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  • 敵を愛しなさい

    Love Your Enemies
    March 21, 2024

    ピーター・アムステルダム

    オーディオ所要時間: 11:14
    オーディオ・ダウンロード(英語) (10.2MB)

    山上の説教でイエスは、神の国に属する者は不当に扱われた時に報復したり手向かったりするのではなく、敵を愛するべきだと教えておられます。

    「隣り人を愛し、敵を憎め」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

    あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(マタイ5:43–48)

    イエスは、レビ記19:18を少し言い換えて「隣り人を愛し」とし、次に「敵を憎め」という言葉を添えられました。これは、当時多くの人が聖書をどのように解釈していたかを簡潔な言葉で表したものでしょう。「敵を憎め」ということをはっきり教える聖句はありませんが、それは旧約聖書のいくつかの言葉に暗示されています。たとえば、「主よ、わたしはあなたを憎む者を憎み、あなたに逆らって起り立つ者をいとうではありませんか。わたしは全く彼らを憎み、彼らをわたしの敵と思います。」(詩篇139:21–22)

    旧約聖書には、敵に対して思いやりと善意を示すことについて語る節もあります。「もしあなたのあだが飢えているならば、パンを与えて食べさせ、もしかわいているならば水を与えて飲ませよ。」(箴言25:21) 「あなたのあだが倒れるとき楽しんではならない、彼のつまずくとき心に喜んではならない。」(箴言24:17)

    この点につき、D・A・カーソンは次のように書いています。「あるユダヤ人たちは、『隣り人』という言葉を、他を除外するための言葉と考えていました。隣り人だけを愛していれば良く、敵は憎むべきだと考えたのです。これは実際に、特定のグループの中で教えられていたことです。」[1]

    ここで鍵となるのは、隣り人とは誰を指しているのかということです。旧約聖書にある「隣り人」という言葉は、一般的にユダヤ民族に属する者という意味で用いられていました。レビ記や申命記の全体を通して、「隣り人」という言葉は一般的にユダヤ人同胞を指しています。イエスが言い換えなさった聖句の全体は、次の通りです。「あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。」(レビ記19:18)

    当時のユダヤ人の一般的な考え方では、「隣り人でない者」つまり非ユダヤ人は、愛さなければならないという戒めの対象にはなっていませんでした。しかし、イエスは、隣り人の範囲を広げて、見知らぬ人や、さらに敵でさえも含むようにされたのです。これは、この部分の山上の説教でも、よきサマリヤ人のたとえ(ルカ10:29-37)の中でも明らかです。

    イエスによれば私たちの隣り人とは誰なのかを、ジョン・ストットがこのように説明しています。「[隣り人とは]必ずしも自分と同じ民族や地位、宗教に属する人ではありません。… 神のボキャブラリーでは、敵も私たちの「隣り人」に含まれています。敵が隣り人の一部であるのは、単純に、同じ人間だからであり、あなたはその人が助けを必要としていることを知っているし、いくらか助けられる立場にあるからです。」[2]

    私たちは敵でさえ愛し、私たちを憎む者に親切にし、呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈るべきです。(ルカ6:27-28) なぜでしょうか。それは、私たちが神の子であり、神はそのように人を扱われるからです。

    人間全般について言えば、パウロは、人類全体がアダムの罪によって(そして個人的にも自分自身の罪によって)神を拒んだのであり、それによって神の敵とみなされるようになったと言っています。それでも聖書が言うように、「わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けた」のです。(ローマ5:10) 時の初めから、神は人類を愛してこられました。自分たちの罪によって神に反抗していたというのに、私たちを愛してくださったのです。神の子どもとして、私たちは神と同じように振る舞い、敵を愛さなくてはいけません。

    私たちを迫害し、侮辱する者のために祈りなさいと言われています。イエスが激しくむち打たれ、十字架にくぎ付けされた際、こう祈られたように、私たちも敵のために祈るべきです。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」(ルカ23:34) 私たちは「私たちの父の子」であるので、父の愛を見習うべきです。神は分け隔てをなさいません。陽光や雨という祝福を、正しい者だけではなく正しくない者にも与えてくださいます。神は、ご自身の愛について、対象を制限されません。弟子として、人々に対する私たちの態度は、神の姿勢を反映したものであるべきです。

    イエスはこれまで山上の説教で、何かを求められたらそれ以上に与えること、報復としてお返しをするのは控えること、誰かに訴えられたら上着だけではなくその下に着るものもあげることを弟子たちに教えてこられました。ここではさらに一歩進んで、私たちはそのような人を愛さなければいけないこと、敵でさえも愛すべきこと、相手に対してポジティブな態度を示すべきことを話しておられます。主が語っておられる愛は、自然に湧く愛情や感情的な愛ではありません。むしろ意志から生じる類の愛なのです。受けるに値しないような者も愛することを選ぶ愛です。行動や思いやり、親切によって示される愛です。

    イエスは次に、仮定の例を二つあげておられます。「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。」(マタイ5:46–47)

    自分を愛してくれる人を愛するのは、何も特別なことではありません。イエスのまわりにいた人の中でも最も低く見られていた人たち、あのみんなに憎まれた取税人たちでさえも、自分の家族や友人を愛していました。普段通りの当たり前のことをしても、そのための報いがあるわけではないのだと、イエスは言っておられます。そして、次に、自分の仲間(この場合はユダヤ人仲間)だけにあいさつをしたとしても、それは、偶像崇拝者であると考えて蔑んでいた異邦人も含めて、誰もがしていることだとおっしゃいました。自分の仲間に温かい挨拶をしても、それは特に優れたことではありません。ここでほのめかされているのは、さらに多くのことが信者に求められているということです。

    この説教の前の方で、イエスはこう言っておられます。「わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天[の]国に、はいることはできない。」(マタイ5:20) 天の国に属する者として、私たちは普段から誰もが行っているようなこと以上に行わなければいけないということです。私たちは神に倣い、神の愛をすべての人に示すべきです。私たちを憎み、迫害する人も含めて。

    そしてイエスは最後にこうおっしゃったのです。「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48) ここで使われている「完全」という言葉は、道徳的な完全を意味してはいません。ジョン・ストットは、このように説明しています。

    義に飢えかわくことも、ゆるしを祈り求めることも、継続するものであり、それは、弟子たちがこの人生において道徳的に完全になることをイエスは期待しておられなかったということを、はっきりと示しています。前後関係から、ここで言っておられる「完全」は愛に関して、つまり愛を返してこない人にでさえ示される、神の完全な愛に関してのものだとわかります。実際のところ、イエスがここで使用されたであろうアラム語の言葉の意味は、「すべてを包みこむ」であると学者たちは言っています。[3]

    「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」という指示は、先に出てきた、神に倣うという点に行き着きます。信者の生活様式、そしてその背後にある原則は、社会通念的なものとは異なっているべきです。その方向性とインスピレーションとは、神の性質から生まれ出るものであり、社会通念からではありません。イエスが教えておられたのは神の性質をできる限り反映できるようになるために、ただ律法にある規則や制限に従う以上のことに目を向けなさい、ということです。これは、旧約聖書で何度も繰り返された以下の指示と通ずるところがあります。「あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」(レビ記19:2)

    父がされるのと同様に、人に対する私たちの扱いは、相手が誰であるとか、相手はどのように私たちを扱うのかということで決まるべきではありません。神は人々を愛し、その愛を授けておられます。神を信じない人でさえも、また神を憎んでいる人でさえも。相手がしてくるのと同じような対応はされません。そうではなく、神が彼らを愛するのは、神が愛であるからなのです。私たちも、相手への個人的な感情や、相手からどのように扱われたとか何を言われたとかにもとづいた対応よりも一歩進んだことをするように求められています。そのような対応をする代わりに、私たちは神の愛に支配され、神が愛されるように愛するべきです。私たちがそうするとき、相手の人に対して神の愛を反映することになります。

    聖書全体を通して明らかなことですが、悪を行い続け、神の御子の犠牲によって可能となった神との個人的な関係という贈り物を拒んだ人は、来世において裁きを受けます。(ヨハネ3:36; ヨハネ5:28–29) 神は彼らの(そして私たちの)悪を憎まれますが、一個の人間としては彼らを愛しておられます。そのようなわけで、私たちは、神が彼らを愛するように、個々の人を愛さなければいけませんが、だからといって、その人のしていることやなりつつある姿を容認したり受け入れたりするとか、その人のしている不正行為や神の教えに反する行為に反対の意を述べたり反対の態度を示すことはしないという意味ではありません。悪を憎むのは正しいことです。

    パウロが、「悪を憎み、善から離れず」と言ったとおりで(ローマ12:9 新共同訳)、悪に対する義憤というものがあるのです。ただ、そのような怒りは悪事に対する嫌悪であり、神が憎まれるものを憎んでいることです。個人に向けた嫌悪ではないし、個人的な恨みや執念や腹いせといったものもありません。

    神はすべての人を愛しておられます。その人が神に対して罪を犯していたとしても。神は、彼らの罪に対する神の怒りから救われる方法を教えておられます。敵を愛せよというのは、神がその人を愛しておられるように愛し、その人の益を願いなさいということであり、また永遠の時を神とともに過ごせるようになるため、その人が神を知るに至るよう祈りなさいということです。

    イエスは、私たちが敵を愛することを求めておられますが、それは、私たちの光を人々の前に輝かし、天にいます父である神の性質と性格を最善を尽くして映し出すことによって、神の国に属する者らしく生きなさいということなのです。

    初版は2016年5月 2024年3月に改訂・再版 朗読:ジョン・マーク


    1 D. A. Carson, Jesus’ Sermon on the Mount and His Confrontation with the World (Grand Rapids: Baker Books, 1987), 55–56.

    2 John R. W. Stott, The Message of the Sermon on the Mount (Downers Grove: InterVarsity Press, 1978), 118.

    3 Stott, Message of the Sermon on the Mount, 122.

  • 7月 25 「豊富論者の陣営」と「不足論者の陣営」
  • 7月 23 神の型破りな方法
  • 7月 21 「すぐに」しなさい
  • 7月 19 運が良いと感じますか
  • 7月 17 心を落ち着かせ、穏やかでいなさい—安息に入りなさい
  • 7月 15 律法と預言者(パート2)
  • 7月 11 生き生きとした祈りの生活への鍵
  • 7月 7 天からの励まし
  • 7月 5 生ける望み
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第3章(1-9節)

    [1 Corinthians: Chapter 3 (verses 1-9)]

    June 25, 2024

    使徒パウロは、コリント教会への最初の手紙に叱責を含める必要があると考えました。なぜなら、彼らの不和、嫉妬、争い(特に、指導者や教師についてのもの)は、彼らがまだキリストにある幼な子(乳飲み子)であることを示していたからです。

    兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子[乳飲み子]に話すように話した。[1]

    パウロは、手紙のこの部分を始めるにあたり、コリントの人たちを兄弟と呼んでいます。ギリシャ語で、「兄弟」という言葉には、男性だけではなく、女性の信徒も含まれていました。彼らを兄弟姉妹と呼ぶことで、パウロはキリストにあって彼らと自分とがどのような関係にあるのかを思い起こさせています。パウロがこれから言おうとしていることは、きつく聞こえるし、彼は確かに、強い語調で彼らをたしなめます。しかし、パウロはこの手紙の全体を通して、彼らが神の家族であり、神が彼らを愛して気にかけておられることを思い出させているのです。[2]

    パウロはコリントのクリスチャンを「霊の人」たちと考えていますが、彼らはすべきように振る舞っていないので、「肉の人(肉に属する者)」に話すように話しています。乳飲み子、つまり未熟な子どものイメージを用いて、彼らの言動や態度はクリスチャン的な考え方を持つ人のものではないことを説明しているのです。「肉の人」であることは、他の人と対立したり、けんか腰になったり、特定のクリスチャンが他のクリスチャンより優れているとみなしたり、神の御霊の導きよりも自分の自然な直感に従ったりすることに表れます。

    あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。あなたがたはまだ、肉の人だからである。[3]

    あるコリントの信徒たちは自分のことを誇っていたのにもかかわらず、実際には子どものような振る舞いをしており、成長する必要がありました。イエスの十字架での死という福音の「堅い食物」を正しく理解していなかったのです。したがって、パウロは彼らのレベルで話をしなければなりませんでした。ここでパウロは、以前に「乳」を飲ませていた時のことを振り返っています。彼らは「新生児」の信者だったので、堅い食物は与えられませんでした。それを食べる力がまだなかったからです。それは普通と言えます。しかし、パウロはここで、彼らがまだクリスチャンになりたての頃と、固形食(堅い食物)を消化できているはずの現在とをはっきり対比しています。そして、彼らはまだ「肉の人」、つまり世的な人たちなので、今でも固形食を食べることができないと指摘しているのです。

    あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように[ただの人として]歩いているためではないか。[4]

    パウロが最も懸念している「肉的な」行動とはねたみ(嫉妬)であり、それが分裂をもたらしていることを明確に語っています。コリントの信徒たちは、未信者の世界の人々と同じように振る舞っていました。ねたみは子どもじみた態度であり、自分の地位や所有物のために戦ったり、言い争ったりすることと関係しています。ガラテヤ5:13–26で、パウロは「肉」の働きについて同様のことを書いており、ガラテヤの人たちに「御霊によって歩きなさい」と言っています。彼はそこで、不品行(淫行)、偶像礼拝、争い、ねたみ、そねみなど、通常「肉」の働きとみなされるものを挙げています。[5] ねたみは争いを引き起こします。自分を他者と否定的に比較したり、自分が他者より優れていると言い張ったりするからです。

    パウロは、彼らが肉の人ではないかと問いましたが、その答えは当然「そうです」だと考えていました。彼が指摘している、地位やリーダーシップを巡る彼らの争いやねたみは、彼らが「ただの人として」行動していることを示しています。パウロは、ただの人間的な生き方をすることと、霊的な生き方をすることとを対比させました。

    すなわち、ある人は「わたしはパウロに」と言い、ほかの人は「わたしはアポロに」と言っているようでは、あなたがたは普通の人間[ただの人]ではないか。[6]

    パウロは、第1章12節で言及したパウロ、アポロ、ケパ(ケファ)に話を戻しますが、ただ今回はパウロ自身とアポロだけを挙げています。彼がケパ(ペテロのこと)ではなく、アポロに言及している理由は説明されていません。もしかすると、アポロが雄弁さで知られていたからかもしれません。[7] あるいは単に、アポロとパウロはコリントで宣教したことがあるので、ペテロよりも地元の教会によく知られているためかもしれません。

    アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。[8]

    パウロは自分自身とアポロを例に挙げて、彼らは神の同労者(一緒に仕事をする仲間)なのだから、2人の間に競争心はないことを説明しています。彼らの召命や賜物は異なっているのです。この点については、パウロが後に詳しく書いて、神が御霊を通して与える賜物にはさまざまなものがあることを指摘します。

    パウロは、彼らが信仰に導かれたのはパウロとアポロの働きによるものであることを、コリントの信徒たちに思い起こさせています。そして、彼らが2人のいずれにも執着しないように、自分たちは単に「仕えている」者にすぎないことも思い出させています。コリントの信徒たちに対する2人の働きは神から与えられたものであり、彼らは神の指示に従っただけです。

    わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。[9]

    ここでパウロは、栽培の例えを用いて、彼が初めてコリントを訪れた頃のことを話しています。彼らが当時のことを思い出す時に、彼らの間で主のためになされた働きに目を向けることを、パウロは望んでいるのです。まずパウロがそこに行って、神の働きの種をまきました。アポロはその働きを引き継ぎ、さらに植え付けもしており、彼の宣教によって信仰に導かれた人もいました。アポロが具体的に何をしたかは語られていませんが、おそらく信仰について教え、聖書を説いていたことでしょう。ここで焦点となっているのは、2人が具体的に何をしたかということではありません。大切なのは、パウロが植え、アポロが水を注いでいる間、成長させてくださったのは神だということです。人々が注目すべきなのは神です。指導者たちはさまざまな仕事を神から割り当てられるがままに、現れては去って行きますが、神こそがその働きを継続させる方だからです。

    だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。[10]

    パウロが栽培の例えで説明している第1のポイントは、このプロセスにおいて唯一大切な存在は神であるということです。コリントの信徒が自分たちの指導者をどう見ていたかというと、それは肉的、つまり「ただの人」の見方であり、指導者たちは何者で、何をしてきたかが重要視されていました。しかし、パウロにすれば、神だけが大切な方だったのです。彼はコリントの人たちに、神の働きは私たちがいてもいなくても続いていくことを思い起こさせています。彼らが受ける祝福と、信者の収穫とについて、すべての称賛を受けるに値するのは神です。

    植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。[11]

    パウロが農芸の例によって指摘する2つ目の点は、植える者と水をやる者という2人の労働者は、2つの異なる仕事をしながらも、「一つである」ということです。パウロは、彼とアポロは「一つである」と言っています。共に神の同労者なのです。団結して1つの仕事にあたっており、それぞれ、神が自分に与えられたことを成し遂げています。

    わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。[12]

    パウロが指摘する3つ目のポイントは、彼とアポロは同労者だということです。2人の間には団結があり、それはコリントの信徒たちにも明らかだったことでしょう。2人とも神のしもべであり、神の御心を果たすために力を合わせていたのです。

    コリント教会は神の畑であり、神こそが教会の究極の指導者です。パウロはコリントの信徒たちを神の建物と呼ぶことで、教会は神に所有されており、神の指導の下にあることを告げています。神は一致した教会を建てておられたのです。

    (続く)


    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    1 1コリント 3:1.

    2 1コリント 1:10, 11, 26; 2:1; 3:1; 4:6, 14–15; 6:5, 8; 7:24, 29; 10:1; 11:33, その他多くの箇所(第1コリント書に計28回)

    3 1コリント 3:2–3.

    4 1コリント 3:3.

    5 ガラテヤ 5:19–20.

    6 1コリント 3:4.

    7 使徒 18:24.

    8 1コリント 3:5.

    9 1コリント 3:6.

    10 1コリント 3:7.

    11 1コリント 3:8.

    12 1コリント 3:9.

     

  • 6月 26 キリストに従う者にとっての美徳: 平安
  • 6月 19 苦しみの中に神を見る
  • 6月 11 第1コリント:第2章(9-16節)
  • 6月 4 キリストに従う者にとっての美徳: 喜び
  • 5月 28 もっとイエスのように:愛についての言葉(他の人への愛)
  • 5月 21 もっとイエスのように:愛についての言葉(神の愛)
  • 5月 14 第1コリント:第2章(1-8節)
  • 5月 7 もっとイエスのように:平安・平和についての言葉
  • 4月 30 キリストに従う者にとっての美徳: 愛
   

信条

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