アンカー

  • 孤独という贈り物

    The Gift of Loneliness
    March 19, 2019

    引用文集

    オーディオ所要時間: 10:16
    オーディオ・ダウンロード(英語) (9.4MB)

    一人きり(alone)になることと、寂しい(lonely)というのは別々のものです。人は一人きりでも寂しいとは限らないし、大勢いる部屋にいても寂しくなることがあります。ですから、寂しいとは心の状態であり、他の人間から切り離されているという気持ちから生じた感情なのです。寂しい人は、非常に深い孤立感を抱きます。

    旧約聖書で「寂しい」あるいは「孤独」と訳されているヘブル語は、「一人だけの、一人きりの、捨てられた、哀れな人」という意味です。この世界で自分は一人きりだ、一人も友がいない、誰も関心を払ってくれない、自分に何が起こりうるかなど気にかける人は誰もいない、私たちが死んでも誰も気にしない、誰もお墓で涙を流してくれないといった思い以上に、私たちの心を襲う深い悲しみはありません。

    ダビデ王以上に痛切な孤独感を抱いた人はいないでしょう。神に向けて一連の切実かつ心からの嘆願をするにあたり、ダビデは孤独と絶望のうちに呼ばわりました。自分の息子が彼に敵対して立ち上がり、イスラエルの民が彼を追ってきたので、彼は街から逃げて自分の家や家族を去らざるを得ませんでした。一人わびしく苦しんでいた[1] 彼のただ一つの拠り所は、神に頼り、神の恵みと介入を嘆願することだけでした。[2] なぜなら、彼は神のみに望みを置いたからです。

    興味深いことに、「寂しい(lonely)」という言葉が人の状態を描写するものとして新約聖書に出てくることは一度もないことに着目してください。新約聖書では、「寂しい」という言葉は二度しか出てきませんが、両方とも、イエスが一人きりになるために行かれた、人のいない荒れ果てた場所[3] を指しています。

    寂しさの原因が何であれ、クリスチャンにとってその解決策はいつだって同じであり、それはキリストとの慰めを与えてくれる交わりです。主との愛情深い関係は、主のために獄に幽閉されたり、さらには命を失ったりさえした無数の人々をも安心させ、励ましてきました。主は「兄弟よりもたのもしい(親密な)友」であって、[4] 私たちのために自分の命を捨てられたのであり、[5] 私たちを決して離れたり捨てたりせず、世の終わりまで私たちとともにいると約束して下さいました。[6] 私たちはそれを最もよく表している昔の賛美歌から慰めを得ることができます。「友は私を裏切るかもしれない、敵は私を激しく攻撃するかもしれない。しかし主は最後まで私とともにおられる。ハレルヤ、素晴らしい救い主よ!」—gotquestions.org より [7]

    *

    ある晩、ベッドに横たわって、チクタクと鳴り続ける時計の針の音を聞いていると、耐え難いほど強烈な孤独感に襲われました。私は頭を毛布で覆い、涙を流しました。とても悲しく孤独に感じた私は、虚しく痛烈な痛みを抱えた心から、声に出さない祈りを天に放ったのでした。

    すると、突然、自分がベッドの中ではなく、別の場所にいることに気づきました。美しく静かな園で、両脇に色とりどりの草花が咲き乱れる、曲がりくねった石畳の小道を歩いていました。前を見ると、誰かがこちらに向かって歩いてきます。とても背の高い男性で、陽の光よりも明るく、それでいて月よりも優しい光で輝いていました。私のところまで来ると、その人は長いあいだ私を抱きしめてくれました。そして、言葉を語ることなしに、深い愛と、完全な受容を表す暖かさを伝えてくれたので、それは私を安心させ、恐れを和らげました。私は「イエス様に違いないわ!」と思ったのを覚えています。

    その人は向きを変え、ついてくるようにという身振りをして、小道を歩き続けました。歩いていると小さな川がありました。川のほとりで彼はひざまずき、両手で地面を掘り始めました。すると、間もなくその指の先から一粒の美しい真珠が現れました。私の拳ほどもある大きさで、太陽の光が当たると虹色の輝きが乳白色の表面を渦のように覆いました。彼は真珠を手にとって両手で私に渡してくれました。そしてにこっと微笑んで、こう言ったのです。「これは孤独の贈り物だよ。」

    次の瞬間、目を開けると私はまたベッドの上にいましたが、先ほど見たものの記憶はまだ鮮明に残っています。本当にそこにいたように感じました。この経験は私を慰め、ものごとに対する見方を変えてくれました。今まではずっと孤独を苦痛としか見ていませんでした。でも、醜い棘の薮と見えたものは、バラの花が咲くところでもありうると気づいたのです。少しずつ、私は孤独を呪いとしてではなく、イエスが人生のその時点での私に与えたかった贈り物として見るようになりました。

    それから数ヶ月間、私はイエスと、イエスの愛、御言葉から慰めと信頼を引き出すことを学びました。孤独なひとときは、主に語り心の中の主の声に耳を傾ける特別な時となりました。私は主が、心の奥深くの恐れや希望や秘密を打ち明けられる最高の友であることを知りました。主はいつだってありのままの私を愛し、受け入れてくれるとわかったからです。私に対する主の驚くべき無条件の愛は、それまで戦いとなっていた悲しみや自信喪失、疎外感の代わりに、素晴らしい平安と確信と喜びで私を満たしてくれました。

    もしあなたが孤独と戦っていたとしても、絶望する必要はありません。イエスは誰よりもあなたを愛し、ほかの誰よりもあなたを理解しておられることを思い出してください。あなたはこの孤独の時が、姿を変えた贈り物であると知るかもしれません。主が与えて下さる姿を変えた贈り物は、計り知れない愛と共に私たちのところに来るのであり、それを通して私たちは試練よりもはるかに長く続く宝を手に入れることができるのです。—エベリン・シクロフスキー

    *

    人の魂は孤独であるというのは事実です。私たちは二人単位で生きているのではありません。一人で生きているのです。私たちの道は交わったり交差したり、あるいは平行に進むかもしれませんが、完全に合わさることは決してありません。それはいつまでも自分だけのものなのです。完全な満足と理解を求めて他の人に目を向けねばならないとしたら、私たちは失望するでしょう。

    私たちは、言葉という不完全な媒介には頼らない方と交わることができるし、主の目は私の魂の願いや反応を、まるで開かれた本を読むかのように読むことができるので、私は、始まりも終わりも知らない愛、私の幸せのためにいかなる犠牲がかかろうとも止まることのない愛を確信することができます。それは、主が私を持ち上げることのできるよう身を屈めることを喜ぶ愛であり、私の成長のための主の糧は、主ご自身の存在のように尽きることがありません。

    完璧な方、共にいて下さる方、それはイエス・キリストです。それほどに親密に、果てしなく満足させてくれ、すぐそばにいて下さる。その方がおられるなら、私の孤独は癒されています。私はキリストを知っており、彼はこう言われました。「見よ、わたしはいつもあなたがたと共にいるのである。」—アナ・J・リンドグレン [8]

    <em2019年3月アンカーに掲載 朗読:ジェイソン・ローレンス
    音楽:マイケル・ドーリー。


    1 詩篇 25:16.

    2 詩篇 25:21.

    3 マルコ 1:45; ルカ 5:16.

    4 箴言 18:24.

    5 ヨハネ 15:13–15.

    6 ヘブル 13:5; マタイ 28:20.

    8 Anna J. Lindgren, In His Presence (1934).

  • 8月 6 より大きな何かの一部
  • 8月 1 憐れみを持つことへの呼びかけ
  • 7月 25 4つの福音書
  • 7月 22 神と二人きりになることは常に時に適っている
  • 7月 20 暗闇に射す一筋の光
  • 7月 19 答えられない祈り
  • 7月 18 対抗文化的であるキリスト教を実践する
  • 7月 17 クリスチャン的な性格を培う(パート2)
  • 7月 15 瞑想のための言葉-パート1
   

ディレクターズ・コーナー

  • イエス、その生涯とメッセージ:仮庵の祭(パート4)

    [Jesus—His Life and Message: The Feast of Tabernacles (Part 4)]

    July 16, 2019

    ヨハネの福音書には、イエスが仮庵の祭でエルサレムに行かれた際に、幾度もパリサイ(ファリサイ)人に遭遇されたことが書かれています。最初の遭遇は祭の半ばであり、2度目はその数日後、祭の終わりの日のことでした。

    祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。」 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。[1]

    仮庵の祭は7日間続き、翌8日目には厳粛な集会が開かれました。レビ記には、次のように書かれています。

    七日の間、主に火祭をささげなければならない。八日目には聖会を開き、主に火祭をささげなければならない。これは聖会の日であるから、どのような労働もしてはならない。[2]

    「祭の終りの大事な日」がいつなのかは、解説者によって考えが異なり、7日目だと言う人もいれば、8日目だと言う人もいます。しかし、大切なのは、それが最終日であり、祭の山場であるということです。

    祭の期間には、毎日定まった儀式が行われていました。そのひとつは夜明け直前に始まるもので、エルサレムの東門から人々が出て行き、日が昇ると西に向きを変え、宮を向いて特別の祈りを祈ります。もうひとつの儀式は日没後に行われ、宮(神殿)一体を照らすために、4基の巨大なメノラー(純金から作られた古代ヘブル民族の燭台)が設置されます。

    毎日行われた儀式の3つ目は水注ぎです。祭の初日の朝、祭司たちが行列を作ってシロアムの池へ行き、黄金の器で水を汲んで宮まで運びます。祭の7日間、毎日、こうして汲まれた水が用いられます。シロアムの池から宮へと行列が続く中、祭に来た巡礼者たちは、「アルバ・ミニーム(4種類)」といって、3種類の枝と1種類の木の実を束ねたものを振ります。(「ルラブとエトログ」とも呼ばれます。)[3] アルバ・ミニームは、シロアムの池からの行列で使われる以外にも、祭の各日に行われる特別な儀式でも振られます。

    祭りの終わりの大事な日には、水注ぎの儀式が最高潮に達します。祭司たちは宮の祭壇の周りを7回行進し、大がかりな儀式をして水を注ぎます。この「祭の終わりの大事な日」に、イエスは立って、叫んでこう言われたのです。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」 [4] イエスが立ち上がり、宮にいる人たちに熱烈な呼びかけをされたということで、これはかなり劇的な光景であったことでしょう。

    聖書解説者たちの間には、この節の正しい読み方について異なる意見があります。この点について、ある人は次のように説明しています。

    ヨハネ書の原文には句読点がなく、ほとんどの場合はそれで意味合いが変わることはありませんが、この箇所のように曖昧さが残る場合も時折あります。[5]

    この節の伝統的な読み方は、イエスを信じる者の腹(心)から「生ける水が川となって流れ出る」というものです。この読み方では、誰でも渇いている人は、イエスのところに来れば飲むことができると約束されており、彼らはそのように信じる者であるので、聖霊を与えられて、その結果、彼らの腹から生ける水が川となって流れ出るということになります。

    この節の句読点の付け方を変えて、次のように読むべきだとする解説者たちもいます。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい、だれでもわたしを信じる者よ。聖書に書いてあるとおり、『その腹から生ける水が川となって流れ出る』であろう。」 この句読点の付け方では、「その腹から」というのはイエスのことを指しており、イエスの腹から流れ出す生ける水を飲むということになります。ヨハネの福音書の初期の写本の中には、この見解を裏付けるものもありますが、最古の写本ではそのような句読点の付け方がされていません。

    イエスが話しておられたのは、信じる者たちが聖霊に満たされるということだと思われます。それこそ、イエスが昇天された後、五旬節(ペンテコステ)の日に弟子たちに起きたことでした。[6] また、旧約聖書には、神の民が泉のようになるという言及があります。

    主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。[7]

    この福音書の前の方で、イエスはサマリヤの女性にこう話しておられます。

    「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」 [8]

    レオン・モリスは、次のように述べています。

    イエスがここで語っておられる「飲む」とは、信仰を持って来る者だけができることです。そして、信仰にはその結果が伴います。信じる者がキリストのもとに行って飲む時、その信者の喉の渇きが癒やされるばかりか、ふんだんな量で与えられるため、その人からまさに川となって流れ出るのです。これは、御霊に満たされた人生の外向きな性質を強調しています。[9]

    群衆のある者がこれらの言葉を聞いて、「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。彼らのうちのある人々は、イエスを捕えようと思ったが、だれひとり手をかける者はなかった。[10]

    その場にいてイエスの話を聞いたある者たちが言っていたのは、この福音書の前の方で、イエスを王にしようとしたガリラヤ人たちが言っていた次の言葉とほぼ同じです。

    人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。[11]

    彼らが言う「預言者」とは、申命記に書かれている預言者のことです。

    あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。[12]

    この章の前の方には、「群衆の中の多くの者が、イエスを信じ…た」 [13] と書かれています。おそらくその何人かは、今回「このかたはキリスト[メシア]である」 と言った群衆の中にいたことでしょう。また、今回イエスがメシアだという考えを否定した人たちの中には、先の群衆の中でイエスに反対していた人もいたことでしょう。彼らの意見の根拠は、イエスがガリラヤ出身であり、聖書によれば、メシアはベツレヘムから出ることになっているからです。

    しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。[14]

    しかし、群衆は気づいていなかったものの、イエスはダビデの家系から出ており[15] ベツレヘムでお生まれになっていたので、ベツレヘムから出るというメシアの資格を満たしておられたのです。

    イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになった[16]

    このような意見の相違がもとで、「群衆の間にイエスのことで分争が生じ」 ました。これは、この福音書に言及された3度の分争(意見の対立)の1つ目のものです。ここでは、イエスについての意見が群衆の間で分かれました。後に2度目の分争があった時は、次のように、パリサイ人の間でのものでした。

    そこで、あるパリサイ人たちが言った、「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから。」 しかし、ほかの人々は言った、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか。」 そして彼らの間に分争が生じた。[17]

    3度目は、「ユダヤ人」の間で起きました。

    これらの言葉を語られたため、ユダヤ人の間にまたも分争が生じた。[18]

    イエスの話を聞いた者たちの間で最初の分争が生じた結果、ある人々はイエスを捕えようと思いましたが、何も起きませんでした。彼らがイエスを捕えられなかったのは、「イエスの時が、まだきていなかったから」 [19] です。

    さて、下役どもが祭司長たちやパリサイ人たちのところに帰ってきたので、彼らはその下役どもに言った、「なぜ、あの人を連れてこなかったのか。」 下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした。」 パリサイ人たちが彼らに答えた、「あなたがたまでが、だまされているのではないか。役人[議員]たちやパリサイ人たちの中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか。律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている。」 [20]

    下役である宮守(宮の守衛)たちが祭司長やパリサイ人のところに帰ってきたとありますが、それはおそらく、ユダヤ人の宗教的指導機関であるサンヘドリンに戻ったという意味でしょう。彼らはイエスを捕らえて来なかったので、任務を果たしてはいませんでした。この試みは少し前に書かれたものとは別のようなので、それはつまり、ユダヤ教指導者たちがイエスの逮捕を2度命じ、いずれも失敗したということになります。なぜイエスを逮捕して来なかったのかと尋ねられた宮守たちは、イエスの力強い教えへの畏敬の念をこめて、こう答えました。「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした。」

    宗教指導者たちは3つの点をあげて、宮守たちの考えを否定しました。1つ目は、宮守たちは惑わされているということ。2つ目は、ユダヤ人指導者やパリサイ人たちの中で、イエスを信じた者は一人もいないということ。しかし、まもなく分かりますが、この点は誤っていると判明します。パリサイ人であるニコデモもイエスを信じていたのです。3つ目は、イエスの教えを信じた群衆は、パリサイ人たちのように律法を学んでいないので、呪われているということ。他のユダヤ人文書によれば、聖書をよく学んでいない一般人は、当時のユダヤ教指導者たちから軽蔑されていました。

    彼らの中のひとりで、以前にイエスに会いにきたことのあるニコデモが、彼らに言った、「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか。」 彼らは答えて言った、「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう。」 [21]

    この福音書の前の方には、ニコデモがパリサイ人であり、ユダヤ人の指導者でもあったことや、ある夜イエスのもとに来てこう話したことが書かれています。「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません。」 [22] また、イエスの死後には、埋葬前の遺体に塗るため、没薬と沈香を混ぜたものを33キロほど持ってきました。

    今回ニコデモは、モーセの律法が教えることに他の人たちの注意を向けさせようとしました。逮捕された人は自分の立場を弁明する機会が与えられるべきであるということです。申命記にはこう書かれています。「あなたがたは、さばきをする時、人を片寄り見てはならない。小さい者にも大いなる者にも聞かなければならない。」 [23] しかし、パリサイ人たちの考えはすでに固まっており、彼らからすれば、イエスは有罪で逮捕されるべきだったのです。彼らはニコデモの言ったことをはねつけ、「あなたもガリラヤ出なのか」 と尋ねました。ニコデモは、ガリラヤ人であるイエスの肩を持つような振る舞いによって、親ガリラヤの人間であるという非難を招いてしまい、パリサイ人たちはそのような人を明らかに軽蔑していました。

    パリサイ人たちはニコデモに、「ガリラヤからは預言者が出るものではない」 と言っています。しかし、ここでもまた、彼らは間違っていました。預言者ヨナが、ガリラヤにあるガテヘペル(ガト・ヘフェル) [24] の出身であることを見落としていたのです。

    (パート5に続く)


    注:

    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    参考文献

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    1 ヨハネ 7:37–39.

    2 レビ 23:36.

    3 4種類の植物の起源は、第一回目の仮庵の祭について主がモーセに与えられた指示が書かれている、レビ記23:40にあります:「初めの日に、美しい木の実と、なつめやしの枝と、茂った木の枝と、谷のはこやなぎの枝を取って、七日の間あなたがたの神、主の前に楽しまなければならない。」(レビ 23:40)

    4 ヨハネ 7:37–38.

    5 Milne, The Message of John, 120.

    6 使徒 2:1–4.

    7 イザヤ 58:11.

    8 ヨハネ 4:14.

    9 Morris, The Gospel According to John, 376.

    10 ヨハネ 7:40–44.

    11 ヨハネ 6:14.

    12 申命 18:15.

    13 ヨハネ 7:31.

    14 ミカ 5:2.

    15 マタイ 1:1–17, ルカ 2:1–16.

    16 マタイ 2:1.

    17 ヨハネ 9:16.

    18 ヨハネ 10:19.

    19 ヨハネ 7:30.

    20 ヨハネ 7:45–49.

    21 ヨハネ 7:50–52.

    22 ヨハネ 3:2.

    23 申命 1:17.

    24 列王下 14:25.

  • 8月 16 思考材(パート3)
  • 8月 13 イエス、その生涯とメッセージ:仮庵の祭(パート3)
  • 8月 6 イエス、その生涯とメッセージ:仮庵の祭(パート2)
  • 7月 30 イエス、その生涯とメッセージ:仮庵の祭(パート1)
  • 7月 23 イエス、その生涯とメッセージ:神殿税
  • 7月 16 イエス、その生涯とメッセージ:マルタよ、マルタよ
  • 7月 9 イエス、その生涯とメッセージ:エリヤ、ヨハネ、イエス
  • 7月 2 イエス、その生涯とメッセージ:変容
  • 6月 25 キリスト教を生きる:十戒(人命を守る、パート1)
   

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信条

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  • 私たちの基本的な信条は、おおむね世界中の他のクリスチャンの信条と同じものですが、従来の考え方にとらわれない教理も幾らかあります。イエスは、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することに「律法全体と預言者とが、かかっている」と言われましたが、このイエスが教えられた「神の愛の律法」という基本的な原則を適用することが、私たちの人生と信条の重要な側面となっています。

理念

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  • 「主に対してするように」生きる

    私たちは、信仰を行動に移し、イエスに対してするように、疲れ悩める心や、恵まれない人、虐げられた人、困窮している人に助けの手を差し伸べます。

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TFI オンラインは、ファミリー・インターナショナル(TFI)のメンバーのためのコミュニティサイトです。TFI は、世界各地で神の愛のメッセージを伝えることに献身する国際的なクリスチャン・フェローシップです。

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もっとイエスのように
私たちの人生において、キリストと似た性質を身につけていくこと
イエス、その生涯とメッセージ
私たちの人生の基礎となっている、福音書からの根本原理
イエスが語った物語
イエスのたとえ話を詳しく解説するビデオ・シリーズ