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  • 神が私たちの心の願いをかなえてくださらないとき

    When God Doesn’t Grant the Desires of Our Hearts
    June 16, 2026

    引用文集

    オーディオ所要時間: 15:41
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    主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。—詩篇37:4

    何年も前、私がクリスチャンになったばかりの頃、教会に若い夫婦がいて、私の面倒を見てくれました。彼らの友情や励まし、そして、私の数々の質問に答えようとしてくれたことが、とてもありがたかったです。ある日、かなわなかった希望や夢という話題になったとき、奥さんがその答えとして、詩篇37篇4節から「主はあなたの心の願いをかなえられる」と引用しました。その時強くほのめかされていたのは、クリスチャンである私が求めさえすれば、神は自分が欲しいものを何でも与えてくださると期待していい、ということでした。…

    この聖句の全体を見ることによって、その意味がより明確になります。これは白地小切手ではありません。つまり、何でも読者の頭に思い浮かんだもの――より多くのお金、より良い仕事、より素敵な家、刺激的な休暇――を絶対に与える、と神が約束されているわけではないということです。1970年に「ああ主よ、メルセデス・ベンツを買ってくれませんか。友だちはみんなポルシェに乗っているから、彼らを見返してやりたいの」と歌ったジャニス・ジョプリンによる福音書ではないのです。

    またそれは、ディズニー映画で唱えられている、「自分の心に従いなさい。そうすれば、絶対に間違った方向には行かない」という哲学でもありません。… 詩篇37篇4節の鍵は、冒頭の「主によって喜びをなせ」という言葉にあります。要するに、神を自分の願いの対象とする人々に対して、その願いをかなえよう、と神は約束しておられるのです。…

    神を願い求めるというこのテーマは、詩篇にとどまらず、新約聖書の中にも流れています。イエスは天の国を、人がそれを手に入れるために、自分の持っているすべてを差し出すほどの宝として描いておられます(マタイ13:44–46)。パウロは自身の経験に基づいて、キリスト・イエスを知ることの圧倒的な価値と比べれば、自分が持っていたいっさいのものは無価値だと見なしました(ピリピ3:7–11)。…

    したがって、特定の状況において神の御心が分からないとしても、私たちが常に確信できることがあります。それは、もし私たちが、神への愛を呼び覚まし、心が神にあって喜びをなせますように、と神に求めるならば、それは神の御心にかなった祈りであり、神はその願いをかなえてくださるということです。もし私たちが、自分の最も深い願いの対象を神とするならば、神はその願いをかなえてくださいます。

    特に豊かな文化圏においては、神からの良い贈り物を偶像に仕立て上げ、創造主ではなく被造物を崇拝してしまうという、明白かつ差し迫った危険が存在します。古代の人々は、人や動物や天体の像を用いて、そうしていました。私たち現代人は、富や野心、快適さや余暇をもって、そうしがちです。その結果、私たちは神を求めるよりも、自分が求めているものを得るための手段として神を見るようになります。神ご自身よりも、神がくださるものを欲しがるのです。

    しかし、それではうまくいきません。C・S・ルイスが指摘したように、「神は、ご自身から切り離された幸福や平安を、私たちに与えることはできません。なぜなら、そんなものは存在しないからです。そのようなものは、どこにもありません。」

    神は、私たち人間が喜びと充足感を神のうちに見出すよう造られました。他のすべての喜びは、主にあって喜びをなすというこの包括的な喜びとの関係においてのみ、適切な位置に置けるのです。—サビー・ステルスキー [1]

    神によって喜びをなす

    私が十代の頃、詩篇37篇4節を「発見」し、それを自分の人生の聖句にすると宣言しました(皆さんもそういう聖句があれば、教えてください)。「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。」 《これは一生従っていけばいい公式のようなものよね? 主によって喜べだなんて、簡単なことじゃない! 主は素晴らしくて最高の方だし、物事が順調に行っているとき、それは主のおかげよ。さて、私がお願いしたことを神さまがしてくださるのを、期待して待つことにするわ。…》

    しかし、これは方程式ではありません。数学でも、公式でもありません。神に口先だけの礼拝をしても、神を思い通りに動かして、自分の願いをかなえさせられるわけではありません。神のいつくしみに心から感嘆したからといって、それによって、まだかなえられていなかった願いが一つかなえられるわけではありません。15歳の私には、神によって真に喜びをなす心は、神が願われることを願い、神が愛されるものを愛し、神が定められたことを行うものだということを、理解できていませんでした。

    そのため、詩篇37篇4節の啓示から10年後、私は浴室の床にうつ伏せになり、手には100本目となる陰性の妊娠検査薬、そして心には穴が空いた状態で、すすり泣いていました。神が約束してくださったと私は思っていたのに、神はそれを与えるのに失敗されたのでしょうか。実りなく待ち続ける年月の中で、神は何か良いことをしてくださっていたのでしょうか。…

    神がなぜ私に子どもを授けてくださらないのかを知ろうとして、聖書を読んだとき、私は、神が私の心の願いを拒んでおられるというよりも、むしろ新しい願いを与えておられるのだと気づきました。… 神のご性質を知りたくて聖書を調べ続ける間、私の腕は相変わらず空っぽの状態でした。しかし、私の心は満たされ始めたのです。来る日も来る日も、私は神のいつくしみに目を向けるために御言葉に向かい、そこで見出したものによって満たされました。神は良きお方であり、真実で、憐れみ深く、正しく、賢く、主権を持ち、共にいてくださるお方でした。

    神のご性質について思い巡らすうちに、どんなに素晴らしく高潔な願いであっても、私の救い主に取って代わることはできないと分かってきました。私はキリストの奴隷であり、それゆえに、他のいかなるものも私の主人にはなれないのです。母親になることも、結婚も、社会的地位も、名声もそうだし、たとえ良いものであっても、私の心の中心の座を奪おうとするなら、それは偶像になってしまいます。…

    神は深い配慮を持ち、いつくしみ深い方であるため、私たちに必要なすべてのかたちでご自身を表してくださいました。すなわち、父として、子として、また御霊として。エデンの園から神殿、十字架、そしてペンテコステに至るまで、神はご自身を与え、その記録を御言葉の中に残してくださいました。いつの日か、私たちは何の妨げもなく顔と顔を合わせて神にお会いするでしょう。その時、すべての切望は終わりを迎えます。…

    神があなたの心の願いをかなえてくださらないとき、神はご自身の心が願うものをあなたに与えておられるのかもしれません。神からの贈り物を祈り求めているけれど与えられないという状況を用いて、与え手である神ご自身にあなたの目を向けさせておられるのかもしれません。あなたの心は神を切望するように造られているのですから、神をその切望の対象としましょう。—グレナ・マーシャル [2]

    信頼し、喜び、委ねる

    神は私に、安全な住まい、食べ物、私が愛して尽くしたい人々など、数え切れないほどの素晴らしい恵みを与えてくださっています。それでも、本当に正直に言うと、私はいつもさらに多くを求めてしまうのです。良い人との結婚、素敵な家、生活費をしっかり稼げて大好きな仕事、完璧な友人関係 … そうした望みは尽きることがありません。

    先日、まだかなっていない願いの数々について考えていたとき、思わず自嘲気味な笑いがこみ上げてきました。《神さま、あなたは私の心の願いをかなえるとおっしゃいましたよね。》 しかし、いまの私は、執筆活動をしながら、いくつかの仕事を掛け持ちしています。朝はかなり早いです。古びた白い冷蔵庫は、いつ壊れてもおかしくありません。それに、自分の体型や友人関係のことで、今でも悩むときがあります。

    そんなモヤモヤを抱えながら聖書を開き、神が私の心の願いをかなえてくださると約束していたはずの箇所を読みました。「主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。あなたの道を主にゆだねよ」(詩篇37:3–5)。

    神は私たちに、信頼し、喜び、委ねるよう呼びかけておられます。その点を理解したとき、私の見方は変わりました。そして、満たされない思いを抱えていた時期であったけれど、平安が与えられたのです。…

    キリストに委ねるとは、私たちの人生がもはや自分のものではなくなるということです。今や私たちには、自分の思い通りの人生を送ること以上の目的と意味があり、その結果、神の喜びが朝日のように、私たちの中で輝きます。神は、混乱や予期せぬ苦難の中にあっても、私たちに平安を与えてくださいます。私たちがもっとイエスを願い求められるよう、私は祈っています。なぜなら、私たちがイエスを信頼し、イエスにあって喜び、イエスに委ねるとき、たとえ人生が自分の夢見たとおりに進まなくても、神の計画に平安を見出せるからです。

    主よ、私たちが、かなえられていない願いではなく、もっとあなたに目を向けられるよう助けてください。私の究極の願いが、常にあなたの御心と栄光でありますように。現状に満足できず苦しんでいるときには、あなたが良いお方であり、私にとって良いものをもたらそうとしておられることを思い起こさせてください。イエスの御名によって、アーメン。—グレース・バレンタイン [3]

    詩篇37篇4節は、どういう意味か

    詩篇37篇4節には、「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる」という素晴らしい約束が記されています。この聖句は私たちに、神と深く親密な関係を持つよう促しています。私たちが神によって喜びをなすとき、神は私たちの心の願いをかなえてくださるのです。…

    詩篇37篇4節の約束を理解するには、まず「主によって喜びをなす」ことの意味を考察する必要があります。「喜びをなす」という言葉には、深いレベルでの喜び、満足感、充足感といった気持ちが含まれています。主によって喜びをなすとき、私たちは神の臨在を願い求め(詩篇27:4)、昼も夜も神の言葉を思い(ヨシュア1:8詩篇1:2)、自分の意志を神の御心に合わせます(ローマ12:2)。…

    主によって喜びをなすとき、私たちの願いには根本的な変化が訪れます。すなわち、私たちはもはや利己的で罪深いことを望まなくなるのです(ガラテヤ5:17–21)。… 私たちが神に近づくにつれて、私たちの願いは神が私たちに抱いておられる願いを映し出し、神のいつくしみと義を反映するものとなっていきます。…

    詩篇37篇4節は、私たちが主によって喜びをなし、自分たちの願いを神の完全な御心に合わせるよう促しています。神の内に喜びと満足感と充足感を得る心を培っていくとき、神は私たちの願いを、ご自身の計画を反映するものに変えてくださるのです。—GotQuestions.org [4]

    賛美の祈り

    あなたの憐れみはいかに栄光に満ち、あなたのいつくしみはいかに素晴らしいことでしょう(詩篇36:7)。あなたの愛はすべてのものにまさり、あなたのいつくしみはとこしえに絶えることがありません(詩篇136:1)。あなたの赦しは完全であり、私のたましいを洗い清め、御国のために私をあがなってくれました(エペソ1:7)。だからこそ、私は自分自身をあなたに捧げるのです。わが主、わが神、わが救い主、わがすべてであるあなたに。

    私の願いは、あなたを喜ばせ、あなたを礼拝し、御心に従って歩むことです。あなたが持っておられるような誉れ、栄光、力、愛は、他にありません。私は、あなたへの賛美と感謝、敬意と謝意、栄光のゆえに、声を上げて、心と霊とをあなたに向けます。持てるすべてのものをあなたにお捧げします。あなたはそれにふさわしい方だからです。

    2026年6月アンカーに掲載 朗読:ジョン・ローレンス 音楽:マイケル・ドーリー


    1 Subby Szterszky, “The desires of our hearts,” Focus on the Family Canada, 2016, https://www.focusonthefamily.ca/content/the-desires-of-our-hearts

    2 Glenna Marshall, “When God Doesn’t Give You the Desires of Your Heart,” glennamarshall.com, August 6, 2018, https://www.glennamarshall.com/2018/08/06/when-god-doesnt-give-you-the-desires-of-your-heart/

    3 Grace Valentine, “When God Hasn’t Given You the Desires of Your Heart,” Proverbs 31, June 28, 2025, https://proverbs31.org/read/devotions/full-post/2025/06/28/when-god-hasnt-given-you-the-desires-of-your-heart

    4 “What does it mean that God will give you the desires of your heart (Psalm 37:4)?” GotQuestions.org, https://www.gotquestions.org/He-will-give-you-the-desires-of-your-heart.html

  • 9月 15 従順な僕のたとえ
  • 9月 12 言葉は、傷つけることも癒やすこともできる
  • 9月 6 費用の計算
  • 9月 4 人生の移り変わりに順応する
  • 8月 31 イエスの最後の現れと委任
  • 8月 29 あなたは大いに価値のある存在
  • 8月 25 誰が糸を引いているのか?
  • 8月 23 人生の嵐の中で、共にいてくださる方
  • 8月 19 自然と人生の変化を受け入れる
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 弟子の生き方(パート4): 神との関係

    [The Life of Discipleship, Part 4: Relationship with God]

    September 30, 2025

    神との関係——神との交わり——は、弟子としての歩みの中心にあります。私たちはクリスチャンとして、神との個人的な関係を持つという祝福、栄誉、機会に恵まれています。宇宙の創造主である方が、私たちと交わりたいと願われ、私たちがご自身と和解できるように、御子イエスを全人類のために十字架で死なせるほどの大きな犠牲を払われたとは、私たちには測りがたいほどのことです。使徒パウロが書いているように、「神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである」(1コリント1:9)。

    イエスは、父との関係のために時間を取ることについて、手本を示されました。福音書には、イエスが早朝に起きて祈られたこと(マルコ1:35)、祈るために群衆のいない所に身を避けられたこと(ルカ5:15–16)、夜を徹して祈られたこと(ルカ6:12–13)が記されています。イエスは、神と交わって、親しく語り合い、神の指示を受け取るための時間を取られました(ヨハネ5:30)。

    神との交わりとは、神の臨在の中で時を過ごし、神を礼拝し、祈りのうちに神に語りかけ、神の言葉を読み、その御言葉を通して神が語られることに耳を傾け、さらに、神が私たちに個人的に語りかけてくださる御声に耳を傾けることを意味します。私たちは、神がどのようなお方であり、私たちのために何をしてくださったかを思って、神を賛美し、感謝するための時間を設けることで、「さんびのいけにえ … を、たえず神にささげ」る(ヘブル13:15)と共に、1日を通して神と交わる必要があります。大きな愛をもって私たちの命を支え、私たちとの交わりを望んでおられる創造主であり救い主である神と、つながるための時間を取る必要があるのです。

    主との交わりの時間を取るとき、主はそれに応じてくださいます。私たちが、他にしていることをやめて、主の臨在の中へ入るとき、私たちは主に耳を傾けてその指示を受け取る姿勢になっているので、主は助言をもって私たちを導き(詩篇73:24)、御心を行うことを教えてくださいます(詩篇143:10)。

    祈り、神を賛美して礼拝すること、また、私たちの人生——希望や夢、成功と失敗——について神に語りかけ、罪を告白し、神の助けを求め、神を愛していると告げ、神の語られることに耳を傾けることは、どれもみな、私たちが神と持つべき交わり、友情、関係の一部なのです。

    双方向のコミュニケーションは、人間関係における重要な要素であり、主との交わりも例外ではありません。神の声に耳を傾けることと、神に語りかけることの両方が必要なのです。神に耳を傾ける第一の方法は、神の言葉である聖書を読むことです。私たちが聖書を読み、その内容について考え、黙想し、それが自分にとってどんな意味があるのか、その意味することを日々の生活にどう当てはめられるのかと自問するとき、神はそれを通して語りかけてくださいます。また、私たちが心を静めて、主の静かで小さな声に耳を傾けるときにも、神は語ってくださいます。

    私たちが心と生活を主に向けて開き、重荷や悩み、恐れ、また希望や喜び、夢を分かち合うとき、神との関係は深まっていきます。神の言葉を学んで瞑想し、それを自分の生活にどう当てはめるべきかを学ぶ時間を設けることで、私たちは神への信仰と信頼、理解と礼拝を深めていくのです。祈りを通して神と対話し、神を愛し、神の御声に耳を傾ける時間を取り、神から学び、日頃から神と交わりを持つこと、これらすべてが、神に近づき、神に似た者となるための重要な要素です。以下の記事でも、それが強調されています。

    キリストとの交わりが意味するものとは

    神が私たちの人生に関わってくださっているとは、実に驚くべきことです。キリストと交わるとは、私たちがキリストの命にあずかるだけでなく、キリストもまた私たちの命に関わってくださることを意味します。私にとって、この気づきは、これまでとは違った視点をもって人生を歩む助けとなりました。…

    試練や困難な状況が訪れたとき、このことは、イエス・キリストがどのような状況においても、私たちと共にいてくださることを認識する助けとなります。また、物事が順調に進んでいるときにも、イエスが今もなおすべての状況において、私たちと共におられることが分かります。イエスは誰をも包み込み、親密に寄り添う方であり、私たちが自分で物事を解決するよう、一人きりにさせることはありません。イエスは私たちの人生に関わってくださるのです。…

    聖書で「交わり」という言葉が出てくるとき、それは単なる関係を示す概念ではありません。関係という言葉は、「つながっている状態」を意味します。私たちはすでにキリストとつながっていますが(ヨハネ15章)、さらに深いもの、すなわち「交わり」を持つよう招かれています。

    神との関係は、神とつながるための最初の招きであり、イエスによる救いは、私たちを神との関係へと導きます。しかし、神との交わりは、神との親密な関係へと招くものです。それは、神との継続的なつながりであり、神と共に時を過ごすための手段です。… 私たちは、神との関係を持っている(すなわち、神とつながり、神との絆が回復されている)だけでなく、神との交わりも持つことができます。神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩き、互いに交わりを持つのであり、御子イエスの血が、すべての罪から私たちを清めるのです(1ヨハネ1:6–7)。

    これこそが、私たちがより主に似た者となり、自分の人生に主の命を見るための道であり、手段です。私たちがイエスと交わるとき、私たちはより主に似た者となって、主を映し出すようになり、それが神との関係を深めるのです。—ターニャ・レムキフ [1]

    祈りの原則

    弟子たちが祈り方を教えてくださいとお願いした時、イエスは「主の祈り」を教えられました。この祈りを祈るとき、私たちは、神を聖なる方、すべての上におられる方としてあがめ、地において、また自分の人生において、神の御心がなされるように願い、日々の必要を神に頼っていることを認め、自分の罪が赦されることを求めます(マタイ6:9–13)。

    また、イエスは弟子たちに、祈りにおいて油断することなく、「目をさまして祈っていなさい」と教えられました(マタイ26:41)。イエスの模範から、私たちは一人になって祈ること(ルカ6:12)、感謝して祈ること、他の信者たちと共に祈ること、そして他者のために執り成しの祈りをすること(ヨハネ17:20–26)を学びます。生活の忙しさから離れて、一人きりで祈りの時間を持ち、また、他の人たちと共に祈り、あるいはその人たちのために執り成すというイエスの手本は、その足跡をたどりたいと願う人たちのための道しるべとなっています。

    祈りについて、イエスが信者たちに教えられた最も基本的な事柄の一つとは、父なる神との正しい関係を持つことでした。イエスは常に父に祈り、弟子たちにも同様にするよう教えられました。私たちは、神の家族に養子として迎え入れられた、神の息子であり、娘です。ですから、祈るとき、私たちは「アバ」、つまり私たちの父の前に出ているのです。

    クリスチャンとして、私たちは祈りによって神の臨在の中に入るという、計り知れない特権にあずかっています。私たちは神と交わり、神を賛美し、礼拝することができます。また、神が成してくださったすべてのことと、神の慈しみと恵み――私たちに対する身に余る恩寵――に感謝を捧げることができます。神の御前に心をさらけ出し、最も内なる思いや願い、懸念を打ち明け、悩みや問題、必要を神に委ねることができます。助けを必要としている人々のために執り成しの祈りをし、愛する人々を神のご配慮に委ねることができます。あらゆる心配事や不安、懸念を神に委ねることができます。

    弱く、疲れ果てているとき、心の重荷を神に打ち明けることができます。しくじり、過ちを犯し、あるいは間違ったことをし、罪を犯したとき、それを告白して神の赦しを求め、そして赦していただくことができます。嬉しいときも悲しいときも、健やかなときも病んでいるときも、豊かなときも乏しいときも、神と語り合うことができます。なぜなら、この関係は、私たちを造られただけでなく、私たちを深く愛し、私たちの人生のあらゆる側面に関わりたいと願っておられる方との関係だからです。祈りは、神を私たちの日々の生活に招き入れ、私たちの人生に直接かつ親密に関わってくださるようお願いするための手段です。

    祈りとは、私たちが一方的に話し続け、神がただ聞いてくださることを期待するような、一方通行の会話であってはなりません。祈るときには、私たちもまた、読んだ聖書の言葉を通して、敬虔な教師や説教者が語っていることを通して、あるいは神の前に静まり、心を開いて神の声を聞くことを通して、神が私たちに伝えようとしておられることに耳を傾ける必要があります。私たちが御言葉を黙想するとき、読んだ御言葉を日々の生活にどう適用すべきかを示してくださるよう求めるとき、そして心の中を静め、神が私たちに語りかける機会を与えるとき、神はさまざまな方法で私たちに語りかけてくださいます。

    イエスは、ご自身の模範と教えを通して、祈りの重要性を教え、そして最も大切なことに、私たちの祈りが神との親しい関係に根ざしたものであるべきだと教えられました。祈りのために時間を設けることに加えて、私たちは絶えず神との交わりの中にいるよう求められています。それは、神と継続的に対話すること、つまり、一日を通して神に語りかけ、導きを求め、神を賛美し、神の声に耳を傾けることです。これが、「絶えず」祈りなさいというパウロの一般的訓戒(1テサロニケ5:17)の意味である、と捉えることができます。現実的な話として、仕事や生活に関わる責任に追われる忙しい日々の中で、長い間すべての活動を止め、祈りに専念できるような時間はないかもしれません。しかし、一日を過ごす中で、仕事や務めを果たしながら、自分の思いや活動、そして他者とのコミュニケーションを絶えずイエスに委ねることによって、「イエスの臨在を実践する」[2] ことができます。

    祈りに動かされて

    まず、祈りましょう。飢えた人を助けるために旅立つのですか。その任務を祈りに浸してから出かけましょう。不正の結び目を解こうとしているのですか。祈りましょう。人種差別と分断に満ちた世界に疲れていますか。神もそうです。そして神は、そのことについてあなたと語り合いたいと願っておられます。

    何よりも、祈りましょう。神は私たちに、絶えず説教しなさいと命じられましたか。絶えず教えなさいと命じられましたか。絶えず委員会の会合を開きなさいと命じられましたか。絶えず歌いなさいと命じられましたか。いいえ、そうではなく、「絶えず祈りなさい」と命じられたのです(1テサロニケ5:17)。

    イエスは、ご自身の家が学びの家と呼ばれると宣言されたでしょうか。それとも、交わりの家でしょうか。音楽の家でしょうか。展示の家でしょうか。活動の家でしょうか。いいえ、そうではなく、イエスは「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と言われたのです(マルコ11:17)。

    これほどの結果が保証されている霊的な活動は、他にありません。「あなたがたのうちの二人が、どんなことについても、地上で心を合わせて祈るなら、天におられるわたしの父は行動を起こしてくださる」(マタイ18:19 英語MSG訳)。神は、謙虚で祈り深い心に動かされます。祈りに動かされる方なのです。—マックス・ルケード [3]

    交わりへの招き

    神は人類への愛ゆえに、イエスの生涯と死と復活を通して、私たちを罪に対する罰から贖い出されました。私たちは、神の愛する御子の犠牲的な死を通して、神の愛を経験し、神との交わりを回復します。神が私たちを愛し、赦してくださったので、私たちは神を愛し、畏れ敬うのです。

    「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)という言葉を読むとき、私たちはそれが「神は私を個人的に愛しておられる」という意味だと理解します。私たちの救い、また神との関係は、ただひとえに、愛の贈り物として私たちに与えられたイエスの御業に基づいています。神の愛は無条件であり、私たちが犯すかもしれない過ちや罪や失敗にも、また落胆の感情にも、左右されることがありません。私たちは、救いによって神の御子と結ばれているという、ただそれだけの理由で、神の子の一人として神に愛されています。「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:38–39)。

    神との関係を求める気持ちは、祈りと礼拝と聖書を読むことによって神とつながっているよう、私たちを動かます。また、神に仕え、神の愛と真理を他者と分かち合うことで、信仰を実践するよう、私たちを動かします。弟子として、私たちは神との交わりと、私たちの人生における神の臨在を、熱心に求めるのです。

    イエスが黙示録の中で、ある教会になされた呼びかけは、今日の私たちへの呼びかけでもあります。「わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(黙示録3:20)。イエスの時代の文化では、食事を共にするよう招くことは、関係を築こうという招きを意味していました。弟子として、私たちはイエスとの関係をさらに深め、イエスをよりよく知り、より深く愛そうとしています。また、私たちがイエスの臨在の中で過ごすとき、その結果として、イエスの性質である愛、優しさ、思いやり、温かさ、赦し、あわれみを他者に示すようになります。

    戸を開ける者たちに対して、イエスは親しい交わりを約束し、それを食事を共にする姿にたとえられました。… 今日もイエスは、「わたしは戸の外に立って、たたいている」と言い続けておられます。… 主は、完全な交わりを持とうと、熱心に招いておられるのです。天の御国の鍵を持っておられる方(マタイ16:19; 黙示録1:18)が、私たちすべてに、ご自分の声を聞き、戸を開けるよう呼びかけておられます。主が入って来て、私たちと親密な結びつきを持てるようにです。イエス・キリストは、その呼びかけに応じる者たちに、永遠の命への開かれた戸と、天において主と共に治めるという報いを保証しておられます。—Got Questions [4]

    噛みしめるべき言葉

    私たちと神との関係は、まさにその言葉どおり、関係です。神の招きは、明確でシンプルです。「ここに来なさい。話をしよう。」 そして、私たちの応答は、こうです。「主よ、参ります」(詩篇27:8 リビングバイブル)。私たちは神と共にとどまり、神は私たちと共にとどまってくださいます。—マックス・ルケード

    私たちは、神との意識的で個人的な関係を持つために造られました。神を知る恵みにあずかった私たちは、創造主との個人的な関係へと招かれています。… 神は、私たちの人生の苦楽をすべて、共にしてくださるお方です。私たちが何一つ隠し立てしないなら、神はそのすべてを、何の問題もなく受け止めてくださいます。それどころか、私たちが人生のどんな地点にいるときにも、神は私たちを包みこんでくださるのです。—ジョビアン・ワイゲル

    神との友情は、人生のあらゆる経験を神と分かち合うことで築かれます。もちろん、毎日、神とのデボーションの時間を持つ習慣を身につけることは大切ですが、神が望んでおられるのは、あなたの予定表にある約束以上のものです。神は、あらゆる活動、あらゆる会話、あらゆる問題、そしてあらゆる思いに関わることを望んでおられます。あなたは一日を通して、その瞬間に自分がしていることや考えていることについて、絶え間なく終わりのない会話を神と続けることができます。「絶えず祈る」とは、買い物や運転、仕事、その他何であれ日常的なことをしているときも、神と語り合うということです。—リック・ウォレン

    聖書は何と言っているか

    「目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい」(コロサイ4:2)。

    「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである」(1ヨハネ3:1)。

    「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」(1テサロニケ5:16–18)。

    祈り

    天の父よ、私はあなたとの関係をもっと深めたいと願っています。あなたをもっと親しく知り、あなたの性質をもっと豊かに映し出したいのです。… あなたへの信仰と信頼が増し加わりますように。あなたの御言葉への理解を深め、それを日々の生活に適用できるよう、お助けください。私の祈りの生活を強め、あなたの声に耳を傾けることを教えてください。私の人生において成熟する必要のある領域を示し、その課題に立ち向かう勇気を与えてください。日々、自分自身に死に、キリストのために生きることができますように。謙遜と思いやり、そして他者への愛において、成長させてください。主よ、あなたが本来の私として造られたその姿になるよう、私を形作ってください。私の人生が、あなたの変革の力の証となりますように。イエスの御名によって、アーメン。[5]


    1 Tanya Remkiv, “What Does Fellowship with Christ Mean,” December 19, 2022, https://tanyaremkiv.com/2022/12/19/what-does-fellowship-with-christ-mean/

    2 ラウレンシオ修士(ブラザー・ローレンス)が勧めた「イエスの臨在の実践」とは、人生のあらゆる側面において神の臨在を絶えず意識するよう促す、霊的な訓練です。それは、日常の何気ない活動の最中であっても、一日を通して積極的に祈りと黙想を行うことによって、イエスとの深く親密な関係を育むことなのです。

    3 Max Lucado, God Is with You Every Day: 365-day Devotional (Thomas Nelson, 2015),22.

    4 “What Did Jesus Mean When He Said, ‘I Stand at the Door and Knock’?” GotQuestions.org, https://www.gotquestions.org/I-stand-at-the-door-and-knock.html.

    5 “10 Powerful Prayers to Get Closer to God and Find Stillness in His Presence,” My Prayer Item, https://myprayeritem.com/10-powerful-prayers-to-get-closer-to-god/.

     

  • 6月 9 すべての美徳の実践
  • 6月 2 他の人を励ます
  • 5月 26 キリストに従う者にとっての美徳: 自制・節制
  • 5月 19 第1コリント:第14章(26–40節)
  • 5月 12 キリストに従う者にとっての美徳: 優しさ・柔和
  • 5月 5 第1コリント:第14章(1–25節)
  • 2月 24 弟子の生き方(パート3): キリストにとどまる
  • 2月 1 第1コリント:第13章(1–13節)
  • 12月 30 第1コリント:第12章(12–30節)
   

信条

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  • ファミリー・インターナショナル(TFI)は、世界中の人々と神の愛のメッセージを分かち合うことをゴールとする国際的なオンライン・クリスチャン・コミュニティーです。私たちは、誰でもイエス・キリストを通して神との個人的な関係を持つことができると信じます。その関係があれば、幸せや心の平安が得られるだけではなく、他の人を助け、神の愛の良き知らせを伝えようという意欲がわいてきます。

私たちのミッション

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  • ファミリー・インターナショナルが何よりも目標としているのは、神の御言葉のうちに見出される、愛と希望、救いという命を与えるメッセージを分かち合うことによって、より良い人生を皆さんに送っていただくことです。ペースの速い、複雑化した現代社会にあっても、神の愛を日常生活の中で実践することこそ、社会の問題の多くを解決する鍵であると私たちは信じます。聖書の教えにある希望や助言を分かち合うことで、ひとりずつ心が変わって行くことによって、だんだん世界が変わって行き、より良い世界が築かれて行くと信じているのです。

理念

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  • コミュニティー意識

    私たちは、信仰とはコミュニティーにおいて、また他の仲間との関係において、実践されるべきものであると信じています。そして、団結の精神、愛、兄弟愛を育もうと努めます。力を合わせることで、より多くを成すことができます。

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TFI オンラインは、ファミリー・インターナショナル(TFI)のメンバーのためのコミュニティサイトです。TFI は、世界各地で神の愛のメッセージを伝えることに献身する国際的なクリスチャン・フェローシップです。

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第1・第2テサロニケ
パウロがテサロニケの信徒に宛てた書簡の研究と、その教えがいかに現在に当てはめられるか
そのすべての核心にあるもの
キリスト教信仰・教義の基本を扱ったシリーズ