• 私たちが神を愛するのは、神がまず愛してくださったから

  • 神のおられるところに愛がある (1ヨハネ4:7-8)

  • 祈りとは、神の心へと登っていくこと (マルティン・ルター)

  • 私は世の終りまで、いつもあなたと共にいる

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ユーザーフレンドリーなデボーション記事

  • 霊的生活に投資する

    Investing in Our Spiritual Life
    February 12, 2026

    ピーター・アムステルダム

    オーディオ所要時間: 12:22
    オーディオ・ダウンロード(英語) (11.3MB)

    彼は … 神を求めることに努めた。彼が主を求めた間、神は彼を栄えさせられた。—歴代下26:5

    霊的生活と霊的成長に投資するには、時間と決意と自己鍛錬が必要です。また、信仰も必要です。なぜなら、霊的生活を優先するというのは、他の事柄にかける時間が減るということだからです。そして、今あなたの生活はとても忙しく、どこを削っていいかわからないかもしれません。

    霊的生活や霊的成長に関する決意から私たちを引き離すような障害や状況に直面した時には、神との関係に時間を割くことは何よりも重要であり、それは永遠への投資なのだと思い出すようにすると、助けになります。イエスは、「まず神の国と神の義を求めなさい」と教えられ、そうすれば、他のすべてのものは添えて与えられると言われました(マタイ6:33)。

    神の最大の願いの一つとは、私たちが神と親しい関係を持つことです。たとえそれがわずかな時間でも、私たちは神の愛を確信できます。神は私たちの造られた様や状況、あらゆる困難を理解しておられ、私たちが神との関係を深めようとするとき、そのままの私たちを受け入れ、喜んで助けてくださいます。

    それでは、霊的生活と霊的成長に投資する基本原則をいくつか見ていきましょう。

    御言葉と霊的インプットを通して神とつながる。信心を養うインプットや、霊的栄養を取るための時間を毎日取ることは、活発な霊的生活を送る上で最も重要です。神の言葉が霊的な栄養源であることを確認するため、イエスは旧約聖書の次の聖句を引用されました。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4:4)。

    聖書は神の言葉です。栄養や健康のために毎日食べ物を食べなければならないのと同様、霊的栄養分も毎日取らなければなりません。神の言葉を読み、神と時間を過ごすことは、たとえ短い時間だったとしても、毎日スケジュールに入れるべきものです。イエスは言われました。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネ6:63)。私たちには、御言葉を欠かす余裕などありません。

    言うまでもなく、私たちの霊的栄養源は、まず第一に聖書です。聖書は人類のための神のご計画を描いており、それは創世記にあるご計画の始まりから、よみがえりによる霊的変貌の約束、また黙示録にあるいつまでも滅びることのない永遠の命に関する約束に至ります。聖書は神について教えているだけでなく、神の御心にかなった賢明な決断を下し、神を喜ばせ、人に仕えるような行動をとるための原則や基準を示しています。

    もう一つ、霊的成長の源となるのは、信仰の厚い人が書いた、デボーショナルで信仰が築かれる読み物(あるいはメディア)です。他のクリスチャンによる、神の霊感を受けた著書は、あなたの信仰を強め、聖句への理解を深め、あなたが現在持つ必要と困難に、神の言葉を実際的に適用する助けになります。

    神は私たち一人ひとりとの間に、私たちが信頼する相談相手や友人との関係のような深い関係を望んでおられます。私たちは、神と共に過ごし、御言葉を深く考えることによって、愛情深き宇宙の神と特別な関係を築き、維持することができます。そうするとき、神は私たちを導き、御言葉が私たちの決断や行動の指針となります。「心をつくして主に信頼せよ、 自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:5–6)。

    <pハイペースの現代社会では、何とかして神と関係を築く時間を作るのは大変なことです。しかし、クリスチャンとして、神と神の言葉とつながるための時間は優先されるべきことです。思考と霊を静め、神の言葉を瞑想するなら、神は心に語りかけ、人生を導いてくださるでしょう。これは神との関係を強めてくれます。そして、私たちは神と近く歩むことから生じる祝福を味わうことになります。

    活発な祈りの生活を築く。祈りは霊的生活の鍵となる要素です。祈りによって、私たちは創造主である神とコミュニケーションをするのです。私たちは神と語らい、神を賛美し、礼拝し、心配事や悩みや必要を神に告げ、神の助けや介入、力、指導を求めることができます。祈りは、天の父に手を伸ばして、神の御心がなされるようにと求めることです。また、神の声を聞き、導きや励まし、慰め、指示を求めることです。

    祈りは、愛する人や気にかけている人々のため、地域社会の必要のため、また困難やストレスを抱えている人々のために、私たちがとりなしをする手段です。しっかりした霊的生活には、毎日の祈りが組み込まれています。聖書は「絶えず祈りなさい」と教えています(1テサロニケ5:17)。

    神は私たちに、祈りを贈り物として与えてくださいました。私たちは祈りを通して、現世的な思い煩いを神のたくましい肩に委ねることができます。この人生は心配や恐れや不安で満ちていますが、パウロは私たちに、「何事も思い煩ってはならない、ただ、事ごとに、… 祈[り]… をささげ」なさいと告げています(ピリピ4:6)。感謝することに、私たちは自分の心にあることが祈るに値するものかどうかを心配する必要はありません。心が何かを憂慮しているなら、神もそれを気にかけて下さいます。私たちが生活と祈りを調和させていくにつれ、一日を通して主の臨在が共にあります。

    思い煩いや心配事を神に委ね、神が私たちのために最善の結果をもたらしてくださると信頼する時、私たちは平安を受け取ります。献身的で一貫した祈りの生活を通して、神との関係において成長し、祈りの時間を費やすことで、よりイエスのようになれます。

    主に対して心を正しく保つ。私たちは皆、罪を犯します。皆、間違いをします。実のところ、毎日です。主はそれをご存知で、私たちが完璧でないことや、つまずいた時のことを責めたりなさいません。イエスは私たちの間違いすべてをご存知です。イエスも人間としての人生を経験されたので、私たちの欠点や人間的な弱さを理解してくださいます。イエスは私たちがどんなに懸命に試みたとしても、すべてを正しく理解したり、正しく行ったりすることは決してないことを、よくよくご存知でした。

    主の御前におそれかしこみつつ歩むなら、日頃から主に罪を告白し、ゆるしを求めるようにと良心の呵責を受けます。自分が主に対して正しい関係にあると知っており、人生において告白していない罪がない時、あなたはもっと主のもとに行って礼拝と祈りの時間を取るようになり、神があなたを祝福し、世話してくださるという信仰ももっと持てるようになるでしょう。

    私たちは常日頃から自分の失敗や間違いや罪を主に告白することで、あの素晴らしい平安とゆるしの場所に入ることができます。謙遜になり、自分の欠点を認め、大きく広げられた主の御腕に駆け込むことで、主のゆるしの内に平安を見いだすことができるのです(1ヨハネ1:9)。

    神に対して従順に歩む。イエスに従う者として、私たちは神と神の言葉についてもっと知ろうとします。聖書やその他の神の霊感を受けたキリスト教著作物にある真理を学習し、調べ、瞑想します。また、聖句を暗記し、聖書を学習し、他の信者たちと神の言葉について話し合います。

    このすべては良いことですが、神への義務はこれだけではありません。もう一つ、霊的成長の基本的原則となるのは、神の言葉が言っていることを実行するということです。私たちは、神がすべてのクリスチャンに求めておられることや、一人ひとりに対する神の個人的な導きや指示に従うよう命じられています。

    私たちは、行動し、御言葉の生きた見本になるよう召されています。それは御言葉を聞くだけの者でなく、実行するものになることから生まれます(ヤコブ1:22)。また、私たちは、福音を全世界に広めるという主の大宣教命令に積極的に参加するよう召されています(マタイ28:19–20)。

    主の命令に対する私たちの従順には、祝福の約束が伴います。イエスはこう言われました。「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです」(ヨハネ13:17 新改訳第三版)。

    他の信者たちと交わる。聖書はこう告げています。「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか」(へブル10:25)。リック・ウォレンは次のように書いています。「神は私たちが共に人生を経験するよう意図されました。聖書はこの経験の共有を、交わりと呼んでいます。」

    他のクリスチャンたちと共に主を礼拝したり、御言葉を読んだり、共に歌ったり祈ったりする時間を過ごすと、私たちはより強くなります。また、リフレッシュし、視界がクリアになり、私たちが神の御国のために働くにあたって人生に主がもたらされるものへの準備が、より良く整うようになります。

    中身の濃い交わりをするための時間を捻出したり、心休まるクリスチャン・コミュニティーを築く、または見つけたりすることはなかなか難しいかもしれません。しかし、できる限り頻繁に信者たちのコミュニティーで集まるための努力をするのは大切です。これはあなた個人の徳を高めたり楽しんだりするために重要なばかりか、世界に影響をもたらすための力をあなたに与えてもくれるのです。

    自分の霊的生活を振り返り、霊的な成長に励む中で、神を愛し、神に従い、神の戒めを守る者たちへの祝福について、聖書に記された素晴らしい約束を心に留めましょう。私たちクリスチャンは「選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝える」べく召されているのです(1ペテロ2:9)。

    初版は2014年7月 2026年2月改訂・再版 朗読:ジョン・ローレンス

  • 5月 7 友情について想う
  • 5月 3 命を選ぶ
  • 4月 29 私の聖書探求の旅
  • 4月 25 神の性質: 愛
  • 4月 20 私たちを救い出される神
  • 4月 15 私たちは皆、赦しが必要
  • 4月 11 手をつなぎ、愛とつながる
  • 4月 7 私たちには互いが必要
  • 4月 3 イエスの復活(パート2)
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第14章(1–25節)

    [1 Corinthians: Chapter 14 (verses 1–25)]

    October 14, 2025

    第13章の最後に、パウロは、「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」と書いています(1コリント13:13)。第14章では、さらに、公同礼拝において霊的賜物を用いる際、愛がいかに重要であるかを強調しました。

    愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい (1コリント14:1)。

    パウロは、コリントの信徒たちに愛を追い求めるよう勧めることで、愛が何よりも重要であって、信徒たちはそれを最優先すべきであることを強調しました。愛は、私たちのすべての行いと志とを導くべきいしずえなのです。私たちは、あらゆる行動や他者との交わりにおいて、愛を指針とするよう求められています。ここでいう愛とは、単なる感情ではなく、神の御心に沿って行動するという選択と献身を意味します。

    パウロは、愛を追い求めることと、霊の賜物を熱心に求めることとを関連付けています。少し前の第1コリント12章で、パウロは、霊の賜物はすべて御霊によって与えられており、それはキリストの体に属する他者に仕えるためのものであると教えていました(第1コリント12:7–10)。第14章では、コリントの人々に、彼らが共に集まって礼拝する際には、他者の徳を高め、教会を造り上げるために、御霊の賜物、特に預言を用いるよう勧めています。

    異言を語る者は、人にむかって語るのではなく、神にむかって語るのである。それはだれにもわからない。彼はただ、霊によって奥義を語っているだけである (1コリント14:2)。

    異言を語る人は、誰かが解釈してくれない限り、他の人には理解できず、わけのわからない言葉を話しています。つまり、異言を語る人は、他の人にではなく、神に向かって語っているのであり、彼らが口にする奥義(神秘)は、他の人に理解されるものではありません。

    しかし預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである (1コリント14:3)。

    祈る際に異言を語ることは、適切で良いことではありますが、この箇所でパウロが焦点を当てていたのは、他者の徳を高めるための霊的賜物でした。この文脈において、パウロは、信者を強め、励まし、慰める手段として、預言を勧めていたのです。初代教会における預言は、今日の教会における説教に近いものでした。ある聖書学者は、次のように語っています。

    初代教会の預言は、多くの点で現代の説教に似ていました。神からその民へのメッセージであり、人々の言語で伝えられたものです。預言は数え切れないほどの形で人々の益となり、愛の奉仕のために用いられました。[1]

    異言を語る者は自分だけの徳を高める[自分を造り上げる(新共同訳)、自らを成長させます(新改訳2017)]が、預言をする者は教会の徳を高める (1コリント14:4)。

    パウロは両者の比較を続け、異言を語ることは神との個人的な交わりの形であるため、自分を造り上げ、自分だけの徳を高めることになると指摘します。もちろん、それ自体に何ら問題はありません。また、パウロがこの章の後半で示唆しているように、自己の霊的成長のために異言を語ると良い場合もあります。しかし、公の礼拝の場合、御霊の賜物は教会を造り上げるために用いられるべきです。そのような共同体としての霊的成長は、語られた内容が会衆に理解される場合にのみ起こります。

    わたしは実際、あなたがたがひとり残らず異言を語ることを望むが、特に預言をしてもらいたい。教会の徳を高めるように異言を解かない限り、異言を語る者よりも、預言をする者の方がまさっている (1コリント14:5)。

    パウロは、コリントの信徒たちに異言の賜物を用いるよう励まし続けながらも、誰かが異言を解釈して教会の益になるのでない限り、彼らがむしろ預言することを望んでいます。

    だから、兄弟たちよ。たといわたしがあなたがたの所に行って異言を語るとしても、啓示か知識か預言か教かを語らなければ、あなたがたに、なんの役に立つだろうか。また、笛や立琴のような楽器でも、もしその音に変化がなければ、何を吹いているのか、弾いているのか、どうして知ることができようか。また、もしラッパがはっきりした音を出さないなら、だれが戦闘の準備をするだろうか (1コリント14:6–8)。

    パウロはここで「兄弟たち」(「兄弟姉妹」という訳もあります)という言葉を用いて語調を和らげ、コリントの信徒たちが身構えないよう配慮しています。まず、自分が彼らの所に行ったならという仮定のシナリオを示した上で、そのような訪問は、啓示か知識か預言か教えによって語らない限り、コリントの信徒たちの役に立たないと述べました。パウロの訪問から得られる唯一の益は、彼らに授ける教えだけだということです。

    次に、パウロは音楽の例を用いて説明しています。笛や竪琴で音を鳴らしても、その音が変化していかない限り、何を奏でているのか、誰にもわかりません。第3に、パウロは戦いの合図に用いられるラッパに言及し、はっきりした音を出さなければ合図は理解されず、その目的を果たせないと述べます。パウロはこれらの例を用いて、異言は解釈されない限り意味がわからず、知識を伝えることも、教えを授けることもないと指摘しています。それはむしろ、音程の外れた楽器のようなもので、誰の役にも立たない音を出しているにすぎません。

    それと同様に、もしあなたがたが異言ではっきりしない言葉を語れば、どうしてその語ることがわかるだろうか。それでは、空にむかって語っていることになる (1コリント14:9)。

    パウロは、他者の徳を高めるためには明確なコミュニケーションが必要であると結論づけ、それをコリントの状況にそのまま適用しました。つまり、コリントの信徒たちは、理解できない異言を話していたけれど、結局のところ、それはただ空に向かって話しているようなものだったということです。[2]

    世には多種多様の言葉があるだろうが、意味のないものは一つもない。もしその言葉の意味がわからないなら、語っている人にとっては、わたしは異国人であり、語っている人も、わたしにとっては異国人である (1コリント14:10–11)。

    パウロは、世にはさまざまな言語があるけれど、その目的は互いに意思疎通をすることだと強調しました。もし、語られていることを相手が理解できないなら、つまり、同じ言語を話していないなら、聞き手と話し手はまるで他国人同士のようなものです。互いに意思疎通をしようとしても、それはかなわず、結局は誰の役にも立たないのです。

    だから、あなたがたも、霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊かにいただくように励むがよい (1コリント14:12)。

    パウロは、コリントの信徒たちが聖霊の現れを追い求める姿勢を是認しました。一方では、教会を造り上げ、徳を高めるものを豊かにいただくよう励みなさいと呼びかけています。

    このようなわけであるから、異言を語る者は、自分でそれを解くことができるように祈りなさい。もしわたしが異言をもって祈るなら、わたしの霊は祈るが、知性は実を結ばないからである (1コリント14:13–14)。

    パウロは、異言の限界を指摘した上で、異言で祈る際、その祈りは霊によってのみなされるのであって、知性や理性は関わっていないと述べました。したがって、その人が自分でもメッセージを理解して益を得られるように、異言を解き明かせるようにも祈るほうが、より有益なのです。

    パウロは、異言は解釈されない限り、それを語っている本人を含め、誰にも理解されることがないと結論づけています。もしパウロが、異言で祈っているときに自分が何を言っているのか理解していなかったのなら、聞いた人がどうやってそれを理解し、益を受けることができたでしょうか。

    すると、どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう (1コリント14:15)。

    異言で祈ることには限界があるため、パウロは霊と知性の両方で祈り、歌い、賛美すると決心しました。異言で歌い祈ることは、個人的な祈りや礼拝においては適切なものであっても、公の礼拝においてはそうではなかったのです。

    そうでないと、もしあなたが霊で祝福の言葉を唱えても、初心者[異言を知らない人々(新改訳第三版)]の席にいる者は、あなたの感謝に対して、どうしてアァメンと言えようか。あなたが何を言っているのか、彼には通じない。感謝するのは結構だが、それで、ほかの人の徳を高めることにはならない (1コリント14:16–17)。

    パウロは、礼拝における明確なコミュニケーションの重要性を強調し、解き明かしのないまま異言で語るなら、その言語を理解しない人々は祈りに加われないと指摘しています。

    わたしは、あなたがたのうちのだれよりも多く異言が語れることを、神に感謝する。しかし教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちをも教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって語る方が願わしい (1コリント14:18–19)。

    パウロは、この賜物が祝福であることを個人的な礼拝の中で体験していましたが、公の場では、異言で1万の言葉を語るよりも、聞いている人たちに理解される5つの言葉を語ることを選びました。彼の関心は、他の人を教え、導くのに役立つ言葉を語ることであり、それによって神があがめられることでした。

    兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい (1コリント14:20)。

    ここでもパウロは、コリントの信徒たちを「兄弟たち」と呼んでおり、これは彼らに対する訴えの切実さを表しているのしょう。パウロは、物の考え方において子どもであってはいけないとたしなめることで、コリントの信徒たちが異言を語ることに固執していることは、彼らの霊的な未熟さを示すものだとほのめかしています。

    聖書は時に、イエスが子どもが示す信頼を信仰の手本として取り上げたときのように(マルコ10:15)、信者のうちにある子どものような姿勢を称賛しています。しかし、ここでパウロが述べているのは、クリスチャンは悪事については幼な子のように純真であるべきだということです。言い換えれば、信者は悪に不慣れで、悪とは無縁でいるべきだと。もちろん、クリスチャンは悪についてうぶであってはならず、それは、イエスが弟子たちに「へびのように賢く、はとのように素直であれ」と言われたとおりです(マタイ10:16)。そしてパウロは、クリスチャンはキリスト教の教理や実践に関しては、成熟した考え方でいるべきだと主張しました。

    律法にこう書いてある、「わたしは、異国の舌と異国のくちびるとで、この民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けない、と主が仰せになる。」 このように、異言は信者のためではなく未信者のためのしるしであるが、預言は未信者のためではなく信者のためのしるしである (1コリント14:21–22)。

    コリントの信徒たちが異言について正しい考え方をする必要があることを強調するために、パウロはイザヤ28章11–12節を少し言い換えて説明しました。もとの箇所で、イザヤは北イスラエル王国に対し、神が彼らを捕囚として連れ去り、その地で、未知の言語と異国人を用いてご自分の民に語られる、と警告しています。ところが、そのような懲罰にもかかわらず、彼らはなお、主の声に耳を傾けようとはしませんでした。

    もし全教会が一緒に集まって、全員が異言を語っているところに、初心者か不信者かがはいってきたら、彼らはあなたがたが気が変になったと言うだろう (1コリント14:23)。

    パウロは、共に集まって礼拝する際に、解き明かしのないまま異言が語られても、会衆にとっては益にならないと主張した上で、それがいかに未信者を遠ざけ、福音伝道を妨げうるかを強調しています。教会全体が一緒に集まって、全員が異言で話しているところに、部外者や信者でない人が出席したらどうなるか、という仮定のシナリオを提示しているのです。キリスト教について何も知らない人は、彼らが正気を失ったのだと思い込み、福音のメッセージを聞かないまま、その場を立ち去ってしまうかもしれません。

    しかし、全員が預言をしているところに、不信者か初心者がはいってきたら、彼の良心はみんなの者に責められ、みんなの者にさばかれ、その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、「まことに、神があなたがたのうちにいます」と告白するに至るであろう (1コリント14:24–25)。

    パウロは、前述のシナリオと対比させて、預言により、理解できる言葉でメッセージが語られている礼拝に、未信者が入ってくるというシナリオを提示しています。その場合、結果はまったく異なるものとなるでしょう。なぜなら、その訪問者はメッセージによって罪を自覚し、神がそのメッセージを通してその人に語りかけられるからです。訪問者は自分が罪人であることを悟り、神を礼拝し、会衆のただ中に神の臨在があることを認めるでしょう。

    ある聖書注解者の言葉を借りれば、こういうことです。

    これらの新しい回心者たちは、キリスト教の集会で宣べ伝えられる神の言葉にあまりにも驚いて、『まことに、神があなたがたのうちにいます』と宣言することでしょう。… 失われた者の回心は、クリスチャンの集まりの目的の一部なのです。[3]

    (続く)


    1 Richard L. Pratt, Holman New Testament Commentary—1 & 2 Corinthians. Vol. 7 (B&H Publishing Group, 2000), 244.

    2 Leon Morris, 1 Corinthians: An Introduction and Commentary, vol. 7, Tyndale New Testament Commentaries (InterVarsity Press, 1985), 767.

    3 Pratt, Holman New Testament Commentary—1 & 2 Corinthians.

     

  • 2月 24 弟子の生き方(パート3): キリストにとどまる
  • 2月 1 第1コリント:第13章(1–13節)
  • 12月 30 第1コリント:第12章(12–30節)
  • 11月 11 第1コリント:第12章(1–11節)
  • 11月 4 弟子の生き方(パート2): 私たちの全存在をもって神を愛する
  • 10月 28 第1コリント:第11章(17–34節)
  • 9月 2 第1コリント:第11章(2–16節)
  • 8月 26 弟子の生き方: 前書き
  • 8月 19 第1コリント:第10章(16–33節)
   

信条

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