アンカー

  • 愛は多くの罪を覆う

    Love Covers a Multitude of Sins
    March 10, 2020

    引用文集

    オーディオ所要時間: 12:37
    オーディオ・ダウンロード(英語) (11.5MB)

    ことの大小にかかわらず、誰かに不当に扱われたと認識する時、私たちの感情は傷つきがちです。気を害するだけの理由があるのかどうかにかかわらず、それで腹を立てるなら人間関係は損なわれます。それはまるで、相手との関係の中に死角を設けるようなものです。

    あまり認めたくありませんが、私は時々、いとも簡単に気を害してしまいます。傷ついた時に他の人を責めるのは簡単ですが、実をいうと私たちは、自分の感情を制御できるのです。そして私は、気を害するかどうかを選ぶことができます。

    私は以下のように問いかけることによって、自分が簡単に気を害してしまうかどうかを、正直に検討することを学びました。

    • 自分は頻繁に感情を傷つけられていると感じるだろうか?
    • 腫れ物に触るように扱わなければならない相手だと、人から言われたことがあるだろうか?
    • 苛立ちを感じることがしょっちゅうあるだろうか?
    • 誰かが自分に謝るのを期待することがよくあるだろうか?
    • 「君に傷つけられた」という言葉を、絶えず何度も口にしているだろうか?

    ゆるすことが選択であるのと同様、容易に気を害さないこともまた選択です。

    ある時私は、職場でそのような選択を下さなければならないことがありました。新しい人が入ってくるのを楽しみにしていたのですが、残念なことにその女性は初日から私に向かって…そう、気を害するような発言をしたのです。

    彼女の行動と、それに対する私の反応の結果として、私たちは頻繁に衝突するようになり、そのせいでうちのチームは、本来できていたであろうほど団結していませんでした。そんなある日、この女性が最近けがをしたことを知りました。その瞬間に、私は決断を下さなければなりませんでした。「自分は彼女にあんな風に扱われたけれど、それでも喜んで憐れみの手を差し伸べるだろうか?」 何を選ぶべきかはわかりきっていました。

    そこで、ある同僚と私は彼女の代わりに、急遽幾つかの仕事を片付け、彼女が回復するまでその穴を埋めました。しばらくすると、私は上司に、あんな風に扱われたというのに、なぜこの女性を助けるのかと尋ねられました。

    「愛は多くの罪を覆うからです」と私は答えました。この答は1ペテロ4:8からです。詳訳聖書(Amplified Bible)の説明によると、これは愛とはゆるすものであり、人から気を害するようなことをされても気にしないという意味です。

    気を害する理由はいくらでもありましたが、主が私の心に、これは親切にする機会なのだという印象を与えられました。その結果、人間関係が改善されて、もっとプロ意識も高まりました。私は彼女に憐みの手を差し伸べて、自分が扱われたいように彼女を扱いました。気を害されたことにこだわるのをやめて、1ペテロ4:8を生活に組み入れようと懸命に努めました。するとうまく行ったのです!

    十字架を通して与えられたイエスの愛は、私たちの数多くの罪を覆ってくれました。主のあり余るほどの豊かな御恵みを、人生であなたの気を害する人々の上にあふれさせましょう。—ローレル・シェーラー [1]

    *

    1ペテロ4:8には、「何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである」とあり、箴言10:12にも「憎しみは、争いを起し、愛はすべてのとがをおおう」とあります。愛によってどのように罪が覆われるのでしょう?

    罪を「覆う」とは、それをゆるすことであり、ゆるしは愛に関係しています。罪を覆ってくれる愛の最善の例は、イエスが私たちのために犠牲を払い、死んで下さったことです。「父よ、彼らをおゆるし下さい」[2] という、イエスの十字架上での祈りがすべてを物語っています。イエスが私たちの不義をその身に負われたことは、否定できない愛の行為です。[3] それどころか、イエスは罪を覆われただけではなく、それを完全に取り除かれたのです。[4]

    1ペテロ4:8で使徒は、人との関係について語っています。私たち信者は、他の人をゆるすことによって、神の愛を反映するのです。イエスは弟子たちに言われました。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。」[5] 1コリント13:5には、愛は「不当に扱われたことを記憶に留めない」[6] とあります。互いに愛し合う時、私たちは喜んで互いをゆるし合います。愛は喜んでゆるすことによって、罪を覆うのです。

    また、愛は罪について言いふらさないという形によっても、罪を覆います。私たちは、キリストにあっての兄弟姉妹の罪について、耳を傾ける人全員に吹聴したりせず、むしろ思慮分別と慎みを持つべきです。…

    「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」[7]

    愛が多くの罪を覆うもう一つの方法とは、何かと気を害したりしないと決めることです。私たちに対して犯される罪の中には、まともに対峙する価値のないものもあります。個人的な軽い非難や、いやみ、無知な発言、取るに足らない苛立ちの種は、愛によって容易にゆるすことができます。箴言19:11は次のように述べています。「悟りは人に怒りを忍ばせる、あやまちをゆるすのは人の誉である。」 忍耐強くあり、人をうらやんだり利己的にならないなら、気を害することすらずっと少なくなるでしょう。愛をもって行動するとは、他人を自分よりも優先することです。愛は多くの罪を覆うことができます。真の愛の内に行動する時、私たちはささいな気を害するような行為を大目に見、挑発を見逃し、罪をゆるすようになります。—gotquestions.orgより [8]

    *

    何年か前、あるアメリカ人の牧師が、アフリカにある自分の教派の教会の一つを訪れました。説教するために壇上に上がると、会衆の服装から、地元の一部族の人々が部屋の前の方に座り、異なる部族の人々が後ろに座るよう強いられているように思われました。

    その国に憎み合っている部族が多いことを知っていた牧師は、用意してあった草稿を反故にして、団結について説き始めました。キリストにあって自分たちは一つであり、霊的な兄弟を愛するべきであると。そんなとがめるような説教を終えて、訪問中の牧師が席に着くと、現地の牧師が彼の方に身を乗り出してこう言いました。「うちの教会員が別々に座っているのは、互いに愛し合い、敬意を払っているからです。私たちの文化では、教会で最も良い席に相手を座らせることは、訪問中の部族に栄誉を与える一つの方法なのですよ。」

    早まって結論に走らなければ、牧師は恥をかくことも、教会員らの気を害することもなかったことでしょう。説教する前になぜ彼らが別々に座っているのかを尋ねる機会がなかったかもしれませんが、説教の後にそうすることは確かにできました。

    私たちは人間関係において、どれほど頻繁にこれと同じような間違いを犯してしまうことでしょう。無礼なウェイターやだらしない同僚や、無神経な牧師や思いやりのない結婚相手のように見える人たちに対して腹を立てる時、自分たちの関係にどんな影響が及ぶと思いますか?

    以下のような状況を思い描いてみましょう。

    あなたは昼休みに、自宅にいる奥さんに電話して、夕食は何かと尋ねます。彼女はこう言い返します。「わからないわ。急いでるの。後で話しましょう。」 そして電話を切ってしまうのです。

    「早まって結論に走る」ルートに進む代わりに、「相手に有利に解釈する」ゲームをしましょう。

    もしかすると、こういうことかもしれません。

    1. 奥さんはあなたのためにサプライズディナーを準備中で、そのことを知られたくない。あなたからの電話で、何か勘づかれているかもしれないと思って、慌ててしまった。
    2. 幼いジョニーがペルシャ絨毯の上に吐き、ランチが料理用コンロの上で焦げており、誰かが玄関のドアをノックしている。
    3. 奥さんは恐ろしい腹痛や猛烈な頭痛があり、切実に必要としていた昼寝の最中にあなたに起こされた。
    4. 奥さんは別の電話で、1分ごとに3ドル払って電話してきているスリランカの親せきと話している。

    あなたは帰宅すると、その愛らしい奥さんに、なぜそんなに急いで電話を切ったのかと、愛情深く尋ねます。彼女の答があなたの「相手に有利に解釈する」憶測の一つと合っていたら、あなたの勝ちです。そして合っていなかったとしても、やはり勝つのです。午後の間ずっと、「ちょっとそっけなかったじゃないか」と心中で彼女を批判することをしなかったからです。そして最もいいことに、あなたは意思を通わせようと会話し始めるので、願わくはどんな誤解も二度と生じることはありません。

    妻のアセナと私は、町に出かける時にこのゲームをするのが好きです。なぜトヨタのランドクルーザーが自分たちの車の前に割り込んできたのか、レジ係がなぜ私たちをほぼ無視してきたのか、なぜ友人が折り返し電話してくれなかったのかなどについて、何らかの素晴らしい説明を思いつくのです。そして最も重要なことに、自分たちの関係においても、「早まって結論に走って」しまいそうな状況に面した時に、やはり同じことをしようと試みるのです。

    ええ、今でも時々、相手をとがめ、一方的に批判するような態度に戻ってしまうことがあります。けれども、それを直そうと働きかけているのです。

    自分がしょっちゅう他の人に苛立ったり、腹を立てたり、激怒すらすると気づくなら、それはもしかすると、相手に有利に解釈することの益を考慮したことがないせいかもしれません。—マイケル・ウェブ

    *

    馴れ合いはしばしば相手に有利に解釈することの妨げになるが、相手の行動に目を向けて最悪の推測をしたり、結論に走るのではなく、むしろ相手の心に目を向けて最善の推測をすることは、真に愛情深い行動だ。だから試してみなさい。そして、たとえ間違いがあったのだとしても、「愛は多くの罪を覆う」ことを忘れてはいけない。—イエス、預言で語る

    2020年3月にアンカーに掲載 
    朗読:ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ 音楽:ジョン・リッスン


    2 ルカ 23:34.

    3 ローマ 5:8; 1 ヨハネ 4:10.

    4 ヘブル 10:12–14.

    5 ヨハネ 13:34–35.

    6 英語NIV訳より。日本語では「人がした悪を心に留めず」(新改訳2017)、「恨みをいだかない」(口語訳)など。

    7 1 コリント 13:4–7.

  • 2月 9 永続するもののために選択をする
  • 2月 3 道を切り開かれる方
  • 2月 1 私たちの地球を気遣い、世話する
  • 1月 30 新年のチャレンジ
  • 1月 29 変わる関係:救いの結果
  • 1月 13 目が見えないことについて一言
  • 12月 3 命のパン
  • 11月 24 真の富
  • 8月 5 愛が必要
   

ディレクターズ・コーナー

  • イエスが語った物語:悪い小作人(ルカ20:9–19)

    [The Stories Jesus Told: The Wicked Tenants, Luke 20:9–19]

    February 2, 2021

    注:最近『イエスが語った物語』シリーズを見直していて、あるたとえ話が含まれていないことに気づいたので、本記事で扱わせていただきます。

    悪い小作人のたとえ話は3つの共観福音書全てに記されています。[1] 本記事ではルカの福音書に記されたものを中心に扱い、マタイとマルコの福音書からもいくつかのポイントを紹介していきます。ルカの福音書では、このたとえ話は第20章にあり、祭司長、律法学者、長老たちがイエスの権威の出どころを問題とした話と、ユダヤ人にとってカエサル(皇帝)に税金を納めることは律法にかなっているのかと尋ねた時の話との間に記されています。[2]

    イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園作り、これを農夫[小作人]たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。」 [3]

    イエスの時代のイスラエルでは、ぶどうの木やぶどう園はありふれた光景であり、それは今日でも同じです。いくらか土地がある人のほとんどはぶどう園を持っていました。しかし、このたとえ話でイエスが話されているのはもっと大きなぶどう園で、その所有者である地主はそこにおらず、小作人たちによって管理されていました。マタイの福音書には、このぶどう園についてもう少し詳しく書かれており、持ち主はただぶどう園を作っただけではなく、そこに「かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て」 たとあります。[4] これはつまり、かなりのお金をぶどう園につぎ込んだということであり、それに見合う十分な収益を期待していたことでしょう。作られたばかりのぶどう園でぶどうができ始めるには数年かかるので、これは収穫ができるようになった一年目の話だと思われます。この小作人たちは、ぶどう園の主人が受けるべき分を与えることなく、かえって納められるはずの収穫を受け取りに来た主人の僕を袋だたきにしました。そして、この僕に何も持たせないで、主人のもとに送り返したのです。

    「そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。」 [5]

    納められるべきものを受け取ろうとして、主人が二度目に代理人を送ってみると、小作人たちはこの僕を袋叩きにし、侮辱を加えました。「侮辱する」と訳されたギリシャ語の言葉は、彼らが僕をはずかしめ、ばかにし、軽蔑的な扱いを与えたということを意味しています。当然の分け前を納めさせようと、主人が三度目にまた別の僕を送ったところ、彼もおそらく前の二人と同じく袋だたきにあったようで、傷を負わせられました。マルコの福音書[6] とマタイの福音書[7] には、ぶどう園の主人が送った僕たちを、小作人たちが袋だたきにし、石で打ち、さらには何人かを殺しさえしたと書かれています。

    「そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。」 [8]

    僕たちを送ってもうまくいかなかったので、主人は僕よりもずっと権威のある息子を送りました。小作人たちが息子の権威に敬意を示してくれるものと期待していたのですが、そうはなりませんでした。小作人たちは、跡取りを殺し、自分たちがぶどう園を手に入れられるチャンスだとみなしたのです。主人はすでに亡くなっていて、息子がぶどう園の所有者になったと考えた可能性もあります。もしそうだとすると、息子を殺せばぶどう園は所有者がいなくなるので、自分たちのものにできるかもしれないということになります。どう考えたにせよ、彼らは息子をぶどう園の外に放り出して、殺してしまいました。

    イエスはここで、質問をしてそれに答えるという形で、たとえ話の解釈を与えられました。

    「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し[原文では「滅ぼし」]、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」 彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。[9]

    この小作人たちが息子を殺しても、ぶどう園を自分たちのものにできる可能性はゼロでした。殺された息子の父親である、ぶどう園の主人は、息子の命を奪った者たちを滅ぼすだろうからです。マタイの福音書では、さらに強い表現がなされています。「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。」 [10]

    聞いていた人たちは、たとえ話の解釈に衝撃を受けました。ユダヤ教指導者たちに厳しい裁きが下り、異邦人のことだと分かる「ほかの人たち」にぶどう園が与えられるという意味だと知ったのです。イエスが語られたことは、紀元70年に実際に起きました。ローマ人がエルサレム市とユダヤ教神殿を滅ぼし、イスラエルの人たちを他の場所に移したのです。

    イエスは話の結びに、詩篇118篇とイザヤ8章から引用されました。

    イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 [11]

    詩篇118:22に述べられた隅の親石(かしら石)とは、建造物の礎となっている石で、壁の重みを支えるものです。この石がなければ、壁どころか建造物全体が崩壊してしまいます。イエスは隅の親石であり、神の建物(信者の集まりである教会)の土台なのです。

    続いてイエスはイザヤ8:14–15から引用されましたが、この言葉は福音につまずき、石を捨てたゆえに厳しい裁きを受ける人たちのことを示唆しています。最初の部分はユダヤ教指導者が石の上に落ちて打ち砕かれる、つまり破滅的な裁きを受けることについてです。その次も同様の考え方で、石が落ちてきてこの指導者たちを押しつぶすということです。

    イエスがされたたとえ話は、イザヤ書の他の箇所に記された、次の言葉を反映しています。

    わたしはわが愛する者のために、そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。わが愛する者は土肥えた小山の上に、一つのぶどう畑をもっていた。彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。それで、エルサレムに住む者とユダの人々よ、どうか、わたしとぶどう畑との間をさばけ。わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか。わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか。それで、わたしが、ぶどう畑になそうとすることを、あなたがたに告げる。わたしはそのまがきを取り去って、食い荒されるにまかせ、そのかきをとりこわして、踏み荒されるにまかせる。わたしはこれを荒して、刈り込むことも、耕すこともせず、おどろと、いばらとを生えさせ、また雲に命じて、その上に雨を降らさない。万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。[12]

    イエスは悪い小作人のたとえ話を用いて、イスラエルの歴史を述べられたのです。神は預言者たちを送って、ご自身の民に導きと警告を与えられましたが、彼らは次から次へと拒絶され捨てられました。そこで神は御子をイスラエルの人たちに送られ、イエスご自身も彼らがイエスに従ってきて実を結ぶよう、忍耐強く彼らに呼びかけられました。しかし悲しいことに、預言者を常に拒絶してきた人たちは、神の御子を受け入れて信じることも、やはりしませんでした。イエスはこのたとえ話によって、彼らの拒絶の極みとしてご自身に死が訪れることを予告されたのです。

    言うまでもなく、イスラエルの民が全員イエスを拒絶したわけではないと理解しておくことは大切です。イエス自身と最初の弟子たちは、皆ユダヤ人でした。キリスト教を西洋社会に伝える上で大きな役割を果たした使徒パウロもユダヤ人でした。パウロはよく、救いに関しては国籍は何ら関係なく、重要なのは信仰であり、新しく造られることであると強調しています。

    割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。[13]


    悪い小作人(ルカ20:9–19 新共同訳)

    9 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。

    10 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。

    11 そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。

    12 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。

    13 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』

    14 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』

    15 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。

    16 戻って来て、この農夫たちを[滅ぼし]、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」 彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。

    17 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』

    18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

    19 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。


    注:

    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    1 マタイ 21:33–46, マルコ 12:1–11, ルカ 20:9–19.

    2 参照:『イエス、その生涯とメッセージ:権威問題

    3 ルカ 20:9–10.〈新共同訳〉

    4 マタイ 21:33.

    5 ルカ 20:11–12.〈新共同訳〉

    6 マルコ 12:5.

    7 マタイ 21:35.

    8 ルカ 20:13–15.〈新共同訳〉

    9 ルカ 20:15–16.〈新共同訳〉

    10 マタイ 21:41.〈新改訳2017〉

    11 ルカ 20:17–18.〈新共同訳〉

    12 イザヤ 5:1–7.

    13 ガラテヤ 6:15–16.

  • 2月 19 イエス、その生涯とメッセージ:7人の兄弟
  • 3月 5 イエス、その生涯とメッセージ:イエスの質問とやもめの献金
  • 2月 9 イエス、その生涯とメッセージ:権威問題
  • 2月 2 イエス、その生涯とメッセージ:実を結ばないいちじくの木
  • 1月 26 イエス、その生涯とメッセージ:エルサレム入城
  • 1月 19 イエス、その生涯とメッセージ: ベタニヤで香油を塗られる
  • 1月 14 イエス、その生涯とメッセージ:ザアカイ
  • 1月 12 イエス、その生涯とメッセージ:ゼベダイの子たち
  • 12月 30 ようこそ2021年!
   

信条

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  • 私たちの基本的な信条は、おおむね世界中の他のクリスチャンの信条と同じものですが、従来の考え方にとらわれない教理も幾らかあります。イエスは、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することに「律法全体と預言者とが、かかっている」と言われましたが、このイエスが教えられた「神の愛の律法」という基本的な原則を適用することが、私たちの人生と信条の重要な側面となっています。

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