アンカー

  • 思いわずらいを、いっさい神にゆだねなさい

    Casting All Our Cares on Him
    August 9, 2022

    引用文集

    オーディオ所要時間:15:24
    オーディオ・ダウンロード(英語) (14.1MB)

    あなたは、何度も何度も同じ悩みと格闘するのにうんざりしていますか。それが募って、とうとう重荷になっていますか。1ペテロ5:7にはこうあります。「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」 ただ主にゆだねて、重荷を負っていただきましょう。イエスは、私たちをかえりみてくださるので、いっさいの思いわずらいをゆだねていいと言われました。私たちが経験することで、主にゆだねることのできないものは何もありません。

    重荷は、さまざまな形で言い表せます。まず、重荷とは、あなたに多くの心配や苦労を与えるものを指して言います。…イエスはあなたのことを気にかけてくださっているのですから、心配やストレスはイエスにゆだねればいいのです。神にその状況を対処していただきましょう。そうすれば、まもなくあなたにとって有利に働くでしょう。

    次に、重荷とは、霊的にも肉体的にもつらい、重い負担を指して言うことがあります。例えば、心から愛している人の、あるいはあなた自身の病気です。その病気は、不治の病かもしれません。愛する人が苦しむ姿を見るのは、あなたにとって耐え難いことかもしれません。主は、そのような思いわずらいを主にゆだねるよう望んでおられます。

    1ペテロ5:7にあるこの言葉は、激しい苦しみと極度の迫害を経験していた初代教会の苦しむ聖徒たちに向けて書かれたものです。彼らが苦しんでいたのは、悪事を働いていたからではなく、謙遜と義のうちに信仰によって生きていたゆえのことでした。ペテロは、私たちがどんな状況に置かれても、主が私たちをかえりみてくださるのだから、心配事や不安はすべて主にゆだねることができるということを知ってほしかったのです。

    ダビデは詩篇55:22で、それと同じように荷をゆだねるよう勧めています。「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」…

    だから皆さん、あなたを悩ませ、重くのしかかっているものをすべて、優しく愛に満ちた神にゆだねましょう。信じてください、神は正しい人をかえりみてくださいます。—アニー・シアー [1]

    ゆだねる

    私たちは、心配事や悩み事、不安という重荷を抱え込むように造られてはいません。この荷は重すぎて、人間の身体と中枢神経系では到底耐えきれないのです。しばらくは何とかできるかもしれませんが、やがて肉体も精神も、このような絶え間ないプレッシャーに耐え切れなくなります。実際、医学界では、西半球において、病気の主な原因はストレスとプレッシャーであることが確認されています。人間はプレッシャーやストレス、不安や悩みを抱え込むようにはできていません。だから、人間の体は長期間ネガティブな影響下にいると壊れてしまうのです。…

    しかし、具体的にどのような問題や思いわずらいを主の肩にゆだねればいいのでしょうか。使徒ペテロは、「自分の思いわずらいを、いっさい」イエスにゆだねるべきだと言っています。「思いわずらい」とは、ギリシャ語のメリムナ(merimna)という言葉で、心配を意味しています。けれども、これは概して、私たちの生活に生じる問題の結果として起こるあらゆる苦悩、困難、苦難、不幸、問題、複雑な状況を表しています。経済的な問題、夫婦間の問題、仕事、家族、ビジネスに関する問題など、私たちに関係するあらゆる問題を指しているのです。

    つまり、心配や不安を引き起こすものは、それがなぜ起こったかにかかわらず、イエス・キリストの肩の上にゆだねる必要があります。

    主は「あなたがたをかえりみていて下さる」のだから、主に語りかけるには大きすぎることも小さすぎることもないと、ペテロは言います。「かえりみる」という言葉はギリシャ語の「メレイ」から取ったもので、「気にかける」「思いやる」「関心を持つ」「気がつく」「配慮する」「痛いほど細やかに気を配る」という意味です。ペテロはこの言葉を用いて、イエスが本当に私たちのことを、そして私たちの心に重くのしかかっていることを気にかけてくださっていると言って、私たちを安心させているのです。事実、イエスは私たちの身に起こっていることに細やかに気を配っておられます。私たちの人生のあらゆる面に関心を持っておられるのです。

    あなたは世の中の重荷を一人で負う必要はありません。イエスはあなたをとても愛していて、あなたとあなたが直面している困難を深く気づかっておられるので、今日、あなたにこう呼びかけています。「その荷をわたしの上に載せなさい。あなたが自由になれるように、わたしに重荷を負わせなさい」と。

    もしあなたが、家族や仕事や、教会、あるいは人生のそれ以外の面で、心配事や悩み、懸念を引きずっているなら、今すぐ立ち止まってこう言ってみてはどうでしょう。「イエス様、今日、私の重荷をあなたにゆだねます。あなたに荷を負っていただきます。私を自由にしてくださることを感謝します!」—リック・レナー [2]

    神は気づいておられ、心にかけておられる

    神は、思いやりのある、愛にあふれた、憐れみ深い父親です。神はあなたが理解しうる以上に、あなたを愛しておられ、あなたが把握しうる以上にあなたを愛しておられます。神は愛であり、あなたを愛するためにあなたを造られました。神は為されるすべてのことをあなたへの愛を込めて行われ、その憐れみは神の最も優れた資質なのです。神は思いやりのある父であられます。

    聖書は詩篇103:13で、「父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる」と述べています。神はあなたの人生のすべてを憐れみ深く心にかけてくださるのです。

    弟子たちのほとんどは、熟練した漁師でした。ある日、彼らが(湖に)出ていたとき、イエスは疲れて船の片隅で丸まって寝てしまいました。嵐が来ても、弟子たちはろうばいしなくてよかったはずです。漁師だったので、嵐には慣れていました。しかし、彼らは恐れたとあるので、大嵐だったに違いありません。舟は揺れ動き、水が入ってきました。彼らは必死になってイエスを起こし、人生で最も重要な質問の1つを尋ねたのです。「主よ、あなたはおかまいにならないのですか」と。

    あなたも私も、いつも、そして様々な方法で、神にその問いを投げかけています。「神様、あの医者の診断書を見ましたか。あなたはおかまいにならないのですか。私の結婚生活がどんなにひどいか、おわかりなのでしょうか。それなのに、あなたはおかまいにならないのですか。あなたは私の銀行の残高がかなり少なく、請求書が山のようになっているのを見ておられるのでしょうか。あなたはおかまいにならないのですか。私の子供たちが学校でどんなに苦労しているか見ておられるのでしょうか。あなたはおかまいにならないのですか。私の心を締め付けるこの恐怖をご存知ですよね。それなのに、あなたは気にかけてくださらないのですか。」

    答えはYES、神は気にかけておられます。実際、あなた以上に、神は気にかけておられます。あなたが助けを求める以上に、神は助けたいと願っておられます。何があなたの助けになるか、あなたが知っている以上に、神は知っておられます。神は気づいておられ、心にかけておられるのです。

    「一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」[3]リック・ウォレン [4]

    主に重荷をゆだねるには、実際どうすればいいのか

    自分の重荷を主にゆだねるというのは、重荷の所有権を自分から主に移すことです。自分の重荷を自分で負うのではなく、主が負ってくださるように、重荷をゆだねるのです。これは、問題についての懸念や心配を手放すという、あなたの心の中の決断です。いったんそれを主にゆだねてしまえば、それはもはやあなたの問題ではなくなります。…

    あなたの重荷とは、この人生が与える悩みです。あなたに重くのしかかり、心配させたりするもの、それが重荷です。…私たちは、トラブルや苦難に満ちた堕落した世界に生きていますが、決して自分の重荷を負うようにはできていません。どんな状況に置かれても、心配事は主に投げかけてください。主はあなたを助けたいと願っておられます。…

    詩篇55:22 にある約束の一つは、あなたが重荷を主にゆだねるとき、主はあなたを支えてくださるというものです。人を支えるというのは、養う、育てる、食物を提供する、連れ運ぶ、倒れないようにする、保護する、サポートする、守る、あるいは生きるために必要な手段を供給することを意味します。…

    重荷を主にゆだねるには、まず祈ることから始めましょう。主とつながり、何が起こっているのかを伝えるのです。あなたの心配事や気持ちを主に伝えるのです。そして、その問題を主にゆだねると心に決めるのです。主は、あなたがそうすることを望んでおられることを忘れないでください。

    思いわずらいの全重量を主の上に下ろしなさい。今、この重荷を主にゆだね、あなたのためにこの重荷を引き受けてくださることを信頼していると、主に伝えてください。そうすれば、主の平安があなたの心と体を覆っていくのを感じ始めるでしょう。

    「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」[5]

    重荷を主にゆだね続けるにつれ、人生は良くなっていくでしょう。問題状況や試練は私たち皆に襲いかかってきますが、主に支えていただく方法を知っている人の人生には、大きな力と恵みが働いています。—Walk with the Wise [6]

    わたしのもとに来なさい、あなたがたを休ませてあげよう

    あなたは時々心配したり、重荷を背負ってしまい、負担になることがあるだろうか。そんな時こそ、わたしのもとに来なさい。祈りの翼に乗ってわたしのもとに来なさい。あなたを支えてあげよう。

    あなたが負っている荷は、あなたの肩に収まるようにはできていない。わたしが負うように意図されたものなのだ。わたしの愛と憐れみによって、あなたがわたしに引き寄せられ、わたしがあなたを支え、あなたに近づくことができるように作った。[7] あなたを愛している。あなたがすべての思いわずらいをわたしにゆだねてくれるなら、わたしはあなたを最後まで支えるだろう。

    他の人の手本から学ぶ賢い人になりなさい。わたしのしもべマルティン・ルターの例を見なさい。彼は大きすぎる仕事を抱えたときには、退いて、祈りとわたしとの甘美な交わりに二倍の時間をかけたのだ。

    ルターが祈ったとき、彼は自分の重荷をすべてわたしにゆだねた。これこそ静かな休息の秘訣である。わたしがあなたのことを気にかけていること、そしてこれからもいつも気にかけることを知って、いっさいの思いわずらいをわたしにゆだねるのだ。わたしは、あなたとわたしで共に負うことのできる以上のものを、あなたの肩に負わせたりはしない。あなたが自分の重荷をわたしにゆだねるとき、あなたはわたしの強さにあずかることができるようになる。わたしの力はあなたの中で完全にあらわれる。[8]イエス

    2022年8月アンカーに掲載 朗読:ルーベン・ルチェフスキー
    音楽:ジョン・リッスン

  • 5月 22 人生の変化を切り抜ける
  • 5月 19 「わたしと一緒に目をさましていなさい」
  • 5月 5 大切なのは、あなたがどれだけ良くやっているかではない
  • 5月 1 世の光
  • 4月 27 傾聴
  • 4月 18 状況が不確かな時のための信仰
  • 4月 14 神の恵み
  • 4月 11 道であり、真理であり、命
  • 4月 9 イースターの本質
   

ディレクターズ・コーナー

  • 第2テサロニケ:第2章(パート2)

    [2 Thessalonians: Chapter 2 (Part 2)]

    May 23, 2023

    前回扱った第2章1–8節では、パウロがこのように述べていました。「不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。」 パウロは続けて、この「不法の者」について説明しています。

    不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった[新共同訳:真理を愛そうとしなかった]報いである。[1]

    第8節には、不法の者に滅びをもたらす主の来臨についての言及があり、それが、その不法の者はしるしと不思議とを行うというパウロのこの説明に繋がっています。この第9節には、彼の示す力はサタン的であることが記されています。「サタンの働き」(別訳では「サタンのわざ」)という表現が用いられることで、不法の者が超自然的なしるしによって、福音を受け入れなかった人々を惑わすことが強調されています。すでに「主の日」についての誤った教えが教会に入り込んでいたため(第2節)、パウロはテサロニケの人たちがこのような形で惑わされることのないよう、守りたかったのです。

    不法の者が行う奇跡には、偽りのしるしと不思議とがあります。新約聖書の他の箇所では、しるしと不思議という言葉が肯定的な意味合いで使われていますが、[2] ここでは、サタンの働きを指して用いられています。パウロは、そのような不思議なわざの背後にある力はサタン自身であり、その不思議は偽りのものであると述べています。ある著者は、次のように説明しています。

    幾つもの古代の文献は、多くの崇拝儀式には偽りの奇跡が付随していたと証言しており、それは、皇帝崇拝の特徴でさえありました。そのような不思議には、雷や稲妻の発生の他にも、偶像が話したり動いたりすることも含まれていました。使徒[パウロ]は、『不法の者』が当時の宗教的な慣習に従って演じるトリックを認識していましたが、真のサタンの力が彼の中に働いていることを注意深く指摘しています。[3]

    続けて第10節は、不法の者の惑わしや、福音の真理を拒絶することとそれがもたらす結果について説明しています。不法の者は、偽りの奇跡としるしと不思議とを行い、福音を拒んだ人たちを惑わすために、彼らが受け入れるようなどんな方法をも用います。この惑わしは「邪悪な惑わし」(英語ESV訳)と呼ばれており、他の英訳聖書では「悪の惑わし」(NLT訳)、「不義の惑わし」(NKJ訳)、「邪悪さによるあらゆる惑わし」(NAS訳)などと訳されています。不法の者を信じる人は、滅ぶべき者と呼ばれ、それは、救われずに失われている者という意味です。サタンの力は、人々が永遠に失われるように働いています。パウロのこの手紙は、人の最終的な運命は、真理、すなわち彼がテサロニケで宣べ伝えていた福音に関連しているという確信を表しています。

    そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばく[罪に定める]のである。[4]

    不信心な人たちが福音の真理を拒んだため、神は意外な方法で彼らを裁かれました。彼らが偽りを信じるように「迷わす(惑わす)力」を送られたのです。彼らが真理を受け入れなかったため、神は彼らに混乱を送り、真理と嘘の区別がつかないようにされたので、彼らは嘘を真理であるかのように信じてしまったということです。」パウロの著作の他の箇所でも、神が不信心な人々を、彼らが受け入れ、迎え入れてきた罪や過ちを犯し続けるに任されたという記述が幾つも見られます。

    ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。[5]

    「神は、彼らに鈍い心と、見えない目と、聞えない耳とを与えて、きょう、この日に及んでいる」と書いてあるとおりである。[6]

    そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。[7]

    真理を拒み、「不法の者」が掲げる「偽り」を信じる人たちは、最終的に嘘を信じることを選びます。彼らが嘘を信じるのは、福音の真理を拒んだために、強い惑わしに襲われ、納得してしまったからです。

    パウロは、第12節でも続けて、不法な者を信じた人々に下される神の裁きについて説明しています。そして、その結果とは罪に定められることです。この人たちは、福音のメッセージを拒んで、「不法の者」に同調しました。ただ福音を拒んだだけではなく、「不義を喜んでいた」のです。

    ここで、この手紙のテーマは、福音がいかにテサロニケの人たちに伝わり、彼らがその真理を信じたかについて、パウロが神に感謝していることに移ります。彼は、福音を拒んだ不信心な者たちとは対象的に、彼らは神の召しを受け入れたし、神に愛されており、イエスが再臨する時に救われるよう神に選ばれていることを伝え、テサロニケ教会を安心させています。

    しかし、主に愛されている兄弟たちよ。わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおられない。それは、神があなたがたを初めから[新共同訳:救われるべき者の初穂として]選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようとし、[8]

    少し前の第2テサロニケ1:3で、彼が最初に述べた感謝の言葉と同様に、ここでも、パウロと仲間たちが神に感謝するのは当然であると感じていたことが表現されています。パウロは、神がテサロニケの信徒たちを選び、彼らを愛しておられることに言及しています。神がテサロニケの信徒たちを愛し、選ばれた理由は説明していませんが、ただ、そうされたことへの感謝を述べているのです。パウロは、この信者たちがテサロニケ教会の最初の実(初穂)であると説明しています。NLT訳聖書は、それを次のようにうまく表現しています。「私たちは、神があなたがたを選んで、救いにあずかる最初の者としてくださったことを、いつも感謝しています。この救いは、あなたがたを聖める御霊と、真理に対するあなたがたの信仰とによってもたらされたものです。」[9]

    そのために、わたしたちの福音によりあなたがたを召して[新共同訳:招かれ]、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせて下さるからである。[10]

    神は、福音宣教を通して、テサロニケの信徒たちが信仰を持つよう招かれました。パウロと同労者たちを通して、救いのメッセージが彼らに届くようにされたのです。神は、マケドニア州で福音を伝えよという幻をパウロにお与えになり、[11] 彼らがテサロニケの町に着いた時には、人々が神からのメッセージを聞いて、それを受け入れました。ですから、パウロは、「わたしたちの福音によりあなたがたを召して」と言うことができたのです。パウロの話術が彼らを勝ち取ったということではなく、神がパウロの教えの中に働いて、そのメッセージを通して彼らを招かれたのです。

    この招き(召し)の理由は、それによって、クリスチャンとなったテサロニケ人がイエスの栄光にあずかるためでした。栄光にあずかるという約束は、パウロの著作によく見られるように、キリスト教信仰の希望の1つです。

    わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。[12]

    もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。[13]

    神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。[14]

    (テサロニケ人への手紙に戻る:)

    そこで、兄弟たちよ。堅く立って、わたしたちの言葉や手紙で教えられた言伝えを、しっかりと守り続けなさい。[15]

    パウロの最大の関心事は、テサロニケの信徒たちが、信仰に堅く立って安定していること、そして、サタンがいかに活動しようとも、彼らが使徒たちの教えを守り続けることでした。対立する意見に直面しても、使徒たちの教えを忠実に守り続け、揺らいではならないということです。パウロはここで、教えのことを「言い伝え」と呼んでおり、それは肯定的な意味で使われています。新約聖書では、「言い伝え」という言葉が否定的な意味で使われる場合もありますが、[16] ここでパウロが言う「言い伝え」とは、パウロがテサロニケ教会に伝えた教えを指しているのです。

    どうか、わたしたちの主イエス・キリストご自身と、わたしたちを愛し、恵みをもって永遠の慰めと確かな望みとを賜わるわたしたちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、あなたがたを強めて、すべての良いわざを行い、正しい言葉を語る者として下さるように。[17]

    パウロはここで、願いの形にして、この手紙での最初の祈りを捧げています。この祈りは、父なる神と私たちの主イエス・キリストとに向けられたもので、両者を同じ立場に置いています。(パウロは、少し前の第13–14節で、父と子と聖霊という、三位一体におけるすべての位格に言及しています。) 興味深いことに、父とイエス・キリストとが一緒に言及される聖句のほとんど[18] とは異なり、ここでは、主イエス・キリストの名が最初の位置に置かれています。

    しかし、イエスが最初の位置に置かれているとは言え、「わたしたちを愛し、恵みをもって永遠の慰めと確かな望みとを賜わ」ったのは、父なる神です。この箇所は、父なる神がその愛を示された時のことを言っており、それはおそらく、テサロニケの人たちを選ばれたことを指しているのでしょう。パウロが意味していたのが、どのような愛の行いであったとしても、そう言ったのは、迫害の最中にあり、偽りの教えと戦っている教会を励まし、強めるためです。そのような敵対者たちと対峙している彼らにとって、父なる神の愛が彼らの希望の土台となったのです。


    注:

    聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。


    1 2テサロニケ 2:9–10.

    2 使徒 2:22; 2コリント 12:12; ヘブル 2:4.

    3 Gene L. Green, The Letters to the Thessalonians (Grand Rapids: William B. Eerdmans Publishing Company, 2002), 321.

    4 2テサロニケ 2:11–12.

    5 ローマ 1:24.

    6 ローマ 11:8.

    7 ローマ 1:28.

    8 2テサロニケ 2:13.

    9 2テサロニケ 2:13. 〈英語NLT訳聖書〉

    10 2テサロニケ 2:14.

    11 使徒 16:9–10.

    12 ローマ 5:2.

    13 ローマ 8:17–18.

    14 コロサイ 1:27.

    15 2テサロニケ 2:15.

    16 マタイ 15:2–3, 6; マルコ 7:8–9, 13.

    17 2テサロニケ 2:16–17.

    18 ローマ 1:7, 1コリント 1:3, 2コリント 1:2, エペソ 1:2, 2テサロニケ 1:2, ピレモン 3.

     

  • 5月 23 第2テサロニケ:第2章(パート1)
  • 5月 9 第2テサロニケ:第1章
  • 5月 2 信仰とは何か
  • 4月 26 第1テサロニケ:第5章(パート2)
  • 4月 18 忍耐力を成長させる
  • 4月 11 第1テサロニケ:第5章(パート1)
  • 3月 28 第1テサロニケ:第4章(パート2)
  • 3月 14 第1テサロニケ:第4章(パート1)
  • 3月 7 私たちを救い出される神
   

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