• 私たちが神を愛するのは、神がまず愛してくださったから

  • 祈りとは、神の心へと登っていくこと (マルティン・ルター)

  • 神の内にある希望が魂の錨

  • まず神の国を求めよ

  • 神のおられるところに愛がある (1ヨハネ4:7-8)

アンカー

ユーザーフレンドリーなデボーション記事

  • 荒野での誘惑

    Temptations in the Wilderness
    November 6, 2025

    ピーター・アムステルダム

    オーディオ所要時間: 12:10
    オーディオ・ダウンロード(英語) (11.1MB)

    イエスがバプテスマのヨハネによってバプテスマ(洗礼)をお受けになったとき、神の声がして、イエスは神の子であると告げました(マルコ1:9–11)。その際にイエスは聖霊によって宣教のための力を授けられました。神の国を宣べ伝え、人類に救いをもたらすために父から与えられた務めを果たせるようにです。

    共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)すべてに、バプテスマをお受けになった直後にイエスが経験されたテスト(試練)の期間について書かれています。マタイによる福音書では、このように書かれています。

    さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”[御霊]に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

    次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

    更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた(マタイ4:1–11 新共同訳)。

    バプテスマの際に天から下ってイエスの上にとどまった聖霊が(ヨハネ1:32)、テストのためにイエスを荒野へ導かれました。荒野はイエスが宣教を始める前の試験場であり、そこで悪魔はイエスが父の御心を行うのを妨害しようとしたのです。イエスが40日間の断食をされたことは、モーセとエリヤの断食を連想させます(出エジプト34:28; 列王上19:8)。イエスの受けられたテストは、イスラエル民族が荒野に40年いたあいだに経験したことと似ています。そして、それぞれの誘惑に対して、荒野でのイスラエル民族の経験とご自分の経験を結びつけて、申命記から引用して答えられたのでした。

    イエスの最初の誘惑は、石をパンに変えることでした。「誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』」 ギリシャ語の原文では、「~なら」の部分は「~なのだから」の意味にとれます。つまり、サタンは、イエスには神の子として石がパンになるように命じる力があることを認めていたのでしょう。

    これはどういった意味でテストだったのでしょうか。また、イエスが石をパンに変えることのどこが間違いなのでしょうか。それは、イエスがこれからどのように宣教を行い、どのようなメシアとなり、ご自身の力と権威をどのように用いられるかと関係しています。その力を自分自身の個人的なニーズを満たすために用いるのでしょうか。それとも、父の御心にそって、父に服従しつつ、用いるのでしょうか。神が日々の食物を与えてくださると信頼するようにこれから弟子たちを教えようとしておられる方は、今自分のお腹が空いているときに、同じように父を信頼するでしょうか。イスラエル民族が荒野にいた40年の間、神が彼らを養ってくださったのと同じようにして、今イエスを養ってくださると、神を信頼するのでしょうか。

    イスラエル民族が荒野での期間を終えたとき、モーセは約束の地に入ろうとしている人たちにこう語りました。「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった」(申命記8:2–3)。

    神は荒野において、イスラエル民族を世話し、必要なものを与えてくださいました。神の子であるイエスは、神を信頼するでしょうか。それとも、自分で何とかしようとするでしょうか。この決断がこれからの宣教を方向づけ、またこれからどのようなメシアになるのかを方向づけるのです。

    イエスの答は申命記8章からの引用で、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」というものでした。これはイスラエル民族がしなかったこと、つまり神に信頼するということです。神の御心と導きにそって行動し、ご自身の人生の主権を父に握っていただくことを決意しておられました。

    二つ目の誘惑つまりテストとは、マタイによる福音書の順番では、悪魔がイエスに、エルサレムにある神殿の屋根の端から飛び降りるように挑み、もしそうするなら神がイエスを守られると言っているものです。悪魔がイエスをどのようにして神殿に連れて行ったかは書いてありませんが、ただそうしたとだけ書かれています。

    最初の誘惑に対して、イエスは聖句でお答えになりましたが、今回は、悪魔の方から詩篇91篇11–12節を引用してきています。「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と。なぜ悪魔はイエスを神殿へ連れて行き、飛び降りるように挑発したのでしょうか。悪魔はイエスに、神が保護してくれるか試すように、つまり単純に神の約束を信頼する代わりに、神が奇跡を起こしてイエスを「守らざるを得ない」立場に置くように挑発していました。

    イエスはサタンが聖句を用いたことに異議を唱えてはおらず、ただ他の聖句を引用して、悪魔の聖句の使い方が間違っていることを示されました。それは申命記6章16節で、こう書かれています。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」(新共同訳)。

    この聖句で言われている出来事とは、イスラエル民族が荒野にいた際に、飲み水がないとモーセに不平を言ったときのことです。モーセは言いました。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」 神はモーセに、ホレブの岩の上で彼の前に立とうとおっしゃり、また、岩を打てばそこから水が出るとの指示をお与えになりました。「彼[モーセ]は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである」(出エジプト17:2–7 新共同訳)。

    悪魔の言うとおりに主を試すなら、それはイスラエル民族にとってそうであったように、イエスにとって信仰に欠けた行為となります。イエスは父を信頼しておられたので、神の愛や保護の奇跡的な現れは必要ありませんでした。ご自身の人生が愛情深き父の御手のうちにあるという確信と平安を持っておられたのです。

    三つめのテストは、これです。「悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。」 ルカはサタンの誘惑を次のように書いています。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」(ルカ4:6–7 新共同訳)。

    今一度、イエスは聖句によってお答えになりました。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(マタイ4:10 新共同訳)。

    この節は申命記6章にあり、イスラエル民族が約束の地に入るにあたり、モーセが偶像崇拝について警告を与えている箇所からの引用です。サタンは、イエスが彼を拝み、仕えるならば、この世の権力と権威と栄光とを与えようと言いました。それを断ることで、イエスは父に対する忠実さと、世界をあがなうという父の計画に対する忠実さを示されました。この世の権力に興味はなく、神が与えられた道を選び、人類の救いのためにご自身をお与えになるということを示されたのです。悪魔はイエスにこの世とその繁栄を与えようと言いましたが、イエスは父をお選びになることによって、後にこう言うことができました。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」 (マタイ28:18)。

    マタイはこう書いています。 「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた」(マタイ4:11 新共同訳)。また、ルカはこのように締めくくっています。「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」(ルカ4:13 新共同訳)。テスト期間はこうして終わり、イエスはご自身が忠実でふさわしい方であることを証明しました。そして、天使たちが送られてイエスに仕え、その必要を世話しました。

    荒野でイエスが受けられた誘惑に関する情報は、ただイエスから伝わったものです。他にはだれも一緒にいなかったのですから。宣教の合間に、悪魔とのこの遭遇について弟子たちにお話しになったに違いありません。悪魔が離れ去ったからと言って、二度と悪魔から誘惑されなかったということではありませんが、イエスはテストに耐え、宣教を始めるにあたって妨害しようとしたサタンの試みを打ち破られました。福音書には、イエスがサタンとの遭遇やその誘惑について語っておられる箇所が他にもいくつかあります(マタイ16:21–23)。

    イエスは十字架の死に至るまで、常に父に忠実であり、その死を通してサタンに決定的な勝利を収め、神の救いの計画を成就するというご自分の使命を完成されました。イエスの弟子である私たちは、「失われたものを尋ね出して救う」というその活動を引き継ぎ、主のメッセージを世界に伝えるよう委ねられているのです(ルカ19:10; マルコ16:15; ヨハネ20:21)。

    初版は2015年3月 2025年11月に改訂・再版 朗読:ジョン・ローレンス

  • 11月 22 今この瞬間をつかもう! 先延ばしにしないで!
  • 11月 19 混沌の嵐の中で神を信頼する
  • 11月 17 神はやもめを世話される
  • 11月 14 神のかたちが刻まれている
  • 11月 11 キリスト教が及ぼした影響: 女性の地位
  • 11月 8 宝を探す
  • 11月 5 神の豊かな供給
  • 11月 2 行動に出るべき時
  • 10月 30 主は常にそこにおられる
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第12章(1–11節)

    [1 Corinthians: Chapter 12 (verses 1–11)]

    July 1, 2025

    兄弟たちよ。霊の賜物については、次のことを知らずにいてもらいたくない (1コリント12:1)。

    パウロが、コリントの信徒たちへの書簡のこの章を、「さて(聖書協会共同訳等)、… については」という言葉で始めているので、彼らから送られてきた手紙で提起されていた質問や問題に話を戻していることがわかります。この主題について書き始めるにあたり、パウロは、霊の賜物について知らずにいてもらいたくないと述べています。また、彼らを「兄弟たち」と呼ぶことで、家族的な雰囲気をつくり出しています。

    あなたがたがまだ異邦人であった時、誘われるまま、物の言えない偶像のところに引かれて行ったことは、あなたがたの承知しているとおりである。そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない (1コリント12:2–3)。

    パウロはこの2つの節で、コリントの信徒たちがまだ異邦人(異教徒)であり、惑わされて、物の言えない偶像に引かれて行ったときと、クリスチャンになって、神の霊によって語るようになった経験とを、対比しています。一部の解釈者は、パウロが対比しているのは、異教徒は偶像に導かれ、クリスチャンは聖霊に導かれるという点であると考えています。また別の解釈では、異教における恍惚状態で話をする経験と、教会における聖霊の超自然的な働き(特に異言と預言に関して)とを対比していると考えられています。

    コリントの信徒の中には、異教の礼拝に関わったことがあるため、これらの賜物について懸念を抱く者がいたのかもしれません。パウロは彼らに、御霊に満たされた人の口は「イエスは主である」(1コリント12:3)と告白するのだと、保証しています。

    霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。務は種々あるが、主は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである (1コリント12:4–6)。

    これらの節でパウロは、御霊と主と神という、三位一体の3つの位格すべてに言及しています。パウロはコリントの信徒たちに、すべての信者に与えられる賜物について説明をしようとしており、そうするにあたり、その賜物の源は、「すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる」三位一体の神ご自身であることを明確にしています。

    パウロはまず、「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じ」であり、それぞれが教会で異なる目的を果たしていると述べています。パウロの要点は、聖霊はただおひとりであり、その方がキリストを信じるすべての人の内に宿っておられるということです。御霊が、一部の信者にのみ与えられ、他の信者には与えられない、ということはありません(ローマ8:9)。信者は皆救われており、神の御霊がその内に宿っておられます。霊の賜物はさまざまでも、それらはすべて聖霊から来ているのです。

    さらにパウロは、「務は種々あるが、主は同じである」と付け加えています。「務め」と訳されているギリシャ語は、「奉仕」とも訳されることがあります。パウロは、信徒たちのさまざまな奉仕や務めや活動の中に、同じ主が働いておられるのだと指摘しています。彼はコリントの教会に、神が彼らにさまざまな賜物と務めを与えてくださったのは、一致を築くためだと理解してほしいのです。

    各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである (1コリント12:7)。

    ここでパウロは、まず、神は各信者に御霊の現れをお与えになると述べてから、一致、多様性、配分という主題について説明していきます。聖霊が内住している信者には、概して、その人生において御霊の臨在が何らかのかたちで現れるものです。パウロは、各信者に御霊の現れがあるのは「全体の益になるため」だと述べることで、一致を強調しています。ある人が書いているように、「霊の賜物は常に、それが用いられるために与えられるのであり、しかも、その賜物を有している個人ではなく、信者の集まり全体を造り上げるために使われるべきです。」[1]

    御霊によって与えられる霊の賜物はすべて、キリストの体に属する他者に仕えるためのものです。霊の賜物のどれ一つとして、それを賜わった本人だけに益となり、役立つように与えられてはいません。

    すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、またほかの人には力あるわざ[奇跡を行う力(聖書協会共同訳)]、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている (1コリント12:8–10)。

    パウロはここで、クリスチャンの人生における霊の賜物の現れの例をいくつか挙げています。そうするにあたり、御霊に4回言及することによって、これらの賜物が神から、すなわち聖霊から来ることをコリントの信徒たちに思い起こさせています。

    新約聖書に記された、御霊の現れの他のリストと比較してみると、このリストはおそらく、コリント教会に現れている御霊の働きとしてパウロが知っていたものを、霊の賜物のいくつかの例として挙げたに過ぎないことがわかります。たとえば、ローマ12章6–8節にあるリストには、奉仕、教え、勧め、分け与え(施し・寄付)、指導といった他の賜物が含まれています。また、エペソ4章11–12節には、伝道や牧会といった、「聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ」るために与えられた他の賜物が記されています。

    パウロはコリントの信徒たちへの手紙で、霊の賜物の現れを9つ、簡潔に挙げています。いくつかの賜物がどのように現れるかについては、詳細がほとんど記されておらず、歴史を通して、聖書学者たちはさまざまな解釈を提示してきました。その内、3つの賜物(知恵の言葉、知識の言葉、霊を見わける力)については、新約聖書で言及されているのはこの箇所だけです。

    以下は、これらの賜物それぞれの概要です。(それぞれの賜物について、より詳しく知りたい場合は、『そのすべての核心にあるもの』シリーズの「御霊の賜物」パート1パート2を参照してください。)

    1. 知恵。コリント人の中には、その時代の知恵を誇る者もいましたが、パウロは自らの教えの中で、世の知恵を退け、真の知恵はキリストの救いの御業にこそ見いだされると宣言しています。(1コリント2:1–5)。このような知恵は、導きと助言をもたらす聖書の真理を、信者が日常生活に適用するのを助けます。

    2. 知識。「知識の言葉」が何を指すかについては、いくつかの解釈があります。聖書学者たちは、一つ前の知恵の賜物と同様に、これはおそらくイエスと福音における神の救いの計画に関する知識を指しているのだろうとしています。学者の中には、パウロが知識を奥義(神秘)や啓示、預言と結びつけることがあるので(1コリント13:2; 14:6)、ここで彼が書いているのは、霊的真理や奥義についての超自然的な知識と理解のことであると考える人たちもいます。

    3. 信仰。信仰の賜物は、人に救いをもたらす信仰、すなわち、すべてのクリスチャンが持っているイエスへの信仰を指すものではありません。それよりも、イエスが「からし種一粒ほどの信仰」と表現された、山をも動かすことのできる類いの信仰を指しているようです(マタイ17:20)。信仰の賜物は、特定の状況において神がある方法で働かれるという強い確信、あるいは、特定の務めを成し遂げるために与えられる特別な信仰と理解できます。

    4. 癒やしの賜物。これは、イエスと初代教会の働きに見られる、病人の超自然的な癒やしを指しています。肉体の癒やしは、終わりの日に起こる体の復活の前味でした(マタイ8:17)。ここでの「賜物」が複数形になっていることは、この御霊の現れは時と場合によって、異なるかたちで起こることを示しているのかもしれません。この世において、すべての信者に癒やしが約束されているわけではありませんが、神の癒やしの賜物は、いずれ行われる体の贖いと、あらゆる病の癒やしを待ち望ませるものとして、与えられています(ローマ8:23)。

    5. 力あるわざ(奇跡を行う力)。この言葉は総称として、癒やしに限らず、さまざまな種類の奇跡を行う力を指しているものと考えられます(ヘブル2:3–4)。奇跡とは、神の超自然的な介入によって起こる、通常の自然法則を超える出来事のことです。聖書全体を通して、神は奇跡によって、ご自身とその性質や計画を現してこられました。四福音書すべてから、奇跡がイエスの宣教において重要な役割を果たしたことがわかります。この賜物が9つの賜物の中で5番目の位置に記されているという点は、他のあまり目立たない御霊の働き以上に強調されたり重視されたりすべきではないことを示唆しています。

    6. 預言。預言の賜物とは、信者が聞き手に対して、神のメッセージを伝える霊感された言葉を語るよう、御霊から与えられる力です。[2] 旧約聖書には、神の霊感のもとで、聖書の言葉と同等の権威をもって、神の言葉を語る預言者たちがいました。新約聖書において、預言の賜物は、神が心に置いたり、思い浮かべさせたりしたことをクリスチャンが他者に伝えることを指すことが多く、その権威は聖書と同等とはみなされませんでした。[3] パウロは教会に対して、預言を「吟味(検討)」し、「良いものを大事に」守るよう勧めています(1コリント14:29; 1テサロニケ5:19–21)。預言の賜物は、共同体を造り上げ、励まし、慰めるのに有益であるため、パウロは奨励していました(1コリント14:1–3)。

    7. 霊を見わける力。旧約時代のイスラエルでは、偽預言者や偽教師の本性を見抜かなければならないことがありました(申命記18:20–22)。新約聖書に記されているように、教会内でも、その始まりからずっと、同じことが起こっていました。「しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている」(2ペテロ2:1)。「真理の霊」と「迷いの霊」を見わける力は、非常に貴重な賜物だったのです(1ヨハネ4:1–6)。

    8. 異言。異言の賜物とは、人が自分の知らない言語で語ることを指しており、その最初の現れは、五旬節の日に弟子たちに起こったことです(使徒2:4–11)。この賜物は、キリスト教会の歴史において、いくぶん意見の分かれるものでした。特に、それは人間の言語が、その言語を知らない人によって語られていたのか、あるいは、人間には知られていない言葉だったのか、という点です。パウロは、この賜物の異なる形態のものを異言とみなす余地を与えるために、意図的に「種々の異言」という曖昧さの残る表現を用いたようです。

    9. 異言を解く(解き明かす)力。「解く」と訳された言葉は、「翻訳する」とも訳せるものです。異言を解き明かす力は、語られた異言の種類によって、異なっていたと思われます。しかし、たとえ既知の人間の言語が話された場合でも、この賜物は、翻訳者が自分の知っている言語を訳す通常の能力を超えたものであり、自分の知らない言語を訳すという超自然的な力として理解されていたようです。パウロは後に、礼拝において異言が語られた場合、皆がそこから益を得られるよう、可能な限りそれを解き明かすべきだと教えています(1コリント14:2–5)。

    すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである (1コリント12:11)。

    こうして、御霊のさまざまな賜物の簡潔なリストを示した後、パウロは、すべての霊の賜物は同一の御霊の働きであると総括して、締めくくっています。これらの賜物が教会にとって重要なのは、聖霊によって授けられた力だからです。教会の各信徒は、それぞれ異なる賜物をいただいていますが、それは、個々の資質や状況の違いによってではなく、ただ一つの基準、すなわち、御霊の御心によって定められるのです(1コリント12:11)。

    (続く)


    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    1 Leon Morris, 1 Corinthians: An Introduction and Commentary, vol. 7, Tyndale New Testament Commentaries (InterVarsity Press, 1985), 167.

    2 Morris, 1 Corinthians, 169.

    3 Wayne Grudem, Systematic Theology: An Introduction to Bible Doctrine (Zondervan, 1994), 1052–1055.

     

  • 11月 4 弟子の生き方(パート2): 私たちの全存在をもって神を愛する
  • 10月 28 第1コリント:第11章(17–34節)
  • 9月 2 第1コリント:第11章(2–16節)
  • 8月 26 弟子の生き方: 前書き
  • 8月 19 第1コリント:第10章(16–33節)
  • 7月 29 第1コリント:第10章(1–15節)
  • 7月 12 第1コリント:第9章(18–27節)
  • 4月 29 第1コリント:第9章(1–17節)
  • 4月 18 第1コリント:第8章(1–13節)
   

信条

もっと見る…
  • ファミリー・インターナショナル(TFI)は、世界中の人々と神の愛のメッセージを分かち合うことをゴールとする国際的なオンライン・クリスチャン・コミュニティーです。私たちは、誰でもイエス・キリストを通して神との個人的な関係を持つことができると信じます。その関係があれば、幸せや心の平安が得られるだけではなく、他の人を助け、神の愛の良き知らせを伝えようという意欲がわいてきます。

私たちのミッション

もっと見る…
  • ファミリー・インターナショナルが何よりも目標としているのは、神の御言葉のうちに見出される、愛と希望、救いという命を与えるメッセージを分かち合うことによって、より良い人生を皆さんに送っていただくことです。ペースの速い、複雑化した現代社会にあっても、神の愛を日常生活の中で実践することこそ、社会の問題の多くを解決する鍵であると私たちは信じます。聖書の教えにある希望や助言を分かち合うことで、ひとりずつ心が変わって行くことによって、だんだん世界が変わって行き、より良い世界が築かれて行くと信じているのです。

理念

もっと見る…
  • 多様性と革新

    ミニストリーやミッションといった奉仕において、創造性や自発性が重んじられます。神が導いておられ、私たちが神に従うという行動をとる時には、何でも可能となります。

TFI について

TFI オンラインは、ファミリー・インターナショナル(TFI)のメンバーのためのコミュニティサイトです。TFI は、世界各地で神の愛のメッセージを伝えることに献身する国際的なクリスチャン・フェローシップです。

TFI について詳しくお知りになりたい方は、私たちのグローバルサイトをご覧ください。

TFI メンバーの方は、 ログイン して他のコンテンツも見ることができます。

最近のシリーズ

もっと見る…
第1・第2テサロニケ
パウロがテサロニケの信徒に宛てた書簡の研究と、その教えがいかに現在に当てはめられるか
そのすべての核心にあるもの
キリスト教信仰・教義の基本を扱ったシリーズ