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  • キリスト教が及ぼした影響: 労働と科学的発見

    The Effects of Christianity: Work and Scientific Discoveries
    January 22, 2026

    ピーター・アムステルダム

    オーディオ所要時間: 10:30
    オーディオ・ダウンロード(英語) (9.6MB)

    キリスト教が世界に及ぼした影響に関する今回の記事では、キリスト教や個々のクリスチャンが世界を変えるのを大いに助けた2つの分野に触れていきます。それらの分野とは、肉体労働に対する見方を変えることと、様々な科学的発見をすることです。[1]

    肉体労働の尊さ

    古代のローマ人、そしてそれ以前にギリシャ人は、共に肉体労働をかなり見下していました。彼らにすれば、肉体労働は下層階級民や奴隷だけがするものだったのです。キリスト教徒はユダヤ教徒と同様、労働に対してはるかに好意的な見方をしていました。1世紀に生きたユダヤ人男性として、イエスは大工(熟練労働者)の仕事をされたし、使徒パウロはテント職人として働いていました。テサロニケ人への第2の手紙で、パウロは「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」(2テサロニケ3:10)と書いています。働くことに関するイエスとパウロの手本から、キリスト教徒は労働や仕事を高潔で神に喜ばれることと見なしました。

    中世の修道院では、労働は高潔なものであり、怠惰は「7つの大罪」の1つであると見なされました。6世紀のベネディクト会修道士たちは、労働を「彼らの鍛錬において霊的に不可欠な部分[と捉えており、それ]が労働の尊厳と労働者の自尊心を大いに高めました。」[2] また、仕事をすることは、怠惰の罪に対処する手段と考えられたのです。4世紀にカイサリアのバシレイオスは、「怠惰は大きな悪であり、労働は悪しき思いから私たちを守る」と語っています。

    宗教改革の間に(1517–1648)、仕事や肉体労働を重んじるという考え方がさらに支持されるようになります。マルチン・ルターは、労働は神からの使命、また神に仕える方法であると見なしたので、それが、仕事に貴賎はなく、優劣もないという認識につながりました。キリスト教徒のするどんな類の仕事も、神の栄光のため、人類に尽くすためにしたことであり、尊いことであると考えられました(1コリント10:31)。それは高潔なことであり、クリスチャンの義務、使命、召命だと見なされたのです。

    科学

    古代ギリシャ・ローマの多神教文化では、嫉妬に駆られて非理性的な行動をする神々が信じられており、この世界とその機能の仕方を科学的に調べるという概念は育ちませんでした。しかし、キリスト教はユダヤ教と同様に、神は理性ある存在であると教えています。人間は「神のかたち」に作られたので、私たちもまた理性ある存在であり、自分たちの住む世界を調査研究するために理性的なプロセスを用いることができます。

    知識は演繹的思考によってのみ得られるというアリストテレス(紀元前384–322)が教えた概念は、1500年の間、もっとも一般的に受け入れられていたものでした。12世紀になると、フランシスコ会出身の司教でありオックスフォード大学初代総長であるロバート・グロステスト(1168–1253)のようなキリスト教哲学者たちが、科学知識を得る手段として帰納的・実験的手法を用いることを提唱しました。[3]

    その300年後、敬虔なイングランド国教徒であるフランシス・ベーコン(1561–1626)が、自身の経験とその結果を記録するという手段による帰納的思考を推進しました。科学には注意深く系統的な観察と、観察したことをしっかりと懐疑的に捉えることが必要であるという概念を奨励したのです。ベーコンは科学的方法の祖として知られています。

    ニコラウス・コペルニクス(1473–1543)は、カトリックの司祭である叔父に育てられました。博士号を取り、医師としての訓練を受けています。神学やカノン法(教会法)も学び、一時的に修道会に属したこともありますが、司祭にはなりませんでした。コペルニクスは、太陽が太陽系の中心にあり、地球は太陽の周りを回転しているとする太陽静止説を紹介しました。その時まで、地球は私たちの太陽系の中心にあると考えられていたのです。彼は、この説を公表することをためらいました。なぜなら、当時のカトリック教会は、新たな科学的発見を異端と見なして、その発表者を異端者として迫害することがよくあったからです。しかし、ルター派に属する2人の友人に説得されて、この世を去る少し前に公表しました。

    ヨハネス・ケプラー(1571–1630)は、3年間、ルター派の牧師となるための勉強をしています。オーストリアで数学を教えるよう任ぜられた際には、天文学[当時は数学の一分野]も担当しました。ケプラーの数学的計算により、惑星は太陽を中心として楕円軌道を回っていることと、均一の速度で動いているわけではないことが証明されました。臨終の直前、ルター派の牧師から、彼の信仰はどこに置かれているのかと尋ねられて、「ただ我々の贖い主イエス・キリストの御業にのみ」と答えています。[4]

    アイザック・ニュートン(1642–1727)は、惑星の運動に関するケプラーの法則を足がかりに、万有引力の法則を発見しました。ニュートンの著作『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)は、科学史上最大の貢献のひとつと見なされています。ニュートンはクリスチャンでなかったと主張する歴史家もいますが、彼が書いた次の言葉には、神への信仰が明確に表現されています。「神は目に見えない形でこの世界を治め、私たちが他の神々ではなくご自身を拝するよう命じておられます。… 神は我らの贖い主イエス・キリストを生き返らせなさいました。イエスは、私たちのための場所を受けてそれを備えるために、天に入られたのです。… そして、やがて再び来て私たちを支配されます。… すべての死者をよみがえらせて裁かれる時まで。」[5]

    アレッサンドロ・ボルタ(1745–1827)は、物理学者また化学者であり、電気科学の先駆者でした。電池の発明者でもあり、生涯、敬虔なカトリック教徒でした。彼の名前から、ボルト(電圧などの単位)やボルテージ(電圧)という言葉が生まれました。

    ロバート・ボイル(1627–1691)は「科学の父」と呼ばれ、近代的かつ実験的な科学手法の先駆者のひとりとして知られています。科学に力を入れた他にも、ボイルは神の存在やキリストの復活を擁護する主張を書いています。ボイルは、人々が自国語で聖書を読めるようにすべきだと信じており、聖書の全体または一部を各種言語に翻訳するための資金提供を行いました。

    ジョージ・ワシントン・カーヴァー(1864頃–1943)は、アメリカで奴隷として生まれました。生後一週間の時、妹や母親と共に誘拐され、他の州に連れていかれて、奴隷として転売されています。彼らの元々の所有者であったモーゼス・カーヴァーは、探偵を雇って彼らを探しましたが、見つかったのはジョージだけでした。奴隷制度が廃止された後、モーゼスと妻は、ジョージを彼らの子どもとして育てました。ジョージは夫妻から、教育を受け続けるよう励まされましたが、ある大学に合格した時には、到着した後に人種を理由に入学を拒否されてしまったのです。その後、初めての黒人学生としてアイオワ州立農業大学に通うことができ、科学で修士号を取りました。

    その後、アフリカ系アメリカ人のためのタスキーギ学院に、教師また研究者として入りました。いずれ、ピーナッツとサツマイモについて、アメリカの最高権威となったカーヴァーは、ピーナッツを原料として、インスタント・コーヒーや石鹸、インクに至るまで、300を超える製品を開発しました。サツマイモからは、サツマイモ粉や靴クリーム、キャンディーなど、100を超える製品を開発しています。綿花だけではなく、ピーナッツやサツマイモ、ペカンの栽培も行うよう、南部の農民たちを説得したので、南部の農業は多様化しました。彼はその研究によって数多くの賞を受け、その名前は様々な建物や学校、公園に付けられています。カーヴァーがクリスチャンになったのは、10歳の時です。ヘンリー・モリスの著書によれば、カーヴァーは「誠実で謙虚なクリスチャン」であり、「聖書の神への信仰を告白し、自身の成功と能力を神のおかげであるとする」のをためらうことがなかったそうです。[6]

    歴史上、大いに世界に影響を与えるようなことを成し遂げた著名なクリスチャンは数多くいますが、他にも、私たちは聞いたことがなくても、世界にいい影響を与えたクリスチャンが、これまでに何十億人もいます。また、自分の子にイエスのことを教えたり、自分自身が信仰を実践するという手本によって、その子がクリスチャンになる決断を助けたりしてきた、たくさんの母親や父親がいます。これまでに、教師、介護士、宣教師、敬虔な雇用主、その他あらゆる階層やあらゆる職業のクリスチャンが、自分の信仰を他の人にも伝え、相手の人生が変わるのを助けてきました。

    私たちの誰もが、いつの日にも、他の人に愛を示し、優しく公平で、思いやりにあふれ、寛容で前向きで、親切であることにより、自分のまわりにいい影響を及ぼすことができます。分け隔てなく人に接して、敬意を示し、寛大で謙虚で、柔和で忍耐強く、親切でいようではありませんか。信仰を実践し、イエスを見習い、神と他の人たちを愛するよう最善を尽くすことによって、私たちもまた、自分のまわりの世界をより良い場所に変えられるのです。

    初版は2019年4月 2026年1月に改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー


    1 Points from this article were taken from Alvin J. Schmidt, How Christianity Changed the World (Zondervan, 2004).

    2 Lynn D. White, “The Significance of Medieval Christianity,” in The Vitality of the Christian Tradition, ed. George F. Thomas (Harper and Brothers, 1945), 91.

    3 Roger Bacon, Opus majus, trans. Robert Belle Burke (Russell and Russell, 1962), 584.

    4 Max Caspar, Johannes Kepler (W. Kohlhammer Verlag, 1948), 73

    5 Isaac Newton, “God and Natural Philosophy,” in Newton’s Philosophy of Nature: Selections from His Writings, ed. H. S. Thayer (Hafner Publishing, 1953), 66–67.

    6 Henry Morris, Men of Science—Men of God (Creation-Life Publishers, 1982), 104–5.

  • 2月 8 人生の季節を受け入れる
  • 2月 4 どんな状況にあっても感謝
  • 1月 31 良き知らせを広める
  • 1月 27 わたしを見ておられる神
  • 1月 23 ゴールラインを越えるまで
  • 1月 19 キリストは失われた魂を探し求める
  • 1月 15 男と女として創造された人間
  • 1月 11 失望? それとも神の采配?
  • 1月 7 慈しみの実践
   

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信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第13章(1–13節)

    [1 Corinthians: Chapter 13 (verses 1–13)]

    September 2, 2025

    第1コリント12章で、パウロは霊の賜物や奉仕の多様性について語り、それらの賜物に力を吹き込むのは神であること、また、聖霊がそれらを各信者に分け与えるのは「全体の益になるため」であることを強調しました。(1コリント12:4–7, 11)。多くの解説者は、第12章の最後の文は本来、次に来る第13章の最初の節であるべきだったと考えています。そこで、今回の学びは第1コリント12章31節から始めます。

    だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう (1コリント12:31)。

    パウロは第12章の結びで、コリントの人々に対して、さらに大いなる賜物を受けるよう熱心に努めなさいと勧めています。そして、キリストの体の一部として生きるためのさらにすぐれた道を示すと宣言しました。パウロは彼の書簡全体にわたって、クリスチャンの間における愛の重要性について記しており、それはしばしば「愛の至高性」や「愛の卓越性」と呼ばれ、第1コリント13章の主題となっています。

    たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである (1コリント13:1)。

    パウロは前章で異言の賜物に触れましたが、コリントの一部の信徒たちがそれを過度に重視していたため、ここでも再び異言に焦点を当てています。パウロはここで、この賜物を「人々の異言、天使たちの異言」(聖書協会共同訳)と呼んでいます。ただし、「天使たちの異言」を話すことが可能だとパウロが信じていた証拠はないし、聖書の他のどの箇所にも言及されていません。

    しかし、たとえそのような異言を語ることができたとしても、愛がなければ、その賜物は何の意味もありません。パウロはこの賜物を擬人化して、もし愛なしにそのような異言を語るなら、それは「やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(シンバル)」にすぎないと言いました。愛がなければ、異言の賜物は単なる騒音にすぎない、というパウロの主張は、この賜物を誇りに思っていたコリントの読者たちに衝撃を与えたことでしょう。

    たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい (1コリント13:2)。

    次に、パウロは預言について語っていますが、それは彼が重んじていた賜物です(1コリント14:1)。ここではまず、あらゆる奥義(神秘)とあらゆる知識とに通じるほどの力強い預言の賜物があるという仮定のシナリオを提示しています。しかし、聖書に登場する預言者で、そのような全知性を備えた者は1人もいませんでした。それでもパウロが言いたいのは、たとえあらゆる神の奥義とあらゆる知識に通じていたとしても、愛がなければ自分は無に等しいということです。

    その後パウロは、信仰についても同様に、「山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」と言いました。山を動かすほどの信仰(マルコ11:23)を持っていても、愛がなければ、何の益にもなりません。

    たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である (1コリント13:3)。

    続いてパウロは、犠牲的に与えることについて語っています。NIV訳(KJV訳も同様)では、それをどのように与えるかについて、もう少し明確に、「たとえ、私が持っている者のすべてを貧しい人々に分け与えても」と訳されています。パウロは、自分の持ち物のすべてを困窮者に与える、という仮定のシナリオを提示しました。そして、もしそれが愛からなされたのでなければ、そのような犠牲的な行為も、結局は自分にとっていっさい無益であると結論づけています。

    次に、自分の体を焼かれるために渡しても、と仮定しています。これは、死に至るほどの宗教的迫害を指していたのかもしれないし、あるいは、死に至らない範囲での試練や苦難について話していたのかもしれません。パウロはこれらのシナリオにおいて、全財産を与える、あるいは火刑に処されるといった、驚くほど犠牲的な行為について述べています。それでも、キリスト教的な愛がなければ、そうした行為は何の価値もない、と結論づけているのです。

    聖書解説者レオン・モリスは、それをこのように説明しています。

    パウロは、人が … 愛なしにこのようなものすごい犠牲を払うことも … 可能だと述べています。その人は崇高な理想への献身や、誇りなどに突き動かされているのかもしれません。もしそうなら、その人は何も得ることがありません。… 愛こそが唯一必要なものです。その欠如を補えるものは何もありません。[1]

    イエスは、「自分を愛するように隣人を愛する」ことは、心と精神と思いを尽くして主を愛することに次いで重要なことだと教えられました(マタイ22:37–40)。他者を愛せよという戒めは、聖書において2番目に重要な戒めであり、それゆえパウロは、他者への愛がなければ、霊的な賜物には何の価値もないと説いたのです。

    霊の賜物に関連して、愛の至高性を強調した後、パウロは次の4つの節(1コリント13:4–7)で、この愛の性質と徳に焦点を移し、それがどのような行動を生み出すか、すなわち愛は何をし、何をしないのかを描写しています。

    愛は寛容であり[忍耐強い(聖書協会共同訳)]、愛は情深い[親切です(新改訳2017)]。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない (1コリント13:4)。

    パウロは、キリスト教的な愛のさまざまな側面に言及していきますが、まず忍耐(寛容)と親切(情け深さ、慈愛)から始めました。これらは、聖霊がクリスチャンの人生に宿ることによって結ばれる実です(ガラテヤ5:22–23)。

    「愛は忍耐強い(寛容である)。」 忍耐の徳には、我慢強さや自制の意味合いが含まれています。神は忍耐強く、「怒ることおそく、いつくしみに富み」(民数記14:18)、その慈愛によって、処罰を猶予する道を開いてくださいます(2ペテロ3:9; ローマ2:4)。このように、忍耐は神の性質の一部であり、クリスチャンは互いへの愛ゆえに、他者に対して忍耐強く接するなのべきです。神が私たちにどれほど忍耐強くあられるかを思い起こすにつれ、愛は、他者へ忍耐を示す意欲を私たちに与えます。愛は、怒ったり他者の益を顧みない行動に出たりせず、他者や状況に対して忍耐をもって応じます(1テサロニケ5:14)。

    「愛は親切である(情け深い)。」 パウロの書簡には、親切(慈愛、情け深い)という言葉が何度も使われており、それは多くの場合、愛は親切な心をもって他者に仕える、という意味で用いられています(コロサイ3:12; ガラテヤ5:13–14)。また、時には、良い結果をもたらすために充分に配慮した上で与えられる叱責という形を取ることもあり、パウロはコリントの信徒たちへの対応において、親切でありながらも断固とした態度でその模範を示しました。親切(慈愛)は、神がキリストにあって私たちに示された愛の現れです(エペソ2:7)。この愛の現れが赦しや憐れみと結びついているのを、エペソ(エフェソ)4章32節に見ることができます。「互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(聖書協会共同訳)。

    「愛はねたまない。」 これは、パウロが挙げた、愛と相容れない8つの行為のうち、最初のものです。ねたみや嫉妬は、他の人が素晴らしい祝福を得たと思うところから始まり、それがやがて、自分以外の人が持っていることへの憤りへと変わったものです。ねたみは、他者のためにすべてを捨てられたキリストの愛を反映するものではありません。愛は、他者の成功や祝福について、ねたんだり、恨んだりしないのです。

    「愛は高ぶらない(自慢しない)。」 この節で「高ぶる」と訳されている言葉は、新約聖書の中ではこの箇所にのみ使われています。その意味は、「根拠のない自慢」だと言えます。つまり、他人に良く見られようとして、自らの功績や所有物、能力を過度に誇ることを指します。愛は、高ぶりやそのような自慢とは相容れません。なぜなら、愛は自分を強く主張したり、自己の利益を追求したりすることなく、自らを与えようとすることだからです。

    「愛は高慢にならない(誇らない)。」 パウロがここで語っている「高慢」とは、過剰な自信という意味です。旧約聖書も新約聖書も、高慢は良くなく、罪深いものであると断じています。他者を思いやるなら、傲慢さや自惚れでいっぱいになることはありません。トマス・アクィナスが書いたように、「愛するとは、相手の善を願うこと」であり、それは、自らの幸福よりも、他者とその幸福を優先することを意味します。

    不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない (1コリント13:5)。

    何が「不作法(礼を失する)」とみなされるかは、国によって異なりますが、その根底にあるのは、他の人々が守っている慣習やマナーを無視することです。そのような慣習を無視することは、人々への敬意を欠くことですが、反対に、敬意を払うことによって相手への愛が示されます。しかし、愛するからと言って、クリスチャンが大衆に同調しなければならないということではありません。信者が自らの信仰に反する文化や慣習に直面したとき、それらに従わないようにすることは、愛に欠けたことではありません。

    「愛は自分勝手をしない(自分の利益を求めない)。」 NIV訳では[ほとんどの日本語訳でも]、「自分の利益を求めない」と訳されています。愛は、他者の必要を顧みずに、自分の欲求や必要、願望を最優先するようなことはしません。愛ある人は、自分の益よりも他者の益を優先し、相手にとって良いことを求めます。言うまでもなく、それは自分の必要を無視するということではありません。福音書には、イエスが押し寄せる人々から離れたり、祈りの時を持ったりするために、時おり群衆のいないところに退かれたことが記されています(ルカ5:16; 22:41)。

    「愛はいらだたない。」 他の翻訳聖書では、「いらだつ」という言葉を「怒りっぽい」や「挑発されやすい」と訳しています。他者を愛する人は通常、他人の行動に対して腹を立てたり、いらだったりせず、むしろ怒るのに遅く、忍耐強いものです。確かに、使徒行伝には、パウロがアテネの偶像を見て悲しみ、「心に憤りを感じた」とありますが(使徒17:16、それは悪に対する反応であって、自分の権利への利己的なこだわりからそう感じたのではありません。

    「愛は恨みをいだかない。」 NIV訳では、「他人のした悪を記憶(記録)に留めない」と表現されています。他者を愛する人は、人の過ちを細かく記録したりしません。ある人が書いているように、「愛は、行われた悪や害を容認することはないが … 将来報復しようとしてすべての害を記録に残したりせず、過ちを赦すという姿勢を示します。」[2] 愛は、赦しの手を差し伸べるのです。イエスが十字架上でこう祈られたように。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)。使徒行伝では、ステパノが石打ちに遭いながら、こう祈っています。「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」(使徒7:60)。

    不義を喜ばないで真理を喜ぶ (1コリント13:6)。

    パウロは、愛について述べる中で、「不義」や「悪」(「不正」「害悪」とも訳されます)を、「真理」と対比しました。ここで彼が語っているのは、「真理に従って生きる」という意味での真理です。真理はキリスト教の核心であり、それは、イエスが「わたしは … 真理 … である」(ヨハネ14:6)と述べ、パウロが「真理はイエスにある」(エペソ4:21 新改訳2017)と書いているとおりです。愛は、福音の真理、そして神とその御言葉にある真理を喜びます。

    そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える (1コリント13:7)。

    この節でパウロは、愛が何をするかについて4つの肯定的な宣言をしています。パウロは、愛は「すべてを忍ぶ(我慢する)」と書くことで、敵(ルカ6:27)を含む他者によって引き起こされた困難に直面するときでも、愛は多くの不愉快な行為を辛抱し、愛することを止めないということを表現しています。それはまた、愛には他者の益のために苦難を忍ぶ力があることも指しています。それは、たとえ困難なときにあっても、誰かを支えることを選ぶということです。愛のこの側面は、試練にあっても辛抱強く、揺るぎない姿勢を保つことに関っています。先に見たように、愛は自分の利益を求めることなく(1コリント13:5)、むしろ隣人の益を求めます(1コリント10:24)。そうしたいからこそ、愛は他者のためにすべてを忍ぶのです。

    「すべてを信じる。」 愛のこの側面は、NIV訳では「常に信頼する」と訳され、それは、不信を抱かないこと、あるいはアウグスティヌスの言葉で言えば、「最善を信じる」ことを指します。つまり、疑わしいときは好意的に解釈すること、また、相手の中にある最善を信じ、それを見ようとする姿勢をもって、信頼の雰囲気を作り出すことを意味するのです。ある人がこう書いています。「それは、愛がだまされやすいという意味ではありません。(世の常と違って)最悪を想定しないということです。愛は信頼を持ち続け、… 疑わしいときは常に好意的に解釈しようとするのです。」[3]

    「すべてを望む。」 希望は愛の重要な部分であり、どんな困難に直面していても、神がすべてのことを共に働かせて、ご自分を愛する者たちの益となるようにしてくださるという、私たちの信仰と確信の上に築かれています(ローマ8:28)。私たちは皆、困難に直面し、時には失敗もするし、そのために落胆や挫折感を覚えることもあります。しかし、クリスチャンが持つ希望とは、キリストがご自身の栄光のために私たちを守り続けてくださることを、神の言葉に基づいて確かに知っていることです(1ペテロ5:10; 2テモテ4:18)。クリスチャンが倒れるとき、その人を起こし、立たせてくださるのはイエスです(ローマ14:4)。イエスが、私たちの内に良いわざを始め、それを完成させると約束しておられるのです(ピリピ1:6)。

    「すべてを耐える。」 愛は忍耐強く、決して誰かのことをあきらめたりしません。自分の人生に困難や不便、試練をもたらさない人を愛するのは簡単ですが、真の愛は、良い時でも大変な時でも消えません。ここでパウロが特に焦点を当てているのは、たゆむことなく他者を愛する必要性です。クリスチャンである私たちは、自らの愛の基準として、キリストの愛にある深さと忍耐強さに目を向けるべきなのです(1ヨハネ3:16 )。

    愛はいつまでも絶えることがない (1コリント13:8a)。

    パウロは、この章の第3かつ最後のセクションであるこの部分で、少し前の部分で言及した霊の賜物の一時性(一時的なものだという性質)と、キリスト教的な愛の永続性や至高性との対比を行っています。ここでは先ず、「愛はいつまでも絶えることがない」(「決して滅びない」と表現する翻訳聖書もあります)と断言しました。キリスト教的な愛に身を捧げる者は神の愛にあずかるのであり、その愛は永遠に続くということを述べているのです。

    しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない (1コリント13:8b–9)。

    パウロはさらに、預言、異言、知識という3つの霊の賜物(1コリント12:8–10)は一時的なものである、と説明しています。これらの賜物は、愛のように永遠に続くことはありません。また、信仰者の「知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない」ので、完全な知識や理解をもたらすものではありません。預言、異言、知識は聖霊からの賜物であり、教会にとって価値あるものですが、その性質は一時的かつ部分的なのです。

    全きものが来る時には、部分的なものはすたれる (1コリント13:10)。

    預言、異言、知識の賜物を通して信仰者が得る理解は不完全であり、「全き(完全な)ものが来る時」にはすべてなくなります。キリストが再臨される時、預言も異言も限られた知識も、神の臨在の光の中で、もはや必要なくなるのです。これらの賜物はすべて、やがて来る完全なものを垣間見せるにすぎません。

    わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった (1コリント13:11)。

    パウロは、子どもが大人へと成長していく過程をたとえとして用いました。子どもであったころの彼は、子どもらしく語り、感じ、考えていました。しかし、年を重ねて成熟すると、子どもの頃の在り方を捨て去りました。やがて来る「全きもの」と比べると、預言と異言と知識の賜物は、子どもじみたものと言えます。

    わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう (1コリント13:12)。

    パウロの時代、コリントは鏡の生産地として知られていたので、それが理由でこのたとえを用いたのでしょう。古代の鏡は金属(青銅など)を磨いて作られていたため、そこに映る姿は「おぼろげ(ぼんやり)」としたものでした。鏡にぼんやり映るものを見るというのは、見えるものに限りがあるということです。神に関する私たちの知識は、いくらか覆い隠されています。人間の限界と罪のゆえに、栄光の内にある神の姿を、今は見ることができません。しかし来るべき世では、信者は罪とその影響から贖われます。

    顔と顔を合わせてキリストにお会いする時、私たちは神と直接出会うことになります。私たちは、神に完全に知られているように、天国で、神を親しく個人的に知るようになるのです。ある著者は、それを次のように述べています。

    パウロは、鏡に映る間接的で不完全な像(今この世で経験すること)と、復活してから、神とその真理について直接的で完全かつはっきりと(顔と顔とを合わせて)知るようになるという経験とを、対比しているのです。[4]

    このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である (1コリント13:13)。

    パウロがこの箇所の結びとして記した一文は、コリントの人々になじみ深かったものでしょう。彼は宣教活動の大半において、信仰と希望と愛の重要性に焦点を当てていたからです。「この三つ」と言うことで、パウロは信仰と希望と愛を、最も卓越し永続するキリスト教的現実として強調し、事実上、他のあらゆるものから区別して捉えています。そして、この三つは、新約聖書の他の箇所でもしばしば互いに結び付けて語られています。

    あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです(1テサロニケ1:3 新共同訳)。

    わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました(コロサイ1:3–5 新共同訳)。

    パウロは、信仰を、信者がキリストと結び合わされて救いを受ける道として、また、神への信頼と献身を表すものとして語っています。そして、希望を、信者が天において受ける救いという観点から説明しています。聖書的な希望の定義は、「神が将来私たちに約束しておられるものを必ず受け取るという、確かな確信に満ちた期待」です。[5] 信仰と希望は密接に関連しています。なぜなら、それらは神に対する確信と信頼を示すものであり、神の御国における私たちの将来に関する神の約束の成就について、確信に満ちた期待を表すものだからです。

    パウロは、キリスト教的な愛を、信仰と希望と共に3つ1組で語りましたが、その上で、「このうちで最も大いなるもの」と呼ぶことによって、愛をさらに高いレベルにあるものとしました。愛は永遠に続きます。しかし、信仰はやがて私たちがイエスと顔と顔を合わせて見るとき、「見えるもの」へと変わり(2コリント5:7)、希望は望んでいたことが実現された時に希望でなくなります(ローマ8:24–25)。今、信仰と希望と愛は存続しており、あらゆる霊の賜物にまさるものですが、このうちで最も大いなるものは、愛なのです。


    1 Leon Morris, 1 Corinthians: An Introduction and Commentary, vol. 7, Tyndale New Testament Commentaries (InterVarsity Press, 1985), 160.

    2 Alan F. Johnson, 1 Corinthians, The IVP New Testament Commentary Series (IVP Academic, 2004), 251.

    3 Morris, 1 Corinthians, 161.

    4 Johnson, 1 Corinthians, 255.

    5 “What is the definition of hope?” GotQuestions.org, https://www.gotquestions.org/definition-of-hope.html.

     

  • 12月 30 第1コリント:第12章(12–30節)
  • 11月 11 第1コリント:第12章(1–11節)
  • 11月 4 弟子の生き方(パート2): 私たちの全存在をもって神を愛する
  • 10月 28 第1コリント:第11章(17–34節)
  • 9月 2 第1コリント:第11章(2–16節)
  • 8月 26 弟子の生き方: 前書き
  • 8月 19 第1コリント:第10章(16–33節)
  • 7月 29 第1コリント:第10章(1–15節)
  • 7月 12 第1コリント:第9章(18–27節)
   

信条

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