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  • 神の道徳的御心に沿って生きる

    Aligning Our Lives to God’s Moral Will
    May 22, 2025

    ピーター・アムステルダム

    オーディオ所要時間: 10:52
    オーディオ・ダウンロード(英語) (9.9MB)

    神は、聖書によって、私たちがいかにして信じ生きるべきかを教えている、ご自身の道徳的御心を明らかにされています。あることは道徳的に間違っており、それゆえに罪であると、神ははっきりと示しておられます。神の恵みと聖霊から与えられる力によって、私たちは罪を避けたり、神の性質や特徴を反映し模範とする、特定の性質や特徴や態度を身に付けたりするように努めます。[1]

    私たちは「神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである」と求められています。(エペソ5:1–2) また、神にならって、赦すよう求められています。「主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」(コロサイ3:13)

    イエスは「あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」と命じておられます。(ルカ6:36) そして、敵にさえも親切にするよう教え、「人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである」と言われました。(ルカ6:35)

    上記の例や、聖書の随所に見られるその他数多くの例によって、どうすれば神の道徳的御心に沿った生き方をできるのかが教えられています。私たちは、神の教えを守って、それを自分のものとし、また、人生航路における羅針盤として用いることが求められています。「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」(ヨハネ5:3)

    イエスへの信仰によって神の子供となることで、私たちは新しく造られた者になりました。(2コリント5:17) これから「御子のかたちに似たもの」(ローマ8:29)となっていくのであり、すでに「造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着た」(コロサイ3:10) のです。新しく造られる過程の一部として、私たちの人生を神の道徳的御心にあったものとしていくことがあります。外面的な振る舞いや行動、そして動機や態度を、神の言葉に沿ったものとするのです。

    神の言葉を通して、どのような態度や行動が正しい、あるいは間違っているのか、何が罪で何がそうでないのか、何が神に喜ばれ何が喜ばれないのか、どんなことが神の性質を反映するのか、あるいはしないのかということを知ります。神の言葉を読んだり、学習したり、熟考したり、受け入れて当てはめたりした結果として、知るのです。神が言われたことを受け入れるとは、何らかの行動や願望や態度を神が非難しておられることを読んだ時に、それは神の道徳的御心の円の外側にあるので間違っており、罪である、ということを受け入れることです。たとえばエペソ書で、盗んだり、悪い言葉を口から出したりしてはいけないこと、あるいはコロサイ書で、怒りや憤り、悪意、そしり、恥ずべき言葉、悪欲、情欲、貪欲を捨てるべきだということを読んだなら、これらのことは神の道徳的御心から外れており、それゆえに罪深いことであり、神は喜ばれないということを知るべきです。(エペソ4:28–29; コロサイ3:8, 5

    言うまでもなく、神の道徳的御心である戒めは全て、何よりも大事な戒めである「神を愛する」ことの表れです。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。」(マルコ12:30–31) 私たちは、他の人に対して、愛を持って行動することが求められています。「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。」(マタイ7:12)

    イエスのこの教えは、罪についての様々な教えを短く言い表しています。神や他の人への愛を自分の指針とするならば――行動や考えや態度が 、自分の全てを尽くして完全に神を愛し、自分を愛するのと同じだけ他の人を愛するという心に基づいているならば――その時、私たちは罪を避けるようになります。

    人間は堕落した存在であることから、実際にはそうでないのに、自分のしている行為は愛情深いことだと正当化したくなることがあります。あるいは、それが愛情深いことだと「思える」ので、罪ではないと考えるかもしれませんが、その行為から起こりうるあらゆる結果を詳しく考慮してはおらず、結局は愛情深くないこととなる可能性もあります。私たちが神の道徳的御心には何が含まれ何が含まれていないのかをよく知ることは、明らかに大切であり、それは聖書の教えていることを読み、勉強し、熟考することから来ます。

    自分は救われており、罪はすでに赦されているので、罪を犯しても大したことではないという態度に陥りやすいものです。しかし、そのような態度は、聖書が罪とその影響について教えていることに対する理解の欠如を示します。聖書には、クリスチャンの犯す罪も含めて、罪は神の気を害することが書かれています。赦されることは神からの素晴らしい贈り物ですが、信者である私たちは神との関係を持っているのであり、私たちが罪を犯す時にその関係は損なわれます。私たちの罪が赦されてはいても、その罪によって自分自身または他の人の人生に、その罪の結果が生じることがあるのです。

    キリストに似ることを目指す者として、自分の人生における罪の現実を直視し、適切にそれに対処しなくてはいけません。神は私たちに良心(善悪観念)をくださいました。正しいことと間違っていることの違いを見分ける、持って生まれた能力であり、私たちがやろうとしたことやすでにしてしまったことが道徳的であるのかどうかを判断するのを助けるものです。クリスチャンとして私たちは、何が正しく何が間違っているのか、神の御旨にかなうとはどういうことなのか、神の性質や本質を反映する行動とはどのようなものなのかについて、神が聖書で明かしてくださったことに同意する時、自分の善悪観念を神の道徳的御心に合わせて調整していきます。私たちは、天の父との親しい関係を保つために、聖書で示されたことにもとづく善悪観念に従い、罪を避けるよう求められています。

    私たちは人間であり、罪は必ず犯すものですが、クリスチャンでもあるので、罪を犯さないように最善を尽くし、神との関係を損なわないように努めるべきです。私たちは、「以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着る」ようにと、言われているのです。(エペソ4:22-24)

    当然ながら、自分ではしないようにどれだけ努力したとしても、やはり罪を犯してしまうものです。そしてそうなった時、罪について正しく理解しているなら、罪の意識を感じ、悲しくなります。私たちは神との関係を損なってしまいますが、その関係を修復するには、まず自分の罪を認め、神に告白することから始まります。ヨハネの第一の手紙には「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」とあります。(1ヨハネ1:9) 告白に加えて、もう一つの要素は悔い改めです。悔い改めとは、態度を変え、方向転換して逆の方向へ進むことです。悔い改めには、振る舞いを変えること、また、これまで犯していた罪を犯すのをやめるという強い決意を要します。

    それは簡単なことではありません。特定の罪が習慣となっていたり、特定の罪深い態度を自分の性格の一部として受け入れてしまった場合は、特にそうです。たとえば、短気、自制心の欠如、一方的に決めつけること、怒り、利己心、高慢、不安、舌の犯す罪、耽溺などです。聖書がこれらのことを罪と呼んでいるので、私たちは変わるべきであり、神の恵みによって罪を犯すのをやめることが期待されていると受け入れるのに苦労することがあります。神の言葉は、神の恵みにより、「わたしを強くして下さるかた[キリスト]によって、何事でもすることができる」と告げています。(ピリピ4:13)

    よりイエスのようになりたいのであれば、自分の罪を直視しなくてはならず、それを単に自分の個性であると見なすことはできません。あるいは、「自分はこういう人間で、変われない」と言い訳したり、「これは小さな罪だから、大したことではない」と言って罪を正当化したりすることもできません。キリストのようになることに不可欠なのは、聖書が何を罪と呼んでいるのかを受け入れること、自分の罪を認めて告白すること、それを克服できるよう主に助けを叫び求めることです。それから、それを克服しようと固く心に決めて意識的に努力しなければなりません。

    私たちのゴールは、完璧になることではありません。罪なき存在になることをゴールとして、聖書の一語一句をロボットのように守ることではないのです。そのような存在になることは不可能なのですから。私たちのゴールは、明らかにされている神の道徳的御心に対して、感謝に満ちた心を持って、救われている魂の現実を誠実に表現するようなやり方で応じることです。

    私たちが神に従うのは、神を愛しているからです。神を愛するのは、神が私たちの創造主であり、救い主だからです。神に倣った者となりたいのは、神が全くの愛であり、全くの善、全くの聖であるからです。私たちは、内面的も外面的にも、神に倣った者となりたいのです。神こそが善の基準であり、ご自身がどんな方であるのか、何を良しとし、何を良しとされないのかを明らかにしてくださったのですから、もし神のようになりたいのであれば、こういったことを心に留めるのです。

    神は聖書を通してご自身の道徳的御心を明らかにされており、そのように聖書で示された御心は神の性質のあらわれです。よりイエスのようになりたいのであれば、神の性質をあらわすような生き方をするのを目指すことでしょう。これはつまり、私たちの考えや願い、態度、行動を、神の御旨にかなったもの、聖書で与えられた指導に沿ったものとするよう意識的に努めることを意味します。

    神は完全な善であり、完全な愛、聖、そして義です。道徳的・倫理的完璧さの模範です。私たちは完璧さの域に達することはできませんが、神の基準を自分のものとして、それに沿った生き方をすること、また、最善を尽くして神の姿を反映し、よりキリストに似た者となることが求められているのです。「わたしたちはみな … 主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(コロサイ3:18)

    初版は2016年10月 2025年5月に改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー


    1 本記事は、ギャリー・フリーゼンの著書『Decision Making and the Will of God』(Colorado Springs: Multnomah, 2004)からのキーポイントをもとに書かれています。

  • 7月 12 イエスが変わってしまうことは、これまでなかったし、これからもない
  • 7月 10 信仰とコンフォートゾーン
  • 7月 8 これからのより良い日々(パート5)
  • 7月 6 霊的に成長するには
  • 7月 4 日々の選択
  • 7月 2 変化をもたらすために、私に何ができるのか
  • 6月 30 私たちの良き羊飼いイエス
  • 6月 26 これからのより良い日々(パート4)
  • 6月 22 あなたへの愛は決して尽きない
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第9章(18–27節)

    [1 Corinthians: Chapter 9 (verses 18–27)]

    March 25, 2025

    本記事では、第1コリント9章の後半部分を取り上げます。

    それでは、その報酬はなんであるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである。(1コリント9:18)

    多くの学者は、この箇所でパウロが言っているのは、説教すること自体が報酬であり、無償で福音を伝え、支払いを受ける権利を行使しないことで十分な報いを受けている、ということだと解釈してきました。しかし、前節でパウロは、自分からそうするなら報酬を受けるけれど、そうでなくても、それはパウロに「ゆだねられた務」だと断言しているので(1コリント9:17)、この言葉は別の角度から見た方が良さそうです。この箇所の別の解釈の仕方は、お金を受け取らずに宣教したことに対する報酬はいつの日か受け取ることになるとパウロは知っていた、というものです。キリストは、自分の利益を求めなかったパウロに、報いてくださることでしょう。

    わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。(1コリント9:19)

    地中海世界に住んでいたパウロは、さまざまな異文化に触れることに慣れていました。そうした多様な状況にあって、パウロは自身が好む文化の規範を推し進める権利を行使せず、福音の下で有している自由を主張しないことを自らに課しました。

    まず、強くこう断言しています。「わたしは、すべての人に対して自由である。」 自由の身であると主張することで、パウロは自分が他人の好みに合わせる必要はないと宣言しているわけです。それでもパウロは、自ら進んですべての人に仕える者となりました。他者に仕えるために、自分が好むことについての権利を放棄したのです。彼がそうしたのは、できるだけ多くの人を獲得し、キリストの王国を広めるためでした。

    ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。(1コリント9:20–21)

    パウロは、自らの方針をどこまで守るつもりでいるかを示すために、多文化宣教の2つの異なる側面を説明しています。つまり、彼が宣教の対象としたのは、律法の下にある人々(モーセの律法の下にあるユダヤ人)と、律法を持たない人々(異邦人)の両方でした。当時、この2つのグループの間の違いは大きかったと言えます。宗教的信条、道徳的習慣、文化的慣習、家族の習慣、法律制度、服装、祝日、食習慣は、ユダヤ人と異邦人とで非常に異なっていたのです。この多様性によって、パウロは大いに柔軟である必要が生じましたが、彼は両方のグループに属する人々を獲得し、キリストに導くために、その必要性を受け入れました。

    「律法の下」という言葉は、モーセの律法下にあるユダヤ人の生活様式を指しています。パウロ自身は、民族的にはユダヤ人でしたが、イエスの十字架での犠牲と死を通して、神がユダヤ人と異邦人の区別のない新しい民、すなわち教会を創られたことを理解していました。(ガラテヤ3:28) 古い契約は無効とされ、信者は今や、パウロがここで「キリストの律法」と呼んだものの下にあったのです。しかし、ユダヤ人に手を差し伸べようとして、パウロは福音を宣べ伝えるため、必要に応じて一時的にユダヤ人の生活様式や習慣を取り入れることをいといませんでした。

    パウロは、神が「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして」くださったので、これらの慣習がイエスの十字架での死によって無効とされたことを知っていました。(コロサイ2:14) しかし、パウロはユダヤ人社会のことを非常に気にかけており、彼らと一緒にいるときは、福音が彼らの中に根付くように、彼らの習慣や律法を守っていたのです。

    一方、「律法の外」とは、異邦人には「イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない」状態だったことを意味します。(エペソ2:12) 彼らには、神を礼拝するよう教える聖書の導きがなかったので、ユダヤ教の律法や慣習の制約がないまま、異教の儀式や生活様式に従っていました。パウロは異教の生活様式を是認してはいませんが、異邦人と一緒にいるときは、福音が彼らの間に広まるように、彼らの習慣や戒律を守っていました。

    パウロは、この2つのグループの間を行き来するにあたり、柔軟に対応しましたが、どこで一線を引くべきかをわきまえていました。ユダヤ教徒と一緒にいるときは、自分がもはや律法の支配下にはない(「わたし自身は律法の下にはない」)ことを忘れませんでした。同様に、聖書にある律法を守っていない異邦人と一緒にいるときは、多くの点で外面的な行動は彼らに合わせましたが、パウロの目的は人々に唯一の真の神を知ってもらうことだったので、異教に迷い込むことはありませんでした。パウロには、その土地の文化的習慣や生活様式に従う自由はありましたが、キリストの律法を守る義務もあったのです(「わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にある」)。

    「キリストの律法」は、モーセの律法と対立するものではありません。イエス自身が、こう言われました。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃する[廃止・廃棄する]ためではなく、成就する[完成する]ためにきたのである。」(マタイ5:17) パウロがキリストの律法について語るとき、それはキリストと使徒たちによって教えられた、聖書全体の道徳的教えを指しています。パウロはしばしば、神の律法はクリスチャンのための指針として制定されたものだと断言しています。(ローマ2:25–29; 1テモテ1:8) しかし、ここでは、クリスチャンにとっての神の律法は、キリストの到来に照らして解釈されるものであり、その到来によって、それはキリストの律法となったということを明確にしています。

    弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。(1コリント9:22)

    パウロはここで、ユダヤ人と異邦人に加えて、コリント教会の中で彼が気遣っていたもう一つのグループである「弱い人」たちについて言及しています。 コリント教会では、強くて知識が豊富な人たちは、自分たちが弱いとみなした人々に対して配慮を示すことがまったくありませんでした。強い人たちは、「偶像なるものは実際は世に存在しない」ので、偶像に捧げられた肉を食べる自由があると主張しましたが、そうすることで、この慣行につまずく弱い兄弟姉妹に対して罪を犯していたのです。(1コリント8:4–7

    彼らとは対照的に、パウロは弱い人たちに合わせて行動することで、「弱い者に」なりました。パウロは、自らの自由を制限することで、弱い兄弟姉妹が罪に陥る原因を作らないようにしたのです。コリントの強くて知識のある人たちは、自分の権利を理解していましたが、他者を愛することの大切さを忘れていました。コリント教会の弱い人たちをそのように無視することは、最終的に神の裁きを招くことでしょう。

    パウロはさらに、自分はすべての人に対してすべての人のようになったと言います。他の人々を救いに導くために、自分の好みを押し通す権利を放棄し、相手が好むことに合わせたのです。パウロの主な関心事は、失われた人々に手を差し伸べ、彼らをキリストへの信仰とキリストにおける新しい命に導くことによって、キリストの御国を築くことでした。彼は、それが律法の下にある人であれ、律法の外にいる人であれ、他の人々がキリストの道に従うよう導くことが、自分の自由によって妨げられてしまうことを、許しませんでした。

    福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音[の祝福(英語ESV訳)]にあずかるためである。(1コリント9:23)

    パウロの目的と召命は、キリストによる救いという良き知らせを人々に伝えることでした。神の国の完全な到来を望み、その目標を達成するために、すべての人に仕える者となったのです。パウロは、神が自分に報いてくださることを知っており、他者と共に神の祝福にあずかるために、自分の権利を犠牲にしました。

    あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。(1コリント9:24–25)

    パウロは競技の例えを用いることによって、できるだけ多くの人をキリストに導くという目標を目指すために、自制心を働かせることの大切さを強調しています。コリントの人たちはイストミア競技会を主催しており、競技会との関係があったので、競走の比喩はコリントの信徒たちにとって分かりやすかったことでしょう。パウロはさらに、自分自身を例に挙げて、クリスチャン生活と競走との類似点をいくつか示しています。

    第一に、クリスチャン生活を始めたすべての人が最後まで走り抜くわけではないし、すべての人が賞を受けるわけでもないということです。クリスチャンは、一心に走り続けて、「良いわざに熱心」でなければいけません。(テトス2:14) 「主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加える」ことによって、信仰を表明するのです。(コロサイ1:10

    第二に、すべての競技者は、ゴールまで完走するために、厳しいトレーニングに励み、何ごとにも節制するということです。クリスチャンは、キリストに従うことに身を捧げて、キリストの民である「キリストの体」を築き上げ、自らの霊的成長と自己鍛錬を促進するような行動を選択しなければなりません。(エペソ4:12

    第三に、やがて朽ちてしまう式典用の冠を手に入れようと頑張る競技者たちとは異なり、クリスチャンは、永遠に朽ちることのない冠を受け取ります。(2テモテ4:8; 1ペテロ5:4) パウロがここで話しているのは、永遠の命や永遠の栄光といった永遠の報酬のことであり、それは「耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める」クリスチャンが受け取るものです。(ローマ2:7; 2テモテ2:10

    そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。(1コリント9:26–27)

    パウロはこの例えによって、彼の人生について、道徳的な観点から少し話しています。第一に、クリスチャンとしての人生を、目標のはっきりしない走り方をする人のように生きることはしてこなかった、ということです。パウロには、賞を受けるという明確な目標があり、それを達成するために走りました。

    第二に、空を打つような拳闘はしなかったと言います。パウロは後年、冠を得るために競走や拳闘をするというこの例えを、テモテへの手紙の中でも再び書いています。(2テモテ4:7–8) また、ここでは、「霊的なパンチ」を外さないようにしているという点に目を向けさせています。

    第三に、パウロは「自分の体」を鍛えたとあります。これは彼の霊的生活の厳しさを示す比喩です。彼は、競技者が競技に勝つために自分を律するように、霊的に自分を律していました。

    この競技の比喩の最後に、パウロは自らの目標を再び述べています。彼は、他の人々に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者とならないよう、懸命に努力してきました。パウロが話していたのは、救いを失うことではありません。そうではなく、自分でさえキリストから離れてしまう可能性がある、という認識を述べていたのです。彼は、賞を受け取るのは、最後まで耐え忍ぶ人だけだと知っていました。(ヤコブ1:12

    パウロは、自分の霊的生活全般や、福音を世界に伝えるという目標に一心に集中することについて、語ってきました。そして、そうするために、彼は競技者のようにあらゆる面で自分を律していました。しかしこの章では、より多くの人をキリストのもとに獲得できるよう、他者のために自分の権利と自由を放棄して、すべての人に仕える者となったことにも焦点を当てています。(1コリント9:19) 他者に仕えるために自分を律することは犠牲となりますが、パウロはそれが必要であると知っていました。そして、自らを、コリントの信徒たちが従うべき模範としました。使徒である彼がそのような犠牲をいとわなかったのだから、コリントの信徒たちもいとわずに同じことをすべきなのです。


    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。

     

  • 4月 29 第1コリント:第9章(1–17節)
  • 4月 18 第1コリント:第8章(1–13節)
  • 3月 27 第1コリント:第7章(17–40節)
  • 2月 28 第1コリント:第7章(1–16節)
  • 2月 8 第1コリント:第6章(1–20節)
  • 1月 30 第1コリント:第5章(1–13節)
  • 1月 17 第1コリント:第4章(15–21節)
  • 12月 20 第1コリント:第4章(6–14節)
  • 11月 26 キリストに従う者にとっての美徳: 忠実・誠実
   

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