アンカー

  • 神への忠誠

    Loyalty to God
    March 3, 2022

    ピーター・アムステルダム

    オーディオ所要時間:9:34
    オーディオ・ダウンロード(英語) (8.7MB)

    イエスがご自分の言葉や生き方によって教えてくださった最も重要なことのひとつは、私たちの人生において神が極めて大切な存在であるということです。イエスにとって、父はすべてでした。父に完全に自分をささげ、頼っておられたし、ご自分についてくる者たちに、同じようにして生きることを教えられました。信仰の厚い、キリストに似た者となるために最初にすべきなのは、存在するすべてのものを創造し、すべての人を愛して思いやる、人格があって生ける神、全能の方として、神をとらえることです。神はどこか遠くの存在ではありません。宇宙を創造して、それを時計のネジのように巻き、あとは歩き去って、宇宙が勝手に動くようにさせておられるわけではないのです。

    旧約聖書全体が、神が人類と触れ合う物語であり、旧約聖書に描かれた神と人類との触れ合いの物語を通して、私たちは神が生きていて人格があり、霊であり、聖く、義であり、公正であり、忍耐強く、憐れみ深く、愛情深く、自存し、永遠であり、全知全能で偏在される方であることを知ります。神は私たちの創造主であり、私たちの存在の支え主であるので、最も大切な関係を持つ相手です。私たちの愛や崇拝、信心、従順、忠誠をささげるにふさわしい方です。

    そのような献身を簡潔かつ包括的な言葉にあらわしたものが、神がエジプトでの奴隷生活からイスラエルの民を救い出した後に与えられた十戒のうち、第一戒に見られます。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」[1] 最も大切な戒めは何であるかと尋ねられた時、イエスは同じことを別の言葉にして答えられました。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。」[2]

    「わたしのほかに、なにものをも神としてはならない」というのは、私たちの人生において、何か他のものを神以上に大切にしてはいけないということです。他のものを好きになったり、大事に思ったりしないということではありません。非常に好きだし、大事に思っているものが他にもあるのは確かです。ただ、他の何にもまさって神を愛することが究極の優先事項なのです。何と言っても神こそがすべてのものの創造主であり、私たちの好きなものをすべて造られた方です。両親も配偶者も子どもも、兄弟姉妹や友人、ペットなどもです。イエスの言葉や旧約聖書の中では、神を求めたい、神を愛して仕えよう、神に従って行こうというときに、心と魂をつくしてそうすることが求められています。

    「今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え…」[3]

    私たちは、神とその言葉に忠実であるべきです。この忠実であることへの期待は旧約聖書の中に見られ、神がイスラエルと結んだ契約にもとづいています。つまり、神が彼らの神となり、彼らが神の民となるということです。これによって、彼らは神の戒めを守ることとなり、神もお返しに彼らが住める土地、自分たちのものと言える土地を与え、彼らの面倒を見て必要なものを与えるということになりました。

    契約を忠実に守ることへの期待は、新約聖書にも同様に書かれています。イエスが私たちのために血を流されたことで、神とその民との間に、さらにすぐれた新しい契約、永遠の契約が結ばれました。[4] イエスへの忠誠は家族への忠誠をしのぐものであると言われたことに、イエスへの愛と忠誠が期待されていることがわかります。「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」[5]

    イエスが実践された原則であり、また、聖書が教えているのは、私たちの最優先事項とは心をつくして神を愛することだというものです。私たちは何よりもまず神を愛します。それに次いで、両親や配偶者、子ども、家族などを愛するのです。神を何よりも愛するからといって、他の人への深い愛が奪い去られるわけではありません。そうではなく、その愛を正しい視点からとらえるということです。

    何よりもまず神を愛することこそ、イエスのされたことでした。神を何よりも愛されたので、父の御心にゆだねて十字架にかかり、私たちが神の子ども、神の家族の一員となれるようにしてくださったのです。

    自分を創造し、愛して思いやってくださる方、忠誠をつくす相手であるその方を愛していることから自然に生じる行動は、礼拝(拝む・拝する)です。神が神たる方であるがゆえに、また神がなさったことのゆえに、私たちは神を礼拝します。

    旧約聖書で、礼拝には祈りも含まれていましたが、主として、神殿での捧げものに重きが置かれていました。それは動物の犠牲であり、また、麦粉、油、ワインもです。イエスが井戸のそばで、ある女と話された際、これから何かが変わろうとしていること、つまり礼拝をする場所が大切なのではなくなる時が来るということを語られました。つまり、ユダヤ人にとっての神殿やサマリヤ人にとってのゲリジム山といった神聖な場所ではなく、信者こそが、父とイエスと聖霊が住まわれる場所となるということです。

    イエスは彼女に言われました。「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。…しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。」[6]

    私たちが誰をまたは何を礼拝するかは、自分の人生で誰をまたは何を第一にしているのか、また誰に忠誠をつくしているのかにかかっています。サタンがイエスを試みた時、忠誠をつくす相手を変えさせよう、この世の富や栄華によって誘惑しよう、としました。すると、イエスは彼にこう言われました。「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある。」[7]

    イエスはご自身の父のことを福音書で百回以上も言及されており、そうすることによって、神についての正しい信仰と理解、また神との正しい関係を持つことの大切さを伝えておられました。神は旧約聖書の中で、ご自身の性質や性格をその民にあらわしてこられたし、イエスが地上におられたあいだのイエスの言葉や行動を通して、さらに多くをあらわしてくださったのです。

    イエスは、人が神と個人的に持つことのできる関係について、理解を深めさせてくださいました。神が私たちの父であり私たちが神の子であるという概念、私たちはそのような関係にあるという概念を、イエスは前面に押し出されました。そうすることで、私たちと神との関係が、より個人的なものとなるようにしてくださったのです。私たちは神の子であり、神は私たちを愛し、世話してくださいます。人生のすべての面について、完全に、また全面的に、神を信頼することができます。もう思い煩わなくていいのです。神は私たちのことをご存じであり、愛しておられ、また私たちに何が必要であるかもご存じなのですから。[8]

    旧約聖書で、神は幾度も父として表現されてきましたが、直接そのように話しかけられたことはありません。イエスは、神に話しかける際の親密な呼称として「父」という言葉を使い始められました。それはアラム語の「アバ」で、人が自分の父親を呼ぶときに使う愛情のこもった言い方です。イエスは、父が私たちを愛し、ご自身の子として取り扱っておられること、また、人が自分の愛情深い父親との関係においてするように、私たちも家族特有の親密さをもって神との関係を持てるということを、わからせようとなさいました。

    使徒パウロは次のように指摘しています。「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。」[9] イエスは御子なる神というただひとり独特な存在でしたが、私たちもまた神の子であり、父は子として私たち一人ひとりを愛し、思いやり、大切にしてくださいます。

    私たちが神と持つことになっている関係とは、よそよそしく冷たい、恐れに満ちたものではなく、愛と信頼に満ちたものです。天の父とどのような関係を持つべきかがわかるなら、個人としての自分の価値を知り、かつ信じることができるようになるはずです。神からすれば、私たちは子どもとして価値ある存在です。ということは、私たちも自分の価値を認めるべきです。

    イエスは父との関係を私たちにあらわしてくださり、それは愛と信頼の関係でした。そうすることで、私たちもどのような関係を神に対して持つべきなのか、手本を示してくださったのです。神は私たちの創造主であって、私たちとは比べ物にならないほど大いなる方であり、それでいて私たちを愛してくださるのだと理解するならば、神を賛美し、礼拝し、愛し、神に従い、神に栄光を帰するようなことを行いたいと願うようになるはずです。

    初版は2016年3月 2022年3月に改訂・再版
    朗読:ジョン・マーク


    1 出エジプト 20:2–3. 聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。

    2 マルコ 12:30.

    3 申命 10:12.

    4 参照:ルカ 22:20; ヘブル 7:22, 13:20.

    5 マタイ 10:37.

    6 ヨハネ 4:21–24.

    7 マタイ 4:8–10.

    8 マタイ 6:8, 31–33.

    9 ローマ 8:15–16.

  • 1月 28 神の御前にいればそれで十分
  • 1月 19 イエスを中心に
  • 1月 13 新しい年への励ましの言葉
  • 12月 29 新年を迎え入れる
  • 12月 19 私のクリスマスの奇跡
  • 12月 17 クリスマスの辛さの中で
  • 12月 14 惜しみなく与えてくださる神
  • 12月 9 救い主を思い起こす
  • 12月 7 良き知らせ
   

ディレクターズ・コーナー

  • 第1テサロニケ:第2章(パート1)

    [1 Thessalonians: Chapter 2 (Part 1)]

    January 17, 2023

    使徒パウロ、シルワノ(別名シラス)、テモテは、迫害によりテサロニケを発ち、マケドニアの南にあるローマの属州、アカヤ(アカイア)に向かいました。[1] アカヤでしばらく過ごした後、パウロは南部のコリントに移りました。彼がテサロニケ人への第一の手紙を書いたのは、そのコリントからです。

    パウロはこの手紙の冒頭で、テサロニケの信徒たちに、自分たちは祈りの時に常に彼らのことを覚えていると伝えています。[2] また、彼らがマケドニアとアカヤ一帯にいる信者全体の模範になったことに言及しました。[3] そして、手紙は第2章に入ります。

    兄弟たちよ。あなたがた自身が知っているとおり、わたしたちがあなたがたの所にはいって行ったことは、むだではなかった。それどころか、あなたがたが知っているように、わたしたちは、先にピリピで苦しめられ、はずかしめられたにもかかわらず、わたしたちの神に勇気を与えられて、激しい苦闘のうちに神の福音をあなたがたに語ったのである。[4]

    パウロはテサロニケの信徒たちに対し、パウロの訪問が良い結果をもたらし、失敗でなかったことは、彼ら自身が知っていると指摘しています。テサロニケの人々は、パウロとその一行がどんな人たちであるかを知っていました。[5] この章の最初の12節は、この3人の使者がテサロニケにいる間に示した清廉潔白な性格に焦点が当てられています。彼らはそこで、聴講料を求めずに福音を伝えました。それは、当時の巡回哲学者たちが町に来て話をする目的が、聴衆のためではなく、自分の経済的利益のためであったのとは対照的です。そのような哲学者たちについて、ある著者は次のように述べています。「従って、内容が乏しく、何一つ良い結果がもたらされなかったため、彼らはむなしく空虚であると評されていました。」[6]

    パウロはテサロニケの信徒たちに、パウロと一行が以前、「ピリピで…はずかしめられた」ことを思い起こさせています。ピリピ(フィリピ、ピリッポイ)はテサロニケの東方160キロにある町です。パウロとシラスは、そこで逮捕され、裁判にかけられないまま、服をはぎ取られ、むちで打たれ、牢に入れられて、足かせをはめられました。[7] 彼らはピリピで福音を伝えたため、苦しみに会った後だったのに、それでも「激しい苦闘のうちに」テサロニケの人々にメッセージを伝えたのです。

    いったい、わたしたちの宣教は、迷いや汚れた心から出たものでもなく、だましごとでもない。かえって、わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語るのである。[8]

    テサロニケの人々は、パウロたちの宣教がだましごとでも、不純な動機から出たものでもないことを分かっていました。パウロは、自分のメッセージに反応した人たちを利用してお金を稼ごうとしていたわけではないし、彼らをだまして信じ込まそうとしていたのでもありません。ある著者は、このように書いています:

    パウロは、彼のごまかしのメッセージという餌を愚かにも鵜呑みにして引っかかる人を、釣り上げようなどとはしなかったと主張しているのです。[9]

    また別の著者は、このように述べています:

    テサロニケ人に福音を伝えるにあたり、そのメッセージは偽りでなかったし、動機も不純でなく、やり方もごまかしによるものでありませんでした。この福音の使者たちは、彼らに無理強いする押し売りのような人たちではなかったのです。[10]

    パウロはさらに、自分たちが「神の信任を受けて[神に認められて]福音を託された」 と述べています。これは、まず試された期間があり、その後、彼らに与えられた仕事をすることを認められたということになります。この試しの期間がいつだったのか、またどのような状況を指しているのかは、はっきりしていません。ある著者は、このように語っています:

    パウロとその仲間たちの人生において、これがいつどのように起こったのか、私たちは推測することしかできません。パウロの場合、この試しの期間は、アラビアに3年間滞在していた時のことかもしれません(ガラテヤ1:16–18)。彼は、生まれる前からでさえ神によって使徒に選ばれていましたが(ガラテヤ1:1,15)、それでも、試しの期間が与えられ、その後、神は彼に宣教を託すことを認めて証印を押されたのです。[11]

    パウロとその仲間たちの試しの期間に何が求められたにせよ、彼らはテストに合格しました。彼らは神の承認を受けていたのであり、テサロニケの人々は、パウロが彼らと共にいた時に語ったことや、それ以来書いてきたことは、神に承認されたものであると認めなくてはいけませんでした。

    神の委任を受けた者として、彼らの願いは神を喜ばせ、神に仕えることでした。「わたしたちは…人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語るのである。」 [12] パウロが、人間に喜ばれるために語るのではないと言ったのは、他人をだまし、動機が不純な人、つまり自分の益のために、何よりも他人に気に入られることに関心を持つ人がするような話し方をしないということです。他人を喜ばせようとする人たちとは対照的に、パウロは、他人に喜ばれるために語ることはせず、神に喜ばれることが目的だと主張します。パウロの著作の他の箇所でも、神に喜ばれることの大切さが述べられています。

    今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。[13]

    最後に、兄弟たちよ。わたしたちは主イエスにあってあなたがたに願いかつ勧める。あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。[14]

    パウロは、自分が喜ばせたいと願っている神のことを、「わたしたちの心を見分ける[試す、調べる]神」と呼んでいます。神は心を試す方であるという捉え方は、旧約聖書の随所に見られます。

    わが神よ、あなたは心をためし、また正直を喜ばれることを、わたしは知っています。[15]

    どうか悪しき者の悪を断ち、正しき者を堅く立たせてください。義なる神よ、あなたは人の心と思いとを調べられます。[16]

    銀を試みるものはるつぼ、金を試みるものは炉、人の心を試みるものは主である。[17]

    「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである。」 [18]

    パウロは、この旧約聖書にある表現を用いて、自分を調べてくださった神が、彼は福音を託すにふさわしい者であると認めてくださったことを説明しています。

    わたしたちは、あなたがたが知っているように、決してへつらいの言葉を用いたこともなく、口実を設けて、むさぼったこともない。それは、神があかしして下さる。また、わたしたちは、キリストの使徒として重んじられることができたのであるが、あなたがたからにもせよ、ほかの人々からにもせよ、人間からの栄誉を求めることはしなかった。むしろ、あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。[19]

    パウロは、3つの点について否定することで、自分たちの誠実さの説明を続けました。ひとつ目は、彼と同労者たちが「へつらいの言葉」を用いなかったということです。古代の著者たちは、へつらいをとがめました。その一人、テオプラストスは、へつらいは「恥ずべき商売であるが、へつらう者はそれで儲かる」と語り、さらにこう書いています。「へつらう者は人に気に入られそうなことを語り、また行うことに、あなたは気づくだろう。」アリストテレスはこう語ります。「お金、あるいはお金で買えるものという形で利益を得るために、人を喜ばせることを目的とする人は、へつらう者だ。」 フィロン(ユダヤ人哲学者)は、へつらいを、詐欺、欺瞞、虚偽の発言と同列に置いています。

    2つ目は、「口実を設けて、むさぼったこともない」というものです。他の英訳聖書では、パウロには「貪欲な動機」(CSB)がなかった、また、「お金を得るためだけに、あなたの友人であるふりをしなかった」(NLT)などと訳されています。パウロがテサロニケに行った目的は、貪欲にお金を得ることではありませんでした。彼はこの点を強調して、「それは、神があかしして下さる」と語ります。

    お金のためにしているのではないということに加え、パウロは3つ目の点として、自分たちは「人間からの栄誉を求めることはしなかった」と言いました。パウロの言う「栄誉(栄光)」とは、宗教的な意味での栄光ではなく、非宗教的な意味での栄光、すなわち名声や名誉、評価といったものです。多くの演説者は、名声と富を求めていました。ある著者は、このように説明しています:

    パウロのいた世界では、人前で話すことが一種の主要スポーツ競技であり、成功した弁論家やソフィストは、スーパースター選手かハリウッドのセレブのように扱われていたので、金銭的な利益は別として、栄光(ドクサ)だけでも十分に強い誘惑でした。[20]

    パウロとシラスとテモテは、「キリストの使徒として重んじられることができた」けれど、テサロニケや他の地域のクリスチャンに対して、彼らに栄誉を授けるよう要求することはありませんでした。彼らは誇大な称賛を得ようとはしなかったのです。パウロはこの点を強調して、こう言いました:「あなたがたからにもせよ、ほかの人々からにもせよ、人間からの栄誉を求めることはしなかった。」 [21] パウロは、「ほかの人々」とは誰のことなのか記していませんが、ピリピやエルサレムといった他の地域にいる信徒たちのことを言っているのかもしれません。

    パウロは3つの点について否定をした上で、最後に、自分たちは子どもを優しく世話する母親のようであったと述べました。パウロの時代には、赤ちゃんの授乳は乳母によってなされていました。その子の母親ではない人が授乳していたのです。そのような乳母とは対照的に、パウロは自分のチームを、わが子をみずから優しく育て、世話する母親になぞらえました。それからパウロは、より分かりやすい言葉で説明しています。

    このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである。[22]

    パウロがテサロニケの人々への愛を表現するためにここで用いた言葉(「慕わしく思っていた」)は、非常に独特なものであり、新約聖書の他の箇所には見られないものです。他の英訳聖書では、「あなたがたを愛おしく思ったので」(CSB)、「そのように、あなたがたに深い愛情を抱いたので」(NAS)などと訳されています。パウロはさらに、テサロニケの人々に対する自分たちの気持ちは、互いから離れていると子どものことが恋しくなる、愛情深い親のようなものであることを説明しています。それほどの気持ちがあるので、パウロたちは彼らに福音ばかりではなく、自分たち自身をも与えることにしました。それは、テサロニケの人々への確固たる献身を表しています。パウロは、この書簡で18回、彼らを「兄弟」(女性も含まれます)と呼んでいます。信徒たちの多くは、クリスチャンになったために家族から疎外されていたと思われますが、今や神の家族の中に自分のアイデンティティを見出したのです。

    兄弟たちよ。あなたがたはわたしたちの労苦と努力とを記憶していることであろう。すなわち、あなたがたのだれにも負担をかけまいと思って、日夜はたらきながら、あなたがたに神の福音を宣べ伝えた。[23]

    パウロはテサロニケの信徒たちに、彼らと一緒にいた際、福音を伝えただけではなく、労苦し努力していたこと、つまり、経済的な負担を彼らにかけないように仕事をしていたことを思い起こさせています。他にも、使徒行伝や書簡に、パウロが働いていたことについて書かれている箇所があります。例えば、使徒行伝にはこうあります:

    その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。そこで、アクラというポント生れのユダヤ人と、その妻プリスキラとに出会った。…パウロは彼らのところに行ったが、互に同業であったので、その家に住み込んで、一緒に仕事をした。天幕造りがその職業であった。[24]

    当時のテント(天幕)は通常、革でできており、「革職人」という表現のほうが良いのかもしれません。ユダヤ教の教師は、何らかの仕事をして自分の生活を支えることが求められていたので、パウロはラビ修行の一環として、早い時期にこの職業を身に着けたのでしょう。

    パウロは、日夜働きながら、「あなたがたに神の福音を宣べ伝えた」と書いています。ある著者は、このように説明しています:

    パウロは作業台で長時間過ごし、テントや関連製品を作るために革を切ったり縫ったりしながら、自分の生活を支えるだけではなく、一緒に仕事をしていた人や客に福音を伝えていたのです。[25]

    (続く)


    注:

    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    1 アカヤ(アカイア州)は、次の10の節で言及されています: 使徒 18:12, 27; 使徒 19:21; ローマ 15:26; 1コリント 16:15; 2コリント 1:1, 9:2, 11:10; 1テサロニケ 1:7, 8.

    2 1テサロニケ 1:2.

    3 1テサロニケ 1:7.

    4 1テサロニケ 2:1–2.

    5 1テサロニケ 1:5.

    6 Abraham J. Malherbe, Gentle As A Nurse. Novum Testamentum: Leiden, Vol. 12.

    7 使徒 16:19–24.

    8 1テサロニケ 2:3–4.

    9 Jeffrey A. D. Weima, 1–2 Thessalonians: Baker Exegetical Commentary on the New Testament (Grand Rapids: Baker Academic, 2014), 135.

    10 Gene L. Green, The Letters to the Thessalonians (Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 2002), 119.

    11 Green, Letters, 120.

    12 1テサロニケ 2:4.

    13 ガラテヤ 1:10.

    14 1テサロニケ 4:1.

    15 歴代上 29:17.

    16 詩篇 7:9.

    17 箴言 17:3.

    18 エレミヤ 17:10.

    19 1テサロニケ 2:5–7.

    20 Weima, 1–2 Thessalonians, 141.

    21 1テサロニケ 2:6.

    22 1テサロニケ 2:8.

    23 1テサロニケ 2:9.

    24 使徒 18:1–3.

    25 Weima, 1–2 Thessalonians, 151.

     

  • 1月 31 決断、決断
  • 1月 27 第1テサロニケ:第1章
  • 1月 6 第1テサロニケ:前書き
  • 12月 6 ルツ物語(パート4)
  • 12月 2 クリスマスの希望
  • 11月 29 結婚におけるコミュニケーション
  • 11月 22 ルツ物語(パート3)
  • 11月 15 ルツ物語(パート2)
  • 11月 8 リマインダーという祝福
   

信条

もっと見る…
  • ファミリー・インターナショナル(TFI)は、世界中の人々と神の愛のメッセージを分かち合うことをゴールとする国際的なオンライン・クリスチャン・コミュニティーです。私たちは、誰でもイエス・キリストを通して神との個人的な関係を持つことができると信じます。その関係があれば、幸せや心の平安が得られるだけではなく、他の人を助け、神の愛の良き知らせを伝えようという意欲がわいてきます。

私たちのミッション

もっと見る…
  • ファミリー・インターナショナルが何よりも目標としているのは、神の御言葉のうちに見出される、愛と希望、救いという命を与えるメッセージを分かち合うことによって、より良い人生を皆さんに送っていただくことです。ペースの速い、複雑化した現代社会にあっても、神の愛を日常生活の中で実践することこそ、社会の問題の多くを解決する鍵であると私たちは信じます。聖書の教えにある希望や助言を分かち合うことで、ひとりずつ心が変わって行くことによって、だんだん世界が変わって行き、より良い世界が築かれて行くと信じているのです。

理念

もっと見る…
  • 多様性と革新

    ミニストリーやミッションといった奉仕において、創造性や自発性が重んじられます。神が導いておられ、私たちが神に従うという行動をとる時には、何でも可能となります。

TFI について

TFI オンラインは、ファミリー・インターナショナル(TFI)のメンバーのためのコミュニティサイトです。TFI は、世界各地で神の愛のメッセージを伝えることに献身する国際的なクリスチャン・フェローシップです。

TFI について詳しくお知りになりたい方は、私たちのグローバルサイトをご覧ください。

TFI メンバーの方は、 ログイン して他のコンテンツも見ることができます。

最近のシリーズ

もっとイエスのように
私たちの人生において、キリストと似た性質を身につけていくこと
イエス、その生涯とメッセージ
私たちの人生の基礎となっている、福音書からの根本原理
そのすべての核心にあるもの
キリスト教信仰・教義の基本を扱ったシリーズ