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  • イエスの復活(パート2)

    The Resurrection of Jesus—Part 2
    March 30, 2026

    ピーター・アムステルダム

    オーディオ所要時間: 11:27
    オーディオ・ダウンロード(英語) (10.4MB)

    復活されたイエスに会った後、女性たちはイエスから言われたとおり、そこから出ていって、イエスが生きておられることを弟子たちに話しました。ルカの福音書には、弟子たちは「それが愚かな話のように思われて」、 女性たちの言うことを信じなかったとあります(ルカ24:10–11)。

    「しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った」(ルカ24:12 新改訳2017)。弟子たちは信じませんでしたが、ペテロはそれでも墓へ行き、状況を確認してから、驚きながら家に帰りました。

    ルカは続けて、2人の弟子に起こったことを記しています。この人たちは、どちらも11使徒ではなく、おそらく歩いて自分の家に戻るところだったのでしょう。

    この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互に語り合っていた。語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった(ルカ24:13–16)。

    エマオという地名は、聖書でこの箇所にしか出てこないので、それがどこにあったのか、正確な場所は知られていません。その途上で、この2人の弟子は最近の出来事について論じ合っていました。ずっと大変なことが続いていたのです。イエスは逮捕され、死刑宣告を受け、十字架にかけられ、埋葬され、そして三日後には墓が空っぽになっていました。彼らはエルサレムを出てきたということなので、おそらく家に戻って、以前の生活に戻ろうとしていたのでしょう。

    ところが、ここで思いがけないことが起こりました。いっさいの出来事について論じ合っている時、「イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた」のです。しかし、「彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」とあります。ヨハネの福音書にも、イエスの弟子たちが復活されたキリストに気づかなかったという、似たような状況が記されています。「イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった」(ヨハネ21:4)。マグダラのマリヤも、初めは復活されたキリストに気づきませんでした。「うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった」(ヨハネ20:14)。

    道を歩いていた例の2人の弟子に、イエスは話しかけられました。

    イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか。」 彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」(ルカ24:17–18)。

    クレオパは、イエスの質問にショックを受けています。エルサレムから来た人が、この数日の出来事を知らないなんて、信じられなかったのです。イエスの裁判と十字架刑は、それほど周知の出来事だったからです。

    「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです」(ルカ24:19–21)。

    クレオパともう1人の弟子は、イエスを信じ、イエスとその宣教にかなりの望みをかけていました。しかし、逮捕や十字架刑など、大変な出来事があって、彼らは失望していたのです。イエスは公生涯の間、死人をよみがえらせるなど、力強いわざをなされましたが、祭司長たちや役人たちはイエスを拒みました。この人たちが、十字架刑に処せられるようにとイエスをローマ人に引き渡したのであり、彼らのせいでイエスは死刑宣告を受けたのです。

    イエスが十字架につけられてから三日目になっています。福音書のいくつもの箇所でイエスが予告された、あの「三日目」です(ルカ9:21–22; マタイ20:17–19)。

    2人の弟子は、ルカがこの章の冒頭に記していた、女性たちが墓に行くと、イエスの体が見当たらなかったという出来事を、かいつまんで述べています。

    「ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」(ルカ24:22–24)。

    この説明には、墓が空っぽだったことや天使が現れたこと、また、イエスは生きておられると天使から告げられたことが含められています。しかし、この2人が言うには、他の弟子たちが墓に行くと、そこは空っぽで、イエスに会うことはありませんでした。そこでイエスは、彼らに答えてこう言いました。「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」(ルカ24:25–26)。

    イエスは、この2人の弟子たちを「愚かで心のにぶいため … 信じられない者たち」 と呼ぶことによって、彼らは明白なことも分かっていないことを指摘されました。イエスは、預言者たちが説いた「すべての事」と言うことによって、この件については旧約聖書の教えに多くが書かれていることを強調されました。イエスは、キリストが必ず苦難を受けて、その栄光に入ることは、イザヤ書などに書かれているので、彼らはすでに聖書から知っているべきだったと言われたのです(イザヤ53:5–7)。

    「こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」(ルカ24:27)。このようにイエスは、聖書(旧約聖書)全体にわたり、約束されたメシアであるイエスについて記してあることを、クレオパともう1人の名前が明かされていない弟子とに説明されました。

    イエスと2人の弟子たちがエマオの村に近づいた時、イエスはなお先へ(おそらく次の村へ)進み行くような様子をされました。その日はもう遅く、夕暮れも近かったため、弟子たちはイエスを無理に引き止めました。イエスは彼らの言うとおりにして、「一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった」(ルカ24:28–31)。

    2人の弟子たちはイエスと一緒に食卓につきましたが、それでもまだ、それがイエスであることに気づきませんでした。そして、彼らの目が開け、それがイエスであることがわかった途端に、イエスは姿を消されたのです。福音書の幾つもの箇所に、イエスが復活後、信者たちの前に現れたり、姿を消されたりしたことが書かれています。(参照: ルカ24:36; ヨハネ20:19

    イエスの姿が見えなくなってから、2人の弟子は互いにこう言いました。「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」(ルカ24:32)。2人の弟子が、それまで一緒にいたのはイエスであったと気づいた時、イエスがいて話をしてくださったことが彼らに与えた影響について、興奮した口ぶりで互いに語りました。

    そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した(ルカ24:33–35)。

    2人の弟子は、イエスに会ったことを仲間に知らせたかったので、道を引き返し、エルサレムへ戻りました。しかし、自分たちの身に起こったことを告げる前に、別の人たちの話を耳にすることになりました。「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と聞かされたのです。

    復活したキリストに会ったという、この2件の出来事について話していると、「イエスが彼らの中にお立ちになった。そして『やすかれ』と言われた。」 しかし、使徒たち、そして彼らと共にいた他の弟子たちは、霊を見たのだと思い、驚き恐れました(ルカ24:36–37)。彼らを落ち着かせるために、イエスは2つの質問をされました。

    「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ。」 こう言って、手と足とをお見せになった(ルカ24:38–40)。

    イエスは弟子たちに、手や足を見て、十字架刑で受けた傷を確認するよう言われました。この箇所やヨハネ書にある記述(ヨハネ20:25)から、イエスは十字架に縛り付けられただけではなく、釘付けにされていたことが分かります。傷を見る以外にも、体を触ってみるように言われました。肉と骨のある体を持っており、肉体を離れた霊とは異なることを知ってほしかったのです。

    彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた(ルカ24:41–43)。

    イエスは、何か食べ物があるかと尋ね、食卓について一緒に食事をすることで、自分は幽霊でも幻影でもないことを示されました。また、それは、イエスが本当に死からよみがえられたという証拠でもあります。イエスは彼らに現れ、話をし、共に食事をされました。イエスが死から復活されたことについて、疑いの余地はなくなったのです。

    「それから彼らに対して言われた、『わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する』」(ルカ24:44)。イエスが「話して聞かせた言葉」 とは、イエスの教え全般のことではなく、ご自身の死と復活についてされた教えのことです。

    イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民[あらゆる国の人々(新共同訳)]に宣べ伝えられる」(ルカ24:45–47)。

    イエスの説明によって、弟子たちは、イエスの死や復活に関する聖書の教えをよりよく理解することができました。それは、以前、幾つかのことが彼らから「隠されて」いたため、よく理解できなかったことと対照的です(ルカ9:45, 18:34)。

    イエスが挙げたもう1つの点は、「その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということです。神の将来の計画がここに示されています。悔い改めと罪の赦しのメッセージが、すべての場所で宣べ伝えられるということです。イエスが指示されたのは、まずエルサレムで宣教を始め、いずれは他の地域にも移って、全世界に福音を伝えよということでした。

    イエスはさらに、「あなたがたは、これらの事の証人である」と言われました(ルカ24:48)。弟子たちは、イエスの生涯、死、復活、そして昇天の目撃者です。彼らは、復活のキリストとの個人的な経験を伝えるという委任を受けており、あらゆる国の人々にメッセージを伝えるという任務がありました。それは、今日のイエスの弟子たちの任務でもあります。イエスに従う者として、私たち全員もまた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」との召命を受けているのです(マルコ16:15)。

    初版は2022年7月 2026年3月に改訂・再版 朗読:ジョン・マーク

  • 3月 30 トラクトで救われる
  • 3月 26 イエスの復活(パート1)
  • 3月 24 見た目を超えて
  • 3月 22 ルツ物語(パート2)
  • 3月 18 信仰にもとづいて歩む
  • 3月 14 ルツ物語(パート1)
  • 3月 9 永遠の現実性
  • 3月 4 赦すようにとの呼びかけ
  • 2月 28 愛とは
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 弟子の生き方(パート3): キリストにとどまる

    [The Life of Discipleship, Part 3: Abiding in Christ]

    September 16, 2025

    キリストにとどまることは、弟子としての歩みにおいて重要な要素です。それには、自分の全存在をもって神を愛し、御言葉を学んでそれにとどまり、その原則に従って人生を整え、イエスの教えと手本に従うことが含まれます。

    イエスは死の前夜、告別説教の中で、イエスにとどまる必要性と、その結果として得られる祝福や益について、弟子たちに語られました。ご自身と密接なつながりを保つことの重要性と、そうすることで私たちは実を結ぶようになるのだということを、強調されたのです。弟子は実を結ぶように定められており、そうすることによって神は栄光をお受けになるのだと、イエスはヨハネ15章で説明しておられます。

    わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです (ヨハネ15:4–5, 8 新改訳2017)。

    イエスはさらに、ご自分を愛することと戒めを守ることとの関連性や、ご自身にとどまっていることで与えられる祝福と喜びを明らかにされました。

    父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました (ヨハネ15:9–11 新改訳2017)。

    もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう (ヨハネ14:23)。

    イエスは、「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」と言って(ヨハネ14:15)、主への愛と、主の教えへの従順とを、明確に結びつけられました。この箇所で「守る」と訳されているギリシャ語は、「注意深く従う、遵守する」、という意味です。つまり、私たちがイエスを愛するなら、イエスの教えを守り、それに従い、その原則を自分の生活に適用するということです。イエスへの愛は、イエスの言葉を守り、実践し、その原則に基づいて生活する姿に現れます。

    ヨハネの福音書には、イエスの言葉の内にとどまることが、弟子であることの決定的な要素だと記されています。「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである」、とイエスが言われたとおりです(ヨハネ8:31)。もっとも、イエスの厳しい教えの中には、口で言うほど簡単ではないものもあります。たとえば、「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」(ルカ14:27)や、その数節後の「自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない」(ルカ14:33)といった言葉です。

    イエスはこれらの聖句で、神の召命に耳を傾け、神に従い、神の御心を行うことが何よりも重要である、という霊的な原則を示されました。私たちに、人生のすべてを主に捧げ、救いについて主だけを信頼し、その上で弟子として主に従う事を求めておられるのです。イエスが「わたしについて来なさい」と言われるとき、ついてくるようあなたに呼びかけておられるその道は、あなたにとっての弟子の道です。それは、固有の道であって、イエスについて行く者一人ひとりに、それぞれ他とは異なる道が与えられています。ここで原則となっているのは、弟子は神に属しており、その忠誠は第一に神に捧げられるものだということ、そして、心と精神と思いを尽くして神を愛し、神に従うということです。

    主は全員に同じ形の奉仕や同じ弟子の資質が現れることを求めないし、主の子どもたち全員に同じコミットメントや犠牲を求めたりされません。歴史を通じて、異なる状況下で主のために偉大な仕事をした人々の例はたくさんあります。海外の宣教地、政府、事業、裕福な家庭、病床、貧困、物理的に切迫した状況などにいた人もいれば、教壇に立った人、世界的に有名だった人、そして多くの陰の英雄がいます。クリスチャンとしてのコミットメントと弟子の資質を示すテスティモニーに共通した、私たちを発奮させ、意欲を高めてくれることとは、イエスへの愛と主の召しへの忠実さです。

    主が私たち一人ひとりを、どんな形で主に従い仕えるよう求められるとしても、「イエスにとどまる」という原則は、イエスとの永続的な関係を絶えず育んでいくことを指します。イエスは弟子たちに、ご自身の内にとどまり、イエスの言葉を彼らの内にとどまらせ、教えに従うよう求められました。そして、そうするとき、私たちはイエスの愛の内にとどまって実を結ぶようになり、弟子である私たちに主が与えてくださる喜びが私たちの内にとどまるのです。

    単なるコーヒーブレイク以上のもの

    イエスは、私たちがご自身の内にとどまっているべきだと言われました。イエスから離れては、私たちは何もできないからだと(ヨハネ15:4–5)。私たちの多くは、イエスとの「コーヒーブレイク」なら喜んでとろうとしますが、「とどまる」とは、そういった短い訪問以上の意味を持ちます。「とどまる」と訳された言葉は、ギリシャ語の原語では「住む、存続する」という意味です。… 神の臨在の内にとどまるとき、神は御心をさらに明らかにしてくださいます。ご自身について、またあなたの人生に対する計画と目的について、より深い啓示を与えてくださるのです。…

    [私たちは、]人生の最優先事項として、神に自分を捧げる[必要があります]。仕事から、無益なことで時間をつぶす行為(例えば、テレビの前で何時間も過ごすこと)に至るまで、そういった私たちの気を散らすものを脇に置くとき、神は私たちの霊的な力を増し加えてくださいます。主の御前を歩むなら、神はあなたを霊的に強健にしてくださるのです。イザヤもこう書いています。「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(イザヤ40:31)。—K・A・ポール [1]

    つながる

    J・C・ライルは、キリストにとどまることを、「主との絶え間ない親密な交わりの習慣」と表現しています。細胞が癒合して、ぶどうの木にしっかり接着するまで、接ぎ木された枝がテープで人為的に固定される必要があるように、こうした習慣も、最初は不自然に感じられるかもしれません。

    しかし、そういった習慣そのものではなく、その目的である「命の源であるキリストにとどまり、つながっている」ことに焦点を合わせていれば、時間とともにより自然にできるようになり、生涯にわたるキリストとの結びつきを育むことになります。

    この習慣には、以下のようなものがあります。

    • 御言葉を通して語られる神の声に耳を傾け、神とつながること。
    • 祈りを通して御言葉に応答し、神と交わること。
    • 私たちへの神の大きな愛を思い出させる福音の真理を、繰り返し心に刻むこと。
    • あらゆる状況で神を必要としていることを、常に意識すること。
    • 自力で問題を解決しようとする誘惑に駆られるときに、神を信頼すること。
    • 神の道が自分の道と異なって見えるときにも、罪を避けることであれ、善を追い求めることであれ、従順に神に従うこと。
    • 大勢の聖徒たちと共に、忍耐を貫き、救い主に目を留めつつ、競走を走り抜くこと(ヘブル12:1–2)。—ベラ・クリスチャン [2]

    神の言葉にとどまる

    イエスにとどまることについて、大切な要素とは、御言葉を読み、学び、黙想し、暗記することです。神は、聖書を通してご自身を私たちに啓示されました。私たちは聖書に書かれたことから、神について、また、人類に対する神の愛や私たちのための救いの計画について、学びます。神は、私たちへの愛を語り、不完全で限界のある存在である私たちがどのように神との関係を築けるかを示しておられます。聖書を読むことで、私たちはイエスの教えに耳を傾け、その愛の模範を見ます。そして、私たちのために捧げられたイエスの犠牲により、生まれ変わって神の子どもとなるよう促されます。

    御言葉にとどまればとどまるほど、また、御言葉を私たちの内にとどまらせればとどまらせるほど、どうすれば御心に従って神とその愛を映し出す生き方ができるかについて理解が深まり、学びと成長が進みます。毎日、聖書やデボーション資料を読むために時間を取ることで、私たちは読んだものを通して主に語っていただき、主の教えと導きを受け取り、人生の問題や困難を切り抜けるための助けを得られるようになるのです。御言葉は、私たちが従うべき道徳的規範を知らせ、決断すべきときに導きを与えてくれます。

    御言葉にとどまるにつれ、主が私たち一人ひとりに与えられた価値と、すべての人間に対して抱いておられる愛と憐れみに、ますます気づくようになります。聖書に書かれた真理を吸収して、日々の生活に適用するにつれ、私たちは人生の錨を主の内に下ろすようになります。そして、イエスが語られたたとえ話に出てくる、岩の上に家を建てた賢い人のようになるのです。雨が降り、風が吹いて家に打ち付けても、その家は倒れませんでした。岩を土台としていたからです。イエスはこのたとえの要点を、次のように語っておられます。「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう」(マタイ7:24–27)。

    神が御言葉の中で私たちに語られたことを読む時間を毎日取ることは、日々押し寄せる情報とインプットの渦を無事通り抜けるための道を与え、真理と偽りを見分ける霊的能力を高めてくれます。すると、神の御心にかなった生き方をする上で大切なことを心の軸にすることが、もっと容易になります。それは、人生が私たちにもたらすあらゆるものを耐え抜き、克服する助けとなるのです。

    毎日、神の言葉を読んで学ぶ時間を確保するのは簡単ではありません。それには自己鍛錬を要します。しかし、普段から聖書を読み、神と交わる時間を取ることは、私たちを霊的に強め、神の真理と愛に根差した、より強いクリスチャンへと成長させます。イエスは、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」と言われました(ヨハネ6:63)。御言葉を読むことで築かれる神とのつながりは、他者との相互関係や、意思決定において御霊に導かれることを助け、日々の誘惑に直面しても強くあれるようにしてくれます。

    キリストにとどまりたいのなら、私たちは主とその言葉と共に過ごす時間を取る必要があります。常日頃から御言葉の水を心に深く吸収することによって、私たちは次第に新たにされ、変えられて、もっとイエスに似た者とされていくのです。私たちが読み、黙想した御言葉を実践することで、神の御心に沿った人生を生きるための恵みが与えられます。なぜなら、神の言葉は私たちの足の灯火であり、私たちの道の光だからです(詩篇119:105)。

    とどまることを学ぶ

    ヨハネ15章10節まで来ると、イエスにとどまるとはどういうことかがわかってきます。「わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです」(新改訳2017)。 イエスにとどまるとは、イエスの戒めを守ることを意味し、その戒めを守るとは、心と精神と思いを尽くして神を愛し、自分自身のように隣人を愛することです(マタイ22:37–39)。神への愛を示すには、神への信頼と祈りと献身を通してそうするのが一つの方法です。私たちは関係を持つことで、とどまります。愛をもって追い求めます。愛をもって祈ります。愛をもって従います。

    そして、ここに良い知らせがあります。私たちがイエスを愛するのは、イエスがまず私たちを愛してくださったからなのです(1ヨハネ4:19)。 私たちが主を選んだのではありません。主に従順になって信仰の道を歩めるよう、主が私たちを選んでくださったのです(ヨハネ15:16)。キリストから離れては、私たちは何一つできません(ヨハネ15:5)。これはまた、キリストを追い求めて知るためには(そしてイエスが強調されたように隣人を愛するためには)、自分の力を振り絞らねばならないと思いこんで疲れ果ててしまった人にとっても、良い知らせです。恵みも力も、主が与えてくださるのです。…

    イエスは、友のために命を捨てることほど大きな愛はないと、私たちに思い起こさせておられます。そして、続けてこう言われたのです。「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ15:13–14)。

    イエスは、愛せよというイエスの戒めに従うなら、私たちはイエスの友なのだと言われます(この言葉をちょっと噛み締めてみてください)。そして、その戒めは、「とどまる」ことによって全うされるのだと。… そして、イエスの友となれるというこの申し出、すなわち、私たちの信仰の創始者にして完成者、アルファでありオメガである方、美しいお方、私たちの罪と背きとを身に負われたお方、そんなお方の友となれるというこの申し出は、クリスチャンにとって非常に魅力的なものです。

    イエスにとどまりなさい。そうすれば、イエスもあなたの内にとどまってくださいます。あなたの内に良いわざを始められた方は、それを完成してくださいます(ピリピ1:6)。あなたを召された方は、真実です。必ずそれを成し遂げてくださるのです(1テサロニケ5:24)。—トリリア・ニューベル [3]

    「あなたがわたしにとどまり、わたしがあなたの内にとどまる」というこの原則は、神との関係やキリストとの歩みの土台であり、心と精神と思いを尽くして神を愛するという原則と関係しています。誰かを愛していれば、その人と時間を過ごしたいと思うものです。弟子は、イエスが歩まれたように歩むよう召されています。ヨハネの第一の手紙にはこうあります。「神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません」(1ヨハネ2:6 新改訳2017)。その方法とは、イエスが示された模範に従おうと努め、イエスの言葉と行動にある原則を学び、それを人生に適用することです。

    イエスは人間の姿となり、人間として生き、しかも罪なく完全にそうされたことで、私たちに模範を示してくださいました。ピリピ人への手紙には、「キリストは、神のかたちであられたが、… 僕のかたちをとり、人間の姿になられた」とあります(ピリピ2:6–7)。地上でのイエスの生涯は、神が人間として生きる姿そのものであり、まさに模範でした。「神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ」てくださったのです(コロサイ1:19 新改訳2017)。私たちの人生の手本として、イエスの生涯と教え以上に優れた模範があるでしょうか。これ以上のロールモデル、これ以上に優れた指針があるでしょうか。

    噛みしめるべき言葉

    「キリストにとどまる」という表現は、単に表面的な知り合い関係ではなく、親密で近しい関係を表しています。ヨハネ15章4–7節で、イエスはぶどうの木につながれた枝のたとえを用いて、弟子たちに、ご自身から命を得ることが不可欠だと語られました。救いによってもたらされる、この極めて重要なキリストとの結合がなければ、命も実りもないのです。—Got Questions [4]

    イエスの健全な弟子であるためには、神の言葉に養われることを最優先しなければなりません。イエスはそれを「とどまる」と表現されました。… 聖書の言葉を日々黙想することほど、あなたの人生を変え、イエスに似た者へと造り変えることのできる習慣はありません。神の真理を深く思い、キリストの模範に真剣に従うとき、私たちは「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」のです。—リック・ウォレン

    [キリスト]にとどまるとは、イエスの言葉を受け入れ、信じ、信頼することです。それは、御父とご自分の民に対するイエスの愛、そして、御父と私たちに対してイエスが抱いておられる喜びを受け入れることを意味します。—ジョン・パイパー

    聖書は何と言っているか

    「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(1ヨハネ4:16 新共同訳)。

    「だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません」(1ヨハネ2:5–6 新改訳2017)。

    「あなたがたは … 上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである」(コロサイ3:1–3)。

    とどまり続けるための祈り

    イエスさま、あなたがぶどうの木で、私がその枝であることを感謝します。日々あなたにとどまり、言葉と行いのすべてにおいて実を結べるよう助けてください。私は、あなたなしには何もできないことを知っています。そして、あなたの内に安らぐなら、父なる神に喜ばれる実を結ぶことができることも知っています。私はあなたとつながり、あなたの内に安らぎ、あなたにとどまり続けたいのです。アーメン。[5]


    1 K. A. Paul, Left for Dead (Encourager Media, 1997).

    2 Vera Christian, “How to Abide in Christ,” https://www.verachristian.com/connecting-the-dots/how-to-abide.

    3 Trillia Newbell, “Learning to Abide in Christ,” Desiring God, June 10, 2014, https://www.desiringgod.org/articles/learning-to-abide-in-christ

    4 “What Does It Mean to Abide in Christ?” GotQuestions.org, https://www.gotquestions.org/abide-in-Christ.html.

    5 “Prayers on Abiding in Jesus,” Knowing Jesus, https://prayer.knowing-jesus.com/Prayers-on-Abiding-in-Christ#.

     

  • 2月 1 第1コリント:第13章(1–13節)
  • 12月 30 第1コリント:第12章(12–30節)
  • 11月 11 第1コリント:第12章(1–11節)
  • 11月 4 弟子の生き方(パート2): 私たちの全存在をもって神を愛する
  • 10月 28 第1コリント:第11章(17–34節)
  • 9月 2 第1コリント:第11章(2–16節)
  • 8月 26 弟子の生き方: 前書き
  • 8月 19 第1コリント:第10章(16–33節)
  • 7月 29 第1コリント:第10章(1–15節)
   

信条

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  • ファミリー・インターナショナル(TFI)は、世界中の人々と神の愛のメッセージを分かち合うことをゴールとする国際的なオンライン・クリスチャン・コミュニティーです。私たちは、誰でもイエス・キリストを通して神との個人的な関係を持つことができると信じます。その関係があれば、幸せや心の平安が得られるだけではなく、他の人を助け、神の愛の良き知らせを伝えようという意欲がわいてきます。

私たちのミッション

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  • ファミリー・インターナショナルが何よりも目標としているのは、神の御言葉のうちに見出される、愛と希望、救いという命を与えるメッセージを分かち合うことによって、より良い人生を皆さんに送っていただくことです。ペースの速い、複雑化した現代社会にあっても、神の愛を日常生活の中で実践することこそ、社会の問題の多くを解決する鍵であると私たちは信じます。聖書の教えにある希望や助言を分かち合うことで、ひとりずつ心が変わって行くことによって、だんだん世界が変わって行き、より良い世界が築かれて行くと信じているのです。

理念

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  • 霊的な解決策

    私たちは、障害を乗り越え、対立を解決し、可能性を最大限に伸ばし、心をいやすという日々のチャレンジに対して、霊的な原則を適用します。また、霊的な富や知識を他の人たちと分かち合うように努めます。

TFI について

TFI オンラインは、ファミリー・インターナショナル(TFI)のメンバーのためのコミュニティサイトです。TFI は、世界各地で神の愛のメッセージを伝えることに献身する国際的なクリスチャン・フェローシップです。

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第1・第2テサロニケ
パウロがテサロニケの信徒に宛てた書簡の研究と、その教えがいかに現在に当てはめられるか
そのすべての核心にあるもの
キリスト教信仰・教義の基本を扱ったシリーズ