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    August 24, 2026

    ピーター・アムステルダム

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    ルカの福音書14章には、弟子となることについてイエスが言われた最も厳しい言葉の幾つかが含まれています。たとえば、盛大な宴会のたとえ話(ルカ14:16–24)では、神との交わりに入るようにとの招きよりも、個人的な関心を大切にする人たちのことが語られています。それから「大勢の群衆が一緒について来た」と続き、この人たちに対して、イエスは次のような強い言葉を発しておられます。

    「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14:26–27 新共同訳)。

    イエスは、ご自身についてきたい者は犠牲を払わなければいけないことを告げた上で、短いながらもパワフルなたとえ話を2つ続けて話されました。それは、弟子となることや、イエスについていく代価を真剣に考えることに関するものです。

    最初のたとえ話は、これです。「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう」(ルカ14:28–30 新共同訳)。

    「あなたがたのうち(の誰か)」で始まるこの文章は反語的質問であり、「そんな人はいない」という答えを期待しています。イエスは、「いなくなった羊」のたとえ話(ルカ15:4)など、他のたとえ話の導入部分でも、同様の反語的質問を用いておられます。(こちらも参照: ルカ11:5–7, 17:7)。

    このたとえ話で暗黙のうちに理解されていることとは、少しでも分別のある人なら、まず費用を見積もり、完成させるために十分なお金があるかどうかを見極めずして、何かを建てることはない、ということです。

    聖書には、塔(やぐら)についての言及が多くあります。軍事目的で建てられた塔もあれば、軍事的なたとえとして塔が用いられることもあります。たとえば、「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である」(箴言18:10 新改訳第三版)。他にも、農業目的で使用された塔もあります(イザヤ5:2)。農夫は、宿泊のためや器具と作物の保管のため、また、泥棒や獣から穀物を守る見張り台として、塔を使用しました。[1]

    このたとえ話の文脈においてイエスが話しておられたのは、おそらく農業目的で使用された塔でしょう。地主にはいい目的がありました。塔を建てることは益をもたらします。穀物と家畜を泥棒や肉食動物からよりよく守れるということに加えて、土地の価値を高めていることで、隣人からの尊敬も得ることでしょう。しかし、もしその人が賢い人でなく、費用を見積もって、塔を完成させるのに十分な資産があるかどうかを計算しないなら、愚かな人であるとみなされ、あざけられます。

    当時の文化においては、人から尊敬されることは大切で、恥を受けることは何としてでも避けるべきことでした。そのように計画が不十分であると、未完成の建物を見た人は皆、その人の失敗や愚かさを指摘して、ばかにするという結果になってしまいます。人からあざけられるようになるとイエスがおっしゃった時、それは、その人が面目を失い、町の笑いものとなってばかにされる、という意味でした。

    イエスは、自分に従ってくるよう召した人たちに対して、彼らがしようとしている決意やそれにはどんなことが伴うのかをよく考慮するよう促しておられたのです。持ち続けられないような決意をするのではなく、弟子となる代価を熟考し、考え抜いた上での賢い決断を下すようにと。

    これと対になったもう一つのたとえ話は、次のとおりです。「また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう」(ルカ14:31–32 新共同訳)。

    この2つ目のたとえ話も1つ目のものと同じ要点を伝えていますが、王の決断は自分の命とともに1万の兵の命もかかっているため、危険の度合いははるかに高いものでした。塔の建設費用を計算しなかった人が直面したのは恥とあざけりだけでしたが、王が直面していたのは、多くの兵士たちの命と自分の国を失う可能性だったのです。

    2つ目のたとえ話にある危険性はより高いものの、要点は同じです。王は、知恵を持って状況を見極めなくてはいけませんでした。王には、敵の半分の数の兵しかいなかったので、勝利するためには、相手の兵よりも自軍の兵の腕がはるかに勝っていなければいけません。また、自信を持って2倍の軍勢に当たるには、かなり勇敢でいる必要もあります。

    それに加えて、自分や兵士たちにとって、人数の差を補うような有利な点が他にあるのかどうかということも考慮する必要があります。地形や天候に熟知していること、補給線がより優れていること、味方である一般市民が多いこと、などです。王は、兵士たちがその日の戦いに勝つために情勢は有利なのか、またこの戦いはする価値があるのかどうかを判断しなければいけません。

    最初のたとえ話は、イエスの弟子となることを考慮している人は、自分には弟子となるために必要なものがあるかどうかを見るために、費用(代価)を計算するべきだと指摘しています。そして、この2つ目のたとえ話は、弟子になる決意といった重要な決断を下す前に、成功の可能性を考慮することを勧めています。どちらのたとえ話も、弟子となることを考えている人に対して、イエスに従うという決断を下す際に、慎重に考え抜いた上でそうするために、状況をよく検討評価するよう促しています。それは、弟子となることを決意する際に、慎重に決断し、明確な意図を持ってそうするようにとの呼びかけです。

    イエスが最初の弟子たちを召された時の話を読むと、彼らがいかに全てを捨ててイエスについて行ったかに感銘を受けます。

    「さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った」(マタイ4:18–22)。

    彼らはイエスに召された時、すぐに従っていきましたが、これが必ずしもイエスとの最初の出会いというわけではありません。ヨハネの福音書には、シモン・ペテロの兄弟であるアンデレがイエスに会って、一緒にその日を過ごしたことが書かれています(ヨハネ1:38–42)。翌朝、アンデレは兄弟のペテロに会って、自分たちはメシアに出会ったと告げました(ヨハネ1:41)。ペテロやアンデレがその時にイエスに従っていったかどうか、はっきりしたことは書かれていません。

    ルカの福音書には、イエスがゲネサレ湖畔で教えておられた時に、二そうの舟が寄せてあって、漁師たちが岸で網を洗っているのをご覧になったと書かれています。イエスはその一そうに乗り込まれましたが、それはシモン(ペテロ)の舟でした。教え終わった時、イエスはシモンに、水の深いところに漕ぎ出して網を降ろすよう言われました。そのとおりにすると、おびただしい魚がかかったので、仲間であるヤコブとヨハネに、来て手を貸してくれるよう頼んだほどです。ペテロが全てを捨ててイエスに従ったのはこの時であることが書かれています(ルカ5:1–11)。

    福音書の他の箇所では、イエスが弟子となることの代価を指摘して、ご自身に従ってきたい者たちに警告を与えておられる例が見られます。

    「するとひとりの律法学者が近づいてきて言った、『先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります。』 イエスはその人に言われた、『きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない。』 また弟子のひとりが言った、『主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい。』 イエスは彼に言われた、『わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい』」(マタイ8:19–22)。

    イエスは、大勢の人がご自分に従ってくることを求めてはおられませんでした。イエスが探しておられたのは、イエスが人気のある存在で、たくさんの人に食べさせたり、奇跡を行ったりされたからという理由ではなく、イエスの本質とイエスが教えた真理とを深く信じているからという理由で従ってくる人たちです。弟子となることによって何が起こりうるかを直視し、どんなことが要求されるかを考え、何が求められているのかをよく理解するようにと警告されたのです。そうやって、生じうる難題、困難、犠牲を全て考慮した上で、十分な情報に基づき、従うという決断を下すようお求めになりました。弟子となる選択を踏みとどまらせようというわけではなく、それが何を意味するのかを慎重に考慮するよう励ましておられたのです。

    イエスに従うという選択をすることは、自分の人生をイエスの教えに合わせて再構築するのを選ぶことです。それは自分の考え方を変えることであり、時間と精力とお金を注ぐ対象の優先順位を調整することです。それは私たちの人間関係や他の人との関わり方を変えます。それは、自分の信仰のために嘲笑や差別、あるいは迫害さえも進んで耐え忍ぶほどに、自分の人生を根本的に調整し直しなさいという呼びかけです(マタイ5:10–12)。それは生涯守り続ける決意であり、イエスに従っていくという心からの決断を必要とするものです。

    イエスに従う者となる道を選ぶことは、人が下しうる最も素晴らしく、最も重要な決断です。なぜなら、それは私たちの人生を、たった今だけではなく永遠に渡って、より良いものとしてくれるからです。そして、イエスの救いのメッセージを伝えることに忠実でいるなら、それは他の人の人生をもより良いものとしていきます。

    初版は2018年1月 2026年8月に改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー


    1 Arland J. Hultgren, The Parables of Jesus (Grand Rapids: Eerdmans, 2000), 139.

  • 9月 4 人生の移り変わりに順応する
  • 8月 31 イエスの最後の現れと委任
  • 8月 29 あなたは大いに価値のある存在
  • 8月 25 誰が糸を引いているのか?
  • 8月 23 人生の嵐の中で、共にいてくださる方
  • 8月 19 自然と人生の変化を受け入れる
  • 8月 17 婚宴とぶどう酒
  • 8月 13 行く先々で善い行いをする
  • 8月 11 神の愛を分かち合う
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 弟子の生き方(パート4): 神との関係

    [The Life of Discipleship, Part 4: Relationship with God]

    September 30, 2025

    神との関係——神との交わり——は、弟子としての歩みの中心にあります。私たちはクリスチャンとして、神との個人的な関係を持つという祝福、栄誉、機会に恵まれています。宇宙の創造主である方が、私たちと交わりたいと願われ、私たちがご自身と和解できるように、御子イエスを全人類のために十字架で死なせるほどの大きな犠牲を払われたとは、私たちには測りがたいほどのことです。使徒パウロが書いているように、「神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである」(1コリント1:9)。

    イエスは、父との関係のために時間を取ることについて、手本を示されました。福音書には、イエスが早朝に起きて祈られたこと(マルコ1:35)、祈るために群衆のいない所に身を避けられたこと(ルカ5:15–16)、夜を徹して祈られたこと(ルカ6:12–13)が記されています。イエスは、神と交わって、親しく語り合い、神の指示を受け取るための時間を取られました(ヨハネ5:30)。

    神との交わりとは、神の臨在の中で時を過ごし、神を礼拝し、祈りのうちに神に語りかけ、神の言葉を読み、その御言葉を通して神が語られることに耳を傾け、さらに、神が私たちに個人的に語りかけてくださる御声に耳を傾けることを意味します。私たちは、神がどのようなお方であり、私たちのために何をしてくださったかを思って、神を賛美し、感謝するための時間を設けることで、「さんびのいけにえ … を、たえず神にささげ」る(ヘブル13:15)と共に、1日を通して神と交わる必要があります。大きな愛をもって私たちの命を支え、私たちとの交わりを望んでおられる創造主であり救い主である神と、つながるための時間を取る必要があるのです。

    主との交わりの時間を取るとき、主はそれに応じてくださいます。私たちが、他にしていることをやめて、主の臨在の中へ入るとき、私たちは主に耳を傾けてその指示を受け取る姿勢になっているので、主は助言をもって私たちを導き(詩篇73:24)、御心を行うことを教えてくださいます(詩篇143:10)。

    祈り、神を賛美して礼拝すること、また、私たちの人生——希望や夢、成功と失敗——について神に語りかけ、罪を告白し、神の助けを求め、神を愛していると告げ、神の語られることに耳を傾けることは、どれもみな、私たちが神と持つべき交わり、友情、関係の一部なのです。

    双方向のコミュニケーションは、人間関係における重要な要素であり、主との交わりも例外ではありません。神の声に耳を傾けることと、神に語りかけることの両方が必要なのです。神に耳を傾ける第一の方法は、神の言葉である聖書を読むことです。私たちが聖書を読み、その内容について考え、黙想し、それが自分にとってどんな意味があるのか、その意味することを日々の生活にどう当てはめられるのかと自問するとき、神はそれを通して語りかけてくださいます。また、私たちが心を静めて、主の静かで小さな声に耳を傾けるときにも、神は語ってくださいます。

    私たちが心と生活を主に向けて開き、重荷や悩み、恐れ、また希望や喜び、夢を分かち合うとき、神との関係は深まっていきます。神の言葉を学んで瞑想し、それを自分の生活にどう当てはめるべきかを学ぶ時間を設けることで、私たちは神への信仰と信頼、理解と礼拝を深めていくのです。祈りを通して神と対話し、神を愛し、神の御声に耳を傾ける時間を取り、神から学び、日頃から神と交わりを持つこと、これらすべてが、神に近づき、神に似た者となるための重要な要素です。以下の記事でも、それが強調されています。

    キリストとの交わりが意味するものとは

    神が私たちの人生に関わってくださっているとは、実に驚くべきことです。キリストと交わるとは、私たちがキリストの命にあずかるだけでなく、キリストもまた私たちの命に関わってくださることを意味します。私にとって、この気づきは、これまでとは違った視点をもって人生を歩む助けとなりました。…

    試練や困難な状況が訪れたとき、このことは、イエス・キリストがどのような状況においても、私たちと共にいてくださることを認識する助けとなります。また、物事が順調に進んでいるときにも、イエスが今もなおすべての状況において、私たちと共におられることが分かります。イエスは誰をも包み込み、親密に寄り添う方であり、私たちが自分で物事を解決するよう、一人きりにさせることはありません。イエスは私たちの人生に関わってくださるのです。…

    聖書で「交わり」という言葉が出てくるとき、それは単なる関係を示す概念ではありません。関係という言葉は、「つながっている状態」を意味します。私たちはすでにキリストとつながっていますが(ヨハネ15章)、さらに深いもの、すなわち「交わり」を持つよう招かれています。

    神との関係は、神とつながるための最初の招きであり、イエスによる救いは、私たちを神との関係へと導きます。しかし、神との交わりは、神との親密な関係へと招くものです。それは、神との継続的なつながりであり、神と共に時を過ごすための手段です。… 私たちは、神との関係を持っている(すなわち、神とつながり、神との絆が回復されている)だけでなく、神との交わりも持つことができます。神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩き、互いに交わりを持つのであり、御子イエスの血が、すべての罪から私たちを清めるのです(1ヨハネ1:6–7)。

    これこそが、私たちがより主に似た者となり、自分の人生に主の命を見るための道であり、手段です。私たちがイエスと交わるとき、私たちはより主に似た者となって、主を映し出すようになり、それが神との関係を深めるのです。—ターニャ・レムキフ [1]

    祈りの原則

    弟子たちが祈り方を教えてくださいとお願いした時、イエスは「主の祈り」を教えられました。この祈りを祈るとき、私たちは、神を聖なる方、すべての上におられる方としてあがめ、地において、また自分の人生において、神の御心がなされるように願い、日々の必要を神に頼っていることを認め、自分の罪が赦されることを求めます(マタイ6:9–13)。

    また、イエスは弟子たちに、祈りにおいて油断することなく、「目をさまして祈っていなさい」と教えられました(マタイ26:41)。イエスの模範から、私たちは一人になって祈ること(ルカ6:12)、感謝して祈ること、他の信者たちと共に祈ること、そして他者のために執り成しの祈りをすること(ヨハネ17:20–26)を学びます。生活の忙しさから離れて、一人きりで祈りの時間を持ち、また、他の人たちと共に祈り、あるいはその人たちのために執り成すというイエスの手本は、その足跡をたどりたいと願う人たちのための道しるべとなっています。

    祈りについて、イエスが信者たちに教えられた最も基本的な事柄の一つとは、父なる神との正しい関係を持つことでした。イエスは常に父に祈り、弟子たちにも同様にするよう教えられました。私たちは、神の家族に養子として迎え入れられた、神の息子であり、娘です。ですから、祈るとき、私たちは「アバ」、つまり私たちの父の前に出ているのです。

    クリスチャンとして、私たちは祈りによって神の臨在の中に入るという、計り知れない特権にあずかっています。私たちは神と交わり、神を賛美し、礼拝することができます。また、神が成してくださったすべてのことと、神の慈しみと恵み――私たちに対する身に余る恩寵――に感謝を捧げることができます。神の御前に心をさらけ出し、最も内なる思いや願い、懸念を打ち明け、悩みや問題、必要を神に委ねることができます。助けを必要としている人々のために執り成しの祈りをし、愛する人々を神のご配慮に委ねることができます。あらゆる心配事や不安、懸念を神に委ねることができます。

    弱く、疲れ果てているとき、心の重荷を神に打ち明けることができます。しくじり、過ちを犯し、あるいは間違ったことをし、罪を犯したとき、それを告白して神の赦しを求め、そして赦していただくことができます。嬉しいときも悲しいときも、健やかなときも病んでいるときも、豊かなときも乏しいときも、神と語り合うことができます。なぜなら、この関係は、私たちを造られただけでなく、私たちを深く愛し、私たちの人生のあらゆる側面に関わりたいと願っておられる方との関係だからです。祈りは、神を私たちの日々の生活に招き入れ、私たちの人生に直接かつ親密に関わってくださるようお願いするための手段です。

    祈りとは、私たちが一方的に話し続け、神がただ聞いてくださることを期待するような、一方通行の会話であってはなりません。祈るときには、私たちもまた、読んだ聖書の言葉を通して、敬虔な教師や説教者が語っていることを通して、あるいは神の前に静まり、心を開いて神の声を聞くことを通して、神が私たちに伝えようとしておられることに耳を傾ける必要があります。私たちが御言葉を黙想するとき、読んだ御言葉を日々の生活にどう適用すべきかを示してくださるよう求めるとき、そして心の中を静め、神が私たちに語りかける機会を与えるとき、神はさまざまな方法で私たちに語りかけてくださいます。

    イエスは、ご自身の模範と教えを通して、祈りの重要性を教え、そして最も大切なことに、私たちの祈りが神との親しい関係に根ざしたものであるべきだと教えられました。祈りのために時間を設けることに加えて、私たちは絶えず神との交わりの中にいるよう求められています。それは、神と継続的に対話すること、つまり、一日を通して神に語りかけ、導きを求め、神を賛美し、神の声に耳を傾けることです。これが、「絶えず」祈りなさいというパウロの一般的訓戒(1テサロニケ5:17)の意味である、と捉えることができます。現実的な話として、仕事や生活に関わる責任に追われる忙しい日々の中で、長い間すべての活動を止め、祈りに専念できるような時間はないかもしれません。しかし、一日を過ごす中で、仕事や務めを果たしながら、自分の思いや活動、そして他者とのコミュニケーションを絶えずイエスに委ねることによって、「イエスの臨在を実践する」[2] ことができます。

    祈りに動かされて

    まず、祈りましょう。飢えた人を助けるために旅立つのですか。その任務を祈りに浸してから出かけましょう。不正の結び目を解こうとしているのですか。祈りましょう。人種差別と分断に満ちた世界に疲れていますか。神もそうです。そして神は、そのことについてあなたと語り合いたいと願っておられます。

    何よりも、祈りましょう。神は私たちに、絶えず説教しなさいと命じられましたか。絶えず教えなさいと命じられましたか。絶えず委員会の会合を開きなさいと命じられましたか。絶えず歌いなさいと命じられましたか。いいえ、そうではなく、「絶えず祈りなさい」と命じられたのです(1テサロニケ5:17)。

    イエスは、ご自身の家が学びの家と呼ばれると宣言されたでしょうか。それとも、交わりの家でしょうか。音楽の家でしょうか。展示の家でしょうか。活動の家でしょうか。いいえ、そうではなく、イエスは「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と言われたのです(マルコ11:17)。

    これほどの結果が保証されている霊的な活動は、他にありません。「あなたがたのうちの二人が、どんなことについても、地上で心を合わせて祈るなら、天におられるわたしの父は行動を起こしてくださる」(マタイ18:19 英語MSG訳)。神は、謙虚で祈り深い心に動かされます。祈りに動かされる方なのです。—マックス・ルケード [3]

    交わりへの招き

    神は人類への愛ゆえに、イエスの生涯と死と復活を通して、私たちを罪に対する罰から贖い出されました。私たちは、神の愛する御子の犠牲的な死を通して、神の愛を経験し、神との交わりを回復します。神が私たちを愛し、赦してくださったので、私たちは神を愛し、畏れ敬うのです。

    「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)という言葉を読むとき、私たちはそれが「神は私を個人的に愛しておられる」という意味だと理解します。私たちの救い、また神との関係は、ただひとえに、愛の贈り物として私たちに与えられたイエスの御業に基づいています。神の愛は無条件であり、私たちが犯すかもしれない過ちや罪や失敗にも、また落胆の感情にも、左右されることがありません。私たちは、救いによって神の御子と結ばれているという、ただそれだけの理由で、神の子の一人として神に愛されています。「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:38–39)。

    神との関係を求める気持ちは、祈りと礼拝と聖書を読むことによって神とつながっているよう、私たちを動かます。また、神に仕え、神の愛と真理を他者と分かち合うことで、信仰を実践するよう、私たちを動かします。弟子として、私たちは神との交わりと、私たちの人生における神の臨在を、熱心に求めるのです。

    イエスが黙示録の中で、ある教会になされた呼びかけは、今日の私たちへの呼びかけでもあります。「わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(黙示録3:20)。イエスの時代の文化では、食事を共にするよう招くことは、関係を築こうという招きを意味していました。弟子として、私たちはイエスとの関係をさらに深め、イエスをよりよく知り、より深く愛そうとしています。また、私たちがイエスの臨在の中で過ごすとき、その結果として、イエスの性質である愛、優しさ、思いやり、温かさ、赦し、あわれみを他者に示すようになります。

    戸を開ける者たちに対して、イエスは親しい交わりを約束し、それを食事を共にする姿にたとえられました。… 今日もイエスは、「わたしは戸の外に立って、たたいている」と言い続けておられます。… 主は、完全な交わりを持とうと、熱心に招いておられるのです。天の御国の鍵を持っておられる方(マタイ16:19; 黙示録1:18)が、私たちすべてに、ご自分の声を聞き、戸を開けるよう呼びかけておられます。主が入って来て、私たちと親密な結びつきを持てるようにです。イエス・キリストは、その呼びかけに応じる者たちに、永遠の命への開かれた戸と、天において主と共に治めるという報いを保証しておられます。—Got Questions [4]

    噛みしめるべき言葉

    私たちと神との関係は、まさにその言葉どおり、関係です。神の招きは、明確でシンプルです。「ここに来なさい。話をしよう。」 そして、私たちの応答は、こうです。「主よ、参ります」(詩篇27:8 リビングバイブル)。私たちは神と共にとどまり、神は私たちと共にとどまってくださいます。—マックス・ルケード

    私たちは、神との意識的で個人的な関係を持つために造られました。神を知る恵みにあずかった私たちは、創造主との個人的な関係へと招かれています。… 神は、私たちの人生の苦楽をすべて、共にしてくださるお方です。私たちが何一つ隠し立てしないなら、神はそのすべてを、何の問題もなく受け止めてくださいます。それどころか、私たちが人生のどんな地点にいるときにも、神は私たちを包みこんでくださるのです。—ジョビアン・ワイゲル

    神との友情は、人生のあらゆる経験を神と分かち合うことで築かれます。もちろん、毎日、神とのデボーションの時間を持つ習慣を身につけることは大切ですが、神が望んでおられるのは、あなたの予定表にある約束以上のものです。神は、あらゆる活動、あらゆる会話、あらゆる問題、そしてあらゆる思いに関わることを望んでおられます。あなたは一日を通して、その瞬間に自分がしていることや考えていることについて、絶え間なく終わりのない会話を神と続けることができます。「絶えず祈る」とは、買い物や運転、仕事、その他何であれ日常的なことをしているときも、神と語り合うということです。—リック・ウォレン

    聖書は何と言っているか

    「目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい」(コロサイ4:2)。

    「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである」(1ヨハネ3:1)。

    「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」(1テサロニケ5:16–18)。

    祈り

    天の父よ、私はあなたとの関係をもっと深めたいと願っています。あなたをもっと親しく知り、あなたの性質をもっと豊かに映し出したいのです。… あなたへの信仰と信頼が増し加わりますように。あなたの御言葉への理解を深め、それを日々の生活に適用できるよう、お助けください。私の祈りの生活を強め、あなたの声に耳を傾けることを教えてください。私の人生において成熟する必要のある領域を示し、その課題に立ち向かう勇気を与えてください。日々、自分自身に死に、キリストのために生きることができますように。謙遜と思いやり、そして他者への愛において、成長させてください。主よ、あなたが本来の私として造られたその姿になるよう、私を形作ってください。私の人生が、あなたの変革の力の証となりますように。イエスの御名によって、アーメン。[5]


    1 Tanya Remkiv, “What Does Fellowship with Christ Mean,” December 19, 2022, https://tanyaremkiv.com/2022/12/19/what-does-fellowship-with-christ-mean/

    2 ラウレンシオ修士(ブラザー・ローレンス)が勧めた「イエスの臨在の実践」とは、人生のあらゆる側面において神の臨在を絶えず意識するよう促す、霊的な訓練です。それは、日常の何気ない活動の最中であっても、一日を通して積極的に祈りと黙想を行うことによって、イエスとの深く親密な関係を育むことなのです。

    3 Max Lucado, God Is with You Every Day: 365-day Devotional (Thomas Nelson, 2015),22.

    4 “What Did Jesus Mean When He Said, ‘I Stand at the Door and Knock’?” GotQuestions.org, https://www.gotquestions.org/I-stand-at-the-door-and-knock.html.

    5 “10 Powerful Prayers to Get Closer to God and Find Stillness in His Presence,” My Prayer Item, https://myprayeritem.com/10-powerful-prayers-to-get-closer-to-god/.

     

  • 6月 9 すべての美徳の実践
  • 6月 2 他の人を励ます
  • 5月 26 キリストに従う者にとっての美徳: 自制・節制
  • 5月 19 第1コリント:第14章(26–40節)
  • 5月 12 キリストに従う者にとっての美徳: 優しさ・柔和
  • 5月 5 第1コリント:第14章(1–25節)
  • 2月 24 弟子の生き方(パート3): キリストにとどまる
  • 2月 1 第1コリント:第13章(1–13節)
  • 12月 30 第1コリント:第12章(12–30節)
   

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