人生の一年一年もあなたの御手の内にあるのです。アーメン。

    2025年11月アンカーに掲載 朗読:ジョン・マーク 音楽:マイケル・ドーリー


    1 Billy Graham, “How to Be Thankful in All Things,” BGEA website, November 22, 2024, https://billygraham.org/articles/how-to-be-thankful-in-all-things

    2 Maree Dee, “How a Grateful Heart Helps You Embrace the Wait Well,” Embracing the Unexpected website, December 3, 2021, https://www.embracingtheunexpected.com/grateful-heart-helps-embrace-wait-well/

  • 1月 31 良き知らせを広める
  • 1月 27 わたしを見ておられる神
  • 1月 23 ゴールラインを越えるまで
  • 1月 19 キリストは失われた魂を探し求める
  • 1月 15 男と女として創造された人間
  • 1月 11 失望? それとも神の采配?
  • 1月 7 慈しみの実践
  • 1月 3 新しい年のための恵み
  • 1月 1 新年への希望
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第13章(1–13節)

    [1 Corinthians: Chapter 13 (verses 1–13)]

    September 2, 2025

    第1コリント12章で、パウロは霊の賜物や奉仕の多様性について語り、それらの賜物に力を吹き込むのは神であること、また、聖霊がそれらを各信者に分け与えるのは「全体の益になるため」であることを強調しました。(1コリント12:4–7, 11)。多くの解説者は、第12章の最後の文は本来、次に来る第13章の最初の節であるべきだったと考えています。そこで、今回の学びは第1コリント12章31節から始めます。

    だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう (1コリント12:31)。

    パウロは第12章の結びで、コリントの人々に対して、さらに大いなる賜物を受けるよう熱心に努めなさいと勧めています。そして、キリストの体の一部として生きるためのさらにすぐれた道を示すと宣言しました。パウロは彼の書簡全体にわたって、クリスチャンの間における愛の重要性について記しており、それはしばしば「愛の至高性」や「愛の卓越性」と呼ばれ、第1コリント13章の主題となっています。

    たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである (1コリント13:1)。

    パウロは前章で異言の賜物に触れましたが、コリントの一部の信徒たちがそれを過度に重視していたため、ここでも再び異言に焦点を当てています。パウロはここで、この賜物を「人々の異言、天使たちの異言」(聖書協会共同訳)と呼んでいます。ただし、「天使たちの異言」を話すことが可能だとパウロが信じていた証拠はないし、聖書の他のどの箇所にも言及されていません。

    しかし、たとえそのような異言を語ることができたとしても、愛がなければ、その賜物は何の意味もありません。パウロはこの賜物を擬人化して、もし愛なしにそのような異言を語るなら、それは「やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(シンバル)」にすぎないと言いました。愛がなければ、異言の賜物は単なる騒音にすぎない、というパウロの主張は、この賜物を誇りに思っていたコリントの読者たちに衝撃を与えたことでしょう。

    たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい (1コリント13:2)。

    次に、パウロは預言について語っていますが、それは彼が重んじていた賜物です(1コリント14:1)。ここではまず、あらゆる奥義(神秘)とあらゆる知識とに通じるほどの力強い預言の賜物があるという仮定のシナリオを提示しています。しかし、聖書に登場する預言者で、そのような全知性を備えた者は1人もいませんでした。それでもパウロが言いたいのは、たとえあらゆる神の奥義とあらゆる知識に通じていたとしても、愛がなければ自分は無に等しいということです。

    その後パウロは、信仰についても同様に、「山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」と言いました。山を動かすほどの信仰(マルコ11:23)を持っていても、愛がなければ、何の益にもなりません。

    たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である (1コリント13:3)。

    続いてパウロは、犠牲的に与えることについて語っています。NIV訳(KJV訳も同様)では、それをどのように与えるかについて、もう少し明確に、「たとえ、私が持っている者のすべてを貧しい人々に分け与えても」と訳されています。パウロは、自分の持ち物のすべてを困窮者に与える、という仮定のシナリオを提示しました。そして、もしそれが愛からなされたのでなければ、そのような犠牲的な行為も、結局は自分にとっていっさい無益であると結論づけています。

    次に、自分の体を焼かれるために渡しても、と仮定しています。これは、死に至るほどの宗教的迫害を指していたのかもしれないし、あるいは、死に至らない範囲での試練や苦難について話していたのかもしれません。パウロはこれらのシナリオにおいて、全財産を与える、あるいは火刑に処されるといった、驚くほど犠牲的な行為について述べています。それでも、キリスト教的な愛がなければ、そうした行為は何の価値もない、と結論づけているのです。

    聖書解説者レオン・モリスは、それをこのように説明しています。

    パウロは、人が … 愛なしにこのようなものすごい犠牲を払うことも … 可能だと述べています。その人は崇高な理想への献身や、誇りなどに突き動かされているのかもしれません。もしそうなら、その人は何も得ることがありません。… 愛こそが唯一必要なものです。その欠如を補えるものは何もありません。[1]

    イエスは、「自分を愛するように隣人を愛する」ことは、心と精神と思いを尽くして主を愛することに次いで重要なことだと教えられました(マタイ22:37–40)。他者を愛せよという戒めは、聖書において2番目に重要な戒めであり、それゆえパウロは、他者への愛がなければ、霊的な賜物には何の価値もないと説いたのです。

    霊の賜物に関連して、愛の至高性を強調した後、パウロは次の4つの節(1コリント13:4–7)で、この愛の性質と徳に焦点を移し、それがどのような行動を生み出すか、すなわち愛は何をし、何をしないのかを描写しています。

    愛は寛容であり[忍耐強い(聖書協会共同訳)]、愛は情深い[親切です(新改訳2017)]。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない (1コリント13:4)。

    パウロは、キリスト教的な愛のさまざまな側面に言及していきますが、まず忍耐(寛容)と親切(情け深さ、慈愛)から始めました。これらは、聖霊がクリスチャンの人生に宿ることによって結ばれる実です(ガラテヤ5:22–23)。

    「愛は忍耐強い(寛容である)。」 忍耐の徳には、我慢強さや自制の意味合いが含まれています。神は忍耐強く、「怒ることおそく、いつくしみに富み」(民数記14:18)、その慈愛によって、処罰を猶予する道を開いてくださいます(2ペテロ3:9; ローマ2:4)。このように、忍耐は神の性質の一部であり、クリスチャンは互いへの愛ゆえに、他者に対して忍耐強く接するなのべきです。神が私たちにどれほど忍耐強くあられるかを思い起こすにつれ、愛は、他者へ忍耐を示す意欲を私たちに与えます。愛は、怒ったり他者の益を顧みない行動に出たりせず、他者や状況に対して忍耐をもって応じます(1テサロニケ5:14)。

    「愛は親切である(情け深い)。」 パウロの書簡には、親切(慈愛、情け深い)という言葉が何度も使われており、それは多くの場合、愛は親切な心をもって他者に仕える、という意味で用いられています(コロサイ3:12; ガラテヤ5:13–14)。また、時には、良い結果をもたらすために充分に配慮した上で与えられる叱責という形を取ることもあり、パウロはコリントの信徒たちへの対応において、親切でありながらも断固とした態度でその模範を示しました。親切(慈愛)は、神がキリストにあって私たちに示された愛の現れです(エペソ2:7)。この愛の現れが赦しや憐れみと結びついているのを、エペソ(エフェソ)4章32節に見ることができます。「互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(聖書協会共同訳)。

    「愛はねたまない。」 これは、パウロが挙げた、愛と相容れない8つの行為のうち、最初のものです。ねたみや嫉妬は、他の人が素晴らしい祝福を得たと思うところから始まり、それがやがて、自分以外の人が持っていることへの憤りへと変わったものです。ねたみは、他者のためにすべてを捨てられたキリストの愛を反映するものではありません。愛は、他者の成功や祝福について、ねたんだり、恨んだりしないのです。

    「愛は高ぶらない(自慢しない)。」 この節で「高ぶる」と訳されている言葉は、新約聖書の中ではこの箇所にのみ使われています。その意味は、「根拠のない自慢」だと言えます。つまり、他人に良く見られようとして、自らの功績や所有物、能力を過度に誇ることを指します。愛は、高ぶりやそのような自慢とは相容れません。なぜなら、愛は自分を強く主張したり、自己の利益を追求したりすることなく、自らを与えようとすることだからです。

    「愛は高慢にならない(誇らない)。」 パウロがここで語っている「高慢」とは、過剰な自信という意味です。旧約聖書も新約聖書も、高慢は良くなく、罪深いものであると断じています。他者を思いやるなら、傲慢さや自惚れでいっぱいになることはありません。トマス・アクィナスが書いたように、「愛するとは、相手の善を願うこと」であり、それは、自らの幸福よりも、他者とその幸福を優先することを意味します。

    不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない (1コリント13:5)。

    何が「不作法(礼を失する)」とみなされるかは、国によって異なりますが、その根底にあるのは、他の人々が守っている慣習やマナーを無視することです。そのような慣習を無視することは、人々への敬意を欠くことですが、反対に、敬意を払うことによって相手への愛が示されます。しかし、愛するからと言って、クリスチャンが大衆に同調しなければならないということではありません。信者が自らの信仰に反する文化や慣習に直面したとき、それらに従わないようにすることは、愛に欠けたことではありません。

    「愛は自分勝手をしない(自分の利益を求めない)。」 NIV訳では[ほとんどの日本語訳でも]、「自分の利益を求めない」と訳されています。愛は、他者の必要を顧みずに、自分の欲求や必要、願望を最優先するようなことはしません。愛ある人は、自分の益よりも他者の益を優先し、相手にとって良いことを求めます。言うまでもなく、それは自分の必要を無視するということではありません。福音書には、イエスが押し寄せる人々から離れたり、祈りの時を持ったりするために、時おり群衆のいないところに退かれたことが記されています(ルカ5:16; 22:41)。

    「愛はいらだたない。」 他の翻訳聖書では、「いらだつ」という言葉を「怒りっぽい」や「挑発されやすい」と訳しています。他者を愛する人は通常、他人の行動に対して腹を立てたり、いらだったりせず、むしろ怒るのに遅く、忍耐強いものです。確かに、使徒行伝には、パウロがアテネの偶像を見て悲しみ、「心に憤りを感じた」とありますが(使徒17:16、それは悪に対する反応であって、自分の権利への利己的なこだわりからそう感じたのではありません。

    「愛は恨みをいだかない。」 NIV訳では、「他人のした悪を記憶(記録)に留めない」と表現されています。他者を愛する人は、人の過ちを細かく記録したりしません。ある人が書いているように、「愛は、行われた悪や害を容認することはないが … 将来報復しようとしてすべての害を記録に残したりせず、過ちを赦すという姿勢を示します。」[2] 愛は、赦しの手を差し伸べるのです。イエスが十字架上でこう祈られたように。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)。使徒行伝では、ステパノが石打ちに遭いながら、こう祈っています。「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」(使徒7:60)。

    不義を喜ばないで真理を喜ぶ (1コリント13:6)。

    パウロは、愛について述べる中で、「不義」や「悪」(「不正」「害悪」とも訳されます)を、「真理」と対比しました。ここで彼が語っているのは、「真理に従って生きる」という意味での真理です。真理はキリスト教の核心であり、それは、イエスが「わたしは … 真理 … である」(ヨハネ14:6)と述べ、パウロが「真理はイエスにある」(エペソ4:21 新改訳2017)と書いているとおりです。愛は、福音の真理、そして神とその御言葉にある真理を喜びます。

    そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える (1コリント13:7)。

    この節でパウロは、愛が何をするかについて4つの肯定的な宣言をしています。パウロは、愛は「すべてを忍ぶ(我慢する)」と書くことで、敵(ルカ6:27)を含む他者によって引き起こされた困難に直面するときでも、愛は多くの不愉快な行為を辛抱し、愛することを止めないということを表現しています。それはまた、愛には他者の益のために苦難を忍ぶ力があることも指しています。それは、たとえ困難なときにあっても、誰かを支えることを選ぶということです。愛のこの側面は、試練にあっても辛抱強く、揺るぎない姿勢を保つことに関っています。先に見たように、愛は自分の利益を求めることなく(1コリント13:5)、むしろ隣人の益を求めます(1コリント10:24)。そうしたいからこそ、愛は他者のためにすべてを忍ぶのです。

    「すべてを信じる。」 愛のこの側面は、NIV訳では「常に信頼する」と訳され、それは、不信を抱かないこと、あるいはアウグスティヌスの言葉で言えば、「最善を信じる」ことを指します。つまり、疑わしいときは好意的に解釈すること、また、相手の中にある最善を信じ、それを見ようとする姿勢をもって、信頼の雰囲気を作り出すことを意味するのです。ある人がこう書いています。「それは、愛がだまされやすいという意味ではありません。(世の常と違って)最悪を想定しないということです。愛は信頼を持ち続け、… 疑わしいときは常に好意的に解釈しようとするのです。」[3]

    「すべてを望む。」 希望は愛の重要な部分であり、どんな困難に直面していても、神がすべてのことを共に働かせて、ご自分を愛する者たちの益となるようにしてくださるという、私たちの信仰と確信の上に築かれています(ローマ8:28)。私たちは皆、困難に直面し、時には失敗もするし、そのために落胆や挫折感を覚えることもあります。しかし、クリスチャンが持つ希望とは、キリストがご自身の栄光のために私たちを守り続けてくださることを、神の言葉に基づいて確かに知っていることです(1ペテロ5:10; 2テモテ4:18)。クリスチャンが倒れるとき、その人を起こし、立たせてくださるのはイエスです(ローマ14:4)。イエスが、私たちの内に良いわざを始め、それを完成させると約束しておられるのです(ピリピ1:6)。

    「すべてを耐える。」 愛は忍耐強く、決して誰かのことをあきらめたりしません。自分の人生に困難や不便、試練をもたらさない人を愛するのは簡単ですが、真の愛は、良い時でも大変な時でも消えません。ここでパウロが特に焦点を当てているのは、たゆむことなく他者を愛する必要性です。クリスチャンである私たちは、自らの愛の基準として、キリストの愛にある深さと忍耐強さに目を向けるべきなのです(1ヨハネ3:16 )。

    愛はいつまでも絶えることがない (1コリント13:8a)。

    パウロは、この章の第3かつ最後のセクションであるこの部分で、少し前の部分で言及した霊の賜物の一時性(一時的なものだという性質)と、キリスト教的な愛の永続性や至高性との対比を行っています。ここでは先ず、「愛はいつまでも絶えることがない」(「決して滅びない」と表現する翻訳聖書もあります)と断言しました。キリスト教的な愛に身を捧げる者は神の愛にあずかるのであり、その愛は永遠に続くということを述べているのです。

    しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない (1コリント13:8b–9)。

    パウロはさらに、預言、異言、知識という3つの霊の賜物(1コリント12:8–10)は一時的なものである、と説明しています。これらの賜物は、愛のように永遠に続くことはありません。また、信仰者の「知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない」ので、完全な知識や理解をもたらすものではありません。預言、異言、知識は聖霊からの賜物であり、教会にとって価値あるものですが、その性質は一時的かつ部分的なのです。

    全きものが来る時には、部分的なものはすたれる (1コリント13:10)。

    預言、異言、知識の賜物を通して信仰者が得る理解は不完全であり、「全き(完全な)ものが来る時」にはすべてなくなります。キリストが再臨される時、預言も異言も限られた知識も、神の臨在の光の中で、もはや必要なくなるのです。これらの賜物はすべて、やがて来る完全なものを垣間見せるにすぎません。

    わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった (1コリント13:11)。

    パウロは、子どもが大人へと成長していく過程をたとえとして用いました。子どもであったころの彼は、子どもらしく語り、感じ、考えていました。しかし、年を重ねて成熟すると、子どもの頃の在り方を捨て去りました。やがて来る「全きもの」と比べると、預言と異言と知識の賜物は、子どもじみたものと言えます。

    わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう (1コリント13:12)。

    パウロの時代、コリントは鏡の生産地として知られていたので、それが理由でこのたとえを用いたのでしょう。古代の鏡は金属(青銅など)を磨いて作られていたため、そこに映る姿は「おぼろげ(ぼんやり)」としたものでした。鏡にぼんやり映るものを見るというのは、見えるものに限りがあるということです。神に関する私たちの知識は、いくらか覆い隠されています。人間の限界と罪のゆえに、栄光の内にある神の姿を、今は見ることができません。しかし来るべき世では、信者は罪とその影響から贖われます。

    顔と顔を合わせてキリストにお会いする時、私たちは神と直接出会うことになります。私たちは、神に完全に知られているように、天国で、神を親しく個人的に知るようになるのです。ある著者は、それを次のように述べています。

    パウロは、鏡に映る間接的で不完全な像(今この世で経験すること)と、復活してから、神とその真理について直接的で完全かつはっきりと(顔と顔とを合わせて)知るようになるという経験とを、対比しているのです。[4]

    このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である (1コリント13:13)。

    パウロがこの箇所の結びとして記した一文は、コリントの人々になじみ深かったものでしょう。彼は宣教活動の大半において、信仰と希望と愛の重要性に焦点を当てていたからです。「この三つ」と言うことで、パウロは信仰と希望と愛を、最も卓越し永続するキリスト教的現実として強調し、事実上、他のあらゆるものから区別して捉えています。そして、この三つは、新約聖書の他の箇所でもしばしば互いに結び付けて語られています。

    あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです(1テサロニケ1:3 新共同訳)。

    わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました(コロサイ1:3–5 新共同訳)。

    パウロは、信仰を、信者がキリストと結び合わされて救いを受ける道として、また、神への信頼と献身を表すものとして語っています。そして、希望を、信者が天において受ける救いという観点から説明しています。聖書的な希望の定義は、「神が将来私たちに約束しておられるものを必ず受け取るという、確かな確信に満ちた期待」です。[5] 信仰と希望は密接に関連しています。なぜなら、それらは神に対する確信と信頼を示すものであり、神の御国における私たちの将来に関する神の約束の成就について、確信に満ちた期待を表すものだからです。

    パウロは、キリスト教的な愛を、信仰と希望と共に3つ1組で語りましたが、その上で、「このうちで最も大いなるもの」と呼ぶことによって、愛をさらに高いレベルにあるものとしました。愛は永遠に続きます。しかし、信仰はやがて私たちがイエスと顔と顔を合わせて見るとき、「見えるもの」へと変わり(2コリント5:7)、希望は望んでいたことが実現された時に希望でなくなります(ローマ8:24–25)。今、信仰と希望と愛は存続しており、あらゆる霊の賜物にまさるものですが、このうちで最も大いなるものは、愛なのです。


    1 Leon Morris, 1 Corinthians: An Introduction and Commentary, vol. 7, Tyndale New Testament Commentaries (InterVarsity Press, 1985), 160.

    2 Alan F. Johnson, 1 Corinthians, The IVP New Testament Commentary Series (IVP Academic, 2004), 251.

    3 Morris, 1 Corinthians, 161.

    4 Johnson, 1 Corinthians, 255.

    5 “What is the definition of hope?” GotQuestions.org, https://www.gotquestions.org/definition-of-hope.html.

     

  • 12月 30 第1コリント:第12章(12–30節)
  • 11月 11 第1コリント:第12章(1–11節)
  • 11月 4 弟子の生き方(パート2): 私たちの全存在をもって神を愛する
  • 10月 28 第1コリント:第11章(17–34節)
  • 9月 2 第1コリント:第11章(2–16節)
  • 8月 26 弟子の生き方: 前書き
  • 8月 19 第1コリント:第10章(16–33節)
  • 7月 29 第1コリント:第10章(1–15節)
  • 7月 12 第1コリント:第9章(18–27節)
   

信条

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