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  • 天国に向かう

    Heavenbound
    April 22, 2025

    引用文集

    オーディオ所要時間: 10:48
    オーディオ・ダウンロード(英語) (9.9MB)

    神が私たちのために持っておられる計画は、ただ食べて飲んで楽しみ、そして死んでいくというものではありません。人生には、それ以上にもっと大切なものがたくさんあります。それに、私たちは天国に向かって生きています。だからこそ、使徒パウロはこう言ったのです。「[わたしは]目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上[天]に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ3:14) そして、人生はこの地上で終わるわけではないので、私たちを現世から天国での来世へと移すことのできる主イエス・キリストに目を留める必要があります。…

    私たちは地上に縛り付けられてはおらず、天に向かう者であることを強調するために、使徒ペテロはこう言いました。「愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。」(1ペテロ2:11) したがって、この世が私たちの永遠の住まいであるかのように考えたり行動したりすべきではありません。私たちはただ、この世を通り過ぎているだけなのです。最終的な行き先は天国、すなわちあがなわれた者たちの暮らす場所なので、私たちは実際には旅の途中にあるわけです。この旅はエキサイティングで挑戦的で、しかも報いがあります。

    天国への旅に出るとき、私たちはその道中で良いことが起こると期待して、わくわくします。そして、旅の終わりに何が待っているかがわかると、さらにわくわくするものです。… ですから、私たちは「互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしよう」ではありませんか。(ヘブル10:25) そう、主についての知識が深まり、天国で私たちを待っているものがよく見えて理解できるようになるにつれ、天国への旅はエキサイティングなものとなるのです。…

    私たちの天国への旅は、報いのあるものです。試練や困難が、私たちが初めの頃に抱いていた興奮をしぼませようとしても、目標を目指して走り続けるなら、その努力は必ず報われます。使徒ヤコブはこう言いました。「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」(ヤコブ1:12) ですから、より大きな報いを見失わないようにしましょう。この旅路に立ちはだかる試練や障害によって、道をそらされてはなりません。…

    この旅においては、信仰によって歩む必要があります。天国は素晴らしい場所ですが、主イエス・キリストを通してのみ、そこに行くことができます。イエスなしに、天国に入ることはできません。だから私は、イエスとその愛を神に感謝するのです。使徒ペテロの言葉は、まさに真実です。「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。 それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。」(1ペテロ1:8–9) アーメン。—テック・ウイ [1]

    天国の永遠の富

    天に目を向け、永遠に神と共に過ごすことになる将来の約束に目を留めることを学ぶなら、それは今日の試練に耐える助けとなります。今、身の回りで起きていることだけに目を向けていると、永遠という大きな視点を見失いがちになるのです。

    使徒パウロは言いました。「もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。」(1コリント15:19 新改訳2017) 私たちは、今経験していることの先にある未来に目を向けなければなりません。そこには、報酬、喜び、そして人生の戦いからの解放が待っているのです。私たちには、楽しみにすべきことがたくさんあります。そして、神を愛する者たちに約束されたことのすべてを思い起こせば、日々の困難や悲しみ、痛みも耐えやすくなることでしょう。

    イエスは言われました。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。… わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14:1–3)

    天国的な視点を保つには、日々の責任や人生における困難から一歩引いて、神の計画や目的というより広い視野で考えるようにする必要があります。それは、自分がこの世にいるのは短い間だけであり、いつかこの人生の苦労も困難も問題もすべて取り除かれて、変わることのない永遠のものだけが残ると覚えておくことです。

    パウロはローマ人への手紙の中で、「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」と書いています。(ローマ8:18) 私たちは、今経験していることについて、神の計画を必ずしも理解できるわけではありません。しかし、たとえ今は、鏡にぼんやりと映る不完全な姿しか見えないとしても、その時が来れば、すべてが完全にはっきりと見えるようになる、と確信することができます。今私たちが知っていることは一部分にすぎませんが、その時には、私たちが神に完全に知られているように、私たちも完全に知るようになるのです。(1コリント13:12

    永遠の価値があるもの、すなわち神の国と神の義(マタイ6:33)に自分の時間を捧げるとき、天に宝をたくわえることになります。そして、「あなたの宝のある所には、心もある」のです。(マタイ6:20–21) —マリア・フォンテーン

    天国への旅路

    一番上の子が亡くなったとき、私の人生はすっかり変わってしまうだろうと思いました。最初の数ヶ月間、それはまったくひどい変化になるだろうと予想していたのですが、実際には、すべての変化がつらいものとなったわけではありませんでした。主は、予想もしなかった良いことを起こしてくださったし、それは10年経った今も、私の心に残っています。

    2013年11月10日、息子は私の家に住んでいました。そして、2013年11月11日には、天国に住むことになりました。その時から、天国はもはや抽象的で神学的な概念ではなく、息子の住まいとなったのです。… 息子の死後、主は私の心と思いと人生に変化をもたらしてくださり、私はそれを「天に向かう変化」と呼んでいます。… 私は天国のことをよく考え、日常の習慣となっていることをするときにも、常に永遠を意識するようになりました。…

    そして、使徒パウロが私の「友」となったのです。パウロの手紙を改めて読んでみると、彼が日常のごく些細なことも含めて、ほぼ何にでも天国を関連付けていることに気づきました。… 天国に関するこの使徒(パウロ)の神学で私が見いだしたのは、すべてのクリスチャンにとって、自分は救われているという永遠の現実が、天国への意識を自然と高めてくれるはずだということです。

    その核心にあるのは、イエスの来臨は「主の日」として知られる、長らく待ち望まれていた神の出現であると、パウロが信じていたことです。… クリスチャンは、回心した時点で、地上におけるこの天の領域に移されます。パウロはそれをしばしば、神の国(神の支配)、新しい創造、御霊の時代、光と呼んでいます。私たちは闇の力から救い出され、神の愛する御子の支配下(国)に移されました。(コロサイ1:13) ですから、キリストを信じた瞬間から、私たちの国籍は実際に天にあるのです。(ピリピ3:20

    さらに、主は私たちが地上にいる間も、将来の天の生活に関する特別な祝福を与えてくださいます。私たちはキリストと結ばれ、それが私たちにとって、天国的な喜びの礎となるのです。パウロはコロサイ人への手紙で、「あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである」と言うことによって、キリストに結ばれるという、私たちが現在いただいている天からの祝福を宣言しています。(コロサイ1:27) さらにパウロは、聖霊の内住[聖霊が信者の内に宿ること]を、将来の天の生活における神との交わりの「保証」、すなわち「手付金」と表現しています。キリストの生涯と死と復活によってもたらされた、これらの新しい現実の結果として、パウロは地につま先を残しながらも、天に足を踏み入れて生きていました。…

    天国への旅路は、あなたの救いという現在と未来の永遠の現実を知ることから始まります。その現実は、あなたに命と希望と喜びをもたらしてくれるでしょう。天に向かう人生は、日常することの中に常に永遠を意識する人生であり、それは、あなたの心と精神と人生における聖霊の恵みのわざなのです。天国についての聖霊の真実を求め、そのわざのために祈りましょう。私には予想外でしたが、主は私の人生において、灰の中から美しいものを生じさせてくださいました。それと同じように、あなたの霊的生活においても、驚くべき展開をもたらしてくださるかもしれません。—キャメロン・コール [2]

    2025年4月アンカーに掲載 朗読:ジョン・マーク 音楽:マイケル・フォガティ


    1 Teck Uy, “Heavenward,” Friends of Jesus Christ, Canada, January 21, 2018, https://friendsofjesuschrist.com/2018/01/21/heavenward/

    2 Cameron Cole, “Looking Heavenward Transforms Our Sorrow,” Crossway, April 18, 2024,
    https://www.crossway.org/articles/looking-heavenward-transforms-our-sorrow/

  • 5月 7 ゆるしの鍵
  • 5月 3 山上の説教(概説)
  • 4月 29 友として語る
  • 4月 25 障害を乗り越える
  • 4月 21 愚かな金持ちのたとえ話
  • 4月 18 イースターの栄光
  • 4月 17 神はご自身の民の賛美を住まいとしておられる
  • 4月 15 与えるという賜物
  • 4月 13 パニックにならず、主を信頼する
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第9章(1–17節)

    [1 Corinthians: Chapter 9 (verses 1–17)]

    March 11, 2025

    わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主にあるわたしの働きの実ではないか。わたしは、ほかの人に対しては使徒でないとしても、あなたがたには使徒である。あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職の印なのである。(1コリント9:1–2)

    パウロはこの章を、自分は自由な者ではないか、使徒ではないか、という反語表現をもって始めています。使徒たちは教会の主要な指導者であり、預言者たちと共に教会の礎となりました。その職には一定の権利と権威と責任が伴います。

    パウロはまた、コリントの信徒たちに、彼がダマスコへの途上でイエスを見たのは事実かどうかと問いかけました。(使徒9:3–8) そうすることで、自分が使徒であることを誰も疑うべきではないと述べていたのです。さらに、コリントの信徒たちがキリストのもとに来ることになったのは、主における彼の働きによることを指摘しました。コリント教会は、パウロの宣教の実なのです。(使徒18:1–11) パウロをよく知らない人たちには疑う理由があったかもしれませんが、コリントの信徒たちは真実を知っていました。彼らこそが、パウロが使徒であることの印、つまり証拠だったからです。

    この章でのパウロの反語的な問いかけは、パウロに反対していたコリント人たちが、彼の使徒としての権威に異議を唱えていた可能性を示唆しています。パウロの説教には聖霊の力が強く働いていたのですから、コリントの信徒たちはパウロの使徒職に敬意を払うべきでした。他の箇所で、パウロはコリントの信徒たちを、彼の「推薦状」と呼んでいます。(2コリント3:2) コリントの信徒たちにとっては、彼らが回心したことだけでも、この点に関するパウロの使徒的権威について納得するには十分だったはずです。

    わたしの批判者たちに対する弁明は、これである。(1コリント9:3)

    パウロは次に、彼を裁いている人たちに対して、さらにいくつもの問いを投げかけることで、弁明を行っています。前章(第1コリント8章)で述べていて、さらに10章でも再び触れている事柄から判断すると、一部の人は、神殿で偶像に供えられた肉を含め、何でも食べたいものを食べる権利があると主張していたようです。彼らは、良心の弱い人がつまずくことのないよう、彼らの霊的な幸福を気遣って、そのようなことを控えるべきだというパウロの教えを快く思いませんでした。(1コリント8:8–9) パウロを裁いた人たちは、その行為は神学的に見て正当なものであり、原則的にはすべてのクリスチャンが自由にそうしていいのだ、とパウロ自身が理解していることを知っていました。彼らにとっては、強いクリスチャンは弱いクリスチャンのために食べないようにすべきだとパウロが主張したことは、この教えと矛盾していると思えたに違いありません。(1コリント8:10–13

    弁明のため、パウロは自分の生活を引き合いに出しています。偶像に供えられた肉を食べることに関する彼の見解は、弱さの表れではなく、彼の人生の指針となっていたキリスト教の基本原則に沿ったものでした。

    わたしたちには、飲み食いをする権利がないのか。わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。それとも、わたしとバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。(1コリント9:4–6)

    パウロは、弁明をするにあたり、いくつもの質問と発言をしています。まず、自分自身と、キリスト教初期の弟子であり、パウロの宣教仲間であるバルナバについて、質問しました。

    1. 彼とバルナバには、宣教しながら食べたり飲んだりする権利があったでしょうか。はい、ありました。

    2. 彼とバルナバには、他の使徒たちのように、信者である妻を連れて歩く権利があったでしょうか。はい、ありました。

    3. 使徒たちの中で、彼とバルナバだけは、自分たちの働きに対して報酬を受けるに値しなかったのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。

    この章の後半で、パウロは自分に与えられていた権利のいくつかをどのように放棄したかを説明しています。どうやら、パウロを裁いていた人たちは、パウロがこれらの権利を利用しようとしなかったのは、彼にはそのような権利がないからだと考えたようです。真の使徒ではないから、これらの権利を行使しないのだ、と判断したのでしょう。そういった考え方に対抗して、パウロは自らの使徒としての権利を確認したのです。天幕(テント)を作って生計を立てていたとはいえ、コリントの信徒たちから食事を与えられ、宣教のゆえに報酬を受け取る権利はありました。奉仕する相手の人たちのために独身を通してはいましたが、結婚する権利もありました。

    いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があろうか。ぶどう畑を作っていて、その実を食べない者があろうか。また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があろうか。(1コリント9:7)

    パウロは、自分とバルナバには受け取る権利があるのに、なぜ受け取らないのかという点に話を移します。ただ、その前に、彼は他の教会指導者の例や一般的な日常生活を引き合いに出して、自分の主張をさらに強めています。

    1. 自分の費用で軍務に服する人はいるでしょうか。いいえ。

    2. 農夫は、自分が生産したものを食べるでしょうか。はい。

    3. 羊飼いは、自分の羊からとった乳を飲むでしょうか。はい。

    パウロは身近な例を使って、人々は自分の仕事で生計を立てる権利があるという点を強調しました。物事の一般的なあり方を例に挙げることで、自分にも権利があることを主張しているのです。

    わたしは、人間の考えでこう言うのではない。律法もまた、そのように言っているではないか。すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている[脱穀している]牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。(1コリント9:8–10)

    ここでパウロは、重大な質問をしています。そのような期待は、単に人間的な見方によるものなのか、それとも神も同様にそのことを確認されたのか、ということです。パウロは、これらの権利が神によって与えられたものであることを示し、聖句を引用して、この点を強調しています。彼は、旧約聖書の律法が、宣教によって生計を立てるという自身の道徳的権利の根拠であると主張しました。パウロは自分の主張を裏付けるために、申命記25章4節にある、「脱穀をする牛にくつこを掛けてはならない」という言葉を引用しています。 聖書の時代には、牛や馬が柱の周りをぐるぐる回りながら、重りを付けた板を引いて、脱穀を行いました。また、牛や馬が単に穀物を踏んで歩くこともありました。旧約聖書の律法では、農民が穀物を踏んで脱穀する家畜にくつこ(脱穀しているものを食べないよう、口につける金具)をはめることを認めていませんでした。

    パウロは、旧約聖書の律法を現在の状況に当てはめて、神は単に、牛ではなく、人間のことを心にかけておられるのだと主張しています。その律法は、脱穀する牛に関するものですが、その根底には、より深い道徳的原則がありました。すなわち、耕す者も脱穀する者も、その分け前を受け取ることを期待して、そうするのだということです。

    もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。(1コリント9:11–12)

    パウロはコリントで霊的な種を蒔いてきたのだから、その働きに相応の報酬を受け取る権利がありました。そして、コリントの信徒たちは彼の宣教によって益を得ているのだから、彼らが他の教会指導者たちを支援しているとすれば、それ以上に、自分こそがその権利を有していると述べています。パウロには、報酬を受けるための十分な権利がありましたが、その権利を行使しなかったのです。むしろ、キリストの福音を妨げるようなことをするよりも、さまざまな苦労を我慢してきました。

    あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。(1コリント9:13–14)

    パウロは、自分には報酬を受ける正当な権利があることを示す最後の論拠として、ユダヤ教の祭司やレビ人が神殿から食物を受け取り、祭壇の供え物の分け前にあずかっていることを指摘しました。それと同じように、パウロは、福音を宣べ伝える者が福音によって生活の糧を得るべきであることを、主が定められたのだと考えたのです。これは、ルカの福音書でイエスが使徒たちに与えられた指示のことを言っているとも考えられます。「それで、その同じ家に留まっていて、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。働き人がその報いを得るのは当然である。家から家へと渡り歩くな。」(ルカ10:7)

    しかし、パウロはさらにこう続けています。

    しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。(1コリント9:15)

    自分の宣教のゆえに報酬を受け取って当然だというパウロの主張は、説得力のあるものでした。一般的な公正さが、彼の主張を裏付けています。そして、最も重要なのは、聖書の律法そのものがこの見解を教えていたことです。パウロの働きに対して報酬が支払われるべきでない理由はありません。

    そのように、パウロは、宣教の相手に経済的支援を要求することはできましたが、自分の権利を行使しようとはしませんでした。彼は宣教の働きによって生計を立てる権利を放棄しましたが、その動機に関する誤解を打ち消しています。パウロが自分の権利を通そうとしなかったのは、それによって、コリントの人たちが報酬を支払うようになるためではなく、使徒としての立場を守るためです。自分がお金目的で宣教していると思われ、そのせいで、福音を受け入れない人が出ることを望みませんでした。イエスにおける神の恵みの福音を「誇り」としていたかったのです。

    わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。進んでそれをすれば、報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務なのである。(1コリント9:16–17)

    パウロは、コリントの人々から報酬を受け取ることなく、福音を伝え続けることを望んでいました。ここでは、福音を宣べ伝えずにはおれないと述べています。つまり、福音を伝えるよう神から召されているので、彼には選択の余地がなく、その命令を果たさなければ神の裁きを受けることになる、ということです。

    パウロはよく、自分や他のクリスチャンたちが奉仕するのは、天での報いや称賛を得たいという願いが動機になっているのだと語っています。彼は、自ら進んで熱心に、しかも無報酬で福音を伝えることで得られる、永遠の報酬を失いたくなかったのです。たとえ、嫌々ながら福音を伝えたり、その働きに対して報酬を受け取ったりするようなことがあったとしても、自分は単に委ねられた務めを果たしているに過ぎない、と彼は考えていました。パウロは、自分の宣教を、単に言われたからする以上のものとするために、金銭を受け取る権利を自発的に放棄したのです。

    (続く)


    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。

     

  • 4月 18 第1コリント:第8章(1–13節)
  • 3月 27 第1コリント:第7章(17–40節)
  • 2月 28 第1コリント:第7章(1–16節)
  • 2月 8 第1コリント:第6章(1–20節)
  • 1月 30 第1コリント:第5章(1–13節)
  • 1月 17 第1コリント:第4章(15–21節)
  • 12月 20 第1コリント:第4章(6–14節)
  • 11月 26 キリストに従う者にとっての美徳: 忠実・誠実
  • 11月 12 第1コリント:第3章(3:18–4:5)
   

信条

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