• 地と、その中に住む者とは主のもの

  • 1本のロウソクでも、暗闇では大きな違いを生み出す

  • 賛美は礼拝の中心にあるもの

  • あなたの手を神の手にあずけよう

  • 主の喜びは私たちの力

アンカー

ユーザーフレンドリーなデボーション記事

  • 金持ちとラザロ

    The Rich Man and Lazarus
    September 9, 2024

    ピーター・アムステルダム

    オーディオ所要時間: 13:58
    オーディオ・ダウンロード(英語) (12.8MB)

    ルカの福音書にある金持ちとラザロの話は、二人の男(一人は金持ち、もう一人は貧乏人)の人生を比較しています。その人生とは、今の人生を超えて来世にまで至るものです。イエスは、まず金持ちの男の描写によって、このたとえ話を始めています。

    「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」(ルカ16:19)[1]

    この短い前書き的な部分にはあまり詳しいことは書かれていませんが、当時この話を聞いていた人たちは、そこから明確な印象を受けたと思います。この男はただ金があるというだけでなく、大金持ちしか買えない紫の衣を毎日身に着け、上等の麻布もまとっていました。紫の上着の下に白い麻の衣を着るというのは、かなりの有力者であることを表しています。その上、毎日ぜいたくに遊び暮らしていたというのですから、おそらく毎日か、そうでなくとも頻繁に来客をもてなしていたのでしょう。この箇所や、物語の後の方で明確にされているのは、この男性が大金持ちで勝手気ままに振舞っていたということです。

    「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。」(ルカ16:20–21)

    たとえ話は簡潔なものなので、ここでもラザロについての情報はごくわずかです。けれども、彼の名前が述べてあるというのは、一つ際立った点でしょう。イエスのたとえ話で登場人物の名前が言及されているのは、ここだけです。ラザロという名前は、エレアザルあるいはエラザルというヘブル語の名前がギリシャ語化したものであり、「神に助けられる人」という意味です。

    ラザロはとても貧しかったので、食べ物を乞わなければなりませんでした。彼はまた病気で、全身ができもので覆われており、歩くこともできません。1世紀のパレスチナでは、政府が貧しい人たちのケアを提供するような制度はなかったので、地域社会や個人がそのようなケアをしなければなりませんでした。施し、つまり貧しい人に与えられる金銭や食物が、ラザロのような人が生き残るための主な方法だったのです。

    ラザロは毎日金持ちの玄関の前に座っていました。彼らが毎日そこでごちそうを食べるので、床に捨てられた食べ物を少しもらえるだけでも飢えがしのげるとわかっていたからです。犬が来て、ラザロのただれたできものをなめました。聖書の解説者のほとんどは、おそらくそれはうす汚れて不潔な野良犬であったと推測しています。

    ラザロは惨めな状態でした。歩くこともできず、体中できもので覆われ、いつも空腹で、毎日金持ちの玄関の外に座り、食べ物を乞い求めていたのです。しかも、その金持ちは明らかにラザロを無視していました。ラザロは儀礼的に不浄な社会ののけ者だったのです。

    たとえ話はこのように続きます。「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。」(ルカ16:22)

    「アブラハムのすぐそばに」いる、あるいは別の翻訳にあるように、アブラハムの「ふところに」いるというのは、死んだ後に祝福された状態にあることを表しています。この状態は、マタイ8章11節の「あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につく」という言葉に見られるように、族長たちと共に宴会の席につくことになぞらえられています。

    一度も金持ちの宴会に呼ばれたことがなく、金持ちの食卓から落ちたものを食べるほど卑しめられた立場にあったラザロが、今や宴会の席で、信仰の父アブラハムのすぐそばに座っているのです。その一方、金持ちの男はそれとは非常に異なる悲運を味わいます。

    「金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』」(ルカ16:22–24)

    名前が述べられていないこの金持ちも、死んで葬られました。葬式は疑いなく立派なものだったことでしょう。しかし、今や彼の存在は地上にいた時とは非常に異なるものとなっています。毎日ごちそうやぶどう酒をたらふく飲み食いしていた金持ちが、今では人に助けてもらわなければならない立場になったのです。金持ちは声を上げてアブラハムを「父」と呼びました。おそらく、アブラハムがユダヤ人の先祖であることを思い起こさせるなら、彼を助けなければという義務感をアブラハムが感じてくれるかもしれないと望んだのでしょう。

    ここでついに判明するのですが、驚いたことに、金持ちはラザロの名前を知っていました。彼は明らかに、毎日必死の思いで家の前にいたラザロをよく知っていたようです。けれども、ラザロを無視したことへの自責の念は全く表さず、逆にアブラハムに対し、ラザロをつかわして自分を助けさせるように言いました。

    「しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。』」(ルカ16:25)

    アブラハムは厳しい口調で答えることをせず、むしろ金持ちを「子よ」と呼び、それから、自分の人生を振り返るよう言いました。生前に受けたありとあらゆる良いものと、それに対してラザロが味わったつらい経験を思い出すようにと。アブラハムは、金持ちが持っていた富は実際には彼のものではなく、神からお借りしたものであることを思い出させています。彼はそれを賢く使うべきだったのです。今、彼の地上の人生は終わり、その人生における行動ゆえに、彼はもだえ苦しんでいます。

    一方ラザロは、今慰められています。つらい人生を生きてきましたが、今はもう苦しみや痛みはありません。もうないがしろにされていないのです。彼は死んだ後、いつまでも続く慰めを得ました。

    アブラハムは次にこう言いました。「『そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』」(ルカ16:26)

    たとえラザロが憐れみの心で、指を水で濡らして金持ちの舌を冷やしたいと思ったとしても、それはできません。ラザロをつかわして苦痛を和らげるよう金持ちが頼むのはいかに馬鹿げているかを指摘する権利が、ラザロには十分あったでしょう。ラザロは毎日金持ちの玄関の前で苦しみながら座っていたのに、何ももらえなかったのではないですか。それなのにラザロは何も言いませんでした。このたとえ話全体を通して、何も言っていません。

    すると金持ちはラザロに別の事を頼もうとしました。「金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』」(ルカ16:27–28)

    金持ちは自分の苦境は何も変わらないとわかって、兄弟たちのところにラザロをつかわし、警告させてほしいと頼んだのです。金持ちは、自分の兄弟たちも困った人たちのことなどおかまいなしで、利己的な快楽を追い求め、自分と同じような生き方をしているので、同じ運命が彼らを待ち受けているとわかったのでしょう。

    「しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』」(ルカ16:29) アブラハムは、文書となった神の言葉である聖書は、兄弟たちを正しい生き方と信仰に導くのに十分だと答えました。もし彼らがそこに書かれた言葉に「耳を傾ける」なら、つまりそれに従い、守っているなら、死んだ兄弟である金持ちの男のような運命にはならないということです。

    この答えでも、金持ちは納得できません。人々が自分の言いなりになることに慣れていたからです。そこで、議論がましい反応を見せています。「金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』」(ルカ16:30)

    皮肉なことに、金持ち自身が、その「死んだ者」であるラザロがアブラハムと一緒に食卓でくつろいでいるのを見ているのに、悔い改めの兆しを全く見せていません。それなのに、彼はラザロが自分の兄弟たちの前に現れれば、彼らが悔い改めると思い込んでいるのです。

    アブラハムは、そうはならないと彼に言います。「アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」(ルカ16:31)

    金持ちは、兄弟たちにしるしを与えてくださいと頼みました。はっきりしているのは、金持ちは、兄弟たちが神の言葉が教えることに従って生きておらず、しるしを受け取らなければ自分と同じ状態に陥るとわかっていたことです。しかし、アブラハムは、彼らにはしるしは与えられない、なぜなら彼らには神の言葉があり、それで十分だからだと言っています。彼らは、聖書に書かれていることから、正しい生き方をし、貧しい人たちをどう扱うかについて、神がなんと言っておられるかを十分知っていました。

    イエスの話を聞いていた人たちの多くは、最初、金持ちは神から祝福されており、ラザロは裁かれていると思ったことでしょう。なぜなら、彼らは繁栄とは神の祝福であって、繁栄していないのは神の裁きだと信じていたからです。しかし、必ずしもそうではないということをイエスは述べておられます。金持ちであるというのは必ずしもその人が神の祝福を受けているとか、その人が正しいというしるしではないし、あまり財産を持ってない人や病気や貧困に苦しんでいる人は神から裁きを受けているということでもありません。

    このたとえ話は、裕福な人が取るべきではない行動も示しています。金持ちは、ラザロのことも、ラザロが抱える必要のことも知っていたのに、彼に対して無関心でした。助けることができたのは明らかなのに、そのための行動を全く取らなかったのです。物乞い、それも特に、見た目のひどい状態なら、目をそらしてしまいがちです。ちょうど、イエスが使われた生々しい実例にあるように、膿でただれたできものを犬になめられているというラザロのような人なら。神の姿に似せて創造され、神に愛されている人間として見るよりも、そういった人を避けたり、目をそらしたり、無関心でいたりする方が簡単です。しかしクリスチャンである私たちは、助けを必要とする人たちの状況を見た時に、愛と思いやりの反応をすべきです。

    イエスはこのたとえ話で、裕福な男を悪い例として用いることによって、富や財産がその人の態度に悪影響を与える危険性を強調しています。大切なのは、財産をどれだけ重視するか、またそれをどのように使うかということです。私たちはお金や財産に仕えているのでしょうか。それともそれを神の栄光のために使うでしょうか。

    このたとえ話に出て来る金持ちのように、身勝手な生き方をするのでしょうか。それとも他の人たちを助けるでしょうか。たとえ金銭的に多くを与えられるほどのお金がなくても、困っている人を助けるために、できる限りのことをするでしょうか。たとえば、少し時間を割いてあげたり、関心を示したり、あるいは何らかの方法でその人の必要を満たしてあげようとするでしょうか。貧しい人や困っている人に対して、どのような態度を取っているでしょうか。無関心でしょうか。そういう人たちを見下しているでしょうか。そんな境遇にいて当然だという態度で裁いているでしょうか。それとも、行動によって思いやりや気遣い、関心を示しているでしょうか。

    このたとえ話は、神の言葉を無視したり、拒んだりすることに対する警告も発しています。金持ちは何も信じていないか、間違ったことを信じていたかで、兄弟たちも同じ状態であることを知っていました。彼は兄弟たちにしるしを与えてくださいと頼みましたが、アブラハムは、彼らにはすでに神の言葉があるので、しるしは与えられないと言いました。神はその金持ちに責任を問われたのです。なぜなら、彼は神の言葉に触れることができたのに、それに沿った生き方をしなかったからです。そのことは、彼が貧しい人に対し、聖句に従った扱い方をしなかったことでわかります。

    私たちがどう人生を生きるかは、永遠の将来に影響します。私たちの行動や、行動しないことは、今の人生のみならず、永遠の人生に影響を及ぼすのです。私たちは自分の選択や、どう生きるか、お金や物をどう使うか、困っている人にどう接するかに気を配るべきです。私たちの決断、選択、行動が積み重なったものが今の私たちであるばかりか、それらは将来、この人生の後に来る来世にも影響するのです。

    クリスチャンである私たちの周りには、来世を信じていないか、それがあることに気づいていない人たちが大勢います。彼らは神の言葉を信じ、御子イエスを通して救いを受け取ることが、今の人生と永遠の人生を変えることを理解できないかもしれません。私たちの仕事とは、霊的な真理という富を彼らと分かち合うことです。私たちはこのたとえ話に出て来る金持ちのように、自分たちの霊的な富に満足して、物質的にであれ霊的にであれ困窮しているこの世の「ラザロ」たちの横を通り過ぎる金持ちのようになるべきではありません。

    私たちはクリスチャンとして、人が持ちうる最も貴重なものを持っています。それは、永遠の命と、それを可能としてくださるイエスとの個人的な関係です。私たちの周りには、ありとあらゆる背景を持ち、助けを切実に必要としている人が大勢います。そして、私たちには、彼らと分け合うための、信仰、救い、神の深い愛という霊的な富があります。私たちは、彼らに慰めと救いをもらたすために、私たちの最善を尽くすよう召されているのです。

    初版は2014年7月 2024年9月に改訂・再版 朗読:ジョン・マーク


    1 ルカ16章のたとえ話は、新共同訳聖書から引用されています。

  • 9月 9 顔を火打石のようにする
  • 9月 6 光あれ
  • 9月 3 永遠に続く愛
  • 8月 31 命の水に渇く
  • 8月 28 主は私たちと共におられる
  • 8月 22 この世に倣わず、新たにされ、造り変えられる
  • 8月 19 キリストにおける平等
  • 8月 10 あなたのインプットの源は何ですか
  • 8月 7 キリストに似た者となる
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • キリストに従う者にとっての美徳: 忍耐

    [Virtues for Christ-Followers: Patience]

    August 6, 2024

    神の忍耐は、聖書全体の至る所に記されており、新約聖書では、私たちも忍耐を学びながら、人生においてこの美徳を培っていくよう求められています。コリント人への第1の手紙第13章の美しい「愛の章」に、「愛は忍耐強い」[1] とあるように、忍耐は他の美徳と相互に関連しており、他者に対して忍耐を実践する時、私たちは親切、思いやり、優しさ、謙虚さを示すことにもなります。忍耐は神の御霊の働きであり、私たちが困難な状況に耐え、冷静さと落ち着きを失うことなく、人生のプレッシャーに立ち向かう力を与えてくれます。

    [英語では]この忍耐(ペイシェンス)という言葉は、逆境を耐える忍耐力である「エンデュランス」(辛抱強さ)や、逆境にも負けずに進み続ける忍耐力である「パーシビアランス」(粘り強さ)と訳されることもよくあります。聖書には、困難な状況や試練の中で忍耐強く進み続けた人々の例として、ヨブ、ダビデ、ヤコブ、ヨセフらがおり、彼らは皆、忍耐強く逆境に立ち向かい、神を信頼し、信者たちの手本となりました。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」[2]

    以下に、これらの原則を強調している記事をいくつか引用しましょう。

    神のプロセス

    クリスチャンにとって、プロセスは煩わしく感じるものです。私たちは、人々に悲しみをすばやく乗り越えさせたいと思ってしまうし、すぐに赦せないと、落ちつきません。また、即座の癒やしを期待するし、「抱卵期間」(卵を孵化させるために抱いて温める期間)を飛ばして他者をすぐに完全に変えようとします。

    私は、キリストの誕生について考えていて、あることを悟りました。それは、イエスが赤ん坊として来られたのだから、当然の結果として、ゆっくりとしたプロセスに、神の承認の印が押されたということです。

    天使は羊飼いたちに救いを告げ知らせましたが、彼らが飼い葉桶の中に見たのは、ごく普通の赤ん坊、すなわち、成長するのに時間が必要な赤ん坊でした。神の贖いの計画が明らかになるのは、それから30年以上も後のことなのです。

    それまでの年月、イエスは歯固めやおまる訓練、そして思春期を辛抱強く乗り越えなければなりませんでした。それに、歩き方や話し方も覚えなければならなかったのです。また、眠れぬ夜を過ごし、数え切れないほどの会話をし、手がひび割れ、口が臭くなり、つま先をぶつけ、といった経験もしなければならなかったでしょう。

    神はなぜ、そんなふうにされたのでしょうか。なぜ、ご自身の息子を大人の姿で遣わして、十字架に直行させるか、あるいは少なくともすぐに宣教させるか、しなかったのでしょうか。

    イエスは、聖書に「知恵が加わり、背たけも伸び」とあるように、地上での生涯の大半を、プロセスをたどって過ごされました。… つまり、神の完全かつ無制限の祝福は、完成だけではなくプロセスにも基づいているということです。「なりつつある」状態は、終局の状態と同じく、神の計画の一部なのです。ゆっくりと進むことの恵みは、受肉の本質に組み込まれています。…

    私たちは、神がすぐにしてくれないと不平を言いがちですが、ペテロのこの言葉を覚えておきましょう。「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」(2ペテロ3:9)

    私たちが12年前に家を買った時、その建設業者は記録的なペースでどんどん家を建てていました。それは、私たちには好都合だったし、入居が待ちきれませんでした。しかし、住宅建築には、あまり迅速に行うべきでない側面もあるのです。家の鍵を受け取って5日後に下水管が逆流した時、私たちはそのことを学びました。そして、今日に至るまで、急いで建てられたことが原因のこの「難あり物件」に、私たちは住んでいます。

    神がゆっくり動かれるのは、私たちの益のためです。私たちに必要なのは、忍耐と言うよりも、委ねることなのです。

    私に見えないところでも、神は働いておられます。それは、私が他の人たちに対して寛大に接する余地があるということです。なぜなら、私たちは皆プロセスを経ているところだからです。もし神が、あなたがすでに到達していることを期待していないのなら、この私が神より高い基準をあなたに対して設けることなどできるでしょうか。

    聖書に記された叫びの一つに、「主よ、いつまでなのですか」というものがあります。しかし、イエスが赤ん坊として来られたことで、私は自分の歩みの遅さを受け入れ、それどころか、楽しむことさえ許されたのです。—ジェフ・ピーボディ[3]

    神の基本計画

    使徒パウロは、使徒行伝17章26節で、かつて立てられたあらゆる計画を包括するある計画について、このように語っています。「[神は]ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。」 つまり、神は最初から、ご計画をお持ちだったということです。創造の御業は、なんの計画もなく行われたわけではありません。日曜の午後に何もすることがなかったから、思いつきで地球を創造したというわけではないのです。地球上の人類の生活の中で、日々実行に移されている、包括的なご計画があります。

    けれども、私たち一人ひとりにとって、それ以上に素晴らしいことがあります。地上に生まれた人は全員、意図をもって創造されたことです。神は立案者であり、一人ひとりのために計画をお持ちです。ダビデ王は神について、次のように断言しました。「あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。たしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。」[4] そしてヨブが神の性質について語っているくだりで、彼は神にこう告げています。「[人生]の日は定められ、その月の数もあなたと共にあり、あなたがその限りを定めて、越えることのできないようにされた …。」[5]

    神がモーセの人生を計画されているところを、想像してご覧なさい。第1章には、モーセが紅海を分けたことは書かれていません。それどころか、最初の場面は、ホレブ山の燃える柴の傍らで神から啓示を受けるところでさえありません。どちらの出来事も、80年分に相当する章やページが費やされた後になって、初めて起こるのです。モーセの人生について詳しく調べるなら、彼が羊を牧しながら40年間を過ごしたことに、驚いてしまいます。そして、それほどのことを耐え忍んだのだから、かなり我慢強かったに違いないと考えますが、この物語で忍耐の美徳を示されたのは、実は神の方であったことに、私は気づいてきました。誰かを創造し、その人物がようやく自分の願い通りに行動してくれるようになるまで、その後80年もかかるなんて、想像してもみてください。

    パウロはローマ人への手紙で、神を「忍耐の神」と呼んでいます。[6] 神は聖書の中で、忍耐強く辛抱強い方として描かれており、それは神の特質の一つです。神がモーセのための御計画においても、全人類のための御計画においても、それほど忍耐強くあられたのだから、私はこう思うのです。私たちの人生で神がなされていることについて、神は私たちも同様に忍耐強くあることを望んでおられるのだと考えても、間違いではではないだろうと。神が私たちのことを、待つだけの価値がある存在だと信じておられるなら、私たちもそう信じるべきです。—T・M[7]

    ヨブの忍耐

    何でも即座に手に入ることを評価する社会では、待つことは時代にそぐわず、さらには不快なことのようにさえ思えます。しかし、忍耐は聖書に深く根ざした概念であり、それを実践することは、私たちの善き神の目的と約束を信頼しながら、堕落した世界で賢く良い生き方ができるようにする可能性を持っています。聖書は、「信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者」となりなさいと教えています。(ヘブル6:12) ヨブは、聖書の中でも、その驚くべき忍耐力が注目されている人の1人です。

    聖書の中で、ヨブな多くの試練を経験するのを神が許された、敬虔な人として描かれています。彼は富も健康も子どもも失い、妻や友人から疑われ、背を向けられました。多くの喪失と悲しみの中で、ヨブは疑問や疑念と格闘しながらも、祈りによって神とのつながりを保ち、神がその激しい逆境の時期を乗り越えさせてくださるのを、積極的に待ち望みました。

    ヨブはこう宣言しています。「たとえ神がわたしを殺しても、わたしは神に希望を抱こう。」(ヨブ13:15 英語ESV訳) 「わたしは知っている わたしを贖う方は生きておられ ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも この身をもって わたしは神を仰ぎ見るであろう。」(ヨブ19:25–26 新共同訳)

    最終的に、ヨブの忍耐は報われました。神は、起こったことすべての理由を完全に説明はされませんでしたが、ヨブを批判した友人たちを叱責し、ヨブの家族と財産を回復させることによって、ヨブへの非難が不当であることを示されました。ヤコブ書では、クリスチャンがヨブに倣うよう勧められています。「あなたがたも … 耐え忍びなさい。… 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。」(ヤコブ5:8–11)…

    聖書で忍耐力が称賛されているのは、ヨブだけではありません。ヤコブ書で、ヨブが言及されている箇所には、こうも記されています。「兄弟たち。苦難と忍耐については、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。」(ヤコブ5:10 新改訳2017) また、ヘブル書には、「アブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを得たのである」とあります。(ヘブル6:15)

    聖書で忍耐を示しているヨブや他の人々の例は、何でも即座に手に入れようとするのではなく、神を敬うことでもある忍耐を培おうとする人たちの人生に、有益なものとなるでしょう。…

    ヨブ記の中で最も美しい瞬間は、彼が祈っているその時には神の恵みを感じていなかったとしても、神の性質の恵み深さへの信仰を言い表すいくつかの場面です。同じように、神の恵みが雲に覆われて見えなくなっているように感じることがあっても、太陽が確実に再び輝くように、神の恵みもそこにあるのだと確信できます。…

    そして、私たちはパウロのように、「あなたがたが、神の栄光の勢いにしたがって賜わるすべての力によって強くされ、何事も喜んで耐えかつ忍」ぶことができるようにと、祈ることができるのです。(コロサイ1:11)—ジェシカ・ユーダル[8]

    辛抱強い忍耐力

    穏やかな笑みを浮かべる、小柄で体の不自由な男が、世界をひっくり返すことができるとは、想像しにくいことです。しかし、「エビ」と形容されたこともあるウィリアム・ウィルバーフォースは、それを成し遂げました。ただ、力ずくでそうしたのではありません。

    1700年代後半の奴隷貿易は、何千人ものアフリカ人、何百隻もの船、何百万ポンドものお金が動く規模のものであり、イギリスや多くのヨーロッパ諸国の経済はそれに頼っていました。大西洋を横断するいわゆる「ミドル・パッセージ(中間航路)」では、[奴隷船で運ばれた]アフリカ人の4人に1人が死亡したと推定されていますが、その恐怖を知る者は、当時ほとんどいませんでした。

    ウィルバーフォースはそのことを知った者の1人で、深く心を痛めていました。

    1788年5月、ウィルバーフォースは研究者トマス・クラークソン(ウィルバーフォースは、この人こそが運動の成功の中心人物であると称賛していました)の協力を得て、奴隷貿易を告発する12項目の動議を議会に提出しましたが、この動議は否決されました。農園主、実業家、船主、伝統主義者、さらに国王までもが、この運動に反対したのです。奴隷制度廃止論者は、危険な過激派とみなされていました。

    それでもウィルバーフォースはあきらめようとせず、1791年に再び奴隷貿易廃止法案を提案しましたが、やはり否決されました。

    1792年にも提案し、否決されました。

    1793年も同様です。

    1797年、1798年、1799年も、やはり同様です。さらに、1804年と1805年も同じでした。

    しかし、世論は次第に奴隷制度廃止論者の努力を支持するようになり、1806年、ついに議会は、大英帝国全土で奴隷貿易を廃止したのです。ウィルバーフォースは喜びの涙を流しました。

    彼はこの実績に満足してあぐらをかくことなく、次には、すべての奴隷の解放を目指しました。これもまた、並々ならぬ執念が必要でした。しかし、1833年の夏、奴隷制廃止法案はついに議会を通過したのです。その3日後、ウィルバーフォースは亡くなりました。

    ウィルバーフォースとその協力者たち(彼は決して単独で行動することも、功績を独り占めすることもありませんでした)は、当時の世界最大の強国であったイギリスから、当時の最大の悪を取り除くことに成功したのです。そして、それは、信仰と政治的手段と粘り強さを地道に実践してこその結果でした。—マーク・ガリ[9]

    *

    このように辛抱強く粘り強い類の忍耐は、希望と深く関連しています。辛い状況にあって忍耐強くあれるのは、主が恵みを与えてくださること、そして、その状況を切り抜けさせ、主の時になれば勝利を与えてくださると信じているからです。信仰の父祖たちのためにしてくださったのと同じように。パウロも、ローマ書でこのように教えています。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」[10] また、ヤコブは、私たちの人生において忍耐力を十分に働かせなさいと言っています。「あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。」[11]

    次の引用文は、この原則をよく物語っています。

    御霊の実は、イエスがどのようなお方であって、どのような行動をされるかを、完璧に表しています。「しかし、聖霊は私たちの人生に次のような実を結ばせます。愛、喜び、平安、忍耐、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:22–23 英語NLT訳)

    では、神はどのようにして、あなたの人生にこのような実を結ばせてくださるのでしょうか。神があなたの中で育んでいる実とは正反対の状況に、あなたを置くことによってです。感じの良い人を愛するのは簡単ですが、神は感じの悪い人を周りに置くことで、愛を教えてくださいます。そうやって、あなたは愛することを学ばなければならないのです。悲しみの時期に、あなたは喜びを学びます。忍耐を学ぶのは、忍耐が試される時です。

    神はあなたの人生において、あなたの人格を築き上げたいのです。あなたは、自動販売機のように、素早く簡単なプロセスを望むかもしれません。自動販売機は、あなたが欲しいものを即座に与えてくれますから。しかし、そうやって手に入れたものの多くはただのジャンクで、長い目で見ればあなたに害を及ぼします。神の働き方は、自動販売機とは正反対です。ゆっくりとしているし、時には難しくもありますが、やがて、あなたの内に強い人格を築き上げていきます。

    霊的に成長することは、生涯にわたる旅路であることを忘れてはいけません。忍耐強くありましょう。—リック・ウォレン[12]

    もうひとつ、忍耐を持つべき分野は、他の人の短所や過ちや失敗を許容することにおいてです。自分自身を含め、誰にでも短所はありますから。この場合の忍耐とは、うっとうしく感じるような、他の人の短所を許容することを言っています。私たちは、愛をもって互いの過ちを忍び合い、大目に見るべきなのです。[13]

    神が日々私たちに対して、風変わりな個性だけではなく、罪に関しても忍耐強くあられるということを覚えておくと助けになります。神は、私たちの過ちや失敗について怒ったりイライラしたりはされません。むしろ、愛とあわれみを持って、何度も何度も私たちに忍耐を示されます。神に従う者として、私たちも同様に、他の人たちに対してあわれみと忍耐を示すことや、私たち自身がしてもらいたいと思うことを相手にもすることが求められています。[14] ジェリー・ブリッジズも、次のように指摘しています。

    「神は毎日、辛抱強く私たちと接してくださいますが、私たちは毎日、友人や隣人、愛する者たちに対してイライラしそうになります。神の御前における私たちの過ちや失敗は、私たちをいら立たせる他人の些細な行為より、はるかに深刻なものであるのに。神は私たちに、他者の弱さに大きな心で忍耐し、それを大目に見て、神が私たちを赦してくださったように、彼らを赦すよう求めておられます。」—ジェリー・ブリッジズ

    *

    「すべての内に神を見ることだけが、私たちが、自分を悩ませ困らせる人を愛し、忍耐強くあれるようにしてくれます。そうなると、彼らは私たちにとって、神が私たちのために持っておられる優しく賢明な目的を達成するための道具でしかないということです。そして、最終的に、私たちは心の中で、その人たちがもたらしてくれる祝福に感謝さえすることでしょう。」—ハンナ・ウィトール・スミス

    「聖書が忍耐について語る時、… 単に将来何かを得るまで待つ能力ではなく、それをはるかに超えた美徳として語っています。神の完璧なタイミングに信頼するという、魂の休息や平安以上のものです。このような忍耐は、他の人との対人関係に主眼を置いています。それは、個人的に傷つくような状況にある時、辛抱強く、我慢強くあるという忍耐であり、もっとも難しい類の忍耐です。」—R・C・スプロール

    忍耐を求める祈り

    主イエスさま、ペイシェンス(忍耐)の元々の意味は「長らく苦しむこと」ですが、あなたはまさに、私の罪にふさわしい罰を与える代わりに、限りない苦しみを受けてくださいました。あなたは、言葉では表せないほど忍耐強く、私に接してこられました。その事実によって、私が周りの人々に対して、私の状況に対して、そして、私の人生におけるあなたの処遇に対して、忍耐強くなれますように。アーメン。—ティモシー・ケラー

    思考の糧

    「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(ローマ12:12 新共同訳)

    「待つというのは難しいことだが、神と共に歩もうとするのであれば、神を待ち望む忍耐の心を養わなければならない。」—ジェームズ・K・サー

    「どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ[て下さるように。]」(ローマ15:5)

    「忍耐は、愛に満ちた優しい心が放つ超越的な輝きであり、周りの人と接する時、相手に優しく慈しみ深いまなざしを注ぎます。」—ビリー・グラハム

    (忍耐の美徳について、さらに詳しくは、『もっとイエスのように:忍耐』をご覧ください。)

    (続く)


    注:
    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    1 1コリント 13:4 新共同訳.

    2 ローマ 15:4 新共同訳.

    3 Jeff Peabody, “What Christmas Says to the Impatient Pastor,” Christianity Today, December 22, 2015.

    4 詩篇 139:16.

    5 ヨブ 14:5.

    6 ローマ 15:5.

    7 2017年にアンカーに掲載されたJust1Thingの記事『忍耐と神の御計画』より、一部変更

    10 ローマ 12:12 新共同訳.

    11 ヤコブ 1:3–4.

    13 エペソ 4:2.

    14 ルカ 6:31.

     

  • 7月 9 第1コリント:第3章(1-9節)
  • 6月 26 キリストに従う者にとっての美徳: 平安
  • 6月 19 苦しみの中に神を見る
  • 6月 11 第1コリント:第2章(9-16節)
  • 6月 4 キリストに従う者にとっての美徳: 喜び
  • 5月 28 もっとイエスのように:愛についての言葉(他の人への愛)
  • 5月 21 もっとイエスのように:愛についての言葉(神の愛)
  • 5月 14 第1コリント:第2章(1-8節)
  • 5月 7 もっとイエスのように:平安・平和についての言葉
   

信条

もっと見る…
  • ファミリー・インターナショナル(TFI)は、世界中の人々と神の愛のメッセージを分かち合うことをゴールとする国際的なオンライン・クリスチャン・コミュニティーです。私たちは、誰でもイエス・キリストを通して神との個人的な関係を持つことができると信じます。その関係があれば、幸せや心の平安が得られるだけではなく、他の人を助け、神の愛の良き知らせを伝えようという意欲がわいてきます。

私たちのミッション

もっと見る…
  • ファミリー・インターナショナルが何よりも目標としているのは、神の御言葉のうちに見出される、愛と希望、救いという命を与えるメッセージを分かち合うことによって、より良い人生を皆さんに送っていただくことです。ペースの速い、複雑化した現代社会にあっても、神の愛を日常生活の中で実践することこそ、社会の問題の多くを解決する鍵であると私たちは信じます。聖書の教えにある希望や助言を分かち合うことで、ひとりずつ心が変わって行くことによって、だんだん世界が変わって行き、より良い世界が築かれて行くと信じているのです。

理念

もっと見る…
  • 神への情熱

    私たちは、心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして神を愛します。イエスとの親しい個人的な関係を築くように努め、また、イエスの特性を見習い、その愛を実践することにおいて成長するように努めます。

TFI について

TFI オンラインは、ファミリー・インターナショナル(TFI)のメンバーのためのコミュニティサイトです。TFI は、世界各地で神の愛のメッセージを伝えることに献身する国際的なクリスチャン・フェローシップです。

TFI について詳しくお知りになりたい方は、私たちのグローバルサイトをご覧ください。

TFI メンバーの方は、 ログイン して他のコンテンツも見ることができます。

最近のシリーズ

もっと見る…
第1・第2テサロニケ
パウロがテサロニケの信徒に宛てた書簡の研究と、その教えがいかに現在に当てはめられるか
そのすべての核心にあるもの
キリスト教信仰・教義の基本を扱ったシリーズ