• 神はこの世のすべての人を愛してくださった

  • 地と、その中に住む者とは主のもの

  • 賛美は礼拝の中心にあるもの

  • 天地が滅びても、私の言葉は滅びない

  • 私たちが神を愛するのは、神がまず愛してくださったから

アンカー

ユーザーフレンドリーなデボーション記事

  • 私たちの良き羊飼いイエス

    Jesus, Our Good Shepherd
    February 25, 2025

    引用文集

    オーディオ所要時間: 10:16
    オーディオ・ダウンロード(英語) (9.4MB)

    マタイによる福音書18章ルカによる福音書15章の両方に、九十九匹の羊の群れを残して、迷い出た一匹を探しに行く羊飼いのたとえ話が記されています。…「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。」(マタイ18:12–14)

    イエスの時代の人々は、羊飼いと羊の関係を理解していましたが、羊飼いが迷い出た一匹の羊を探しに行く意義は、私たちには理解しにくいことがあります。迷い出た一匹の羊を探すために、群れを置いて行くというのは、奇妙に思えるのです。…

    神は、九十九匹を見捨てたりされません。彼らはすでに神の王国で安全に過ごし、神の天使に伴われ、神の聖霊に導かれているのです。(ローマ8:14; ヘブル13:5) しかし、主の心は、まだ群れに入っていない者のために痛みます。… 九十九匹が神にとって大切な存在だということに変わりありませんが、その迷える羊がいなければ、群れは揃っていないのです。そして良い羊飼いは、いつも迷える羊の後を追っておられます。—GotQuestions.org [1]

    *

    時おり、母羊が自分の生んだ子羊を拒絶することがあります。その理由はさまざまです。そうなると、子羊を母羊のもとに戻しても、かわいそうなことに、母羊が子羊を蹴り飛ばすことさえあります。一度その子羊を拒絶したなら、母羊が気を変えることは決してありません。

    そういう子羊はかなりうなだれ、心が砕かれてしまいます。「バマーラム(見捨てられた子羊)」と呼ばれています。羊飼いが介入しない限り、これらの子羊は拒絶されて孤独のまま、死んでしまうのです。

    では、羊飼いが何をするか、分かりますか。

    羊飼いは、その拒絶された子羊を家に連れ帰り、自らの手で餌をあげ、火のそばで温め、毛布でくるみ、子羊が羊飼いの心臓の鼓動を聞けるほど近くに抱き寄せます。そして、子羊が十分に強くなったら、羊の群れがいる野原に戻すのです。

    しかしその羊は、母羊に拒絶されたとき、羊飼いがいかに自分を世話してくれたかを決して忘れません。羊飼いが群れを呼ぶとき、真っ先に駆け寄るのはどの羊だと思いますか。そう、母羊に捨てられていた羊です。その羊は、羊飼いの声を誰よりもよく知っているのです。

    母羊に捨てられた子羊は、他の羊よりも愛されているわけではありません。ただ、自分を愛してくれている人をよく知っており、その愛を身をもって体験しているだけです。

    私たちの多くは、拒絶されて傷ついたバマーラムですが、イエスは良い羊飼いです。イエスは私たちのすべての必要を満たし、心臓の鼓動が聞こえるほど近くに私たちを抱き寄せてくださいます。

    私は、良い羊飼いである方に引き取られ、愛されているバマーラムなのです。ハレルヤ!—不詳

    *

    「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており …。」 (ヨハネ10:27)

    イエスは、ご自身の者たちを知っておられます。それはどういうことでしょうか。

    ヨハネ10章3節は、ヨハネ10章27節とよく似ていて、こう書かれています。「羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。」

    ですから、イエスが「わたしは彼らを知っている」と言われましたが、それは少なくとも、彼らの名前を知っているという意味になります。つまり、それぞれを個別に、また親しく知っておられるということです。彼らは名前を知られていない存在ではなく、群れの中に埋もれているわけでもありません。

    ヨハネ10章14–15節からは、また別の洞察が得られます。「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」

    イエスが天の父を知っているさまと、ご自分の羊たちを知っているさまとには、真の類似点があります。イエスは父の中にご自身の姿を見、また弟子たちの中にもご自身の姿を見ておられるのです。

    イエスは弟子たちの中に、ある程度ですが、ご自身の性格の表れを見ておられます。羊たちが身に帯びているご自身の印を見ておられるのです。そして、それが、彼らをよりいっそう愛おしい存在とします。…

    使徒パウロは、そのことを次のように表現しています。「神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。『主は自分の者たちを知る。』」(2テモテ2:19)

    神の御子から個人的に、親しく、愛情をもって知られることが、どれほどとてつもない特権であるかは、いくら強調しても足りないほどです。それは、イエスのすべての羊に与えられる貴重な贈り物であり、その中には深い個人的な交わりと愛情、そして永遠の命の約束が入っているのです。—ジョン・パイパー [2]

    *

    主はわたしの牧者であって、 —それは関係です。

    わたしには乏しいことがない。 —それは供給です。

    主はわたしを緑の牧場に伏させ、 —それは休息です。

    いこいのみぎわに伴われる。 —それは元気の回復です。

    主はわたしの魂をいきかえらせ、 —それは霊の癒やしです。

    み名のために … —それは目的です。

    … わたしを正しい道に導かれる。 —それは導きです。

    たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、… —それは苦難です。

    … わざわいを恐れません。 —それは保護です。

    あなたがわたしと共におられるからです。 —それは誠実さです。

    あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。 —それは規律です。

    あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、… —それは希望です。

    わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。 —それは豊かさです。

    わたしの生きているかぎりは 必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。 —それは祝福です。

    わたしは … 主の宮に住むでしょう。 —それは安全です。

    … とこしえに … —それは永遠です。

    詩篇作者ダビデによる詩篇23篇に、不詳の作者がコメントを付加したもの

    *

    あなたはわたしの目に尊い存在である。髪の毛さえも、一本残らず数えられている。わたしはあなたの心と考えを知っている。わたしがすぐそばにいることを、あなたに知ってほしい。苦難のときには、いつでも助けとなろう。ひとりぼっちだなどと思ったり感じたりしないでほしい。わたしはいつもあなたと共におり、わたしの霊があなたを助けるのだから。

    心配や悩みは脇において、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたに抱いている愛は計り知れず、終わりも限りもなく、永遠だ。しっかりとわたしを見つめなさい。わたしはいつもあなたと共におり、あなたの右の手を握っていることを、心に留めて安心しなさい。

    わたしと一緒に時間を過ごせば、あなたは元気を取り戻し、力づけられ、インスピレーションを受ける。わたしは心の打ちひしがれた人に寄り添い、霊が砕かれた者を救い出す。わたしがあなたに対して抱いている愛を信じなさい。あなたの道にある障害物を見て、落ち込んだり、速度を緩めたり、立ち止まったりしてはいけない。わたしを見上げなさい。わたしは決してあなたを失望させないし、見捨てることなどない。

    あなたの心を、わたしの愛と喜びと平安で満たしなさい。あなたは永遠にわたしのものであり、わたしの愛からあなたを引き離せるものは何もないのだ。—イエス

    2025年2月アンカーに掲載 朗読:ルーベン・ルチェフスキー 音楽:ジョン・リッスン

  • 6月 26 これからのより良い日々(パート4)
  • 6月 22 あなたへの愛は決して尽きない
  • 6月 18 わたしたちの日ごとの食物を・・・
  • 6月 16 これからのより良い日々(パート3)
  • 6月 10 これからのより良い日々(パート2)
  • 6月 8 大切なことのために時間を作る
  • 6月 4 他の人々との関係
  • 5月 31 これからのより良い日々(パート1)
  • 5月 27 勇ましい勇気
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第9章(1–17節)

    [1 Corinthians: Chapter 9 (verses 1–17)]

    March 11, 2025

    わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主にあるわたしの働きの実ではないか。わたしは、ほかの人に対しては使徒でないとしても、あなたがたには使徒である。あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職の印なのである。(1コリント9:1–2)

    パウロはこの章を、自分は自由な者ではないか、使徒ではないか、という反語表現をもって始めています。使徒たちは教会の主要な指導者であり、預言者たちと共に教会の礎となりました。その職には一定の権利と権威と責任が伴います。

    パウロはまた、コリントの信徒たちに、彼がダマスコへの途上でイエスを見たのは事実かどうかと問いかけました。(使徒9:3–8) そうすることで、自分が使徒であることを誰も疑うべきではないと述べていたのです。さらに、コリントの信徒たちがキリストのもとに来ることになったのは、主における彼の働きによることを指摘しました。コリント教会は、パウロの宣教の実なのです。(使徒18:1–11) パウロをよく知らない人たちには疑う理由があったかもしれませんが、コリントの信徒たちは真実を知っていました。彼らこそが、パウロが使徒であることの印、つまり証拠だったからです。

    この章でのパウロの反語的な問いかけは、パウロに反対していたコリント人たちが、彼の使徒としての権威に異議を唱えていた可能性を示唆しています。パウロの説教には聖霊の力が強く働いていたのですから、コリントの信徒たちはパウロの使徒職に敬意を払うべきでした。他の箇所で、パウロはコリントの信徒たちを、彼の「推薦状」と呼んでいます。(2コリント3:2) コリントの信徒たちにとっては、彼らが回心したことだけでも、この点に関するパウロの使徒的権威について納得するには十分だったはずです。

    わたしの批判者たちに対する弁明は、これである。(1コリント9:3)

    パウロは次に、彼を裁いている人たちに対して、さらにいくつもの問いを投げかけることで、弁明を行っています。前章(第1コリント8章)で述べていて、さらに10章でも再び触れている事柄から判断すると、一部の人は、神殿で偶像に供えられた肉を含め、何でも食べたいものを食べる権利があると主張していたようです。彼らは、良心の弱い人がつまずくことのないよう、彼らの霊的な幸福を気遣って、そのようなことを控えるべきだというパウロの教えを快く思いませんでした。(1コリント8:8–9) パウロを裁いた人たちは、その行為は神学的に見て正当なものであり、原則的にはすべてのクリスチャンが自由にそうしていいのだ、とパウロ自身が理解していることを知っていました。彼らにとっては、強いクリスチャンは弱いクリスチャンのために食べないようにすべきだとパウロが主張したことは、この教えと矛盾していると思えたに違いありません。(1コリント8:10–13

    弁明のため、パウロは自分の生活を引き合いに出しています。偶像に供えられた肉を食べることに関する彼の見解は、弱さの表れではなく、彼の人生の指針となっていたキリスト教の基本原則に沿ったものでした。

    わたしたちには、飲み食いをする権利がないのか。わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。それとも、わたしとバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。(1コリント9:4–6)

    パウロは、弁明をするにあたり、いくつもの質問と発言をしています。まず、自分自身と、キリスト教初期の弟子であり、パウロの宣教仲間であるバルナバについて、質問しました。

    1. 彼とバルナバには、宣教しながら食べたり飲んだりする権利があったでしょうか。はい、ありました。

    2. 彼とバルナバには、他の使徒たちのように、信者である妻を連れて歩く権利があったでしょうか。はい、ありました。

    3. 使徒たちの中で、彼とバルナバだけは、自分たちの働きに対して報酬を受けるに値しなかったのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。

    この章の後半で、パウロは自分に与えられていた権利のいくつかをどのように放棄したかを説明しています。どうやら、パウロを裁いていた人たちは、パウロがこれらの権利を利用しようとしなかったのは、彼にはそのような権利がないからだと考えたようです。真の使徒ではないから、これらの権利を行使しないのだ、と判断したのでしょう。そういった考え方に対抗して、パウロは自らの使徒としての権利を確認したのです。天幕(テント)を作って生計を立てていたとはいえ、コリントの信徒たちから食事を与えられ、宣教のゆえに報酬を受け取る権利はありました。奉仕する相手の人たちのために独身を通してはいましたが、結婚する権利もありました。

    いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があろうか。ぶどう畑を作っていて、その実を食べない者があろうか。また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があろうか。(1コリント9:7)

    パウロは、自分とバルナバには受け取る権利があるのに、なぜ受け取らないのかという点に話を移します。ただ、その前に、彼は他の教会指導者の例や一般的な日常生活を引き合いに出して、自分の主張をさらに強めています。

    1. 自分の費用で軍務に服する人はいるでしょうか。いいえ。

    2. 農夫は、自分が生産したものを食べるでしょうか。はい。

    3. 羊飼いは、自分の羊からとった乳を飲むでしょうか。はい。

    パウロは身近な例を使って、人々は自分の仕事で生計を立てる権利があるという点を強調しました。物事の一般的なあり方を例に挙げることで、自分にも権利があることを主張しているのです。

    わたしは、人間の考えでこう言うのではない。律法もまた、そのように言っているではないか。すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている[脱穀している]牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。(1コリント9:8–10)

    ここでパウロは、重大な質問をしています。そのような期待は、単に人間的な見方によるものなのか、それとも神も同様にそのことを確認されたのか、ということです。パウロは、これらの権利が神によって与えられたものであることを示し、聖句を引用して、この点を強調しています。彼は、旧約聖書の律法が、宣教によって生計を立てるという自身の道徳的権利の根拠であると主張しました。パウロは自分の主張を裏付けるために、申命記25章4節にある、「脱穀をする牛にくつこを掛けてはならない」という言葉を引用しています。 聖書の時代には、牛や馬が柱の周りをぐるぐる回りながら、重りを付けた板を引いて、脱穀を行いました。また、牛や馬が単に穀物を踏んで歩くこともありました。旧約聖書の律法では、農民が穀物を踏んで脱穀する家畜にくつこ(脱穀しているものを食べないよう、口につける金具)をはめることを認めていませんでした。

    パウロは、旧約聖書の律法を現在の状況に当てはめて、神は単に、牛ではなく、人間のことを心にかけておられるのだと主張しています。その律法は、脱穀する牛に関するものですが、その根底には、より深い道徳的原則がありました。すなわち、耕す者も脱穀する者も、その分け前を受け取ることを期待して、そうするのだということです。

    もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。(1コリント9:11–12)

    パウロはコリントで霊的な種を蒔いてきたのだから、その働きに相応の報酬を受け取る権利がありました。そして、コリントの信徒たちは彼の宣教によって益を得ているのだから、彼らが他の教会指導者たちを支援しているとすれば、それ以上に、自分こそがその権利を有していると述べています。パウロには、報酬を受けるための十分な権利がありましたが、その権利を行使しなかったのです。むしろ、キリストの福音を妨げるようなことをするよりも、さまざまな苦労を我慢してきました。

    あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。(1コリント9:13–14)

    パウロは、自分には報酬を受ける正当な権利があることを示す最後の論拠として、ユダヤ教の祭司やレビ人が神殿から食物を受け取り、祭壇の供え物の分け前にあずかっていることを指摘しました。それと同じように、パウロは、福音を宣べ伝える者が福音によって生活の糧を得るべきであることを、主が定められたのだと考えたのです。これは、ルカの福音書でイエスが使徒たちに与えられた指示のことを言っているとも考えられます。「それで、その同じ家に留まっていて、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。働き人がその報いを得るのは当然である。家から家へと渡り歩くな。」(ルカ10:7)

    しかし、パウロはさらにこう続けています。

    しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。(1コリント9:15)

    自分の宣教のゆえに報酬を受け取って当然だというパウロの主張は、説得力のあるものでした。一般的な公正さが、彼の主張を裏付けています。そして、最も重要なのは、聖書の律法そのものがこの見解を教えていたことです。パウロの働きに対して報酬が支払われるべきでない理由はありません。

    そのように、パウロは、宣教の相手に経済的支援を要求することはできましたが、自分の権利を行使しようとはしませんでした。彼は宣教の働きによって生計を立てる権利を放棄しましたが、その動機に関する誤解を打ち消しています。パウロが自分の権利を通そうとしなかったのは、それによって、コリントの人たちが報酬を支払うようになるためではなく、使徒としての立場を守るためです。自分がお金目的で宣教していると思われ、そのせいで、福音を受け入れない人が出ることを望みませんでした。イエスにおける神の恵みの福音を「誇り」としていたかったのです。

    わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。進んでそれをすれば、報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務なのである。(1コリント9:16–17)

    パウロは、コリントの人々から報酬を受け取ることなく、福音を伝え続けることを望んでいました。ここでは、福音を宣べ伝えずにはおれないと述べています。つまり、福音を伝えるよう神から召されているので、彼には選択の余地がなく、その命令を果たさなければ神の裁きを受けることになる、ということです。

    パウロはよく、自分や他のクリスチャンたちが奉仕するのは、天での報いや称賛を得たいという願いが動機になっているのだと語っています。彼は、自ら進んで熱心に、しかも無報酬で福音を伝えることで得られる、永遠の報酬を失いたくなかったのです。たとえ、嫌々ながら福音を伝えたり、その働きに対して報酬を受け取ったりするようなことがあったとしても、自分は単に委ねられた務めを果たしているに過ぎない、と彼は考えていました。パウロは、自分の宣教を、単に言われたからする以上のものとするために、金銭を受け取る権利を自発的に放棄したのです。

    (続く)


    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。

     

  • 4月 18 第1コリント:第8章(1–13節)
  • 3月 27 第1コリント:第7章(17–40節)
  • 2月 28 第1コリント:第7章(1–16節)
  • 2月 8 第1コリント:第6章(1–20節)
  • 1月 30 第1コリント:第5章(1–13節)
  • 1月 17 第1コリント:第4章(15–21節)
  • 12月 20 第1コリント:第4章(6–14節)
  • 11月 26 キリストに従う者にとっての美徳: 忠実・誠実
  • 11月 12 第1コリント:第3章(3:18–4:5)
   

信条

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