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  • 携挙はいつ起こるのか

    When Will the Rapture Happen?
    February 14, 2024

    スコット・マクレガー

    2011年、エンジニアからキリスト教ラジオ番組のパーソナリティに転身したハロルド・キャンピングは、イエスが2011年5月21日午後6時に再臨すると予言していました。彼は聖書に出てくる様々な数値を計算してその日時を算出しました。計算によって導き出したのは、十字架刑から再臨までの日数だとのことです。

    というわけで、2011年初頭、ハロルド・キャンピングは、5月21日にすべての信者が天に携挙されると予言しました。しかし5月21日には携挙が起こらなかったので、キャンピングは、イエスは霊的に5月21日に来られたと主張しましたが、後になって自分の誤りを認め、謝罪を発表しました。

    携挙(英語:ラプチャー)という言葉は近年、小説や映画でよく使われるようになりましたが、その言葉の意味を探ってみるのは助けになるでしょう。昔、ヒエロニムスという修道士が聖書をギリシャ語からラテン語に翻訳していました。彼は、イエスが再臨して信者たちを天国に連れていく方法を表現するために、ラテン語のラピオという単語を使いました。これは通常、略奪者の行為に使われる言葉です。彼は、イエスが天から突然に来て、戦利品、つまり私たち信者を奪い去り、ご自分の故郷である天国に私たちを連れ帰ることを示唆していたのです。このラピオから、ラプチャー(携挙)という言葉が生まれました。

    携挙に関する予言や人気小説を読み聞きする際には、聖書が携挙と世の終わりについて実際に何を述べているかを知ることが役に立ちます。以下は、聖書に基づいて、終わりの時と携挙の時間枠に関して私たちがある程度確実に知っていることを簡単にまとめたものです。

    まず確かなことは、イエスの再臨の明確な日付はわからないということです。イエスはマタイ24:36で、「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」と告げておられます。私たちはこの言葉を額面通りに受け止めなければならないと思います。イエスが再臨される正確な時期を知っている人は、現在、誰もいません。

    しかし、聖書には、イエスがいつ戻って来られるかを計算する起点となる出来事が起こると書かれています。その出来事とは、「犠牲(いけにえ)と供え物(ささげ物)」(ダニエル9:27)と呼ばれるものが禁じられることによって、謎めいた「聖なる契約」(あるいは、単に「契約」とも)が破られ、聖書が「荒らす(荒廃をもたらす)憎むべき者(忌まわしいもの)」(マタイ24:15)と呼ぶものが立つことです。

    この契約については、旧約聖書のダニエル書から少し知ることができます。私たちが一般に反キリストと呼んでいる人物がこの契約の締結に深く関わっており、イエスが再臨される1260日前(ほぼ3年半前)にこの契約を破棄することがわかっています。この契約の破棄は、公的な宗教儀式の禁止を伴うので、公の出来事であるように思われます。これが起こる時、私たちはある程度の確信をもって、イエスの再臨までの日数を数え始めることができるのです。

    この1260日という期間は、聖書のいくつかの箇所で言及されており、それらは、世界史における最後の時期、大患難期として知られるクライマックスの時期に関係しています。時に、それらの数字は、「週(7を意味する言葉)」や「月」、または謎めいた「時(とき:一定の期間を指す言葉)」という言葉で示されています。一つ念頭に置かなければならないのは、ヨハネの時代、1年は360日、1ヵ月は30日とされていたことです。ですから、1260日は3年半、また42カ月に相当します。

    まず、使徒ヨハネが書いた黙示録の節をいくつか見てみましょう。ヨハネはパトモス島に追放され、そこにいる間に未来についての長い幻を見ました。その幻の中で、天使がヨハネに、「彼ら[侵略軍のようです]は、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう」と告げます(黙示録11:2)。それから天使は、「そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう」と言います(黙示録11:3)。

    次の黙示録12章では、龍に追われる美しい女性のことが書かれています。この女性は信者の象徴であり、龍は悪魔です。黙示録12:6には、「女は荒野へ逃げて行った。そこには、彼女が千二百六十日のあいだ養われるように、神の用意された場所があった」と書かれています。

    その後、さらに、「しかし、女は自分の場所である荒野に飛んで行くために、大きなわしの二つの翼を与えられた。そしてそこでへび[龍]からのがれて、一年、二年、また、半年の間、養われることになっていた」と書かれています(黙示録12:14)。

    黙示録13:5では、さらに、「獣」と呼ばれる反キリストについて書かれています。「この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた」。

    ダニエル書にも、3年半に及ぶ反キリストの恐怖支配について書かれています。「彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間[一年、二年と、半年の間]、彼の手にわたされる」(ダニエル7:25)。

    つまり、マタイ24章でイエスご自身が述べているように、イエスが再臨されるのは、この3年半の期間が過ぎてからであることは明らかです。この章で、イエスは弟子たちの「あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」という質問に答えておられます(マタイ24:3)。

    イエスはこの質問に答えるために、ダニエル書の記述を引用されます。「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば … その時には、… 大きな患難が起る」(マタイ24:15, 21)。イエスは、この「荒らす憎むべき者」が立った後に(私たちはダニエル書から、契約が破棄された後にこれが起こると知っています)、特に神に従う者にとって苦しい時期が来ると説明されています。

    それからイエスはこう言われます。「しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう」(マタイ24:29-31)。

    イエスはご自分の弟子、そして私たちに、この1260日の大患難期が過ぎるまでは再臨と携挙は起こらないと明言されました。イエスはまた、携挙が非常に目立ち、広範囲で目撃されるものであると明言しておられることにも注意してください。「地のすべての民族」が目にするというのです。

    パウロは、テサロニケ人への第一の手紙の中で、携挙についてさらに詳しく教えています。彼はこのように書いています。「主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(1テサロニケ4:16-17)。

    以上をまとめてみましょう。

    1) イエスが再臨される正確な日や時間は、今は誰にもわからない。

    2) しかし、イエスの再臨は「聖なる契約」が破棄されてから1260日後に起こるので、将来、再臨に至る出来事が起こり始めた時点で、再臨のタイミングは計算できようになると思われる。

    3) その1260日間は、反キリストが権力を握る時期であり、しばしば大患難と呼ばれる。

    4) そして喜ばしいことに、この直後にイエスは再臨し、全世界がイエスの再臨を見、また、すでに死んだ者も生きている者も、すべての信者が携挙される(天に連れて行かれる)。

    ですから、聖書は、携挙のカウントダウンが始まる前に起こるべき具体的な出来事をいくつか簡潔に述べているのです。イエスがいつ再臨されるのか、私たちが生きている間に再臨されるのか、私たちにはわかりません。ですから、最も賢いのは、マタイ24章の最後の部分にあるイエスの忠告を心に留めることでしょう。「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである」(マタイ24:45-46)。

    つまり、私たちが今できる最善のことは、ベストを尽くして神と人を愛することであり、福音を伝え、人々を弟子にし、イエスの教えを守るように人々に教えるという主の大宣教命令を忠実に守ることなのです(マタイ28:19-20)。

    世界の終わりを心配する必要はありません。実際、イエスは明日のことさえ心配するなと言われました(マタイ6:34)。今、ここでやるべきことは山ほどあります。そして、イエスと他の人々のために生きた人生は、明日何が起ころうとも、そのための最善の準備なのです。良い知らせがあります。イエスはこう約束されました。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)。

    若者向けのキリスト教的人格形成リソース「Just1Thing」ポッドキャストより、一部変更

  • 4月 19 神と神の仕事に与える
  • 4月 17 最後までやり抜く
  • 4月 15 心の貧しい人と祝福について
  • 4月 9 シンフォニック・マジック
  • 3月 29 イースター:なぜ私たちは新しい契約を祝うのか
  • 3月 28 聖餐を祝う
  • 3月 27 朝ごとに新しくされるいつくしみ
  • 3月 23 永遠の愛
  • 3月 14 金持ちの若い役人
   

ディレクターズ・コーナー

信仰を築く記事と聖書研究

  • 第1コリント:第1章(26-31節)

    [1 Corinthians: Chapter 1 (verses 26-31)]

    April 2, 2024

    第1コリント書の第1章は、残りの6つの節で終わります。

    兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。[1]

    パウロはコリントの信徒たちに、自分たちが召された時のことを考え、どのように信仰を持つに至ったか、また、その時に彼らはどのような社会的地位にあったのかを思い起こすよう求めています。この節より前の箇所で、パウロは「召された」こと(召し、召命)について何度も言及しています。[2] 召しとは、単に神に呼び出されることだけではなく、神の変容の力も表しているので、パウロは召しを重要なものと考えています。彼は、コリントの人たちがどのようにしてクリスチャンになったのか、また、人間が受けるに値しないほどの神の愛と召しをどのようにして受けたのかを振り返ってほしいのです。パウロは彼らを自分の「兄弟」(また、姉妹)とみなしています。そして、次の章では、自らの召しに言及して、それは神の恵みの証明であるとしています。[3]

    パウロは、コリントの信徒たちの社会的地位にも目を向けさせ、コリント教会にいる大部分のクリスチャンは地位の低い者であることを指摘しています。パウロが用いた3つの表現、「知恵のある者」、「権力のある者」、「身分の高い者」は、社会的に高く評価されていた人たちを描写するものです。「知恵のある者」とは、地域社会において賢者とみなされた者ということであり、おそらく博識で教養があり、人前で話すのが上手な人たちのことです。「権力のある者」とは、社会に影響力を持つ人たちを指し、おそらく富か政治的影響力、あるいはその両方を持っていた人たちのことです。「身分の高い者」とは、権力者や金持ちの家に生まれ、地域社会において良い地位にあった者のことです。

    「知恵のある者」のことを、パウロは「人間的には」と表現しています。(翻訳聖書によっては、「この世の」や「肉によって、肉に従って」と訳されています。) この言い回しは、第2コリント書で6回用いられています。[4] パウロの著作では、この言い回しは霊的な意味で用いられ、御霊によるものや神からのものとの対比がなされています。この文脈においては、いくつかの異なる霊的状態について語られています。パウロは、この世の知恵と神の知恵とを対比しているのです。後に(2:12で)、パウロは「この世の霊」は「神からの霊」に反するものであるとしています。パウロの懸念の一つは、コリントの信徒たちが、神の目から見てどうであるかということよりも、世間一般がこうあるべきだと考える捉え方に基づいて、互いをも判断していることです。パウロはコリントの信徒たちに、神の力と知恵について考えるように訴え、それをこの世の力や知恵と対比させています。知恵は神の言葉の中にあるので、パウロは彼らが聖書に知恵を求めるよう呼びかけています。

    それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、… [5]

    パウロは、コリントの信徒たちの中には、この世の基準から見て知恵のある者が多くはなく、権力のある者や家柄の良い者も多くはないと述べた上で、神には神ご自身のやり方があることを指摘しています。そして、神が選ばれたという言葉が3回も出てくるのです。神は、ご自分の愛と恵みを与える相手として誰でも好きなように人を選ばれるのであり、パウロは、そのように神に選ばれることがかなりの栄誉であることを説明しています。パウロはコリントのある人たちのことを、この世の基準によれば「愚かな者」だと言いますが、それでも、神は彼らを選ばれたのです。彼は、神の恵みと愛の深さを知っています。手紙を読み聞かせられている人たちに、神が自分たちのためにどんなことをしてくださったことを考えるなら、神の愛や優先順位が人間の愛や優先順位とは明らかに異なることがわかるだろうと言っているのです。

    … 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。[6]

    少し前のところで、パウロは身分の高くない者について語っており(第26節)、それは言い換えるなら、家柄が良くはない者ということです。パウロはここで、神が地位や身分の低い者、貧しい者、庶民、社会的に軽んじられている者を選ばれたと述べています。家柄が良くない者たちは、人から取るに足らない者とみなされたり、軽蔑されたりしており、コリントのクリスチャンの多くも、周囲からそのように見られていました。しかし、彼らは誕生したばかりの新しい民だったのです。

    パウロは、神が「有力な者を無力な者にする」ことを選ばれたと言います。「無力な者にする」という表現は、裁きや滅亡を意味します。十字架につけられたキリストを宣べ伝えることによって、この世の価値観はひっくり返されます。世の目には愚かで弱く見えるものが高く引き上げられ、世が価値あると考えるものが裁かれる(恥じ入らせられ、無にされる)のですから。

    それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。[7]

    神は、この世の愚かなもの、すなわち十字架やコリントの信徒たちをあえて選ばれました。それは、どんな人であっても、自分の手に何かを持って神の御前に来ることができないようにするためです。人間が何を持って行ったとしても、神の御前でその人の立場を有利にするようなものなどありません。どんな業績も、富も、社会的地位も、神にとって何の価値もありません。

    新約聖書で「誇る」という言葉を用いているのは、主にパウロです。パウロは、第31節で引用しているエレミヤ9:23–24と関連して、この言葉を用いているようです。[日本語訳聖書で「誇る」と訳されている]「boasting(自慢する)」は、概して肯定的には捉えられない言葉ですが、「誇りに思う」、「誇りとする」という意味もあります。ある著者は、このように語っています。「十字架の足元の地面は平ら(みな対等)です。私たちの誰が何を持っているのであれ、生ける神の御前でその人の立場を有利にするものは、一つもありません。才気、影響力、業績、金銭、名声、そのいずれもです。」[8]

    あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。[9]

    少し前(第28節)の箇所で、パウロは「ない」(無きに等しい)者について語っていましたが、ここでは、神によってどんな者で「ある」のかを語っています。神のおかげで、彼らはキリスト・イエスを信じる者となりました。イエスの死と復活によって、恵みによる救いの可能性がもたらされたのです。イエスは、神の救いと裁きの計画の現れであり、重要な場所、つまり神の御前に立ちうる唯一の方法なのです。

    パウロは、エレミヤ書からの引用である最後の節(第31節)の前に、3つの言葉を挙げています。それは「義」と「聖」と「あがない」です。それぞれ意味は異なっていますが、すべて、神の御前に立つことと関係しています。

    エレミヤ書では、「義」とは、いつくしみ(恵み)と公平と正義(義)とを行われる神と関係しています。[10] 神はこれらのことを喜び、ご自身の民が同じように行うことを期待されます。

    「聖」くされることは、クリスチャンが「キリストにあって」持っている地位と関係があります。聖くされるとは、しばしば、人がよりキリストに似た者となり、より聖い者となっていく、生涯にわたる過程と考えられています。この手紙の重要な部分である聖い生活への呼びかけは、クリスチャンは神によって選ばれ、分けられた民であるという、神がキリストにあってあらかじめなしておられた御業に由来しています。

    「あがない」の概念は、この世の奴隷制や奴隷の購入代金の支払いに由来しています。イスラエル民族がエジプトから解放されて約束の地に入ったことは、神の「あがない」とみなされていました。[11] パウロは、過去に起こったことを現在の状況になぞらえているのです。キリストの十字架上での犠牲と復活によって、クリスチャンは「キリストにあって」集められ、罪の領域から、また神の裁きからも、解放されました。自分たちの側のいかなる行動や人間的な知恵と計画にはよらず、神がキリストの十字架刑を通してなされた働きによって、彼らが神の御前に立つために必要なことが成し遂げられたのです。

    それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。[12]

    「主を誇れ」というこの言葉は、以下に挙げるエレミヤ9:23–24の言葉をざっくりと引用したものです: 「主はこう言われる、『知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる。』」

    エレミヤのこの言葉を成就させたのは、キリストにあって神がなされた御業です。十字架につけられたキリストは、唯一誇れるものとは何かを私たちに示してくださいました。それはすべて「神による」のであり、主にあってなされたことなのです。パウロは、旧約聖書からの主要なテーマを取り上げ、それをコリントの問題に対処するための一般原則として、ここで当てはめています。コリントの信徒たちは、神が彼らの間でなしてくださったことだけを誇りとすべきなのです。


    注:

    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    1 1コリント 1:26.

    2 1コリント 1:1, 2, 9, 24.

    3 1コリント 2:1–5.

    4 2コリント 1:17; 5:16(2回); 10:2, 3; 11:18.

    5 1コリント 1:27.

    6 1コリント 1:28.

    7 1コリント 1:29.

    8 Gordon D. Fee, The First Epistle to the Corinthians (Grand Rapids: Eerdmans, 2014), 88.

    9 1コリント 1:30.

    10 エレミヤ 9:24.

    11 詩篇 111:9.

    12 1コリント 1:31.

     

  • 4月 2 第1コリント:第1章(17-25節)
  • 3月 19 第1コリント:第1章(4-16節)
  • 3月 5 第1コリント:前書き
  • 2月 27 コミュニケーションは人間関係の要
  • 2月 20 ガラテヤ書:第6章(6-18節)
  • 2月 6 ガラテヤ書:第6章(5:25–6:5)
  • 1月 16 ガラテヤ書:第5章(13-24節)
  • 1月 9 もっとイエスのように:赦しについての言葉
  • 12月 26 もっとイエスのように:忠実と聖さについての言葉
   

信条

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