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ユーザーフレンドリーなデボーション記事

  • 神と神の仕事に与える

    Giving to God and His Work
    February 22, 2024

    オーディオ所要時間: 7:59
    オーディオ・ダウンロード(英語) (7.3MB)

    聖書には、エリヤの時代に起こった激しい飢饉のことが記されています。その飢饉の時、ザレパテの町で貧しいやもめ女が、飢えで死んでしまう前に自分と自分の息子に最後の小さなパンを焼こうとして、火をおこすためのたき木を拾っていました。しかし、神の預言者エリヤがやって来て、こう言いました。「まず、私のために小さいパンを一つ焼き、その後で、あなたとあなたの子供の分を作りなさい。そうすれば、あなたのかめの粉は尽きず、びんの油は絶えないでしょう」と。そして、まさにその通りのことが起こったのでした。(列王上17:10–16)

    その貧しいやもめは、神の預言者に食べさせて世話することによって神を優先し、それによって、3年に及ぶ長い飢饉を奇跡的に生き延びられたのです。彼女のかめの粉は決して尽きることがなく、びんの油は決して絶えることがありませんでした。3年の飢饉の間、彼女はその同じかめの粉と、その同じびんの油を使って、自分と息子の食物を作り続けたのです。

    私たちは、ザレパテのやもめのように、他の人に与えるほどのものを持っていないと感じることがあります。しかし、持っているわずかなものでも神と神の仕事のために捧げるなら、神が祝福してくださると信頼できるのです。

    新約聖書にも、貧しいやもめについての似たような物語が記されています。「イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ[最小単位の銅貨]二つを入れた。それは一コドラントに当る。」

    この貧しいやもめの行動を見ていたイエスは、弟子たちを呼び寄せて、彼らにこう言われました。「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである。」(マルコ12:41–44)

    神殿は貧しいやもめの捧げ物など必要としなかったかもしれませんが、神は彼女の犠牲を同じように称えられました。あなたが神に捧げるものは何でも、神はその与える行為を祝福してくださると確信できます。あなたの動機が正しく、意図が良いものであれば、神はその与える行為を必ず祝福してくださいます。

    こんな話があります。ソフィーはサンフランシスコに住む、クリスチャンの洗濯婦でした。懸命に働かなければならなかったものの、彼女はいつも主をほめたたえていました。ある日、路面電車の中で知り合いの女性と出会ったソフィーは、こう言いました。「私が最近どこにいたか知ってる? 中国や、インドや、南洋諸島よ。」 相手の女性は、けげんそうな目つきでソフィーを見ました。彼女が町を離れすらしなかったことを知っていたからです。それどころか、ソフィーは貧しいあまり、路面電車に乗る余裕もほとんどないほどでした。

    女性はこう答えました。「どういうこと、ソフィー? あなたはサンフランシスコから出たことさえないじゃない!」 すると、ソフィーは言いました。「私が服を洗濯して稼ぐお金は、私の血と汗と涙と苦労の結晶よ。それは私の一部で、それを宣教師たちに送っているの。そしてそれは世界中に出て行って、福音を宣べ伝えてるのよ。」

    神の仕事と宣教師を支援するために送ったお金は、送り主の一部です。あなたは宣教活動や宣教師への寄付を通して、自分の一部を送るのです。宣教地に行くことができなくても、宣教活動に寄付することができます。宣教地に赴いて、すべての造られたものに福音を宣べ伝える人たちを支援することは、自らそれに携わることのない神の子どもたちの果たすべき責務です。そうすることで、あなたは自分のお金を、勝ち取られた魂や永遠に渡る配当に投資しているのであり、神はそれゆえにあなたを祝福されるでしょう。イエスは言われました。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6:33)

    この原則については、イエスが語られた良きサマリヤ人についての物語の中にも描かれています。このサマリヤ人は、強盗どもに襲われ、殴られた哀れな人を道端で見つけました。良きサマリヤ人は彼を起こし、自分の家畜に乗せて、宿屋に連れて行き、宿屋の主人に、「かかった費用は幾らでも、わたしが支払います」と告げたのです。(ルカ10:30–37)

    良きサマリヤ人は主を表し、宿屋の主人は主の「管理者」、つまり主に従う者たちを表しています。私たちが人々を救出し、助け、救いをもたらすために費やすものは何でも、主がそれ以上に報いてくださいます。私たちが神と神の御業に捧げるものは何であれ、それが私たちの時間であれ、お金であれ、資源であれ、最終的には犠牲とはなりません。むしろ、私たちは神の国に投資しているのであって、その見返りは私たちが投資したものを遥かに超えるものとなるのです。

    アフリカのジャングルを開拓し、そこで祈りながら死んだイギリスの宣教師、デイヴィッド・リヴィングストン(1813-1873)は、かつてこう言いました。

    人々は、私がアフリカで人生の大半を費やしたことで払った犠牲について語ります。… 健全な活動、善をなしているという自覚、心の平安、そして輝かしい宿命への明るい希望という、それ自体至福の報酬をもたらすものが、犠牲なのでしょうか。そのような考え、そのような思いから、この犠牲という言葉を捨て去りなさい。それは断じて犠牲ではありません。むしろ特権なのです。… 私は一度も犠牲を払ったことがありません。

    デイヴィッド・リヴィングストンは決して神以上に与えることなどできませんでした。そして自らの命を捧げはしたものの、救われた不滅の魂という、永遠に渡る配当を得ることでしょう。

    自分の人生、時間、お金をキリスト・イエスと神の仕事のために投資するなら、あなたは決して失うことのない、いつまでも刈り取ることのできる永遠の配当を手にすることになります。神は、あなたの与える行為を祝福し、そのせいで少しも損をすることがないようにしてくださいます。あなたは、人々が助けられ、魂がキリストに導かれ、神の王国が前進するという、良き見返りを見るようになるでしょう。だから、神を第一に置きなさい。そうすれば、神はあなたに十二分に報い、返し、祝福してくださいます。

    イエスは言われました。「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。」 (ルカ6:38, マタイ10:8)

    あなたは決して神以上に与えることはできません。神はあなたが与える以上に与えることを好まれ、いつだってあなたが与えうる以上のものを与えてくださいます。「神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。」(2コリント9:7–8)

    1987年ファミリー・インターナショナル出版『宝』の記事より 2024年2月に改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー

  • 4月 17 最後までやり抜く
  • 4月 15 心の貧しい人と祝福について
  • 4月 9 シンフォニック・マジック
  • 3月 29 イースター:なぜ私たちは新しい契約を祝うのか
  • 3月 28 聖餐を祝う
  • 3月 27 朝ごとに新しくされるいつくしみ
  • 3月 23 永遠の愛
  • 3月 14 金持ちの若い役人
  • 3月 4 主の完璧なタイミング
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第1章(26-31節)

    [1 Corinthians: Chapter 1 (verses 26-31)]

    April 2, 2024

    第1コリント書の第1章は、残りの6つの節で終わります。

    兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。[1]

    パウロはコリントの信徒たちに、自分たちが召された時のことを考え、どのように信仰を持つに至ったか、また、その時に彼らはどのような社会的地位にあったのかを思い起こすよう求めています。この節より前の箇所で、パウロは「召された」こと(召し、召命)について何度も言及しています。[2] 召しとは、単に神に呼び出されることだけではなく、神の変容の力も表しているので、パウロは召しを重要なものと考えています。彼は、コリントの人たちがどのようにしてクリスチャンになったのか、また、人間が受けるに値しないほどの神の愛と召しをどのようにして受けたのかを振り返ってほしいのです。パウロは彼らを自分の「兄弟」(また、姉妹)とみなしています。そして、次の章では、自らの召しに言及して、それは神の恵みの証明であるとしています。[3]

    パウロは、コリントの信徒たちの社会的地位にも目を向けさせ、コリント教会にいる大部分のクリスチャンは地位の低い者であることを指摘しています。パウロが用いた3つの表現、「知恵のある者」、「権力のある者」、「身分の高い者」は、社会的に高く評価されていた人たちを描写するものです。「知恵のある者」とは、地域社会において賢者とみなされた者ということであり、おそらく博識で教養があり、人前で話すのが上手な人たちのことです。「権力のある者」とは、社会に影響力を持つ人たちを指し、おそらく富か政治的影響力、あるいはその両方を持っていた人たちのことです。「身分の高い者」とは、権力者や金持ちの家に生まれ、地域社会において良い地位にあった者のことです。

    「知恵のある者」のことを、パウロは「人間的には」と表現しています。(翻訳聖書によっては、「この世の」や「肉によって、肉に従って」と訳されています。) この言い回しは、第2コリント書で6回用いられています。[4] パウロの著作では、この言い回しは霊的な意味で用いられ、御霊によるものや神からのものとの対比がなされています。この文脈においては、いくつかの異なる霊的状態について語られています。パウロは、この世の知恵と神の知恵とを対比しているのです。後に(2:12で)、パウロは「この世の霊」は「神からの霊」に反するものであるとしています。パウロの懸念の一つは、コリントの信徒たちが、神の目から見てどうであるかということよりも、世間一般がこうあるべきだと考える捉え方に基づいて、互いをも判断していることです。パウロはコリントの信徒たちに、神の力と知恵について考えるように訴え、それをこの世の力や知恵と対比させています。知恵は神の言葉の中にあるので、パウロは彼らが聖書に知恵を求めるよう呼びかけています。

    それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、… [5]

    パウロは、コリントの信徒たちの中には、この世の基準から見て知恵のある者が多くはなく、権力のある者や家柄の良い者も多くはないと述べた上で、神には神ご自身のやり方があることを指摘しています。そして、神が選ばれたという言葉が3回も出てくるのです。神は、ご自分の愛と恵みを与える相手として誰でも好きなように人を選ばれるのであり、パウロは、そのように神に選ばれることがかなりの栄誉であることを説明しています。パウロはコリントのある人たちのことを、この世の基準によれば「愚かな者」だと言いますが、それでも、神は彼らを選ばれたのです。彼は、神の恵みと愛の深さを知っています。手紙を読み聞かせられている人たちに、神が自分たちのためにどんなことをしてくださったことを考えるなら、神の愛や優先順位が人間の愛や優先順位とは明らかに異なることがわかるだろうと言っているのです。

    … 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。[6]

    少し前のところで、パウロは身分の高くない者について語っており(第26節)、それは言い換えるなら、家柄が良くはない者ということです。パウロはここで、神が地位や身分の低い者、貧しい者、庶民、社会的に軽んじられている者を選ばれたと述べています。家柄が良くない者たちは、人から取るに足らない者とみなされたり、軽蔑されたりしており、コリントのクリスチャンの多くも、周囲からそのように見られていました。しかし、彼らは誕生したばかりの新しい民だったのです。

    パウロは、神が「有力な者を無力な者にする」ことを選ばれたと言います。「無力な者にする」という表現は、裁きや滅亡を意味します。十字架につけられたキリストを宣べ伝えることによって、この世の価値観はひっくり返されます。世の目には愚かで弱く見えるものが高く引き上げられ、世が価値あると考えるものが裁かれる(恥じ入らせられ、無にされる)のですから。

    それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。[7]

    神は、この世の愚かなもの、すなわち十字架やコリントの信徒たちをあえて選ばれました。それは、どんな人であっても、自分の手に何かを持って神の御前に来ることができないようにするためです。人間が何を持って行ったとしても、神の御前でその人の立場を有利にするようなものなどありません。どんな業績も、富も、社会的地位も、神にとって何の価値もありません。

    新約聖書で「誇る」という言葉を用いているのは、主にパウロです。パウロは、第31節で引用しているエレミヤ9:23–24と関連して、この言葉を用いているようです。[日本語訳聖書で「誇る」と訳されている]「boasting(自慢する)」は、概して肯定的には捉えられない言葉ですが、「誇りに思う」、「誇りとする」という意味もあります。ある著者は、このように語っています。「十字架の足元の地面は平ら(みな対等)です。私たちの誰が何を持っているのであれ、生ける神の御前でその人の立場を有利にするものは、一つもありません。才気、影響力、業績、金銭、名声、そのいずれもです。」[8]

    あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。[9]

    少し前(第28節)の箇所で、パウロは「ない」(無きに等しい)者について語っていましたが、ここでは、神によってどんな者で「ある」のかを語っています。神のおかげで、彼らはキリスト・イエスを信じる者となりました。イエスの死と復活によって、恵みによる救いの可能性がもたらされたのです。イエスは、神の救いと裁きの計画の現れであり、重要な場所、つまり神の御前に立ちうる唯一の方法なのです。

    パウロは、エレミヤ書からの引用である最後の節(第31節)の前に、3つの言葉を挙げています。それは「義」と「聖」と「あがない」です。それぞれ意味は異なっていますが、すべて、神の御前に立つことと関係しています。

    エレミヤ書では、「義」とは、いつくしみ(恵み)と公平と正義(義)とを行われる神と関係しています。[10] 神はこれらのことを喜び、ご自身の民が同じように行うことを期待されます。

    「聖」くされることは、クリスチャンが「キリストにあって」持っている地位と関係があります。聖くされるとは、しばしば、人がよりキリストに似た者となり、より聖い者となっていく、生涯にわたる過程と考えられています。この手紙の重要な部分である聖い生活への呼びかけは、クリスチャンは神によって選ばれ、分けられた民であるという、神がキリストにあってあらかじめなしておられた御業に由来しています。

    「あがない」の概念は、この世の奴隷制や奴隷の購入代金の支払いに由来しています。イスラエル民族がエジプトから解放されて約束の地に入ったことは、神の「あがない」とみなされていました。[11] パウロは、過去に起こったことを現在の状況になぞらえているのです。キリストの十字架上での犠牲と復活によって、クリスチャンは「キリストにあって」集められ、罪の領域から、また神の裁きからも、解放されました。自分たちの側のいかなる行動や人間的な知恵と計画にはよらず、神がキリストの十字架刑を通してなされた働きによって、彼らが神の御前に立つために必要なことが成し遂げられたのです。

    それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。[12]

    「主を誇れ」というこの言葉は、以下に挙げるエレミヤ9:23–24の言葉をざっくりと引用したものです: 「主はこう言われる、『知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる。』」

    エレミヤのこの言葉を成就させたのは、キリストにあって神がなされた御業です。十字架につけられたキリストは、唯一誇れるものとは何かを私たちに示してくださいました。それはすべて「神による」のであり、主にあってなされたことなのです。パウロは、旧約聖書からの主要なテーマを取り上げ、それをコリントの問題に対処するための一般原則として、ここで当てはめています。コリントの信徒たちは、神が彼らの間でなしてくださったことだけを誇りとすべきなのです。


    注:

    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    1 1コリント 1:26.

    2 1コリント 1:1, 2, 9, 24.

    3 1コリント 2:1–5.

    4 2コリント 1:17; 5:16(2回); 10:2, 3; 11:18.

    5 1コリント 1:27.

    6 1コリント 1:28.

    7 1コリント 1:29.

    8 Gordon D. Fee, The First Epistle to the Corinthians (Grand Rapids: Eerdmans, 2014), 88.

    9 1コリント 1:30.

    10 エレミヤ 9:24.

    11 詩篇 111:9.

    12 1コリント 1:31.

     

  • 4月 2 第1コリント:第1章(17-25節)
  • 3月 19 第1コリント:第1章(4-16節)
  • 3月 5 第1コリント:前書き
  • 2月 27 コミュニケーションは人間関係の要
  • 2月 20 ガラテヤ書:第6章(6-18節)
  • 2月 6 ガラテヤ書:第6章(5:25–6:5)
  • 1月 16 ガラテヤ書:第5章(13-24節)
  • 1月 9 もっとイエスのように:赦しについての言葉
  • 12月 26 もっとイエスのように:忠実と聖さについての言葉
   

信条

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